Category: 読書

エミール・ギレリス

By , 2014年2月28日 6:06 AM

エミール・ギレリス もうひとつのロシア・ピアニズム (グリゴーリー・ガルドン著、森松皓子訳、音楽之友社)」を読み終えました。翻訳者が知人の医師のお母様で、その医師の家に遊びに行った時にこの本を見つけたら、そのままくださったのです。翻訳には、その医師の意見も反映されているのだとか。

私はロシアのピアニストとして、スヴャトスラフ・リヒテルの CDはたまに聴きますが、ギレリスの演奏をこれまで聴くことがあまりありませんでした。しかし、この本を読み、これまでギレリスがいかに不当な評価を受けてきたか良くわかりました。

今は、Youtubeでギレリスの録音を色々とチェックしています。気に入った演奏の CDを買おうと思います。

いくつか動画へのリンクを貼っておきますが、演奏を聴いてギレリスに興味の湧いた方は、是非この本を読んでみてください。

・GILELS plays Chopin – Polonaise in A flat major ( As – Dur ) Op. 53

・Beethoven – Piano sonata nº21 in C major op_53 (Gilels)__480.flv

・Emil Gilels – Tchaikovsky – Piano Concerto No 1, Op 23 – Cluytens

・Gilels plays Brahms: Paganini Variations Book 1 (1/2)

・Gilels plays Brahms: Paganini Variations Book 1 (2/2)

・Beethoven / Gilels / Szell, 1968: Piano Concerto No. 4 in G major, Op. 58 – Complete

・Emil Gilels plays Stravinsky “Pétrouchka” (1/2)

・Emil Gilels plays Stravinsky “Pétrouchka” (2/2)

 

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血液ガスをめぐる物語

By , 2014年2月13日 7:55 AM

血液ガスをめぐる物語 (諏訪邦夫著、中外医学社)」を読み終えました。諏訪邦夫の血液ガス博物館というサイトをベースにした本です。

体内の酸素をいかに測定するか?古くはクロード・ベルナールが、 1851年に、一酸化炭素が血液と結合して、酸素運搬能を失わせて動物を殺す作用を発見し、この事実を用いて血液から酸素を遊離させて測定する方法を提案したことがあるそうです。しかし実際に測定できるようになるには多くの研究が必要でした。フィック (拡散の法則)、ボーア (ボーア効果: 酸素解離曲線への二酸化炭素の影響)、ヒル (酸素解離曲線)、クロー (マイクロトノメター)、ヴァン=ストライク (酸素と二酸化炭素の含量測定法)、ライリー (気泡法 PO2測定)、ホールデン (ホールデン効果:二酸化炭素解離曲線への酸素の影響) らが研究を繰り広げました。この頃は、遊離させた酸素や二酸化炭素を抽出して含量を測定する方法などがとられていました。

その後は、溶液に電流を流して性質を推定する方法を用いて、pH, 酸素、二酸化炭素の測定が行われました (例えば、電流変化は酸素分圧変化にほぼ比例するため、これにより分圧測定が広まることにもなりました)。そのためには電極が重要で、「分極を防ぐ」「較正可能にする」ことに努力が注がれたようです。最初は水素電極や水素ガス/プラチナ電極など、最終的には酸素電極、二酸化炭素電極が開発されました。信頼出来る二酸化炭素電極の開発には時間がかかり、それまでもっぱらアストラップ法が用いられていました。こうして電極が揃ってきて、セブリングハウスらにより、血液ガス分析装置が完成しました。その機械は、現在ワシントンにあるアメリカ自然博物館の地階に展示されているそうです (商品化へはまだ道のりあり)。

また、忘れてはいけないのがパルスオキシメーターです。この機械は、酸素飽和度を持続的にモニターするものですが、日本人が開発したことを知る人はあまりいないかもしれません。1970年、日本光電の青柳卓雄氏は色素希釈法による心拍出量測定装置の開発で、色素の拍動に悩まされたのがきっかけで、パルスオキシメーターの原理に思い至り、特許を申請しました(青柳氏本人による開発秘話)。日本光電の試作機は、耳朶で信号を得るものでした。ミノルタの山西昭夫氏は、指尖容積脈波の波高値の物理的意味の考察から同様の着想に達し、1ヶ月遅れで類似特許を申請し、こちらは国際特許のみ成立しました。ミノルタの商品は、指先で信号を得るものでした。麻酔科医のニュー氏は、この装置の有用性に気付き、麻酔科医の立場を放棄して、ネルコア社を立ち上げ、装置の普及に尽力しました。著者は、この何万人もの命を救ってきた装置の開発と普及に対し、青柳氏とニュー氏にノーベル賞を与えるべきだと考えているようです。

ざっと血液ガス測定の歴史を紹介しましたが、本書にはもっともっと詳しく書いてあります。著者が歴史的論文の多くを読み込んでいることに感服しました。本書には 1870年のフィックの論文の全訳など、他ではお目にかかれないものも収載されています。麻酔科医など、血液ガス分析に関心のある方は是非読んでみてください。

以下、備忘録

・ボーアの死腔に関する論文は有名だが、ボーアの意図は違って、死腔を予め解剖学的に計測しておいて、それを逆に使って肺胞気組成を出そうとした。

・ヘンダーソン (ヘンダーソンーハッセルバルフ式でお馴染み) が動物小屋を研究室に改造して運営するのに 5000ドルくらい必要だった時、ヴァン=ストライクがロックフェラー二世に無心したら、「5000ドル程度ならヘンダーソン教授が自分で何とかするさ。もし 500万ドル必要というのなら考えよう」と答えたらしい。

・ホールデンは酸素療法を開始した人としても評価されている。ホールデンは戦時中の 1917年に毒ガスに対する酸素療法の有効性を唱え、実行した。

・pHという単位を提唱したソーレンセンは、水素電極を用いて体液の水素イオン濃度を測定して、50 x 10-9モルという値をだした。この数値は、pH 7.3に相当する。

・ハーバーが開発したハーバー法により、窒素肥料が手に入りやすくなり農業に大きな影響を与えた。そのハーバーがガラス電極を開発し、水素電極にとってかわった。ハーバーは毒ガスの研究にも携わり、反対した妻を自殺で失った。ノーベル賞の受賞講演では「戦争に勝者はいない。犠牲者だけが残る」という言葉を残している。

・セブリングハウスは、第二次大戦中は MITでレーダーの研究を行っていて、原爆投下を機会に医師になる最終決断をした。コロンビア大学医学部の学生時代に、横隔神経刺激装置を製作して数台販売した。

・急性に CO2が上昇する場合、PCO2 10 mmHgあたり [HCO3-] 1 mEq/l上昇すると概算できる。ここから大きく外れていたら、非呼吸性の要素が加わっていると解釈する。慢性に CO2が上昇する場合、PCO2 10 mmHgあたり [HCO3-] 4 mEq/lの上昇と概算できる。[HCO3-] の上昇の 3 mEq/l分は腎臓が働いたと解釈できる。

・1987年の昭和天皇の手術の際、東京大学病院の手術室にはパルスオキシメーターが 4台しかなく、それを持ち出すのは躊躇されて手術時には使わなかったが、結局術後に必要と判断して 1台を宮内庁病院に移動した。

