テツラフ・カルテット

By , 2014年10月12日 11:00 AM

久しぶりにカルチャーショックを受けました。

クァルテットの饗宴 2014

モーツァルト:弦楽四重奏曲 第 15番 ニ短調 K421

ヴィトマン:弦楽四重奏曲 第 3番 「狩りの四重奏曲」

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第 15番 イ短調 Op.132

テツラフ・カルテット:クリスティアン・テツラフ (Vn), エリザベート・クッフェラート (Vn), ハンナ・ヴァインマイスター (Va), ターニャ・テツラフ (Vc)

2014年10月7日 (火) 午後 7時 紀尾井ホール

一曲目は、物悲しいながら凛とした雰囲気があり、私が大好きな曲です。自分でもたまに弾きます。どんな曲かは、下記のハーゲン弦楽四重奏団による演奏を聴いてみてください。

・[The Hagen Quartet] W. A. Mozart – String Quartet No. 15 in D minor K. 421

テツラフ・カルテットはノン・ヴィブラートを多用していたのが印象的でした。ヴィブラートをかけない独特の音色が続く中、小さくビブラートを入れるだけで凄く変化がついて曲の表情を豊かにしていました。ボウイングも古楽器奏法を意識したものでした。

二曲目は初めて聴く現代曲。弓をヒュッと振り下ろす音で始まった後、単純な旋律が繰り返されます。その旋律は、このコンサートのプログラムの解説を見ると、シューマンの<パピヨン>終曲冒頭とのことでした。旋律はどんどん崩れていきますが、最後までリズムは比較的しっかりと保たれます。雄叫びを挙げたり、様々な特殊奏法が披露されたり、飽きない曲です。私は少し苦手でしたが・・・。

三曲目は、私が最も好きな弦楽四重奏曲の一つです。このブログでも何度か取り上げました。第三楽章に「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」と記してあったり (下記動画に写っている楽譜参照)、最終楽章がもともと第九の第四楽章に用いられる予定だったり、過去の自曲を使いまわした箇所があったり・・・聴きどころ満点です。
テツラフ・カルテットは、ヴィブラートを最低限にまで抑えて演奏していましたが、それにより生み出される空気が本当に綺麗で、何度も鳥肌が立ちました。特に第三楽章は、聴いていて少し涙ぐんでしまいました。

・Beethoven, String Quartet No.15, Op.132 [3/4]

アンコールはハイドン作曲弦楽四重奏曲第 33番 Op. 20-3 ト短調よりメヌエット。

彼らが来日する機会があれば、是非また聴きに行きたいと思います。

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ALSに対する間葉系幹細胞治療がfast-track指定

By , 2014年10月10日 8:15 PM

2014年1月8日のブログ記事で、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) に対する間葉系幹細胞治療の症例報告を紹介しました。

間葉系幹細胞治療と ALS

この治療法は、muscle & nerve誌の Editorialでも取り上げられました。期待を集めている治療法です。

ただ、少し心配な点があります。第1/2相臨床試験は 2013年3月に終了しているのですが、残念なことに結果がまだ公開されていません。私は非常に期待しているので、ヤキモキしています。

ところが、最近動きがありました。なんと、2014年10月7日の報道を見ると、FDAから fast-track 指定を得たらしいのです。

BrainStorm gets FDA fast-track status for ALS stem cell therapy (Reuter)

この治療法が、有効性・安全性を正しく評価された後、一刻も早く認可されることを祈っています。

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チューリヒ美術館展

By , 2014年10月4日 1:59 PM

チューリヒ美術館展に行ってきました。

チューリヒ美術館展

展示されている作品のクオリティーが高く、解説も充実しています。また、一つの部屋が一つのテーマになっており、各部屋とも空間を広く使っていて鑑賞しやすいです。かなりお勧めなので、絵画に興味のある方は行ってみてはいかがでしょうか。

