Category: 医学/医療

愛され指導医になろうぜ

By , 2015年7月2日 3:17 AM

愛され指導医になろうぜ 最高の現場リーダーをつくる (志水太郎著, 日本医事新報社)」を読み終えました。著者とは 2回ほど一緒に食事をしたことがありますが、人柄が素晴らしいです。

志水先生は日本の 200以上の病院で勤務した経験があるそうで、さらに米国やカザフスタンなど海外での指導経験も豊富です。医師としてのキャリアを始めたのは私より遅いのに、その後の歩みは次元が違いますね。

まず第一章で紹介されている「リーダーシップは生まれ持った特性ではなく、その振る舞いを意味する」という John Kotter教授の言葉を読んで、「これはきちんと学ばなければ」と背筋が伸びました。後天的に獲得するものである以上、それを学習するための努力が必要です。

本書は具体例が豊富です。様々なシチュエーションが記されており、それにどう対処すべきかがわかりやすく書かれています。自分が過去に行ってきた指導を思い出し、冷や汗を掻きながら読みました。もっと早くこの本に出会っていれば良かった・・・。

後輩の教育に携わるような、後期研修医以上の医師にオススメの本です。

Post to Twitter


fever

By , 2015年6月20日 1:07 PM

Fever 発熱について我々が語るべき幾つかの事柄 (大曲 貴夫, 忽那 賢志, 國松 淳和, 佐田 竜一, 狩野 俊和著, 金原出版)」を読み終えました。

「発熱」というコモンな症状から疾患を捉えた面白い本です。感染症や自己免疫疾患など、発熱を来す疾患のエキスパートたちが、どのような点に気をつけて診療すべきか、豊富な診療経験をもとに語ります。あまり教科書のように系統的ではなく、先輩医師が「こんなことに気をつけておいた方が良いよ」とか「こういうときにはこうしたら良いよ」と教えてくれるよう雰囲気を持った本でした。

Post to Twitter


ドイツ精神医学の原点を読む

By , 2015年6月10日 6:26 AM

ドイツ精神医学の原典を読む (池村義明著, 医学書院)」を読み終えました。

精神医学と神経学は、医学の中ではかなり近い分野です。歴史的には、両者が統合されていた時代もあるくらいで、現代でもピック病やアルツハイマー病、てんかんなどは神経内科でも精神科でも診療しています。しかし、神経学が一般内科との関係を深めていくにつれて、両者の距離は遠くなっています。

神経内科でも精神科でも診療する疾患を、精神医学ではどう捉えてきたのか、興味があったので本書を読みました。

序章 ドイツ神経学・精神医学の原点を求めて

第1章 ピック病

第2章 アルツハイマー病

第3章 ヤーコプ・クロイツフェルト病

第4章 パラノイア

第5章 単一精神病論への反証

第6章 外因性精神病の成立

第7章 メスメリスムス

第8章 アスペルガー症候群

目次を見るとわかる通り、ピック病、アルツハイマー病、クロイツフェルト・ヤコブ病は普段神経内科で診療する疾患です。また、外因性精神病も、原因検索を依頼されることが多いです。こうした疾患の原著と歴史的背景が本書に詳述されていて勉強になりました。特にアルツハイマー病については、アルツハイマーの伝記を読んだばかりだったので、タイミングが良かったです。クロイツフェルト・ヤコブ病については、ヤコブがここまで詳細に疾患を記載していたことを初めて知りました。

以下備忘録。

・Rombergは Neurologie (神経学) という概念を提唱した最初の人であった。(9ページ)

・Psychiatrieという用語を最初に用いたのは J.C.Reilである。(14ページ)

・Griesingerはベルリン大学の招聘を受け、1865年4月1日から職務についた。その際、Rombergの講座を吸収することを認められた。この時、彼は精神病患者と神経内科の患者を 1つの科で診る精神・神経科 (精神神経科) という統合単科をベルリンに誕生させた。(21ページ)

・Pickは 1872-1874年まで、ヴィーン大学神経精神科部長であった Theodor Meynertの学生助手を務めた。そこには数年年長の Carl Wernickeもいて、2人とも Meynertの薫陶を受けた。(33ページ)

・アルツハイマーが診ていたアルツハイマー病の 2例目ヨハン・F。1907年12月8日の記載に「血中ならびに髄液中のワッセルマン反応陰性。脳脊髄液 1 cc中、細胞 1個」 (※アルツハイマーの時代には髄液検査は普通に行なわれていた) (79ページ)