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おっぱいの科学

By , 2014年1月30日 8:01 AM

おっぱいの科学 (フローレンス・ウィリアムズ著, 梶山あゆみ訳, 東洋書林)」を読み終えました

この本を読もうと思ったきっかけは、仲野徹先生の書評を読んだことです。

『おっぱいの科学』にクラクラっ…

仲野徹先生は「なかのとおるの生命科学者の伝記を読む」という本を出されていて、以前ブログで紹介したことがあります。仲野先生推薦の本ならばと思って読みました。

実際、非常に面白い本でした。「おっぱいは誰のためにあるのか」という議論から導入し、豊胸術の話題を経て、環境中の有害物質の話になります。おっぱいの大部分は脂肪であり、そこに有害物質が貯めこまれていること、実際に母乳から有害物質が検出されるようになってきている事実が示されます (とはいえ、授乳の大切さも強調される)。それから、乳癌の危険因子一つ一つについて、早期発見の方法についてなど詳細にわかりやすく述べられます。

乳癌のリスクを向い合って生きる女性の方や、将来の授乳を考えている方に是非読んで欲しいです。

表紙カバーがおっぱいの絵だったので、私は裏返して通勤の電車内で読んでいました。女性研修医に貸すときに、表に戻して貸そうとしたら、「裏返してください」と怒られてしまいました (^^;

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波紋と螺旋とフィボナッチ

By , 2014年1月14日 6:08 AM

波紋と螺旋とフィボナッチ (近藤滋著, 秀潤社)」を読み終えました。動物の模様が何故出来るか、などをわかりやすく解説した本です。

以前紹介した生命科学の明日はどっちだ」というサイトに掲載された内容がベースになっており、「反応拡散的合コン必勝法」という章が追加されています。

上記サイトでも大部分読めますが、本の方が読みやすいです。アマゾンのカスタマーレビューも好評です。

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ウェクスラー家の選択

By , 2014年1月11日 3:06 PM

ウェクスラー家の選択 (アリス・ウェクスラー著, 武藤香織・額賀淑郎訳, 新潮社)」を読み終えました。アリス・ウェクスラーはハンチントン舞踏病の家系に生まれました。母親の疾患が進行した時に、初めてその事実を知りました。その時から、ウェクスラー家とハンチントン舞踏病の闘いが始まりました。父は患者家族や研究者らによる団体を作り、資金を集めるとともに研究を支援しました。また、妹のナンシー・ウェクスラーは、患者が密集するヴェネズエラの集落で DNAサンプルを集めるとともに、家系図を作成しました。最終的に、これらの努力は実を結び、遺伝子同定までこぎつけます。そして、高い精度で発症を予測できることが出来るようになりました。本書には家族の奮闘と、ハンチントン舞踏病研究の歴史が描かれています。検査法が開発された後、患者家系の中には、検査を受けた人も、受けなかった人もいます。発症リスクとどう向き合うか、検査を受けるか受けないかをどう決めるか、内面的な描写が素晴らしく、遺伝性疾患を診療する医療関係者は、読むべき本だと思いました。検査を受けるかどうかについては、著者自身の選択も示されています。

本書のあらすじを詳しくまとめたサイトがあるので、紹介しておきます。

アリス・ウェクスラー 『ウェクスラー家の選択 遺伝子診断と向き合った家族』 新潮社

後半は連鎖解析の話が大きなウエイトを占めますので、予めそれが何かくらいは知っておいた方が読みやすいと思います。知らない方には、Wikipediaの「遺伝的連鎖」の項などでの予習を御薦めします。

一点残念だったのは、科学用語の翻訳です。例えば、”Demyelinating, Atrophic and Dementing Disorders” は「末梢神経脱髄性・萎縮性・痴呆疾患」と訳されています (p231) が、単に “Demyelinating” だと、中枢の脱髄も、末梢の脱髄も両方ありえるし、”Demyelinating”  自体に「末梢神経」というニュアンスはありません。このように読んでいて引っかかる点がいくつかありました (翻訳者らは、科学者による校正を受けるべきだったと思います)。

以下、本筋に関係ないところで、2点ほど。

①以前紹介したハロルド・クローアンズの本で、ハンチントン舞踏病の患者に L-ドパを大量服薬させ発症リスクを推測したことが誇らしげに登場するのですが、本書で倫理的な問題が指摘されていました (p204)。「一時的な舞踏様症状を経験した人々はいつか苦しむかもしれないし、苦しまないかもしれない、といった症状の恐ろしい記憶を消せないまま、ただ時間の経過のなかに取り残されてしまうのだ。それに、実験的に投与された L-ドパそのものが病気の引き金になってしまうかどうかも、誰もわかっていなかった」のが理由のようです。

②「その先生は、ハンチントン病のリスクが、鎌状赤血球症、筋ジストロフィー、インスリン依存性糖尿病、そしてエイズのように、保険会社が無条件に医療保険での支払いを拒否できる病気の一つだということを知らなかったのだろうか? (p308)」という記載があり、アメリカの保険会社の闇の部分を見た気がしました。

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シャルコーの世紀

By , 2013年12月30日 7:18 PM

シャルコーの世紀 臨床神経学の父 ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念講演会 (ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念会・編, メディカルレビュー社)」を読み終えました。1993年7月16日に行われた、「 ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念講演会」の講演会の記録です。神経学の歴史に興味がある方にとっては、他では読めない話がたくさん収載されていて、御薦めですね。(なかなか手に入らなかったので、amazonの古本で買ったら、水谷ってハンコが押してあったのですが、まさかあの???(謎))

とても勉強になったので、簡単に内容を紹介ておこうと思います。

開会の辞 萬年徹

短い開会の辞が述べられる中で、フランソワ・ラブレーの研究家、渡辺一夫東京大学名誉教授の「研究が精緻となり、また、非常に最先端の新しいことを求めて常に進んで行く。確かに、そのような研究に興味と命を懸けるというのは大変なことであろう。また、研究の進展にとってはそういう態度が必要なことであろう。しかしながら、そこで得られた知識が何のために用いられるかを忘れてしまったら、いかなる優れた科学者の論議といえども、中世の神学者の “針の先に何人天使が乗れるか” という途方もない論議と何ら変わることはないのではないか。その時、それは人間たることと何の関係があるのか」という言葉が引用され、時として、行われる研究の立ち位置が問い直されることの重要性が述べられます。

シャルコーと力動精神医学 江口重幸

以前、「精神科医からのメッセージ シャルコー 力動精神医学と神経病学の歴史を遡る」という本を紹介したことがありましたが、その著者である江口重幸先生による講演です。シャルコーの大催眠理論をまず紹介し、精神医学への影響について触れています。

シャルコーのヒステリー 松下正明

シャルコーとヒステリーについて概説されます。それには、まずシャルコーがいたサル・ペトリエール病院について理解する必要があります。

よく知られているように、シャルコーが終生自らの臨床と研究の場としたサルペトリエール病院は、女性の患者だけを収容する病院でした。患者といっても、精神病や神経疾患、あるいは奇形に病む女性だけでなく、老女、浮浪者や乞食、犯罪者など、社会にあぶれ、社会に適応出来なかった女性をも収容していました。十九世紀当初、五千人から八千人の女性が入院していたと言われます。当時、パリの人口は五十万人であったとされており、その数字から言えば、精神病者や神経病者だけが入院していたのではなかったことは明らかで、その巨大さとともに、その異常さに驚かざるを得ません。そのような環境で、シャルコーがなぜ、ヒステリーの現象に注目するようになったのでしょうか。

