JAMAから寄せられた疑念

By , 2015年5月22日 12:12 PM

2005年、脳卒中後の患者にビタミンB12と葉酸を投与すると大腿骨頚部骨折が減少するという論文が JAMA誌に掲載されました。Abstractを見ると NNT 14 (14人に投与すると 1人骨折を防げる) と書いてありますから、相当強い治療効果といえます (余談ですが、アスピリンによる慢性期の脳梗塞二次予防効果ですら、NNT 111/年程度です。クロピドグレルはアスピリンに対して脳梗塞予防効果で NNT 167程度。こちらの総説参照)。

ところが、この研究が本当に正しかったのか、2015年5月19日にJAMA誌が疑念を表明しました。

Expression of Concern: Sato et al. Effect of folate and mecobalamin on hip fractures in patients with stroke: a randomized controlled trial. JAMA. 2005;293(9):1082-1088.

JAMA誌は著者らの所属機関に連絡を取り、調査を要求しています。そして、その結果次第で、追加措置を決定するとしています。調査の結果次第では、また日本の科学界に不祥事発生???

ちなみに、ビタミンB12絡みで昔ブログ記事書いたことがあったような・・・と思って過去ログを見直すと、この著者らの研究でした。うーん・・・。

アルツハイマーとビタミンの記事の感想

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Eight-and-a-Half Syndrome Jone

By , 2015年5月21日 7:37 AM

眼球運動障害に one-and-a-half症候群というのがあります。JAMA neurologyに、eight-and-a-half症候群というタイトルの論文が掲載されていました (2015年5月11日 published online)。One-and-a-half症候群は有名ですが、こちらは初耳でした。

Eight-and-a-Half Syndrome

これは、One-and-a-half syndromeに、同側の末梢性顔面神経麻痺を合併したものです。One-and-a-halfに seven (※顔面神経が第 7脳神経なので) が加わって eight-and-a-halfという、シャレのような病名です。橋背側の障害により MLF, 外転神経核, 顔面神経膝部などが同時に障害されることが原因のようです。

ちなみに名づけたのは、下記の論文の著者です。こういうふざけた病名の付け方に眉をひそめる人もいますが、個人的には「たまには楽しいかな」と思います。

Eight-and-a-half syndrome: one-and-a-half syndrome plus cranial nerve VII palsy

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2015年神経学会総会の予習 (夜の部)

By , 2015年5月16日 8:04 PM

2015年5月20~23日、新潟で神経学会総会が行なわれます。私は、病棟業務との兼ね合いで、5月21~23日に参加します。

第 56回日本神経学会学術大会

さて、学会の中で最も予習が必要とされるのは夜の部です ( ー`дー´)キリッ

Facebook等で現地情報を集めた所、下記の店を教えて頂きました。先ほど予約を済ませましたが、かなり席が埋まっているようなので、行かれる方はお早めに予約を。

いかの墨

蒲原銀次

いっこう

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Treatable Causes of Cerebellar Ataxia

By , 2015年5月4日 10:06 AM

治療可能な小脳失調症についての総説が、2015年4月15日発行の Movement disorders誌に掲載されていました。

Treatable causes of cerebellar ataxia

この総説は、まず表がよく纏まっています。

Table 1: どのような小脳失調症にどのような徴候を合併していれば、どのような病態を考えるか

Helpful diagnostic signs

Table 1. Helpful diagnostic signs

Table 2: 成人患者での初期評価に推奨される検査と、それで異常だった場合に疑われる病態

Table 3: 成人発症の失調症で二次評価に推奨される検査と、それで異常だった場合に疑われる病態

Table 4: 傍腫瘍性失調症と抗体

Table 5: 成人発症の小脳失調症における有用な MRI所見

小脳失調の原因は多岐に渡るのですが、何か別の徴候を伴っていれば鑑別をかなり絞り込むことが可能です。そういう意味では、特に Table 1は役立つのではないかと思います。

そして、本書のタイトルにある治療可能な疾患とその治療法は下記です。本文中には、疾患の臨床的な特徴も解説されています。

Ataxia with Vitamin E Deficiency: vitamin E (800 mg/day)

Abetalipoproteinemia: vitamin E (100-300 mg/kg/day), vitamin A (100-400 IU/kg/day)