ちなみに、10月20日までであれば、別のフロアでオルセー美術館展も鑑賞できます。個人的には、オルセーよりチューリヒの方が良かったです。

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Fingolimodと脳出血

By , 2014年10月3日 6:18 AM

多発性硬化症の治療薬にフィンゴリモド (FTY-720, ジレニア) という経口薬があります。JAMA neurologyに、この薬剤を脳出血の治療に用いた臨床研究が発表されました (2014年6月7日 online published)。

Fingolimod for the Treatment of Intracerebral HemorrhageA 2-Arm Proof-of-Concept Study

フィンゴリモドは脳出血での脳浮腫や神経脱落症状の軽減に効果があったという結果でした。近年、ライバルとなる多発性硬化症の経口治療薬がたくさん開発されているので、もし新しい市場が生まれれば、フィンゴリモドにとっては嬉しい事でしょうね。

しかし、この研究は open-label試験 (更に end-pointに主観が入りやすい) なのでバイアスが気になりますし、論文を読んでもいまいち機序がよくわかりません。実際に効果があるのかどうかは、今後の研究を待つ必要があります。

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Parkinson病と末梢神経障害

By , 2014年9月29日 1:12 AM

Journal of Neurology Neurosurgery Psychiatry (JNNP) 誌に興味深い総説が掲載されました (2014年8月28日 online published)。Parkinson病治療薬である L-dopaの十二指腸持続投与と末梢神経障害についてです。

Polyneuropathy associated with duodenal infusion of levodopa in Parkinson’s disease: features, pathogenesis and management

背景:過去いくつかの研究で、Parkinson病患者にはポリニューロパチー (多発神経障害; polyneuropathy)  が多いとされている。ポリニューロパチーを有する割合は、パーキンソン病患者で 38-55%と、コントロール群 8-9%に比べて多く、年齢、ビタミンB12低値、高ホモシステイン血症、メチルマロン酸レベルに比例する。ポリニューロパチーは L-dopa投与を受けていないパーキンソン病患者でも 5-12%に見られるが、マイスナー小体の脱落は治療患者にしかみられない。最近の研究では、病期の長さや重症度ではなく、L-dopaの投与期間においてポリニューロパチーとの強い関連が示唆されている。これまでの研究は、主に中等量の L-dopa摂取による慢性、軽度、感覚優位の神経障害を中心に行なわれてきた。一方で、L-dopaの十二指腸持続投与を受けた患者において、Guillain-Barre症候群に似た重篤な急性/亜急性ポリニューロパチーが報告されている。

方法:文献を検索し、レビューした。急性は 4週間以内、亜急性は 4~8週間以内に障害のピークがあるものと定義した。

結果:全体として、L-dopa十二指腸持続投与を受けた 14名が急性ポリニューロパチー、21名が亜急性ポリニューロパチーを発症した。少なくとも 9名の患者を含む研究では、急性ないし亜急性のポリニューロパチーの平均発症頻度は 13.6%だった。1名を除き、L-Dopa投与前に全員神経障害の症状はなかった。L-Dopa投与量は 1100-3800 mg/dayであり、発症までの治療期間は数週間から 29ヶ月の間だった。

【先行感染】急性ポリニューロパチーの 4名、亜急性ポリニューロパチーの 14名では先行感染は明確になかったと記されている。

【臨床的特徴】 Guillain-Barre症候群、急性炎症性ニューロパチー、急性感覚運動性ポリニューロパチーとして矛盾しないように思われる。

【検査所見】急性ポリニューロパチーの患者では、7名中 2名でビタミンB12, 6名中 5名で葉酸が低下し、9名中 6名でホモシステイン, 2名中 2名でメチルマロン酸が高値であった。亜急性ポリニューロパチーの患者では、10名中 3名でビタミンB12, 3名中 2名で葉酸、7名中 7名でビタミン B6が低下し、6名中 5例でホモシステイン, 3名中 1名でメチルマロン酸が高値であった。急性ポリニューロパチー 5名、亜急性ポリニューロパチー 4名では、抗ガングリオシド抗体は陰性であった。亜急性ポリニューロパチーの 2名では抗ガングリオシド抗体が陽性であったが、Ig isotypeや抗体価は示されていない。