・Creutzfeldtと Jakobは互いに関係なく、しかも偶然にもほとんど同時に症例に出会い観察をおこなった。両者ともアルツハイマーの弟子であった。ドイツの文献や医学辞典には Jakobが筆頭に来ている。専門誌掲載は Jakobが 1年後になっているが、彼は Creutzfeldtに先んじて専門学会発表しており、論文は前もって書き終えていた。(91ページ)

・一方の脚を針で指すと他方を引っ込める (Allästhesie: 知覚刺激の体側転倒のこと)。(96ページ)

・「患者は呼びかけや手を叩くと応じる。驚き体をピクッと動かす」 (96ページ) →驚愕反応が既に原著に記されている?

・Jakobは組織学的検討を含め、詳細に数例を纏め、81ページの論文にした。そして過去の類似症例を検討し、そこで Creutzfeldの症例に触れた。この疾患を一つの疾病単位と提唱したのは Jakobの業績である。(109ページ)

・外因性症状複合体という構想を引き出し、それを内因性と対置させた Bonhoefferは Wernickeの弟子であった。(196-197ページ)

・リエゾンという言葉が流行っているが、精神医学を医学的医療の中に統合するという思想はすでに 19世紀半ばから W. Griesingerが強く主張していた。(241ページ)

・訳者は Aspergerを読み始める前に、極めて不純な動機から症候群と犯罪との間に生臭い関係を予想していたが、期待はみごとに裏切られ、著作の全編を通じて、児童に対する Aspergerの愛情と擁護を感じたにすぎなかった。つまり、Aspergerはその原著の中では少年の犯罪傾向 (の有無) には一切触れていない (275~276ページ)。

Post to Twitter


アルツハイマー

By , 2015年5月1日 10:25 PM

アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の奇跡 (コンラート・マウアー/ウルリケ・マウアー共著, 新井公人監訳, 喜多内・オルブリッヒ ゆみ/ 羽田・クノーブラオホ 眞澄訳)」を読み終えました。

この本は、東京時代の医局の学問仲間有志が私の送別会をしてくれたとき、先輩がプレゼントしてくださいました。背表紙には、その送別会の参加者全員が寄せ書きをしてくれて、「先生には色々と教えて頂きました。下ネタも含め、勉強になりました」など、心温まるコメントがたくさんありました。

思えば、神経内科医の多くは外来ではしょっちゅうアルツハイマー病の診断を下しているのに、この疾患の歴史も、そしてアルツハイマーのこともほとんど知りません。ちゃんと知っておく必要があるという、先輩からのメッセージなのでしょう。バタバタしていて、頂いて 1ヶ月ほど経ちましたが、やっとこうして内容を纏める時間が取れました。アルツハイマーの人脈の広さ、研究範囲の広さ (アルツハイマー病で知られていますが、神経梅毒の研究で素晴らしい仕事を残しています) など、初めて知ることが多くて色々と新鮮でした。本書から抜粋して、彼の生涯を簡単に纏めます。

1864年6月14日、アロイス・アルツハイマーはエドゥアルド・アルツハイマーとその妻テレージアの次男として生を受けました。生家はマルクトブライトのヴュルツブルク通り 273番地でした。10歳の時、アルツハイマーは教育上の都合でアシャッフェンブルクに引越しました。1882年、アルツハイマーの高等学校卒業試験の一年前に、母が 42歳で亡くなりました。アルツハイマーはコッホに憧れ、高等学校卒業後の 1883~1884年、ベルリンに旅立ち、フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の職員・学生として登録されました。その際に、ゴッドフリード・フォン・ワルダイエル教授の講義と解剖実習に出席しました。1884年夏からはヴュルツブルク大学で学びました。1886年10月にテュービンゲンのエーベルハルト・カール大学に移りましたが、1887年に再びヴュルツブルク大学に戻り、1888年、医師国家試験に「最優秀」の成績で合格しました。

「アッフェンシュタイン精神病者の城」とも呼ばれたフランクフルト市立精神病・てんかん病院 (フランクフルト精神病院)  の初代院長は、絵本作家としても知られているハインリッヒ・ホフマンでした。ホフマンが 79歳で病院を退いた後、エミール・シオリが就任しました。シオリは 254人の患者を一人で抱え込むほど多忙でした。人手不足ということもあり、アルツハイマーの願書が届いたその日に、シオリは電報で採用通知を送り返しました。アルツハイマーは 1888年12月19日に助手として採用されました。そしてまもなく、1889年3月18日に、フランツ・ニッスルが主任医師として赴任してきました。ニッスルはニッスル小体、ニッスル染色などに名を残しています。ニッスルとアルツハイマーは仲が良い仕事仲間でした。