一つには、実際に、サルペトリエール病院に収容されていた女性にヒステリーの患者が多かったという事実があります。当時のフランスはまさに産業革命が進行中であり、(略) 多くの労働者は昼も夜も低賃金で働かされ、都市の人口の大部分は貧困層で占められることになります。(略) そのような惨憺たる状況のなかでは、人は狂気になり、あるいはヒステリー発作を呈する他、なすすべがなかったとも言えます。

シャルコーがヒステリー患者に注目する第二の理由として、病院に収容された女性の数が多い一方、医者の数は少なく、一人の医師はおよそ五百人の患者を担当していたと言われていますが、そのような状況では、医師の興味を引くには、ヒステリー発作のはなばなしさが必要であったという説もあります。

ヒステリー研究におけるシャルコーの業績の第一は、「そのような狂気、中毒、老い、貧困、売春、犯罪などのレッテルを貼られた女性の大集団のなかから、それと紛らわしい神経疾患やあるいは詐病とは異なるものとして、ヒステリーを一つの独立した心の病期として確立した」ことです。また、女性のみならず、男性ヒステリーと子供のヒステリーの存在を強調しました。さらに、外傷ヒステリー、外傷性麻痺の概念を確立しました。シャルコーのヒステリー研究には、多くの批判があることは事実ですが、この講演は次のように纏められています。

しかし、後世からの批判としてはいくつかの問題点が指摘されるとしても、シャルコーによって、ヒステリーが医学の世界に持ち込まれ、科学の対象として、また男女ともに侵される疾患単位として明確に位置づけられたことは、精神医学史上、忘れられることではありません。フロイトもまた、そのことを強調し、シャルコーを高く評価しています。また、シャルコーによるヒステリーの詳細な記述があって、初めてその後のヒステリー研究が成り立ったことを考えれば、内村 (※演者の数代前の教授で「精神医学の基本問題」という本を著し、現代精神医学の出発点にある人物としてグリージンガーとシャルコーを挙げた) ならずとも、現代精神医学の源流の一つにシャルコーを見ることは正当と言わざるを得ません。未だなお、ヒステリーの病態が十分には解明されていない現代にあって、シャルコーのヒステリーを取り上げてみることに現代的意義があると考えられる次第であります。

シャルコーと日本の神経学 岩田誠

日本における臨床神経学の夜明けを開いた先達として、三浦謹之助、佐藤恒丸、川原汎の三人の名前が挙げられます。三浦謹之助先生はシャルコーの下で学び、東京帝國大学内科教授となり、1902年に精神科の呉秀三教授とともに日本神経学会を設立しました。日本神経学会の機関誌「神経学雑誌」の一巻一号の冒頭論文は、三浦謹之助先生の書かれた筋萎縮性側索硬化症の論文となっています。佐藤恒丸先生は、1906~1911年にかけて、シャルコーの火曜講義 (※1887~1888年度半ばまでになされた講義) の日本語訳を出版しました。川原汎先生は、三浦謹之助先生より 4年先輩として、東京大学医学部を卒業し、名古屋大学医学部の前身である愛知医学校で内科学を講じ、1897年に日本最初の臨床神経学の教科書「内科彙講 第一巻 神経係統編」を出版しました。

岩田誠先生は、一橋大学の野中教授が Harvard Buisiness Reviewに発表した The Knowledge Creating Companyという論文を元に、知について考察します。知は明示的な知 (explicit knowledge) と暗黙の知 (tacit knowledge) の部分に分けられるといいます。Medicineに当てはめると、それぞれ Scienceと Artに対応します。近代医学は、如何にして tacitな部分から explicitな知を引き出してくるかを使命としてきました。知の伝播過程では、暗黙知を社会化 (Socializaton) し、明示的な知に変える分節化 (Articulation) が行われます。一方で、明示的な知は容易に伝播しますが、これが結合 (Combination) の過程です。明示的な知として獲得されたものは、それを受け取った人の暗黙知に取り込まれる内面化 (Internalization) がなされます。新しい知の体系が形成されていくためには、これらによる暗黙知と明示知の間での螺旋、「知の螺旋」を形成する必要があります。この螺旋は、シャルコーが臨床神経学という新しい知の体系を築きあげていった過程をよく説明します。シャルコーは、神経病に関する多くの経験を積み、暗黙知として蓄えていきました。そしてそれを、臨床症状の観察と剖検の対比という方法論や、顕微鏡による観察などで、明示的な知に変えていく作業を行いました。暗黙知の部分を明示知として世に示すためには、臨床講義が効果的でした。一方で、彼は沢山の文献を読み、明示的な知の結合を行いました。こうして得た新たな明示知を、自らの経験の中に生かし、自らの暗黙知をより大きくしていく努力、すなわち明示知の内面化に努めました。しかし、これと同時に、暗黙知の部分をそのまま暗黙知として伝える社会化の作業も怠りませんでした。

このような考察をした上で、何故、当時シャルコーの神経学が日本に根をおろさなかったか、次のように述べています。

 ここでもう一度ベルツの警告に戻りましょう。ベルツの指摘 (※「日本人は科学を学ぶということを果実をもぎ取ることのように考えていて、その科学の果実を実らせる科学の樹を育てるに至る過程を学ぼうとしない」) は、決して某国立大学総長が述べられたような医学における基礎研究の重要性を強調したものではありません。彼が学者の精神の仕事場を覗き込まねばならないと言ったのは、まさに Medicineにおけるこの暗黙知の部分を学ばねばならない、という意味だったと思います。当時の日本の Medicineは、すでにこの暗黙知の部分を忘れて明示知のみを重視する、すなわち明示的な知のやりとりだけを科学的であると信じるに至っていたのでしょう。不幸なことながら、その当時、臨床神経学においては明示的な知の部分はあまりにも少なく、神経疾患においては分節化困難な暗黙知の部分のみが目についたであろうと思われます。さらに、臨床病理対応研究という方法論は、実践するには極めて時間のかかるものであったがために、せっかちな日本人の好みには合わなかったのではないでしょうか。それに加え、神経系の構造の複雑さ、そしてヒトの神経系に対するアプローチの困難さのために、臨床神経学は明示的な知の世界からほど遠く、科学的ではないと誤解されてしまったのでしょう。三浦、川原、佐藤という立派な先達がおられながら、日本に臨床神経学が根を下ろせなかったのは、このような理由によるのではないでしょうか。

Medicineを明示的な知だけから成るものと思い込んでしまったところに、日本における Medicineの最初のつまずきがありました。そして残念ながら、そのつまずきは今日に至ってもなお、続いているようです。このままでは、わが国の Medicineは世界の孤児になってしまうのではないでしょうか。シャルコーと日本の神経学を考えるこの機会に、私はMedicineにおける暗黙知 (tacit knowledge) の重要性を再認識し、今こそ本気で科学者の精神の仕事場を覗き込むべきであるということを強調したいと思うのです。