【電気生理学的所見】急性ポリニューロパチー患者 6名で重篤な軸索性感覚運動障害が示された。4名では、軸索性と脱髄性の混合パターンだった。亜急性ポリニューロパチーでは、16名に軽度から重度の軸索性感覚運動ポリニューロパチーがみられた。2名では軸索性と脱髄性の混合パターンだった。1名に伝導ブロックがみられた。

【神経生検】急性ポリニューロパチー患者 2名のうち 1名では軽度の炎症浸潤を伴った軸索変性がみられた。亜急性ポリニューロパチー患者 2名では、有髄線維密度の減少と神経内膜浮腫がみられたが、炎症細胞浸潤や炎症性ニューロパチーを示唆する所見はなかった。

【治療と予後】急性ポリニューロパチー患者の大部分は、L-dopa十二指腸持続投与が中止された。7名が血漿交換、IVIgないしステロイドで治療され、2名で何らかの効果があった。4名はビタミン投与のみが行なわれ、1名は急速に改善、1名は何らかの効果があり、2名はそれ以上悪化しなかった。3-6ヶ月後に 2名が死亡した。亜急性ポリニューロパチー患者のうちビタミンB12/ホモシステイン/葉酸異常があった 10名はビタミン投与のみが行なわれ、大部分は 3ヶ月以内に改善した。5名の患者では、ビタミン投与を行いながら L-Dopa十二指腸持続投与を続たが、症状は改善するか横這いかであり、悪化はなかった。抗ガングリオシド抗体陽性の亜急性ポリニューロパチー患者 2名に対する IVIgや血漿交換は、効果がなかった。これらの患者では、L-dopa十二指腸持続投与中止後に、改善がみられた。1名の患者では、ビタミンB12投与がされていたにも関わらず、亜急性ポリニューロパチーを発症した。ビタミンB12値は正常範囲内だったが、ホモシステインやメチルマロン酸は測定されていなかった。

【L-Dopa経口投与中の急性ポリニューロパチー】

L-dopa高用量内服中の急性感覚失調性ニューロパチーが 2名報告されている。両者ともビタミンB12は正常範囲内だったが、ホモシステインやメチルマロン酸は測定されていない。1名に対して行なわれた IVIgは効果がなかった。1名は特別な治療を受けず、9年以上かけて悪化した。

【L-dopa十二指腸持続投与中の慢性ポリニューロパチー】L-dopa十二指腸持続投与を受けた 15名のうち11名に軽度から中等度の遠位部感覚低下があり、6名は日常生活に支障のある強い神経痛がみられた。電気生理学的な異常は、L-dopa投与量および治療開始からの体重減少に相関があった。

考察:L-dopa十二指腸持続投与で末梢神経障害が起きる理由は完全にはわかっていないが、著者らは 1-carbon pathwayの関与を疑っている (論文 Figure 1)。

(1) L-Dopaから Dopamineと 3-O-methyldopaが作られる過程で CH3が必要になる。これには、S-adenosyl-methionineから S-adenosyl-homocysteineが生成される過程で生じる CH3が使われる。

(2) 上記 S-adenosyl-methionine→ S-adenosyl-homocysteineの生成は “Methionie→S-adenosyl-methionine→S-adenosyl-homosysteine→Homocysteiene→Methionine” という経路の一部である。このうち、Homocysteine→Methionineでは、ビタミンB12が消費される。加えて、Homocysteineから Cysteineと Methylmalonic acid (メチルマロン酸) を生成する経路があり、ここでビタミンB6が消費される。

(3) L-dopaの代謝で CH3をたくさん必要とすれば、それだけ (2) の回路が多く回るので、ビタミンB12やビタミンB6の消費は多くなる。その結果、ビタミンB12欠乏やビタミンB6欠乏が起こり、末梢神経障害の原因となる。