アルツハイマーは 1894年にヴィルヘルム・エルプ (Erb点などで有名) からの依頼で、ダイヤモンド卸売業者オットー・ガイゼンハイマーの診察をすることになりました。ところが、ガイゼンハイマーは、アルツハイマーがドイツに連れて帰ろうとする途中で息を引き取りました。アルツハイマーが未亡人のセシリー・シモネッテ・ナタリエ・ガイゼンハイマーの世話をしているうちに、二人は結婚することになり、アルツハイマーの親友であるフランツ・ニッスルが立会人の一人となりました。ニッスルはアルツハイマー夫妻の娘ゲルトルーデの洗礼立会人でもあります。しかし、1901年、セシリーは扁桃炎から関節や腎臓の障害をきたし、死亡しました。フリッツ・クリムシュが、後にアルツハイマーも眠ることにもなるフランクフルト中央墓地の墓を制作しました。クリムシュはウィルヒョウの記念碑を委託されたときも、セシリーの墓石とよく似たものを制作したそうです。奇しくもアルツハイマーが、最初のアルツハイマー病患者「アウグスト・D」と出会ったのも、この 1901年でした。

アルツハイマーは、1901年にハイデルベルクで員外教授になっていたニッスルの誘いもあり、1903年3月にフランクフルト・アム・マイン市立精神病院の第二医師を辞職。ハイデルベルクのクレペリンの元に移りました。そしてクレペリンがミュンヘンから招聘を受けたので、同年10月にミュンヘンに向かいました。ミュンヘンでは、三人の子どもと、妻の代わりに子供の面倒を見ていた妹のエリザベート「マーヤ」と同居しました。マーヤは、1909年7月1日ツェッペリンの飛行船の乗員のひとりとして、約 12時間の飛行に参加したそうです。アルツハイマーがミュンヘンで教授資格論文に取り組んでいた時代、精神病院に入院する患者の約 3分の 1が梅毒による進行麻痺でした。

1906年4月9日、フランクフルト精神病院の研修医がアルツハイマーに電話をかけ「アウグステ・Dが昨日亡くなった」ことを伝えました。アルツハイマーはかつての上司シオリにカルテ、脳を提供して欲しいと頼み、1906年11年テュービンゲンで開催される第 37回精神科医学会でこの症例を発表することにしました。アルツハイマー、ペルシーニ、ボンフィグリオによる分析の結果、大脳皮質全体に斑状の独特な物質代謝産物の沈着が認められ、血管の増生が確認されました。アルツハイマーはこれを単に plaques “斑” と記載しました (“訳者註:アルツハイマー病の病理学的特徴の一つである老人斑を指している。老人斑は、ブロックとマリネスコにより一八九二年に記載された。本書に見られるようにアルツハイマー自身は単に Plaquesと記載しているので「斑」と記す。また、アルツハイマーはレンドリッヒが一八九八年に老人斑という語を最初に記載したと述べている”)。この学会には、ビンスワンガー病に名を残したビンスワンガーや、クルシュマン―シュタイネルト病 (筋強直性筋ジストロフィー) に名を残したクルシュマン、デーデルライン桿菌に名を残したデーデルライン、その他メルツバッハ―、ユング、ガウプ、ブムケなどが参加していました。アルツハイマーの発表後、質問は一つもなく、会議録には「短い研究報告には適していない」と記されました。しかし、講演の全文は 1907年、「精神医学及び司法精神医学」に “大脳皮質の特異な疾患について” というタイトルで発表されました。アルツハイマーは、1907年に亡くなった B・Aや Sch.L、1908年に亡くなった R・Mにも斑を見つけました。