Cerebrotendinous Xanthomatosis: chenodeoxycholic acid (240 mg three times per day)

Niemann-Pick Type C Disease:miglustat (200 mg three times per day), cyclodextrin

Refsum’s Deisease: 食事指導 (phytanic acidを 10 mg/dayを上限に抑える)

Glucose Transporter Type 1 Deficiency: ketogenic diet

Episodic Ataxia Type 2: acetazolamide(250-100 mg/day), 4-aminopyridine

Superficial Central Nervous System Siderosis: deferiprone (現在 phase IV試験, NCT 01284127)

Gluten Ataxia: immunoglobulin (IVIG), corticosteroids

 Ataxic Variant of Steroid-Responsive Encephalopathy Associated With Autoimmune Thyroiditis: High-dose intravenous methylprednisolone followed by oral predonisone taper

Autosomal Recessive Cerebellar Ataxia due to Coenzyme Q10 deficiency: CoQ10 supplementation

Friedreich’s Ataxia: Therapeutic strategies used to address the primary mechanism of injury have included 1) increase frataxin levels on the transcriptional level by histone decetylase (HDAC) inhibitors or the protein level by recombinant human erythropoietin; 2) use antioxidants such as co-enzyme Q10, its homoloidebenone, and vitamin E; 4) lower mitochondrial iron stores with deferiprone; and 5) improve energy metabolism by L-carnitine supplementation.

Paraneoplastic Cerebellar Degeneration: immunoglobulin G, corticosteroids, cyclophosphamide, tacrolimus, rituximab, mycophenolate, and plasma exchange, in conjunction with sequential or associated chemotherapy and surgical resection of identified tumors.

小脳失調症にはなかなか治らない病気が多い印象ですが、それでも治療法が開発されている疾患がかなりありますね。あまりこういう視点からの纏めで小脳失調症を考えたことがなかったので、ためになる総説でした。

(参考)

A 40-Year-Old Woman with Difficulty Going Down Stairs in High-Heeled Shoes

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Digital Concert Hall

By , 2015年5月2日 6:50 PM

福島県に引っ越してきて、クラシック音楽専門チャンネル「CLASSICA」の視聴継続が難しくなりました。そこで、オンラインで視聴できるベルリン・フィルの “Digital Concert Hall” を契約することにしました。年間 149ユーロで、ベルリン・フィルの一部のライブや過去のアーカイブスを見ることができます。PCを大画面テレビに接続すれば、自宅でライブ感覚が味わえそうです。また、iPhoneアプリを用いれば、外出先でも視聴が可能です。

値段は一見やや高めに感じられるかもしれませんが、月々 CD 1枚買う程度と考えれば、安いものと思います。ネット配信で流通コストを抑えているのが大きいのでしょうね。クラシック音楽好きの方にお勧めです。

Berliner Philharmoniker

(※リンク先上段のタブから “DIGITAL CONCERT HALL” を選択)

私はまず、室内楽や大好きな Frank Peter Zimmermannのソロ演奏、以前ベルリンに聴きに行った時のシューマン/ブラームスの交響曲 (客席の自分が映っているらしい) などを楽しむつもりです。また、ゴールデンウィークに帰省しますので、実家でも家族で見たいと思います。

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アルツハイマー

By , 2015年5月1日 10:25 PM

アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の奇跡 (コンラート・マウアー/ウルリケ・マウアー共著, 新井公人監訳, 喜多内・オルブリッヒ ゆみ/ 羽田・クノーブラオホ 眞澄訳)」を読み終えました。

この本は、東京時代の医局の学問仲間有志が私の送別会をしてくれたとき、先輩がプレゼントしてくださいました。背表紙には、その送別会の参加者全員が寄せ書きをしてくれて、「先生には色々と教えて頂きました。下ネタも含め、勉強になりました」など、心温まるコメントがたくさんありました。

思えば、神経内科医の多くは外来ではしょっちゅうアルツハイマー病の診断を下しているのに、この疾患の歴史も、そしてアルツハイマーのこともほとんど知りません。ちゃんと知っておく必要があるという、先輩からのメッセージなのでしょう。バタバタしていて、頂いて 1ヶ月ほど経ちましたが、やっとこうして内容を纏める時間が取れました。アルツハイマーの人脈の広さ、研究範囲の広さ (アルツハイマー病で知られていますが、神経梅毒の研究で素晴らしい仕事を残しています) など、初めて知ることが多くて色々と新鮮でした。本書から抜粋して、彼の生涯を簡単に纏めます。