シャルコー教授と三浦謹之助 三浦義彰

三浦義彰先生は、三浦謹之助先生が 50歳の時に生まれた、次男です。家族でなければ知らないような逸話が紹介されています。

 さて、三浦謹之助ですが、一八六四年、元治元年の生まれで、一九五〇年、八十六歳で亡くなりました。福島の郊外、高成田の生まれです。父親、道生は眼科医で、その家には白内障の手術のため、沢山の入院患者がいました。眼の悪い患者さんのために、トイレや風呂場にやたらと大きな字で男とか女とか書いてあります。謹之助は、小学校六年くらいから福島の小学校に出たわけです。その頃、叔父になる三浦有恒が東京に出ていて、福沢諭吉の『学問のすすめ』を送ってくれたのですが、そのなかに “人は八時間働き、八時間眠り、あとの八時間は身の回りの用を足すこと” と書いてあったそうで、謹之助はそれを死ぬまでよく守っていて、決して徹夜などしない人でした。

また、その頃、明治天皇の東北ご巡幸がありまして、それを小学生として初めて洋服というものを作ってお迎え申し上げたそうです。ところが、このお二方、福沢諭吉は、後に父の患者さんになりましたし、明治天皇もお亡くなりになる時は父が拝診しておりまして、父は深い因縁を感じたと申しております。

一八七七年、西南の役の直後ですが、人力車で二週間の旅をして、叔父三浦有恒を頼って東京に出て参りまして、東京で生活を始めました。父の十二、三歳頃と思われます。

一八七八年に、東京大学医学部予科に入り、一八七七年に医学部本科を卒業するまで、叔父の所や寄宿舎におりました。その頃、月七円の費用がかかったそうですが、祖父道生は早く亡くなりまして、その見よう見まねで母の里子が白内障の手術を無免許でいたしました。今だったらたちまち捕まっていたわけです。そのアルバイトの費用とドイツ語の翻訳をして、どうやら卒業いたしました。

その他にも、色々と三浦謹之助先生の知られざる逸話が出てきます。シャルコーについても、「シャルコー達が病院で賑やかな飲み会をして婦長から大目玉を食らった話」だとか、「松方コレクション (※西洋美術館のコレクションに多く含まれます) の松方氏が万国博に参加したときにシャルコーやゴンクールらが参加していたこと」、「シャルコーがポルトガル王・ブラジル皇帝から贈られた尾長猿を飼っていて、どんなイタズラをしても決して怒らなかった逸話」「飼っていたインコに『ハラキリ』と名付けていたこと」などが述べられています。

三浦謹之助先生には、侍医にならないという話があったようですが、「自分はサルペトリエールでシャルコーが大変大勢の患者さんを診ていたのを見た。しかも、それはどちらかというと下層階級の患者さんが多かったのですが、そういうのを見て非常にためになった。侍医になると、あまり多くの患者さんを診ることができなくなる。そうすると勘が鈍る」と断っていたそうです。

名前は良くけれど、どのような人物だったかよく知らない三浦謹之助先生の人となりが伝わってくる講演でした。

シャルコーの業績に見る運動から失語症までの大脳機能局在 ジャック・ガッセル

まず、大脳局在説が唱えられてから確立するまで、生理学、解剖学、臨床のそれぞれの視点から概説します。シャルコーは、当初ヒトの感覚あるいは運動の現象は、皮質下の構造のみが問題であると考えていたようです。1875年になってから、大脳皮質の役割に気付き始め、その二年後に「私は、いつの日にか、大脳半球皮質の特定の領域に限局した病変によって生じた麻痺を見るだろうと信じています」と記すようになりました。

シャルコーは動物実験から得られた結果では、ヒトについては結論が出せないと考えていました。1883年には「ヒトの脳の機能に関しては、臨床病理対応研究、すなわち患者の生前に観察された症状と剖検で明らかになった病変との対比以外の方法では、決定的な研究が出来ないことは明々白々です。動物でなされた実験結果は研究の指針とはなりますが、いかなる場合にもヒトの生理学にそのまま当てはめてはなりません」と述べています。彼にとって、解剖学は臨床との関係においてのみ興味の対象であったと推測されます。

シャルコーは、虚血性血管障害の病理学的検討から、血管支配に基づいて、いくつかの臨床解剖学的成果をあげました。また、二次変性の研究を行いました。彼は、大脳皮質の局在について多くの講義を行いましたが、なぜかほとんどが出版されませんでした。

余談ですが、「ジャクソンてんかん」は、シャルコーが命名したというのは、初めて知りました。1883年の論文に登場するそうです。

失語症については、シャルコーは「語盲」「運動失語」「失書」「語聾」の四大臨床型を定義しました。ここにも、臨床像と解剖所見の対比が見られるそうです。

シャルコーの症候学 ドミニク・ラプラヌ

「シャルコーが神経学に専念するようになった頃、彼の神経症候学がいかに未熟なものであったか」「神経症候学を築き上げていく過程におけるシャルコー自身の寄与」「神経症候学を築き上げていくに当たり、様々な伝説的な考えや誤解を取り除くために、彼がいかなる努力を払ったか」をテーマに詳しく語られます。結びの部分では、問診の重要性が強調されています。

私は、問診によって診断ができなければ、後のことをしても診断がつくはずがない、というスローガンを半ば強制的に叩き込まれて教育されました。このスローガンの出所がシャルコーにあったかどうかについては知りませんが、サルペトリエール病院の伝統として伝えられてきたことですから、その可能性はあると思います。近年の画像技術の進歩により、このスローガンは万能ではなくなりましたが、まだ多くの場合に通用するものであります。

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神経学の源流 3 ブロカ

By , 2013年12月27日 1:50 PM

神経学の源流 3 ブロカ (萬年甫・岩田誠編訳, 東京大学出版会)」を読み終えました。「神経学の源流1 ババンスキーとともに-」、「神経学の源流 2 ラモニ・カハール」に続く三作目です。

ガル Franz Joseph Gall (1758.3.9~1828.8.22) による「骨相学」からブームとなった脳の局在論が、ブイヨ Jean-Baptiste Bouillaudらの主張を経て、Broca,  Edouard Hitzig らによって確立していくまでの流れが生き生きと伝わってきて楽しめました。また、古典的な失語症研究の流れを知ることができました。

何よりも、Brocaらの重要論文の全訳を読むことが出来たのが、本書から一番恩恵を感じた点です。

とても内容の深い本であり、「哺乳類による辺縁大葉と辺縁溝」という論文以外は解剖学的知識もあまり要求されないので、失語症に関わる多くの方に読んで欲しいです。

以下、備忘録。

・ピエール・ポール・ブロカ Pierre Paul Broca (1824.6.29~1880.7.7) はボルドーの東 60 km、ドルドーニュ川沿いの小さな町「サント・フォワ・ラ・グランド Sainte-Foy-la-Grande」 で生まれた。父親は開業医、母親は牧師の娘であった。一家はカルヴァン派の信徒だった。

・サント・フォワ・ラ・グランド出身の著名人に、高名な解剖学者ピエール・グラチオレ Pierre Gratiolet (1815~1865) がいる (脳の局在説には反対の立場であった)。