1912年、アルツハイマーはブレスラウのシレジア・フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の精神科正教授として招かれました。1912年8月にアルツハイマーはミュンヘン中央駅からブレスラウに旅立ちましたが、旅路で病に倒れました。クレペリンは「新しい勤務地に向かう途中、腎炎及び関節炎を伴った感染性扁桃炎にかかり、それ以降立ち直ることはなかった」と述べています。アルツハイマーが赴任した病院の初代院長はハインリッヒ・ノイマン、二代目院長はカール・ウェルニッケ、三代目院長はカール・ボンヘッファーで、アルツハイマーが四代目でした。アルツハイマーの同僚の一人はオットフリード・フェルスターであり、晩年レーニンを治療するためにロシアに派遣され、その主治医となりました。また別の同僚は、後にアルツハイマーの娘婿となるシュテルツでした。シュテルツはノンネ・マリーの下で助手を務めたことがありましたが、ノンネはノンネ―マリー病 (現在のマシャド・ジョセフ病) に名前を残した神経科医でした。

1915年12月19日、アルツハイマーは家族に囲まれて 51歳の生涯を閉じました。

本書は、人物の写真、病理標本のスケッチ、アルツハイマーが使用していた道具の写真など、資料が豊富ですし、文章が読みやすいです。帯に「伝記」と書かれている通り、医学的知識のあまりない一般人でも普通に読むことができます。アルツハイマーに興味を持った方は、是非読んでみて頂きたいと思います。

以下、備忘録として覚えておきたい部分を抜粋しておきます。

・アウグステ・Dや他の多くの不安定な患者の治療に際して、睡眠薬は、しかし、非常に重要であった。医師は患者に二~三グラムの抱水クロラールを与える。それはある程度意識の混濁をもたらすが、より持続的で静かな睡眠を約束するのである。抱水クロラールを受け付けなくなると、精神病院ではパラアルデヒドを用いる (※当時の医療)。 (43ページ)

・エドゥアルド (※アルツハイマーの父) は一年間喪に服した後、亡くなった妻の妹と結婚した。(51ページ)

・この生家 (※マルクトブライトにあるアルツハイマーの生家) は、アメリカの製薬会社イーライリリー社が購入した後、本書の著者ウルリケ・マウラーの指導の下に改修された。一九九五年一二月一九日、アロイス・アルツハイマーの没後八〇年を記念して一般公開され、現在、記念博物館として、また、医学セミナーなどのセンターとして利用されている。 (51-52ページ)

・アルツハイマーがベルリンにやってくる直前の一八八二年に、コッホは人型結核菌を発見したのである。結核は今日、西側諸国ではあまり見られなくなったが、この時代には重大な病気の一つであり、人々を脅かした。一八八〇年当時、ドイツでは死者の七人に一人は結核で亡くなり、一五歳から四〇歳までに限ると二人に一人がこの病気に罹患して死亡した。 (62ページ)

・(ヴュルツブルク大学時代) アルツハイマーにとって重要だったのは、彼に顕微鏡の魅力的な世界を紹介した組織学者、アルベルト・フォン・ケリカー教授との繋がりを作ることであった。ケリカー研究所には後日ノーベル賞を受賞したアルフォンソ・コルチとフランツ・フォン・ライディッヒ等の有名な研究者が働いていた。彼らは器官と細胞組織に自らの名前を付与した。すなわち、内耳の蝸牛にある感覚器官であるコルチ器と、男性ホルモンを分泌する睾丸にあるライディッヒ間質細胞である。 (66-67ページ)

・彼 (※アルツハイマー) は好きな自然観額を断念することができなかったため、フリードリッヒ・コールラウシュのもとで物理を聴講した。彼 (※コールラウシュ) の名は電気工学のパイオニアとして有名で、コールラウシュの法則と呼ばれる電解質の当量伝導率を定める法則を発見した。 (67ページ)

・(アルツハイマーは) ヴュルツブルク時代には、賭けに負けて冬のマイン川を泳ぎきったことで有名であったが、テュービンゲンでは、夜中に警察署の前でどんちゃん騒ぎをしたため三マルクの罰金を科せられ、大学の会計に支払った。 (69ページ)

・標本作製に当たり、当時フランクフルトに病理学の分野で二人の一流の研究者がいたことはアルツハイマーにとって大きな助けになった。一人はカール・ワイゲルト、もう一人はルードヴィッヒ・エディンガーである。ワイゲルトは一八八五年四月一日よりフランクフルトのゼンケンベルク病理学研究所の所長であった。最新の優れた組織病理学の研究方法を学びたい者は、ワイゲルトがいる病理学研究所を訪れなければならなかった。そこでは最良の「割断と染色」法を学ぶことができた。アニリン核染色法をはじめ、多くの染色方法の発見は彼に負うこと大である。(102ページ)