この論文を読んで、L-dopaの十二指腸持続投与により Guillain-Barre症候群に似た末梢神経障害が生じるというのは初めて知りました。約 13.6%というのは結構な頻度だと思います。L-dopaとビタミンB12/B6の関係についても、非常に勉強になりました。

ちなみに、十二指腸持続投与に用いる薬剤 (ABT-SLV187) は、ヨーロッパではすでに発売されているようです。そして、clinical trials.govでチェックすると、日本と台湾で第三相試験が行なわれるところのようです (, )。いずれ日本でも発売されるようになるでしょうし、そうすれば目にかかることがありそうですので、知っておかないといけませんね。

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ホグウッド

By , 2014年9月25日 11:26 PM

私が大好きな指揮者クリストファー・ホグウッドが亡くなったそうです。彼との出会いは、15年以上前のモーツァルト交響曲全集の録音でした。その後、モーツァルトのクラリネット五重奏曲ベートーヴェンの全集の斬新な解釈に感動したり・・・。3年前の第九を初めて生で聴いたのが最後になりました。合掌です。

We regret to announce the death of Christopher Hogwood on 24 September 2014

September 24, 2014

Following an illness lasting several months, Christopher died peacefully on Wednesday 24 September, a fortnight after his 73rd birthday. He was at home in Cambridge, with family present. The funeral will be private, with a memorial service to be held at a later date.

 

・Mozart Symphony No.41, K.551 Jupiter 4th Mov. Hogwood AAM

・hogwood/Brandenburg Concerto No. 5, BWV 1050a-1

・Mozart-Requiem I Introitus_ Requiem aeternam Hogwood

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ベルリン滞在

By , 2014年9月19日 5:03 PM

ドレスデン~ライプツィヒを経由して、ベルリンに来ています。

ドレスデンでは、オペラ「愛の妙薬」を見ました。ライプツィヒでは、聖トーマス教会、バッハハウス、メンデルスゾーンハウス、シューマンハウス、ワーグナー博物館などを訪れ、楽器博物館ではカルテットを聴くことが出来ました。

ベルリンに来た初日は、オペラ「椿姫」を見に行きました。イタリア語の歌にドイツ語の字幕だったのですが、歌が素晴らしく、十分に楽しめました。

昨日は、医学博物館と森鴎外記念館を訪れました。それぞれ二度目の訪問になりますが、二十歳代で訪れたときと感じ方が違いました。夜はサイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィルの演奏を聴いて感動しました。初日はシューマンとブラームスの交響曲第一番でしたが、今日は第二番、明日は第三番、明後日は第四番と四夜連続で聴く予定です。

コンサート会場では、ヴァイオリニストの成田達輝さんらと会って、演奏会後に数名で音楽談義に花を咲かせました。

とても楽しい、音楽三昧の日々が続いています。

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Babinski反射の診断特性

By , 2014年9月10日 8:17 AM

Babinski反射は、神経内科医にとって最も興味をそそる身体所見の一つです。Babinskiが最初の報告をしてから 100年以上経過しますが、今なお謎に包まれた部分があり、近年においても多くの研究がなされています。

その中には面白い研究が多く、例えば脳死患者では、何故か Babinski反射が出ないそうです。

Absence of the Babinski sign in brain death: a prospective study of 144 cases. (Journal of Neurology, 2005)

脳死では、Babinski反射陽性の患者はいなかった。足底反応としては、約半数が無反応型で、約半数が底屈型。

また、完全な脊損状態においても、Babinski反射が出るのは半分くらいらしいです (この論文は、昔医局の抄読会で紹介しました)。

The Occurrence of the Babinski sign in complete spinal cord injury (Journal of Neurology, 2010)