・ブロカはギリシャ語をきわめて得意とし、英語と独語をフランス語の如くこなし、デッサンに秀で、ホルンの優れた奏者であった。

・ブロカは 33歳の時に、アデール・オーギュスティーヌ・ルゴール Adele Augustine Lugol (1835~1914) と結婚した。オーギュスティーヌの父は、ルゴール液を作ったルゴール博士だった。ルゴール博士は、結核性リンパ腺炎や甲状腺疾患のヨード療法などで有名な医者だった。

・ブロカは、1880年2月に終身上院議員に選出された。1880年7月7日、右肩に疼痛を覚え、上院を途中退場して帰宅し、同日深夜ただ 1回の狭心症発作で死亡した (と書いてあるけれど、亡くなっているから心筋梗塞なんでしょうね)。享年 57歳だった。

・ブロカは、大脳皮質運動性言語中枢を発見したのみならず、ドゥシェンヌ・ド・ブローニュ Duchenne de Boulogne (1806~1875) より以前に筋萎縮症を筋肉の原発性疾患として記載しフィルヒョウ Rudolph Virchow (1821~1875) より以前に佝僂病を栄養性疾患と認定し、ロキタンスキー Karl von Rokitansky (1804~1878) より以前に癌の静脈性転移を報告した人としても評価されている。

・1868年、サント・フォワ・ラ・グランドから東に 40マイルほどに位置するクロマニヨン (Cro-Magnon) 洞窟から、鉄道敷設工事中に人骨が発見された。ブロかはこの人骨を調査し、人類学会に報告した (クロマニヨン人最初の報告)。

・ブロカの生まれた 19世紀の始め頃には、脳には “シルヴィウス溝” と “島” しか命名されていなかった。シルヴィウス溝は 1641年にバルトリン父子がシルヴィウスに因んで命名し、島は 1809年にドイツのヨハン・クリスチアン・ライルが「シルヴィウス窩」と題する小論文で最初に記載したと言われている。次に命名されたのがローランド溝で、1839年にブロカの師の一人であるルーレが、この脳回の存在を指摘したローランド (1773~1831) の名前を付した。前頭・頭頂・側頭・後頭葉の脳葉区分は、1838年にハイデルベルクの解剖生理学教授アーノルド (1803~1890) に拠る。

・Broca失語として最初に報告された患者 Leborgne (ルボルニュ) は「失語症 (Aphémie) の 1例にもとづく構音言語機能の座に関する考察」という 1861年の論文に登場する。その論文の第一部で、Brocaは構音言語の障害に対して “aphémie (αは否定接頭語、φημは私は話すの意)”  という言葉を与え、言語中枢が存在する回転 (=脳回) を論じている。第二部では、相手の言うことはわかるが、”tan” としか発語しない男性 Leborgneの症例が記載されている。Brocaは剖検脳を調べ、左第 2, 3前頭回を中心とした限局性の強い損傷を指摘した。また、この論文では、「内部のことについては、私は検索することをあきらめた。私はこの脳をこわすことなしに博物館に保存しておくことが大切であると考えたためである」という有名な記載が確認できる。

・続いて、Brocaは 1861年に 2例目の患者を「第 3前頭回の病変によって起こった失語症 (aphémie) の新しい症例」として報告している。症例は Lelongという 84歳の脳卒中の土工。次の 5つの臨床的特徴がみられた。すなわち、①彼は人が彼に言うことはすべて理解していた、②彼は彼の語彙 (vocablaire) である 4つの言葉を明瞭に使い分けていた、③精神的に健全であった、④彼は数の勘定 (numeration ecrite) を少なくとも 2桁までは知っていた、⑤彼は言語の一般的機能 (faculte general du langage) も、発声 (phonation) や発音 (articulation) のための筋の随意運動性も失ったわけではなく、したがって彼が失ったのは構音言語 (faculte de langage articule) だけであった。剖検では、左第 2, 3前頭回に病変が見られ、後者の損傷が強かった。

・Brocaは “aphémie” の語を用いたが、Armand Trousseau (1801~1867) は、この語がギリシャのプラトンの対話篇の中にある “infamie” (汚辱、不名誉) の意味に通ずるという点から退け、代わって “aphasie” の語を用いることを提案した。Brocaは Trousseau宛の公開書簡を発表して自己の立場を主張するとともに、生涯 “aphasie” の語を用いなかった。

・1863年1月1日、ブロカはビセートル病院を去って、シャルコーやヴュルピアンのいるサルペトリエール病院外科に移った。

・Brocaは、1863年4月2日に人類学会で、自験例 2例、シャルコーの 4例、ギュブラーの 1例、トゥルーソーの 8例を検討して、すべての症例で損傷が左側にあったことを発表した。

・Gustave Daxは、1863年3月26日に、「思考の記号の忘却に伴って生ずる左大脳半球の病変」と題する論文を医学アカデミーに提出した。第 1部は父 Marc Dax (1770~1837) の手によるもので、剖検を伴わない 40例を根拠に、”左半球に損傷があると、必ずというのではないが、言葉の記憶に変化が起こる。しかし、この記憶が脳のなんらかの病変で変化するとすれば、その原因は左半球に求めなければならず、両半球がやられた場合もそうするべきである” と結論した。この第 1部の内容は、1836年7月の南フランス医学会で Marc Dax発表したという。第 2部には、ギュスターブ自身の症例と、ブイヨの文献 140例を加えて補足したものだった (※本書には、Dax父子の論文の全訳が収載されている)。ギュスターブは、亡父マルクが「失語症は左半球に損傷がある」ことの最初の発見者、自分を第二の発見者と主張した。ブロカの論文は引用されていなかった。Dax父子の論文の要約は、1865年6月25日発行の医科学週間新聞に掲載され、全文は1877年のモンペリエ医学誌に掲載された。

・1865年4月4日の医学アカデミーで、左半球優位についての優先権が、Broca, Daxいずれに帰するか、議論となった。Brocaは、1836年に Marc Daxが発表したとする痕跡が、あらゆる文献に存在しないことを指摘した (1836年7月1~10日に第 3回南フランス医学会が開催されたが、議事録は残っていない。ラ・ルヴュ・ド・モンペリエという雑誌には、学会で行われた論議の大要が載ったが、言語問題については何も記載されていない)。さらに、1877年5月15日にある論文を審査した際の報告後、質問を受けて、Brocaは Marc Daxと Gustave Daxの 2つの原稿のスタイルが異なることを指摘し、「Marc Daxの原稿が 1836年の学会のために用意されたが、学会には提出されなかったし、公表されなかった」ことを述べた。

・これに対して、 Gustave Daxは、1836年の発表後に、その論文は Dax父子によって写され、多数の同僚、同級生、友人、モンペリエの医学部教授などに配布されたとした。1879年にケゼルギュ R.Caizerguesの調べたところによれば、モンペリエの医学部長であった彼の祖父の残した書類整理中に、マルク・ダックスの論文の写しを発見したという。