・一九世紀最後の年のフランクフルト精神病・てんかん病院の発展については次のように報告されている。「ここ数年は院長を除いて四人の医師が常勤していたが、医師一人で八五名の入院患者と二四〇名の外来患者を診察していたことになる」 (130ページ)

・睡眠薬や鎮静剤が必要な場合、トリオナール、パラアルデヒド、クロラールが使用された。てんかん患者には臭素塩、また、アヘンと臭素を混合したフレクシッヒ療法がよく用いられ、うつ病にはアヘンとヒオスチンが頻繁に使われた。ヒオスチンはアヘンアルカロイドの一種で、通常皮下に注射され、特に高度の不穏患者や観念奔逸患者に用いられた。 (144ページ)

・(ニッスルの元上司で、国王ルードヴィッヒ二世とともに湖で溺死した) フォン・グッデンの解剖学質教室では、ニッスルと共に S・J・M・ガンザ―も働いていた。いわゆる仮性痴呆はガンザーの名に因んで、後日ガンザ―症候群と名付けられた。患者は、耐えられない状況に陥ったとき、窮地に陥って間の抜けた話をし、見当外れの態度をとり、無知と見せかけ、まるで精神病患者のような反応を示す。フォン・グッデンの研究室では、エミール・クレペリンも一八八四年から一八八五年まで勤務していた。 (161ページ)

・病院内でも、アルツハイマーはどんなに仕事に集中していても、冗談を受け止め、洗練されたユーモアのセンスを持っていた。孫の一人は次のように話している。「それは、ミュンヘンのヌスバウム通りにある病院の謝肉祭でのことでした。突然一人の貧しい行商人が現れました。彼はおもちゃを一杯入れた箱を首から掛けて、中の商品を売ろうとしました。しかし、そこは商売禁止で、病院の従業員は怒って営業禁止を言い渡し、アルツハイマー教授を呼んでくると言ってほどしました。ところが、『その必要はない』と行商人がいたずらっぽく笑うのです。そして仮装を脱ぎ始めると、皆は大笑いせずにはいられませんでした。アルツハイマー教授自身が行商人だったのです。おもちゃは小児患者に配られました。プレゼントすることは彼にとっていつも大きな喜びだったのです」 (192ページ)

・(ミュンヘン時代の) アルツハイマーの生徒の中には、後にその分野で有名になった学者が多くいる。スペイン人の N・アチュカロ、イタリア人のフランシスコ・ボンフィグリオ、そして、アメリカ人のルイズ・カサマジョアなどもその中に入っている。ボンフィグリオは一九〇八年に初老期痴呆の症例を発表しクレペリンの興味を引いた。イタリア人のウーゴ・ツェルレッティは一九三八年 L・ビニとともに、痙攣を誘発する電気ショックで初めて電撃療法の時代を開拓して世界的に有名になった。一九三六年、彼はローマ大学精神神経科教授となった。他にも世界的に有名になった研究者にハンス―ゲルハルト・クロイツェルトとアルフォンス・ヤコブがいる。後にこの二人の名前を取ってクロイツフェルト―ヤコブ病と名付けられた病気は、プリオン病の一種である。この病気はチンパンジーに伝染し、潜伏期間一年を経て症状が現れる。ダニエル・ガイジュセックはこの発見で、一九七六年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。コンスタンティン・フォン・エコノモ・フォン・サン・セルフ男爵の名は、第一次世界大戦後に広がった流行性脳炎に付与された。その後、彼は中脳に “睡眠調節中枢” を発見している。F・ロトマーはスイス出身で化学実験室を指導した。テュービンゲンとブエノス・アイレス研究したルードヴィッヒ・メルツバッハ―はペリツェウス―メルツバッハ―病を発見した。F・H・レビーの名から、パーキンソン病で重要な役割を果たす “レビー小体” の名が付けられた。特に強調しなくてはならない人物はガエタノ・ペルシーニである。彼はアルツハイマーと共同研究をし、共著も出版した。有名なアウグステ・Dの症例は、一九〇九年ペルシーニによって大変詳細に再発表された。彼は “アルツハイマー” の名称が全世界に広まるのに大きな貢献をした。(中略) 偶然にも、彼らは死亡日もほぼ同じという共通点がある。ペルシーにはアルツハイマーが亡くなる一週間前、第一次世界大戦で負傷した兵を助けようとして自分も致命傷を負い、一九一五年十二月八日に三六歳の若さで亡くなった。 (194-196ページ)