1864年6月14日、アロイス・アルツハイマーはエドゥアルド・アルツハイマーとその妻テレージアの次男として生を受けました。生家はマルクトブライトのヴュルツブルク通り 273番地でした。10歳の時、アルツハイマーは教育上の都合でアシャッフェンブルクに引越しました。1882年、アルツハイマーの高等学校卒業試験の一年前に、母が 42歳で亡くなりました。アルツハイマーはコッホに憧れ、高等学校卒業後の 1883~1884年、ベルリンに旅立ち、フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の職員・学生として登録されました。その際に、ゴッドフリード・フォン・ワルダイエル教授の講義と解剖実習に出席しました。1884年夏からはヴュルツブルク大学で学びました。1886年10月にテュービンゲンのエーベルハルト・カール大学に移りましたが、1887年に再びヴュルツブルク大学に戻り、1888年、医師国家試験に「最優秀」の成績で合格しました。

「アッフェンシュタイン精神病者の城」とも呼ばれたフランクフルト市立精神病・てんかん病院 (フランクフルト精神病院)  の初代院長は、絵本作家としても知られているハインリッヒ・ホフマンでした。ホフマンが 79歳で病院を退いた後、エミール・シオリが就任しました。シオリは 254人の患者を一人で抱え込むほど多忙でした。人手不足ということもあり、アルツハイマーの願書が届いたその日に、シオリは電報で採用通知を送り返しました。アルツハイマーは 1888年12月19日に助手として採用されました。そしてまもなく、1889年3月18日に、フランツ・ニッスルが主任医師として赴任してきました。ニッスルはニッスル小体、ニッスル染色などに名を残しています。ニッスルとアルツハイマーは仲が良い仕事仲間でした。

アルツハイマーは 1894年にヴィルヘルム・エルプ (Erb点などで有名) からの依頼で、ダイヤモンド卸売業者オットー・ガイゼンハイマーの診察をすることになりました。ところが、ガイゼンハイマーは、アルツハイマーがドイツに連れて帰ろうとする途中で息を引き取りました。アルツハイマーが未亡人のセシリー・シモネッテ・ナタリエ・ガイゼンハイマーの世話をしているうちに、二人は結婚することになり、アルツハイマーの親友であるフランツ・ニッスルが立会人の一人となりました。ニッスルはアルツハイマー夫妻の娘ゲルトルーデの洗礼立会人でもあります。しかし、1901年、セシリーは扁桃炎から関節や腎臓の障害をきたし、死亡しました。フリッツ・クリムシュが、後にアルツハイマーも眠ることにもなるフランクフルト中央墓地の墓を制作しました。クリムシュはウィルヒョウの記念碑を委託されたときも、セシリーの墓石とよく似たものを制作したそうです。奇しくもアルツハイマーが、最初のアルツハイマー病患者「アウグスト・D」と出会ったのも、この 1901年でした。

アルツハイマーは、1901年にハイデルベルクで員外教授になっていたニッスルの誘いもあり、1903年3月にフランクフルト・アム・マイン市立精神病院の第二医師を辞職。ハイデルベルクのクレペリンの元に移りました。そしてクレペリンがミュンヘンから招聘を受けたので、同年10月にミュンヘンに向かいました。ミュンヘンでは、三人の子どもと、妻の代わりに子供の面倒を見ていた妹のエリザベート「マーヤ」と同居しました。マーヤは、1909年7月1日ツェッペリンの飛行船の乗員のひとりとして、約 12時間の飛行に参加したそうです。アルツハイマーがミュンヘンで教授資格論文に取り組んでいた時代、精神病院に入院する患者の約 3分の 1が梅毒による進行麻痺でした。