・著者らは、「”失語症は左大脳半球に損傷” があるという命題についての優先権は、年月の上から見てマルク・ダックスにあるといえようが、現在残されている資料を見るかぎり、ブロカがマルク・ダックスの論文を “公表されなかった” と判定するまでの過程は、公正で妥当であったと思われる。いずれにせよ優先権をめぐる問題には、あらゆる場合に胡散臭さがつきまとうのが世の常で、この場合ダックス側にその匂いが強いように思われる」としている。

・1870年、大脳皮質機能局在説は、フリッチュとヒッチッヒによる「大脳の電気的興奮について」と題する論文により強力な支持を受けることとなった。ヒッチッヒ Edouard Hitzig (1838~1907) は、1875年にチューリッヒの精神科教授、精神病院 Burgholzli Asylumの院長となった。その翌年、Von Monakowが彼の門を叩いている。ヒッチッヒは、神経学はロンベルグ Rombergから、病理学はトラウベ Traubeとフイルヒョウ Virchowから、生理学はデュ・ボワ・レイモン du Bois-Reymondから、精神科はグライジンガー Griesingerとカール・ウエストファール Carl Westphalから大きな影響を受けたと言われている。ヒッチッヒは様々な人や組織と諍いを起こし、1879年にフォレル August Henri Forel (1848~1931) が後任としてやってきた時、病院はまさに混乱状態であったという。フリッチュ Gustav T. Fritsch (1838~1891) は、ヒッチッヒと同年の生まれでさるが、熟練者としてヒッチッヒに協力した。「大脳の電気的興奮について」は、ヒッチッヒが 32歳のときに書かれたもので、当時ベルリンの生理学教室に研究設備がなかったときに、最初自宅の婦人の裁縫台の上で実験していたという逸話が残っている。

・本書には、「大脳の電気的興奮性について (Ueber die elektrische Erregbarkeit des Grosshirns)」と題された論文の全訳が掲載されている。「一般的にいって、運動性の部分は前よりの方に、非運動性の部分は後ろよりの方にある。-運動性の部分を電気的に刺激するとそれと反対側の半身にいろいろの組合わせの筋収縮 (Muskelocontractionen) が起こる」「きわめて弱い電流を用いると、一定の限られた筋群に筋収縮が起こる。同じ場所ないしはそれにきわめて隣接した場所を、もっと強い電流で刺激すると、他の筋群さらには同側の筋群にも直ちに反応が表れる。しかし,限られた筋群を単独に興奮させるには、非常に小さな場所をきわめて弱い電流で刺激した場合に限られる。われわれはこのような場所を簡略に中枢 (Centra) とよぶことにしたい」「生理学的に非常に興味のある刺激因子について、是非とも一言ふれておきたい。それは陽極が必ず優勢であるということである」「われわれの実験動物の中の 2例では、こうした後続運動に続いて典型的な痙攣発作が起こった」「最後に、不思議に思うことは、非常に有名な学者を含む過去の多くの研究者たちが、なぜ反対の結果に到達したかということである。これに対してはわれわれの答えは唯ひとつ、”方法が結果をつくり出す” (“Die Methode schafft die Resultate”) ということである」などといった記載など。

・フリッチュとヒッチッヒの論文は、フェリア D.Ferrier (1843~1928) によるイヌやサルを用いた詳しい刺激実験によって裏付けられた。その後、マイネルト Th. Meynert (1833~1892) のもとに学んだ精神科医ヴェルニッケ (1843~1905) が重要な役割を担った。ヴェルニッケは、師マイネルトによる精神活動が連合線維に拠るとする考えを言語機能に応用した。1874年、ヴェルニッケは「失語症症候群 (Der aphasische Symptomcomplex)」という処女論文を書いた。ヴェルニッケは、そのなかで、感覚刺激が外界から脳に送られてそこで受容されると、大脳皮質にはその刺激の “記憶心像 (Erinnerungsbilder)” が残り、これは外界からの刺激がなくても想起されるようになると延べ、このような “記憶心像” は大脳皮質のなかで側頭-後頭葉領域に形成されると考えた。ヴェルニッケは、”音響心像” の生じる場は、師のマイネルトが聴覚線維の投射部位として “音響領野 (Klangfeld)” と名づけた場所すなわち側頭葉上部に相違いない、そしてそこから発した連合線維が前頭葉に至り、”心的反射現象 (psychishe Refleaction)” として発語現象が起こると考えた。そして、ヴェルニッケはこの “音響心像” の生ずる場が損傷を受けると、話された語の復唱が不能となり、語を理解することができなくなることを指摘し、今までに報告されたことのない 2例の自験例を記載した。第 1例は 59歳の女性で、人が彼女に話しかける言葉を全く理解できないにもかかわらず正しく話すことができた。また話し言葉の中に言い間違いすなわち錯誤がみられ、復唱も障害され、読み書きができないことも観察された。第 2例は 75歳の女性で、同様の症状を呈して死亡し、剖検で左上側頭回に軟化のあったことが確認された。

・本書 (p148~149ページ) には、ブロカによる Broca失語の一例目の患者の CT写真が掲載されている。その写真の分析は、ブロカが残した病巣の広がりに関する記載を再確認するとともに、一方ではヴェルニッケ領域が侵されないで残っていること、他方で大脳基底核ことにレンズ核が大きな損傷を受けていることを示した。

・Brocaは、1878年、死の 2年前に「哺乳類による辺縁大葉と辺縁溝 (※本書に全訳収載)」と題した大部の論文を著した。この論文は、1950年にフォン・ボーニン von Boninによって再発見されるまで、72年間休眠を続け、この長い間にこの論文に言及したのはわずかにスーリー J. Souryとラモニ・カハールの 2人のみであったという。ボーニンが、”Essay on the cerebral cortex” のなかで、ペイペッツ Papezの有名な回路が不思議にもブロカの辺縁大葉を思い起こさせると指摘して、やっとブロカの名が返り咲いた。それ以後、”辺縁大葉” の名は “辺縁系 (limbic system)” と置換えられて、随所で用いられるようになり、今日に至っている。

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マンガでわかる統計学

By , 2013年11月27日 7:16 AM

マンガでわかる統計学 (大上丈彦著、メダカカレッジ監修、サイエンス・アイ新書)」を読み終えました。

ゆる~い雰囲気で、直感的にわかることを重視した本で、サクサク読めました。

さらに肩のこらない例のマンガが、統計学のハードルを下げています。例えば、「よくあるエロ系雑誌のアンケートマジック 『東京の女子高生の初体験は平均 17歳!!』」を題材にして、「東京のどこよ?」と突っ込み、さらに「質問した時まだ未経験でこれからもずっと処女な人は一体どう計算するの?」と疑問を述べます (p179)。これは、ランダムサンプリングの重要性について述べた場面でのマンガでした。

コラムではこんな実践的な例の呈示もあります (p154)。本書を読むと、このような計算が一発で出来るようになります。

 「七王子メディカルセンター」(架空の病院です) の夜間救急外来では、平均すると 4日に一度くらい、救急搬送後に集中治療室に入院する患者がいるという。集中治療室のベッドは 2床あいており、これが埋まったら救急車の受け入れを拒否せざるをえないとする。救急車の受け入れ拒否が発生する確率はどれほどか。ただし、救急患者の搬送はポアソン分布に従うと仮定する。