・(※クレペリンは自らが主催した生涯教育コースについて) 「コースの中心は私が企画した臨床講義であったが、その他、アルツハイマーが精神病の病理解剖学について、テュービンゲンのブロードマンは大脳皮質の局所解剖について、ベルリンのリープマンとチューリッヒのモナコフは交互に局在問題を、リューディンは遺伝と変性の学説を、プラウトは血清学、アラースは代謝検査を解説した。その間、私自身は臨床実験精神医学の概略を述べた。このコースの参加者は四〇~五〇任に達し、大半は外国人の参加者で占められていた。彼らはこのコースに大変満足した。」 (202ページ)

・アルツハイマーは経験豊かな神経科医であった。穿刺針を用いて脳脊髄液を採取する腰椎穿刺の手技に習熟しており、「形態上の相違を見分けるために、脳脊髄液中の細胞を満足のいくように固定する」ことの難しさを知っていた。彼は一九〇七年、神経精神医学中央雑誌に「脳脊髄液中の細胞成分固定のための方法論」として、研究成果を発表した。彼が存在を予想していた形質細胞がハッキリと確認された。(209ページ)

・マドリッド出身の組織病理学者で、当時ワシントンの国立精神病院の研究室で客員医師として働いていたゴンザロ・R・ラフォラ博士は、米国人のアルツハイマー病初報告を記載している。 (310ページ)

・一年後 (※1926年) にグリュンタールは「老年痴呆に関する臨床病理学的比較研究」と題する別の発表を行った。七〇歳以下を対象に入れなかったが、それは真のアルツハイマー病患者が含まれないということである (※アルツハイマー自身は、アルツハイマー病を若年性痴呆として報告していたため)。またもやグリュンタールは殆ど予言的な結論に達している。「アルツハイマー病に対する鑑別診断に関しては組織学的な相違はほとんどないと言える。臨床的にも老年痴呆のある例では、年齢的な違いを除いて、軽度および中等度のアルツハイマー病と全く区別することができない。しかし、アルツハイマー病では言語障害―特に喚語困難―がしばしば初期症状となるが、老年痴呆では重度の場合でも稀にしか出現しないという本質的な相違はあるように思える」 (315ページ)

・「アルツハイマー病」の病名が世界的に容認された一九八〇年半ばになっても、アウグステ・Dの診断を疑問視する声があった。その多くは、動脈硬化症か、または稀な神経疾患ではないかと推測するものであった。しかし一九九八年四月のフルクフルター・アルゲマイネ紙の学術欄の中で、アロイス・アルツハイマーの正当性が立証された。「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断に誤りはなかった。彼が診断したアウグステ・Dは、実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた。マルティンスリードの研究者は、ずっと行方不明になっていた脳標本を最近偶然発見した。その標本には特徴的な神経原線維変化とアミロイド斑が見られた。血管性痴呆の徴候はなかった。」 (334ページ)

Post to Twitter


症例から学ぶ 輸入感染症 A to Z

By , 2015年4月28日 9:44 PM

症例から学ぶ 輸入感染症 A to Z (忽那賢志著、中外医学社)」を読み終えました。普段見かけることの稀な輸入感染症は私の苦手な分野ですが、どのように診療を進めていけばよいのかがとてもわかりやすく解説されていました。本書は、指導医と弟子の会話形式を取っており、あちこちに散りばめられたギャグが秀逸で、勉強している感覚なく気が付いたら読み終えていました。初学者でも楽しめて、かつレベルが高い、お薦めの本です。

Post to Twitter


認知症と生きるということ

By , 2015年2月26日 7:09 PM

認知症と生きるということ (岩田誠著、日本評論社)」を読み終えました。

認知症について、症候や病理学的な内容の教科書は沢山あります。しかし、患者さんの個々の症状をどう捉えるか、どのように介護したらよいかを教えてくれる本はあまりありません。本書は豊富な実例を通してそれを教えてくれます。実際に認知症の患者さんと真摯に向かい合ってきた医師にしか書けない本だと思います。

実際に認知症の患者さんを介護されている方や、介護者にアドヴァイスする立場の医療従事者に、是非読んで頂きたい本です。

Post to Twitter


本当にあった医学論文

By , 2015年1月25日 9:51 AM

本当にあった医学論文 (倉原優著, 中外医学社)」を読み終えました。「呼吸器内科医」のブログ主が書いた著書です。「横行結腸でゴキブリを発見!?」「醤油の一気飲みで血清ナトリウム値が 196 mEq/L!」「ココナッツは意外にも頭に落ちてくる」「3匹のトラの襲撃から生還した男性」「グラスの形で飲酒のペースが変わる」といった、役に立つのか立たないのかわからない医学知識が満載です (^^)