①脊髄が完全損傷された患者では、Babinski反射は半数くらい陽性になる

②Babinski反射と筋緊張の亢進には密接な関係がある

③バクロフェンの髄腔内投与により Babinski反射は抑制され筋緊張は低下する

④Babinski反射の消失は、筋緊張低下がなければ末梢神経障害が疑わしい。

上記 2つの研究のように、Babinski反射は出そうな病態でも結構出ないものだというのは神経内科医の肌感覚と合うものでして、多くの神経内科医は「器質的疾患で出ないこともあるけど、出れば異常」と捉えていると思います。

そして、2014年8月15日に Journal of Neurological Sciences誌に報告された研究はそれを裏付けるものでした。

Accuracy of the Babinski sign in the identification of pyramidal tract dysfunction (Journal of Neurological Sciences, 2014)

錐体路障害に対する Babinski反射の感度は 50.8%で、特異度は 99%である

これは Babinski反射の診断特性を明らかにした素晴らしい研究だと思います。やはり、Babinski反射は感度はそれほど高くないけど特異度は非常に高いのですね。陰性でも錐体路障害を起こすような疾患の存在は否定できないものの、もし陽性であればそのような疾患を探すことが重要になります。

ただしこうした研究は、どういう状況でどういう患者を対象とするかで診断特性が大きく変わってくることが知られているので、その点は留意する必要があります。この研究が対象としているのは急性期の入院患者です。慢性期の患者ではもう少し感度が良くなるのではないかという印象を持ちますが、今後さまざまな clinical settingでの研究が出てくることを期待しています。

(参考)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (1)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (2)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (3)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (4)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (5)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (6)

神経学の源流 1 ババンスキーとともに― (7)

反射の検査

ナジャ

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多発性硬化症と塩分

By , 2014年9月9日 4:25 AM

JNNPに、塩分摂取量と多発性硬化症の活動性悪化には相関があるのではないかという論文が掲載されました (2014年8月28日 published online)。

Sodium intake is associated with increased disease activity in multiple sclerosis

塩分摂取量を尿中 Naなどから推定し、患者を少量摂取 (2 g/日 5 g/日未満)、中等量摂取 (2~4.8 g/日 5~12 g/日)、多量摂取 (4.8 g/日以上 12 g以上) にわけました。ビタミンDなど、影響を与えうる要因で多変量解析し、塩分摂取量が多量群では、少量群に比べ増悪率が 2.75~3.95倍になるという結果でした。著者らは、塩分が Th17細胞の分化を調節しているという実験結果がこの結果を説明するのではないかと推測しているようです。

ただ、日本で塩分摂取 2 g/day未満って、まず不可能ですよね・・・。塩分摂取の多い日本人で多発性硬化症の増悪が特に多いという印象はないので、この結果に再現性があるのか、追試を待ちたいと思います。

<訂正 (2014年11月5日)>

論文にある sodiumはナトリウムです。ナトリウムは食塩 NaClの 40%なので、塩分で議論するには 2.5をかけなければいけません。勘違いしていました。訂正致します。

 

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「科学者の楽園」をつくった男

By , 2014年9月7日 10:14 AM

『科学者の楽園』をつくった男 大河内正敏と理化学研究所 (宮田親平著, 河出文庫)」を読み得ました。今話題の理化学研究所の創設期の話が中心です。この研究所を「科学者の自由な楽園」と表現したのは、ノーベル賞を受賞した朝永振一郎です。

理化学研究所は、日本に基礎科学を根付かせようという目的で、大正 5年に設立されました。応用科学は基礎科学の上に成り立つもので、基礎科学が疎かであっては限界があるからです。これには、高峰譲吉や、彼を認める渋沢栄一が尽力しました。こうして設立された理化学研究所でしたが、資金難が続きました。そこで理化学研究所で開発されたものを商業化する流れが出来、ずいぶん研究費の助けとなりました。当初の主力商品はビタミンAであり、合成酒でした。やがて、商品が増えるに従い、さまざまな会社が設立され、コンツェルンとなっていきました。軍との取引も増え、太平洋戦争末期には原子力爆弾の開発研究もしていたようですが、必要な量のウランを入手できるための技術はなかったようです。戦後は新しい研究所として出直すことになりました。