1906年4月9日、フランクフルト精神病院の研修医がアルツハイマーに電話をかけ「アウグステ・Dが昨日亡くなった」ことを伝えました。アルツハイマーはかつての上司シオリにカルテ、脳を提供して欲しいと頼み、1906年11年テュービンゲンで開催される第 37回精神科医学会でこの症例を発表することにしました。アルツハイマー、ペルシーニ、ボンフィグリオによる分析の結果、大脳皮質全体に斑状の独特な物質代謝産物の沈着が認められ、血管の増生が確認されました。アルツハイマーはこれを単に plaques “斑” と記載しました (“訳者註:アルツハイマー病の病理学的特徴の一つである老人斑を指している。老人斑は、ブロックとマリネスコにより一八九二年に記載された。本書に見られるようにアルツハイマー自身は単に Plaquesと記載しているので「斑」と記す。また、アルツハイマーはレンドリッヒが一八九八年に老人斑という語を最初に記載したと述べている”)。この学会には、ビンスワンガー病に名を残したビンスワンガーや、クルシュマン―シュタイネルト病 (筋強直性筋ジストロフィー) に名を残したクルシュマン、デーデルライン桿菌に名を残したデーデルライン、その他メルツバッハ―、ユング、ガウプ、ブムケなどが参加していました。アルツハイマーの発表後、質問は一つもなく、会議録には「短い研究報告には適していない」と記されました。しかし、講演の全文は 1907年、「精神医学及び司法精神医学」に “大脳皮質の特異な疾患について” というタイトルで発表されました。アルツハイマーは、1907年に亡くなった B・Aや Sch.L、1908年に亡くなった R・Mにも斑を見つけました。

1912年、アルツハイマーはブレスラウのシレジア・フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の精神科正教授として招かれました。1912年8月にアルツハイマーはミュンヘン中央駅からブレスラウに旅立ちましたが、旅路で病に倒れました。クレペリンは「新しい勤務地に向かう途中、腎炎及び関節炎を伴った感染性扁桃炎にかかり、それ以降立ち直ることはなかった」と述べています。アルツハイマーが赴任した病院の初代院長はハインリッヒ・ノイマン、二代目院長はカール・ウェルニッケ、三代目院長はカール・ボンヘッファーで、アルツハイマーが四代目でした。アルツハイマーの同僚の一人はオットフリード・フェルスターであり、晩年レーニンを治療するためにロシアに派遣され、その主治医となりました。また別の同僚は、後にアルツハイマーの娘婿となるシュテルツでした。シュテルツはノンネ・マリーの下で助手を務めたことがありましたが、ノンネはノンネ―マリー病 (現在のマシャド・ジョセフ病) に名前を残した神経科医でした。

1915年12月19日、アルツハイマーは家族に囲まれて 51歳の生涯を閉じました。

本書は、人物の写真、病理標本のスケッチ、アルツハイマーが使用していた道具の写真など、資料が豊富ですし、文章が読みやすいです。帯に「伝記」と書かれている通り、医学的知識のあまりない一般人でも普通に読むことができます。アルツハイマーに興味を持った方は、是非読んでみて頂きたいと思います。

以下、備忘録として覚えておきたい部分を抜粋しておきます。

・アウグステ・Dや他の多くの不安定な患者の治療に際して、睡眠薬は、しかし、非常に重要であった。医師は患者に二~三グラムの抱水クロラールを与える。それはある程度意識の混濁をもたらすが、より持続的で静かな睡眠を約束するのである。抱水クロラールを受け付けなくなると、精神病院ではパラアルデヒドを用いる (※当時の医療)。 (43ページ)

・エドゥアルド (※アルツハイマーの父) は一年間喪に服した後、亡くなった妻の妹と結婚した。(51ページ)

・この生家 (※マルクトブライトにあるアルツハイマーの生家) は、アメリカの製薬会社イーライリリー社が購入した後、本書の著者ウルリケ・マウラーの指導の下に改修された。一九九五年一二月一九日、アロイス・アルツハイマーの没後八〇年を記念して一般公開され、現在、記念博物館として、また、医学セミナーなどのセンターとして利用されている。 (51-52ページ)

・アルツハイマーがベルリンにやってくる直前の一八八二年に、コッホは人型結核菌を発見したのである。結核は今日、西側諸国ではあまり見られなくなったが、この時代には重大な病気の一つであり、人々を脅かした。一八八〇年当時、ドイツでは死者の七人に一人は結核で亡くなり、一五歳から四〇歳までに限ると二人に一人がこの病気に罹患して死亡した。 (62ページ)