Post to Twitter


診療ガイドラインのための GRADEシステム

By , 2015年1月14日 6:43 AM

診療ガイドラインのための GRADEシステム -治療介入-  (相原守夫, 三原華子, 村山隆之, 相原智之, 福田眞作著, GRADEワーキンググループ, 凸版メディア株式会社)」を読み終えました。

近年、ガイドラインの作成において、GRADEシステムという言葉を聞く機会が増えました。GRADEシステムによるガイドライン作成の全体的な流れを大雑把に記せば、

クリニカル・クエスチョンの作成 (例:みぐのすけは引っ越すべきか?)→アウトカムの種類と重要性を評価 (①引越し後、一時的に部屋が整理された状態になる(重要度 9点), ②引越し費用がかかる (重要度 6点), ③気分転換になる (重要度 5点))→エビデンス・データの検索とデータの抽出・統合→エビデンスの質の評価→価値や好みの考慮・コスト等を検討 (金が無いので推奨度を 1段階下げる)→推奨度を作成する

といった感じになります。このようにして GRADEシステムで作成されたガイドラインが優れているのは、作成プロセスが明示的であるところだと思います。ガイドラインを見ながら、「何故このデータでこの結論になるのかわからん。」と感じることもあるのですが、GRADEシステムが利用されていれば、どういう根拠で推奨度が決定したか明確なので、こういう心配は減ります。今後は、GRADEシステムで作られたガイドラインが主流となるのでしょうね。

(参考)

GRADEシステムと診療ガイドライン

GRADE*を利用した国内の診療ガイドライン

 

Post to Twitter


動物に「うつ」はあるのか

By , 2015年1月11日 1:26 PM

動物に「うつ」はあるのか 「心の病」がなくなる日 (加藤忠文著, PHP新書)」を読み終えました。このようなタイトルがついていますが、著者は「動物にうつはあるのか」を議論するための土台として、「精神疾患とは何か」あるいは「どうやって動物が精神疾患であることを判断するのか」といった問いを投げかけつつ、ヒトの精神疾患に話を進めていきます。「精神疾患の診断はどのようにくだされているのか」「現在どのような戦略で研究が行なわれているのか」など知りたい方にとって、本書はお勧めだと思います。

著者は、臨床医でありかつ基礎研究者であり、臨床研究と基礎研究の違いをわかりやすく述べていました。広報についても両者は違うようで、これが基礎系の科学ニュースを見て「ちょっと盛りすぎだろ」と感じる私にとって、理解しやすい説明となっていたので、引用しておきます。

雑誌投稿だけではなく、一般向けの発表のときの説明のやり方も、臨床研究と基礎研究では違うと感じます。臨床研究の成果というのは、なにしろ直接、患者さんに関係があるだけに、とにかく過大なことをいわないよう、最大限の注意を払って発表することになります。

たとえば、臨床サンプルを使って、この分子がこの治療法の開発に役立ちそうだというときでも、「治療法解明に一歩前進」とか、「新たな治療法の開発のめどが立った」などというと、ひょっとしたら患者さんたちにありもしない希望をもたせてしまうかもしれない、何か迷惑がかかるかもしれない、とブレーキが強く働くのです。ですから、まだその手前だということを強調するなど、むしろ非常に自制的に発表します。

ところが、基礎研究の場合は、基本的にまだ患者さんから遠いというのが前提で、そのまま発表したのでは、一般の人にとっては世の中の何に関係があるのかすらまったくわからない、ということになります。そのため、その研究成果が将来的にどのように世の中の役に立っていくのかを、あえて発表に入れたほうがいいわけです。

これを臨床研究側から見ると、「まだまだ臨床には遠い完全な基礎研究なのに、いかにも患者さんにすぐ役立つような言い方をして、ひどいなぁ」となるときもあります。しかし、それも、お互いの立場を考えないといけないし、メディアの方々にも、臨床研究の発想と基礎研究の発想の違いを知ったうえで報道していただけるとありがたいと思います。