本書を読んでいてとにかくワクワクするのは、有名な科学者がたくさん登場し、彼らの顔が見えるような描写がたくさんあることです。高峰譲吉、池田菊苗、長岡半太郎、寺田寅彦、鈴木梅太郎、仁科茂雄、朝永振一郎、湯川秀樹・・・。その他、田中角栄や武見太郎といった有名人もたくさん登場します。

STAP細胞の問題で揺れている理化学研究所ですが、綺羅星のごとく活躍した科学者達にとってどれほど素晴らしい研究所であったのか、是非一度読んでみて頂きたいです。

以下備忘録。

・グルタミン酸が「うまみ」の素であることを明らかにした池田菊苗は、ロンドン時代、夏目漱石の下宿先にお世話になったことがあった。

・池田菊苗は「研究の先鋒になって指導していく力がおとろえてきたと感じたら、新進気鋭の人に席をゆずって、自分のできることをするべきである」といい、定年の一年前に大学を退いた。

・明治時代、大学の予算には研究費はなく、教員たちは学生のための実験費をかすめて研究をするほかなかった。

・当時の日本では基礎科学が極めて疎かにされていた。これを改善しようと、1913年6月23日、築地精養軒に渋沢栄一らが集まった。そこで高峰譲吉が「国民科学研究所設立について」という大演説をぶち、研究所設立に向けて運動を始めた。

・高峰譲吉はアメリカでウイスキーの効率的な醸造法を開発して特許をとった。それがモルト業者に脅威を与え、彼の製法を取り入れた工場は放火され、会社は突然解散した。その頃、高峰は肝臓病で死線を彷徨っていた。妻カロラインはみずから奔走して列車を自宅前に停車させ、瀕死の夫をシカゴにともなって手術を受けさせた。

・理化学研究所は、当初「化学研究所」となる予定だったが、カテゴリーが小さすぎるため物理も加えて「理化学研究所」となった。

・理化学研究所の初代所長は菊池大麓が就任した。しかし、彼は就任後五ヶ月で急逝した。次は古市公威がその任についた。ところが物理部と化学部の対立により、物理部長の長岡半太郎と化学部長の池田菊苗が辞表を提出し、古市も健康上の問題を理由に辞任した。渋沢栄一は山川健次郎を三代目所長にしようとし、原敬首相までのりだして山川を説得したが、山川は固辞した。山川が代わりに推薦したのが、貴族院議員の大河内正敏だった。大河内正敏は寺田寅彦と親交があった。

・大河内正敏は、大正天皇の皇太子時代の御学友で、明治天皇に可愛がられ、膝の上に乗せられたことがあった。

・大河内正敏は、漱石の『坊っちゃん』の主人公が学んだことになっている東京物理学校の校長をしていた。

・大河内正敏が三代目所長に就任したとき、物理部と化学部は対立していた。そこで彼は化学部と物理部を解消し、部長という職制もとりはずし、主任研究員制度を設立した。予算は研究室ごとに割り当てられ、主任はその予算内で室員の給与と研究物件費をまかなったが、配分をどのようにするかは裁量にまかされた。初代主任研究員は、長岡半太郎、池田菊苗、鈴木梅太郎、本多光太郎、真島利幸、和田猪三郎、片山正夫、大河内正敏、田丸節郎、喜多源逸、鯨井恒太郎、高嶺俊夫、飯盛里安、西川正治であった。

・喜多源逸が京都大学に転出した後、福井謙一がその門下に加わった。

・朝永振一郎が所属していた仁科芳雄の研究室では、全員にアダ名をつけて呼び合っていた。仁科は「親方」もしくは「パイパン (顔が白いため)」、朝永は「シャコ」と呼ばれていた。