「マンガ」というタイトルのせいで軽く見られてしまいがちですが、「平均・分散・標準偏差」「正規分布」から説明を始め、最終的には「いろいろな分布」「推測統計」「仮説検定」に到達するかなりレベルの高い内容です。とはいえ、直感的に理解できるようになっているので、統計学をゼロから学びたい方に御薦めの本です。

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ナジャ

By , 2013年10月24日 7:42 AM

2013年9月21日のブログで「シュルレアリスム宣言」を紹介しましたが、同じブルトンが書いた「ナジャ (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」を斜め読みしました。この本は、ブルトンが実際に交際していた精神疾患のある女性ナジャをテーマにしています。

この本の中で私が最も興味を持ったのは、Babinskiについての記載です。ある舞台についてのシーンを紹介します。

「ナジャ (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 54ページ

だが私の希望的観測では、作者たち (これは喜劇役者のパローと、たしかティエリーという名の外科医と、そのうえおそらくどこかの悪魔との合作になるものだった*) はソランジュがこれ以上の目にあうのを望んでいなかっただろう。

1862年にブルトンはこの部分への注釈を記しました。何と、そこにバビンスキーが登場するのです。長い注釈ですが、全体を引用します。

*この作者たちのまぎれもない正体については、三十年後にようやく明らかにされた。一九五六年になってはじめて、雑誌『シュルレアリスム、メーム』(1) は、この『気のふれた女たち』の全文を発表することができたのだ。そこに付されている P-L・パローによるあとがき (2) が、この芝居の制作過程を解明している。「[この芝居の] 最初の着想は、パリ郊外のとある私立女学校を背景にしておこった、いささかいかがわしい事件から思いつかれたものだ。けれども私がその着想を用いるべき劇は、-双面劇場なのだから-、グラン・ギニュルに類するジャンルのものであることを考えると、絶対の科学的真実のうちにとどまりながらも、ドラマティックな側面に味つけをしなければならなかった。つまり、きわだどい側面を扱わざるをえなかった。問題は循環的・周期的な狂気の一症例だったが、それをうまくこなすためには、もちあわせのないさまざまな叡智が必要だった。そんなとき、友人のひとり、病院勤務のポール・ティエリー教授が、あの卓抜なジョゼフ・ババンスキ (3) との関係をとりもってくれた。こちらの大家がよろこんで知識の光を与えようとしてくれたおかげで、この劇作のいわば科学的な部分を大過なく扱うことができたのである。」『気のふれた女たち』の念入りな制作過程にババンスキ博士が一役かっているのを知ったとき、私は大いに驚かされた。かつて私は「仮インターン」の資格で、慈善病院 (ラ・ピティエ) に勤務中の博士の補佐をかなり長くつとめていたことがあるので、この高名な神経病学者のことはしっかりと思い出にとどめている。彼が示してくれた好意についてもいまだに名誉に思っているし-たとえその好意が、私の医者としての立派な未来を予言するほど見当はずれなものだったとしても!-、自分なりにその教えを活用してきたつもりでいる。この件については、最初の『シュルレアリスム宣言』の末尾に賛辞を呈している (4)

岩波文庫版では、上記に対する訳注が充実しています。必要な部分のみ引用します。

(1) 『シュルレアリスム、メーム』-(Le surrealisme, meme-「シュルレアリスム、そのもの」とも「シュルレアリスム、さえも」とも読める) は、一九五六年秋から五九年春まで、計五号を不定期刊行したシュルレアリスム機関誌。(以下略)

(2) 略

(3) ジョゼフ・ババンスキ (一八五七-一九三二) は著明な精神医学者。神経系統の反射機能、ヒステリーなどの研究で知られる。数行あとに出てくる慈善病院 (パリ十三区にあった神経医学慈善センターのことで、現ピティエ-サルペトリエール病院にふくまれる) に勤務し、多くの後進を育成。ブルトンがこの病院につとめたのは一九一七年の一月から九月までだった。なお、前注1にふれた別冊付録の最終ページには、このババンスキのポートレートが大きくかかげられている。

(4) 『シュルレアリスム』宣言におけるババンスキへの賛辞は、「足のうらの皮膚の反射作用の発見者」の逸話として、巻末近く (岩波文庫、八三ページ) にあらわれる。なお、『ナジャ』の五四ページでブルトンの想定している「悪魔」が、じつはババンスキだとも読めるところがおもしろい。

ブルトンの残した注釈を見ると、バビンスキーは劇の制作に一役買っていたんですね。ある先生から、「Babinskiは劇が好きでね。オペラ・ガルニエの近くに劇場があったのだけど、そこで急病人が出た時に診療するようなことをしていて、しょっちゅう劇場に入り浸っていたんだよ」と教えていただきました。

バビンスキーとブルトンの関係を考察した医学論文も最近読んだので、いずれ紹介したいと思います。

(参考)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (1)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (2)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (3)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (4)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (5)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (7)

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シャルコー

By , 2013年9月28日 8:26 AM

精神科医からのメッセージ シャルコー 力動精神医学と神経病学の歴史を遡る (江口重幸著、勉誠出版)」を読み終えました。

シャルコーといえば、神経学の礎を築いた医師です。多発性硬化症や筋萎縮性側索硬化症の疾患概念を作り上げ、パーキンソン病に光を当て、フロイトやバビンスキーなどの多くの医学者を育て、デュシェンヌの電気生理検査を高く評価しました。晩年はヒステリーを精力的に行いました。研究筋萎縮性側索硬化症はフランスではシャルコー病と呼ばれることがありますし、シャルコー・マリー・トゥース病、シャルコー関節など、シャルコーの名前を冠した疾患、症候はいくつもあります。もう少し詳しく知りたい方はこちらを御覧ください。

本書の目次をまず紹介します。

はじめに

第一章 すべてはシャルコーからはじまる

第二章 男性ヒステリーとは?-『神経病学講義』より

第三章 シャルコー神経病学の骨格

第四章 大ヒステリー=大催眠理論の影響-フロイト・ジャネ・トゥーレット

第五章 シャルコーとサルペトリエール学派

第六章 『沙禄可博士神経病臨床講義』-『火曜講義』日本語版の成立と三浦謹之助

第七章 シャルコーの死とその後

第八章 シャルコーと十九世紀末文化-ゴッホのパリ時代と『ルーゴン=マッカール叢書」

終章 ヒステリーの身体と図像的記憶

あとがき

著者は精神科医であり、その視点から見たヒステリー、あるいはヒステリーの理解の歴史的な流れがわかりやすく記されていました。また、シャルコーの時代の小説を通じて、シャルコーあるいは同時代のヒステリーを描いた部分では、著者の広い教養を感じました。その他、三浦謹之助に光を当てていたのも良かったです。著者はシャルコーや三浦謹之助の子孫の方と交流があるようで、他では知ることの出来ないような話がいくつも本書に記されています。

シャルコーは、偉大な業績を残した反面、ヒステリー研究は彼の汚点であったとする言説を目にすることがたまにありますが、シャルコーのヒステリー研究がそんなに単純なものではなかったのが本書を読んでよくわかりました。ヒステリーの患者さんを診療する機会の多い神経内科医しては、著者の下記の文章は実感を持って理解できます。