・(ヴュルツブルク大学時代) アルツハイマーにとって重要だったのは、彼に顕微鏡の魅力的な世界を紹介した組織学者、アルベルト・フォン・ケリカー教授との繋がりを作ることであった。ケリカー研究所には後日ノーベル賞を受賞したアルフォンソ・コルチとフランツ・フォン・ライディッヒ等の有名な研究者が働いていた。彼らは器官と細胞組織に自らの名前を付与した。すなわち、内耳の蝸牛にある感覚器官であるコルチ器と、男性ホルモンを分泌する睾丸にあるライディッヒ間質細胞である。 (66-67ページ)

・彼 (※アルツハイマー) は好きな自然観額を断念することができなかったため、フリードリッヒ・コールラウシュのもとで物理を聴講した。彼 (※コールラウシュ) の名は電気工学のパイオニアとして有名で、コールラウシュの法則と呼ばれる電解質の当量伝導率を定める法則を発見した。 (67ページ)

・(アルツハイマーは) ヴュルツブルク時代には、賭けに負けて冬のマイン川を泳ぎきったことで有名であったが、テュービンゲンでは、夜中に警察署の前でどんちゃん騒ぎをしたため三マルクの罰金を科せられ、大学の会計に支払った。 (69ページ)

・標本作製に当たり、当時フランクフルトに病理学の分野で二人の一流の研究者がいたことはアルツハイマーにとって大きな助けになった。一人はカール・ワイゲルト、もう一人はルードヴィッヒ・エディンガーである。ワイゲルトは一八八五年四月一日よりフランクフルトのゼンケンベルク病理学研究所の所長であった。最新の優れた組織病理学の研究方法を学びたい者は、ワイゲルトがいる病理学研究所を訪れなければならなかった。そこでは最良の「割断と染色」法を学ぶことができた。アニリン核染色法をはじめ、多くの染色方法の発見は彼に負うこと大である。(102ページ)

・一九世紀最後の年のフランクフルト精神病・てんかん病院の発展については次のように報告されている。「ここ数年は院長を除いて四人の医師が常勤していたが、医師一人で八五名の入院患者と二四〇名の外来患者を診察していたことになる」 (130ページ)

・睡眠薬や鎮静剤が必要な場合、トリオナール、パラアルデヒド、クロラールが使用された。てんかん患者には臭素塩、また、アヘンと臭素を混合したフレクシッヒ療法がよく用いられ、うつ病にはアヘンとヒオスチンが頻繁に使われた。ヒオスチンはアヘンアルカロイドの一種で、通常皮下に注射され、特に高度の不穏患者や観念奔逸患者に用いられた。 (144ページ)

・(ニッスルの元上司で、国王ルードヴィッヒ二世とともに湖で溺死した) フォン・グッデンの解剖学質教室では、ニッスルと共に S・J・M・ガンザ―も働いていた。いわゆる仮性痴呆はガンザーの名に因んで、後日ガンザ―症候群と名付けられた。患者は、耐えられない状況に陥ったとき、窮地に陥って間の抜けた話をし、見当外れの態度をとり、無知と見せかけ、まるで精神病患者のような反応を示す。フォン・グッデンの研究室では、エミール・クレペリンも一八八四年から一八八五年まで勤務していた。 (161ページ)

・病院内でも、アルツハイマーはどんなに仕事に集中していても、冗談を受け止め、洗練されたユーモアのセンスを持っていた。孫の一人は次のように話している。「それは、ミュンヘンのヌスバウム通りにある病院の謝肉祭でのことでした。突然一人の貧しい行商人が現れました。彼はおもちゃを一杯入れた箱を首から掛けて、中の商品を売ろうとしました。しかし、そこは商売禁止で、病院の従業員は怒って営業禁止を言い渡し、アルツハイマー教授を呼んでくると言ってほどしました。ところが、『その必要はない』と行商人がいたずらっぽく笑うのです。そして仮装を脱ぎ始めると、皆は大笑いせずにはいられませんでした。アルツハイマー教授自身が行商人だったのです。おもちゃは小児患者に配られました。プレゼントすることは彼にとっていつも大きな喜びだったのです」 (192ページ)