・朝永振一郎の下宿には、彼の父が親友の西田幾多郎に「古人刻苦光明必盛大」と揮毫してもらった掛け軸があったが、朝永は終始叱られている気がするとして返してしまった。

・朝永振一郎の友人小川秀樹は、湯川家に婿入りして湯川秀樹となった。妻は、夏目漱石が胃潰瘍で入院した胃腸病院長である湯川玄洋の娘スミだった。彼女は漱石の『行人』の中でモデルとして描かれている。

・田中角栄は 1934年3月27日に、新潟県柏崎駅から上京してきて、翌日に大河内正敏の家を尋ねたが、会うことができなかった。しかし、その後設計士となって仕事を続けていたある日、エレベーターの中で大河内正敏と会ったことがきっかけで、交流が生まれた。

・理研の三太郎 (3人の太郎) の一人、本多光太郎は、冶金学の権威だった。彼は昭和 6年に東北帝大総長となったが、教育勅語を読むと誤読だらけだった。誤字が多く、昭和を照和と書くこともあった。一方で理財感覚はあり、太平洋戦争で仙台が火の海になったとき、「すぐ大学周辺の土地を買い占めよ」と指示したと伝えられている。

・保険外交員であった市村清は、理研感光紙の販売代理業の契約を理研に求めたが、ケンもホロロにされた。そこで理研コンツェルンのトップである大河内正敏に直談判し、認められた。市村は大河内のもとで数社の役員を務めるとともに、カメラ会社の旭光学を合併して理研光学という会社の社長になった。理研光学が、のちのリコーである。

・後に日本医師会会長となる武見太郎は、寺田寅彦を愛読していた。慶応大学の内科では、煙たがられ干されていたが、北大や東大などで診断がつかず苦しんでいた中谷宇吉郎の病気が肝臓ジストマ (肝吸虫) だと診断をつけ、アンチモン療法で全快させた。中谷宇吉郎を武見太郎に紹介した岩波書店社長の岩波茂雄らも後に肝臓ジストマであることが判明したが、これはある料亭で寒ブナを食べたメンバーだった。この件を契機に、武見は仁科茂雄に紹介された。最終的には仁科に誘われて、慶応大学をやめて理研に就職した。

・仁科研究室では放射性物質を扱っていたため、白血球減少症を呈する研究者がおり、武見は豚の肝臓から抽出したペントースヌクレオチドを治療に用いた。後に、広島、長崎に米軍医療団が持ち込んだのも、ペントースヌクレオチドだった。

・武見太郎は、昭和 12年の支那事変のときから世界戦争を予測し、水の心配のない疎開地を求め、そこに本を送り母を住まわせていた。太平洋戦争では、それが役に立った。

・武見太郎は、高峰譲吉の弟の家に出入りをしていて、その紹介で枢密顧問官南弘を治療した。南弘の人脈から牧野伸顕の次女の娘と見合い結婚した。そこで、吉田茂と姻戚関係が生じた。

・広島に原爆が落とされた後、仁科は現場に調査に赴いた。赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果黒くなったことから、放射線が照射されたことは間違いなく、原子爆弾と推測した。

・戦後、大河内正敏は戦犯として、科学者では最初に逮捕命令を受けたが、昭和 26年に追放指定解除を受けた。

・戦後、朝永振一郎は弾道試験用の細長いトンネル中に住んでいた。「長多時間理論」で朝日文化賞を受け、賞金のおかげで畳を敷くことが出来た。

・昭和 21年に理系コンツェルンの解体命令が出された。昭和 23年3月に、理研は株式会社科学研究所と名前を変えて発足した。資金を稼ぐ必要があり、仁科はペニシリンの生産を目指した。昭和 30年には、科研を半官半民の特殊会社にすべく、「株式会社科学研究所法」が提出された。しかし収支が悪く、「理化学研究所法」を成立させて、昭和 33年10月に特殊法人理化学研究所が誕生した。初代理事長は長岡半太郎の長男長岡治男だった。昭和 38年に理化学研究所は和光市に移転した。

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