精神と身体、あるいは人格の複数性が問題になる時、あるいはそこから派生する解離や記憶が問題になる時、私はこれを「シャルコー的問題」と呼ぼうと思うが、われわれは絶えず「ヒステリーの身体」と「シャルコー的視線」という問題に突き当たることになる。シャルコー没後一世紀以上を経た今日でも、問題は何ひとつ解決されておらず、しかもそれらが激しく議論されたことすらも忘れられようとしているのである。

多くの神経内科医に勧めたい本です。

以下備忘録、主として医学史関連の部分。

・ジャネによれば、シャルコーはこうした患者 (神経性無食欲症) を診て、その原因に太りたくないという固着観念があることを指摘したという。ジャネは、シャルコーの事例で、「ママのように太ってしまうなら空腹で死んだほうがいい」と述べる一人の少女を例に挙げている。その少女は腰にぴったりとピンクのリボンを巻き、それ以上太らない目安にしていた。シャルコーは、拒食がヒステリー性のものだという診断のために、このような肥満への固着観念を示す具体的証拠を探し出そうとしたという。シャルコーはさらに、臨床講義でこうした患者の治療には、まずは病因となった家族関係からの「隔離」が第一であり、両親を含め、医療者の権威への服従の度合いが重要な治療上の指標になるという卓見を披露している。(p.75)

・ゲッツの分析によれば、一八九一年の一年間 (つまり三七回の火曜外来) に三一六八名の患者が訪れ、うち一九一三名が初診、一二五五名が再来患者であった。それ以外の私的な診療はシャルコーの私邸で行われ、当初ピエール・マリーが、後にはギノンが与診として読み上げる助手の役を務めた。(p.103)

・同世代のヴュルピアンは、シャルコーといずれも同期にアンテルヌ、教授資格をとり、サルペトリエール病院に赴任した。ヴュルピアンは病理解剖学の教授となり、シャルコーとともに多発性硬化症の研究をおこない、生涯にわたってよきライバルであり、同時に親交を結んだ。一方、デュシェンヌはシャルコーの一時代上の晩学独行の研究者であった。デュシェンヌは地元で開業した後、四〇歳代でパリに出て、歩行運動失調や静電気を使用した表情筋の研究を一八五〇~六〇年代に相次いで発表。若いシャルコーに鮮烈な衝撃を与えた。シャルコーは彼を「神経学におけるわが師」と呼び、生涯にわたって深く敬愛した。シャルコーはデュシェンヌから、写真術と静電気使用という不可欠の技術を学び取ったのである。 (p. 108)

・のちの神経学や力動精神医学の基礎を築いたじつに多くの研究者がシャルコーのもとから巣立った。デュボーヴ、ジョフロア、ブールヌヴィーユ、フェレ、トゥーレット、ブリッソー、ピエール・マリー、ロンド、バレ、ギノン、ババンスキー、リシェ、スークさらにはジャネやフロイトを挙げることができる。(p.113)

・シャルコー以降、「精神ぬきの神経学と身体ぬきの精神医学」の時代が本格的に訪れる。(p.121)

・学生時代からエフェドリンについての論文 (塩酸エフェドリンの薬理作用である顕著な散瞳現象を、さまざまな動物実験で明らかにしたもの) をベルリンの医学雑誌に発表していた三浦 (謹之助) は、留学中も各地でそれぞれに相応しい研究成果を出しては次々に論文に発表している。結局その後も含め、独語、仏語で二〇編を超える論文を残した。三浦は、ベルリンのゲルハルトに内科学を、オッペンハイムに神経学を、マールブルグのマルシャンに病理学を、キュルツに生化学を学び、続いてハイデルベルグのエルプのもとで神経学を学び、明治二五年 (一八九二年) 一月パリのサルペトリエール病院に移ってシャルコーのもとで約半年間学び、同年の十一月に帰国している。(p.126)

・三浦は、明治三五年 (一九〇二年) には、東京大学精神医学教室の呉秀三とともに日本神経学会を設立した。今日の日本精神神経学会の前身である。この学会誌『神経学雑誌』第一号第一巻の巻頭論文は三浦による「筋萎縮性側索硬化症ニ就テ」であった。論文冒頭で三浦は、「我師シャルコー」の業績を賞賛することからはじめている。(p.129)

・三浦謹之助は、一八六四年 (元治元年) 三月二一日、福島県伊達郡富成村に生まれた。家は山村の医者であり、父道夫や東京にいた三浦有恒の影響もあってはやくから医者の道を志している。(p.134)

・三浦は、明治天皇の崩御の際の医療チームに加わり (この時わが国で最初に酸素ボンベが使用されたと記されている)、さらには大正天皇を診察し、また昭和天皇の欧州旅行に随行した一方で、幼き日より影響を受けた福澤諭吉の晩年から末期の主治医となり、その他にも伊藤博文、井上馨、桂太郎、松方正義、原敬、加藤高明ら数多くの政治家や実業家、さらには芸術家、著名人の主治医をつとめたのである。(p.138)

・ 一八九一年、当時の文部省が、大学教授資格試験 (アグレガシオン) の総監督に、シャルル・ブシャールを任命している、ブシャールはシャルコーの弟子であったが、途中袂をわかっており、結局教授資格試験に合格した五人のうち三名がブシャールの弟子であり、シャルコーの弟子は一人も通らなかった。この時本命とされていたババンスキーと、ジル・ドゥ・ラ・トゥーレットという、学派を代表する候補者が不合格になったのである。(p.159)

・シャルコーの死の影響は、まずサルペトリエール病院神経病学講座という、ほぼシャルコー唯一人を想定して設立された講座の主任教授を誰が引き継ぐのかという現実的な問題として表れた。結局ブリッソーが暫定教授を務めた後、九四年からは、二代目として正式にフルガンス・レイモンが主任教授に指名されることになる。レイモンはシャルコーの講座色を絶やさず約十七年間この講座の主任教授を務めた。シャルコーの直弟子たちもそれぞれの進路の変更を余儀なくされる。デジェリヌがサルペトリエール病院内に残ることになったため、ピエール・マリーは郊外のビセートル病院に移った。一貫して催眠に関心を示さなかったマリーは、その後の遺伝や変性や失語症について自らの議論を展開し多くの論争をおこなうことになった。一九〇七年には病理解剖学講座の主任になり、一九〇八年、有名な失語症論争をデジェリヌとの間で展開した、そして一九一七年デジェリヌの突然の死後、サルペトリエールに戻り四代目の主任教授におさまった。(p.162)

・(ババンスキーの) 次の外来医長だった、ジル・ドゥ・ラ・トゥーレットは、シャルコーの死の前後に、学派を代表する浩瀚なヒステリー研究を上梓したが、ブルアーデルとともに司法医学分野で大学に残ることを計っている。九三年には遠隔から催眠術をかけられたとする女性からの銃撃を受けて頭部に受傷し、その後は進行麻痺によるものと思われる問題行動が多く出現し、最終的には劇場での公演中にまとまらないことを口走り、本格的な狂気に陥ることになった。(p.163)

・サルペトリエール病院で、シャルコーの輝かしい業績を再び距離を置いて評価できるようになる機会は、マリーに続く五代目の主任教授であるギランを待ってはじめて可能になる。(p.165)

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