・(ミュンヘン時代の) アルツハイマーの生徒の中には、後にその分野で有名になった学者が多くいる。スペイン人の N・アチュカロ、イタリア人のフランシスコ・ボンフィグリオ、そして、アメリカ人のルイズ・カサマジョアなどもその中に入っている。ボンフィグリオは一九〇八年に初老期痴呆の症例を発表しクレペリンの興味を引いた。イタリア人のウーゴ・ツェルレッティは一九三八年 L・ビニとともに、痙攣を誘発する電気ショックで初めて電撃療法の時代を開拓して世界的に有名になった。一九三六年、彼はローマ大学精神神経科教授となった。他にも世界的に有名になった研究者にハンス―ゲルハルト・クロイツェルトとアルフォンス・ヤコブがいる。後にこの二人の名前を取ってクロイツフェルト―ヤコブ病と名付けられた病気は、プリオン病の一種である。この病気はチンパンジーに伝染し、潜伏期間一年を経て症状が現れる。ダニエル・ガイジュセックはこの発見で、一九七六年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。コンスタンティン・フォン・エコノモ・フォン・サン・セルフ男爵の名は、第一次世界大戦後に広がった流行性脳炎に付与された。その後、彼は中脳に “睡眠調節中枢” を発見している。F・ロトマーはスイス出身で化学実験室を指導した。テュービンゲンとブエノス・アイレス研究したルードヴィッヒ・メルツバッハ―はペリツェウス―メルツバッハ―病を発見した。F・H・レビーの名から、パーキンソン病で重要な役割を果たす “レビー小体” の名が付けられた。特に強調しなくてはならない人物はガエタノ・ペルシーニである。彼はアルツハイマーと共同研究をし、共著も出版した。有名なアウグステ・Dの症例は、一九〇九年ペルシーニによって大変詳細に再発表された。彼は “アルツハイマー” の名称が全世界に広まるのに大きな貢献をした。(中略) 偶然にも、彼らは死亡日もほぼ同じという共通点がある。ペルシーにはアルツハイマーが亡くなる一週間前、第一次世界大戦で負傷した兵を助けようとして自分も致命傷を負い、一九一五年十二月八日に三六歳の若さで亡くなった。 (194-196ページ)

・(※クレペリンは自らが主催した生涯教育コースについて) 「コースの中心は私が企画した臨床講義であったが、その他、アルツハイマーが精神病の病理解剖学について、テュービンゲンのブロードマンは大脳皮質の局所解剖について、ベルリンのリープマンとチューリッヒのモナコフは交互に局在問題を、リューディンは遺伝と変性の学説を、プラウトは血清学、アラースは代謝検査を解説した。その間、私自身は臨床実験精神医学の概略を述べた。このコースの参加者は四〇~五〇任に達し、大半は外国人の参加者で占められていた。彼らはこのコースに大変満足した。」 (202ページ)

・アルツハイマーは経験豊かな神経科医であった。穿刺針を用いて脳脊髄液を採取する腰椎穿刺の手技に習熟しており、「形態上の相違を見分けるために、脳脊髄液中の細胞を満足のいくように固定する」ことの難しさを知っていた。彼は一九〇七年、神経精神医学中央雑誌に「脳脊髄液中の細胞成分固定のための方法論」として、研究成果を発表した。彼が存在を予想していた形質細胞がハッキリと確認された。(209ページ)

・マドリッド出身の組織病理学者で、当時ワシントンの国立精神病院の研究室で客員医師として働いていたゴンザロ・R・ラフォラ博士は、米国人のアルツハイマー病初報告を記載している。 (310ページ)

・一年後 (※1926年) にグリュンタールは「老年痴呆に関する臨床病理学的比較研究」と題する別の発表を行った。七〇歳以下を対象に入れなかったが、それは真のアルツハイマー病患者が含まれないということである (※アルツハイマー自身は、アルツハイマー病を若年性痴呆として報告していたため)。またもやグリュンタールは殆ど予言的な結論に達している。「アルツハイマー病に対する鑑別診断に関しては組織学的な相違はほとんどないと言える。臨床的にも老年痴呆のある例では、年齢的な違いを除いて、軽度および中等度のアルツハイマー病と全く区別することができない。しかし、アルツハイマー病では言語障害―特に喚語困難―がしばしば初期症状となるが、老年痴呆では重度の場合でも稀にしか出現しないという本質的な相違はあるように思える」 (315ページ)