Post to Twitter


蘭学事始

By , 2014年12月28日 8:13 AM

蘭学事始 (杉田玄白著, 片桐一男訳, 講談社学術文庫)」を読み終えました。

杉田玄白が日本の蘭学黎明期を綴った、あまりにも有名な本です。南蛮流、西流外科、栗崎流外科、桂川流といった、日本に存在する西洋医学の流派の解説から始まります。それは日本が鎖国する前に入ってきたものであったり、あるいは鎖国後に出島から入ってきたものであったりします。しかし、多くが口伝によるもので、西洋の本を読んで学んだ者は皆無でした。一つには、日本で横文字が禁止されていたことがあります。この辺りの事情について、杉田玄白は次のように綴っています。

幕府創業の前後、西洋のことについては、いろいろなことがあって、すべて厳しい御禁制が出されていた。そのため、渡来を許されていたオランダでさえも、通用している横書きの文字を読み書きすることは禁止されていた。それで、通詞 (通訳官) たちも、ただオランダ語を片仮名で書き留めておく程度で、口で覚えて通弁の用を足すくらいで年月を経てしまった。そんなことで、誰一人として、横書きの文字を読み習いたいという人もいなかったということである。

しかるに、万事その時がくれば、おのずから開け整うものであろうか。有徳廟 (八代将軍吉宗) の御時、長崎の阿蘭陀通詞西善三郎、吉雄幸左衛門、もう一人名を忘れてしまったが、なにがしという人びとが寄り合って相談したところでは、「これまで通詞の家で、一切の御用向きを取り扱うのに、あちらの文字というものを知らないで、ただ暗記していることばだけで通弁して、入り組んだ多くの御用を、どうにかこうにか 弁じつとめてはいるものの、これではあまりにも不十分な状態である。どうかわれわれだけでも横文字を習い、あちらの国の書物を読んでもよい許可をいただいたらどうだろうか。そのようになれば、今後は万事につけ、あちらの事情も明白にわかり、御用も弁じよくなるはずである。これまでのようでは、あちらの国の人にいつわりだまされるようなことがあっても、これを問いただす手段もないことである」と、三人は相談して、このことを申し出て、「なにとぞ御許可をいただきたい」と幕府へお願いしたところ、聞きとどけられ、「至極もっともな願いの筋である」ということで、すぐに許可をいただいたということである。これこそ、オランダ人が渡来するようになってから百年あまりして、横文字を学ぶことのはじめであるということである。

これを読むと、江戸時代中期までの蘭学が、どういう状況であったかがよくわかります。杉田玄白が、ターヘル・アナトミアを手に入れた直後に骨が原で腑分けがあり、そこで見たものは、「ターヘル・アナトミア」に描かれた図と全く同じでした。その翌日から、前野良沢や中川淳庵らと、ターヘル・アナトミアを翻訳した「解体新書」の執筆に取り掛かったのは、あまりにも有名な話です。

本書には、「解体新書」執筆にあたるエピソードが多数登場します。有名な逸話が多いのですが、その中で私が知らなかったのは、前野良沢が執筆に専念するあまり、本務を怠って、主君に告げ口されていたことです。ところが主君の奥平昌鹿公は、「毎日の治療に精勤するのも勤務である。また、その医療のため役立つことにつとめ、ついには天下後世の人民のために有益となるようなことをしようとするのも、とりもなおさず、その仕事を勤めるということである。彼はなにかしたいと思うところがあるように見うけられるから、好きなようにさせておくべきである」と答えたそうです。懐の広い主君だったのですね。その他、杉田玄白が「諸君が事業の完成をみる日には、わたしは地下に眠る人になって、草葉の蔭からその成果を見ていることだろう」と語ったことをきっかけに、桂川甫周が杉田玄白に「草葉の蔭」というあだ名をつけたというエピソードには笑いました。凄いあだ名ですね。

横文字の許可、「解体新書」の出版などを経て、蘭学が日本全国に広まっていきました。本書には、こうして生まれた蘭学者たちの人物評も多数載っています。私の地元津山出身の宇田川玄真、宇田川玄随なども評されていました。

さて、最後にお願いがあります。私は、杉田玄白が書いた別の本も読みたいと思っています。解体新書は昔読みましたが、まだ読んでいないのが「形影夜話」という本です。杉田玄白が、行灯の光で出来た自分の影との対話を記しています。現在絶版であるものの、希望する方が多ければ、復刊される可能性があります。下記のリンクより、リクエストを出して頂ければ嬉しいです。

杉田玄白 形影夜話

 

Post to Twitter


Panorama Theme by Themocracy