・「アルツハイマー病」の病名が世界的に容認された一九八〇年半ばになっても、アウグステ・Dの診断を疑問視する声があった。その多くは、動脈硬化症か、または稀な神経疾患ではないかと推測するものであった。しかし一九九八年四月のフルクフルター・アルゲマイネ紙の学術欄の中で、アロイス・アルツハイマーの正当性が立証された。「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断に誤りはなかった。彼が診断したアウグステ・Dは、実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた。マルティンスリードの研究者は、ずっと行方不明になっていた脳標本を最近偶然発見した。その標本には特徴的な神経原線維変化とアミロイド斑が見られた。血管性痴呆の徴候はなかった。」 (334ページ)

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Breast cancer drug may help men with prostate cancer

By , 2015年4月30日 6:57 PM

ある癌に対する分子標的治療薬が、別の癌に対して効果を示すというのはたまにあることで、EGFR, VEGF, HER2などがそうですね

発熱のため、仕事を休んでゴロゴロしながら Science Newsを見ていたら、興味深い記事がありました。

Breast cancer drug may help men with prostate cancer

Poly (adenosine diphosphate [ADP]-ribose) polymerase (PARP) は、DNAへの damageを修復する酵素です。乳癌・卵巣癌で BRCA1 or BRCA2に変異がある患者では、PARP阻害薬での治療が試みられることがあります。

DNA修復酵素に変異を多く持つ前立腺癌で更に PARPを阻害すれば、DNA修復が出来なくなるのでダメージが与えられるんじゃないか・・・と考えた学者たちがいました。実際に患者に使ってみると、DNA修復酵素に多く変異がある前立腺癌患者では、大部分が 6ヶ月以上治療に反応しましたが、そうした変異がない場合だと 3ヶ月以内に悪化しました。

癌細胞への分子標的治療薬は、リン酸化酵素をターゲットにしたものが多いですが、DNA修復酵素に着目した治療戦略というのも出てきているのだなぁと思いました。まだ治療効果は限定的かもしれませんが、色々と治療選択肢が増えると良いですね。

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甲状腺機能低下と手根管症候群

By , 2015年4月29日 6:44 AM

甲状腺機能低下症は手根管症候群のリスクであると言われています。2014年6月13日のNHKの番組「ドクターG」で神経内科医マッシー池田先生が症例提示されていたのが、甲状腺機能低下症に合併した手根管症候群/足根管症候群でした。

リスクの程度を meta-analysisした論文が 2014年12月の Muscle Nerveに掲載されていたのを先輩から教えて頂きました。

Hypothyroidism and carpal tunnel syndrome: a meta-analysis.

【Material and methods】
Search Strategy and Selection of the Studies
この研究では、cross-sectional study, case-control study, cohort studyをメタ・アナリシスに組み入れることにした。コントロール群がない研究とか、甲状腺機能低下症しかない研究など、使えない研究の除外基準を定義した。
Quality Assessment
今回は、5つのドメインを持つ評価ツールを用いて、バイアスの検出を行った (※こうした評価ツールには、例えば診断精度研究では QUADAS-2などがある)。
Meta-analysis
まず、メタ解析する対象の一次研究からどのような情報を抽出するかを決めた。オッズ比を推定するため、Woolf confidence intervalsを計算した。メタ・アナリシスは random-effect modelを用いて行った。異質性 (※一次研究のバラつきの大きさ) の推測のため、I2 を計算した (※一般には、I0-40%で異質性は “might not important”, 30-60%%で “may represent moderate heterogeneity”, 50-90%で “may represent”, 75~100%で “considerable heterogeneity” と解釈する (Higgins 2002))。出版バイアスの評価は funnel plotを用いて行った。統計解析のソフトウェアには Stata version 13を用いた。
【Results】
Search, Selection, and Quality of Studies
Methodsで定義した通りに文献検索をして、1566個の一次研究がヒットした。Inclusion criteriaを満たした一次研究は 35個だった。また、除外基準に該当する論文を排除し、18個の一次研究が解析対象に残った。
Thyroid Disease
10個の一次研究 (sample sizeの合計 9573人) で、甲状腺疾患 (hypo-, or hyper- thyroidism) と手根管症候群の関係を交絡因子未補正で評価していた。10個の一次研究から推計される効果量 (effect size) は、1.32 (95%信頼区間 1.04-1.68, I2=0%) だった。3個の一次研究 (sample sizeの合計 4799人) では、甲状腺疾患 (hypo-, or hyper- thyroidism) と手根管症候群の関係を、交絡因子 (性差や年齢など) を補正して評価していた。3個の一次論文から推計される効果量は、1.17 (95%信頼区間 0.71-1.92, I2=0%) だった。異質性はほぼなく 、甲状腺機能異常があっても、手根管症候群の発症頻度は変わらなかった (※信頼区間が 1をまたぐので、有意ではない)。
Hypothyroidism
6個の一次研究 (sample sizeの合計 64531人) で、甲状腺機能低下症と手根管症候群の関係を交絡因子未補正で評価していた。6個の一次論文から推計される効果量は、2.15 (95%信頼区間 1.64-2.83, I2=51.6%) だった。4個の一次研究 (sample sizeの合計 71133人) では、甲状腺低下症と手根管症候群の関係を、交絡因子を補正して評価していた。4個の一次論文から推計される効果量は、1.44 (95%信頼区間 1.27-1.63, I2=0%) だった。次に、性差や年齢などを調整した群を用いて、サブグループ解析を行った。その結果、甲状腺機能低下は、手根管症候群 (効果量 1.39, 95%信頼区間 1.21-1.59, I2=0%) と手根管症候群による手術 (効果量 1.75, 95%信頼区間 1.29-2.37, I2=0%) と関連があることがわかった。
Publication Bias
甲状腺機能低下症と、手根管もしくは手根管症候群による手術との関係は、funnel plotで左右非対称であった。有意に Publication biasが存在する (p=0.018)。おそらく、関連が示せなかったため 3個くらい報告されていない研究がありそうだ。交絡因子を補正した研究においても、同様に publication biasが存在した (p=0.035)。おそらく、関連が示せなかったため 2個くらい報告されていない研究がありそうだ。
【Discussion】
今回のメタアナリシスの結果、甲状腺機能低下症と手根管症候群に、軽度の相関が示された。甲状腺機能低下は、手根管症候群のリスクとなりえる (evidence level C)。①多くの一次研究で交絡因子の補正がされていなかったこと、②publication bias (出版バイアス) が存在することが、この研究の限界となっている。甲状腺機能低下は、手根管症候群よりも、手根管症候群による手術により相関がある。甲状腺機能低下があると、保存的治療がうまくいきにくいということなのかもしれない。
結論として、「甲状腺機能低下は手根管症候群と関係があるかもしれないけれど、これまでに思われていたよりは相関は弱い」ということです。多くの一次研究で交絡因子の補正をしていないこと、両者の関連が示せなくて出版に至らなかった研究が複数ありそう・・・ということで、これまで強い相関があるように見えていたのかもしれません。今回のメタアナリシスのおかげで、出版バイアスの存在や、多くの一次研究の不備が明らかになっています。そういう意味で意義深い研究だと思います。

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発熱

By , 2015年4月29日 6:41 AM

昨日 4月28日は勤務先の初当直でしたが、なんとその夜に発熱。先ほど病棟の体温計で 37.7℃でした。多分、ただの風邪だと思いますが、GWまでには治さないと。

発熱するたびにブログに書いておくと、「発熱」で検索すれば年に何回くらい風邪を引くかがすぐにわかって便利。だからといって、何か治療が変わる訳ではないのですが。

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症例から学ぶ 輸入感染症 A to Z

By , 2015年4月28日 9:44 PM

症例から学ぶ 輸入感染症 A to Z (忽那賢志著、中外医学社)」を読み終えました。普段見かけることの稀な輸入感染症は私の苦手な分野ですが、どのように診療を進めていけばよいのかがとてもわかりやすく解説されていました。本書は、指導医と弟子の会話形式を取っており、あちこちに散りばめられたギャグが秀逸で、勉強している感覚なく気が付いたら読み終えていました。初学者でも楽しめて、かつレベルが高い、お薦めの本です。

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