Category: 医学/医療

華岡青洲と麻沸散

By , 2014年12月3日 8:18 AM

華岡青洲と麻沸散 麻沸散をめぐる謎 (松木明知著, 真興交易医書出版部)」を読み終えました。華岡青洲が麻酔薬を用いて乳癌の手術を行ったことは有名ですが、詳しい話を知らなかったのでとても勉強になりました。麻沸散は、曼陀羅華と烏頭の絶妙な組み合わせによる部分が大きいのですね。また、呉秀三先生が、学問上のミスをいくつか犯していたことにびっくりしました。

本書を読むと、華岡青洲は、一過性の下肢の麻痺を患ったことがあるようです。1年弱で改善し、その後は症状の出現がなかったようなので、急性散在性脳脊髄炎 (ADEM) や Guillain-Barre症候群などの可能性を考えてみたいです。華岡青洲と会って診察ができれば診断できると思うのですが。

華岡青洲は最も知名度の高い日本の偉人の一人です。彼についてここまで詳細に調べた報告を私は知りません。一方で、とても読みやすい本です。興味のある方は是非読んでみてください。

以下、備忘録です。

・呉秀三は、華岡青洲が初めて全身麻酔を用いて乳癌を治療した日を 1年間違えて著書に記載した。これが世に広まってしまった。さらに、呉秀三は「乳癌治験録」原文の 18字を欠落して活字化したばかりでなく、注釈なく原文の誤りの一部を訂正するという、好ましくない行為を行った。また、呉秀三が用いた「乳癌治験録」の写真は、実際と異なる合成写真が含まれていたという。(p.12)

・鎖肛、鎖陰は華岡青洲による命名である。(p.32, p.180)

・矢数道明は、華岡青洲の妻加恵の失明について、曼陀羅華の他に附子による眼内圧の上昇が原因になっていることを動物実験の結果から推察した。(p.42) (※ただし、華岡青洲が麻沸散を妻に用いたという信頼できる証拠は残されていないらしい (p.109~110))

・18世紀半ば頃から、西欧では気体の研究が盛んになった。1757年ジョセフ・ブラックによる二酸化炭素の分離、1771年ジョセフ・プリーストリーやカール・シェーレによる酸素の発見、1777年アントワーヌ・ラヴォアジェによる酸素の命名。この頃から新発見の気体を病気の治療に応用しようとする動きが出てきた。1799年にハンフリー・デービーは亜酸化窒素の鎮痛効果を発見し、翌年出版。1824年にヘンリー・ヒックマンは二酸化炭素吸入させて動物に手術を行い、吸入麻酔法の原理を確立した (CO2ナルコーゼ)。西欧で最初に全身麻酔法の概念が示された。(p.90~91) (※亜酸化窒素による麻酔が行なわれるようになったのは 1840年代)

・華岡青洲の「麻沸散」の命名は、中国の三国志時代の名医華佗による「麻沸散」からの仮借である。(p.97)

・華岡青洲の麻沸散の処方は、京都の花井仙蔵、大西晴信の処方を改変したものであり、中国の元時代の「世医得效方」まで遡ることができるという。(p.101)

・華岡青洲の麻沸散には、曼陀羅華、烏頭などが含まれる (p.102に成分表あり)。主な作用は曼陀羅華に含まれるスコポラミンの中枢作用である。烏頭に含まれるアコチニンの徐脈作用は、曼陀羅華による頻脈に拮抗するばかりでなく、それ自体強い鎮痛効果を持つ (p.113)。

・著者は動物実験で麻沸散の効果を確認したが期待した効果は確認できなかった。ボランティアに用いたところ、40分~1時間で効果が発現して意識を失った。ICU管理し、胃内の麻沸散を吸引して輸液するなどの処置をしたところ、約8時間で麻酔はとけた。(p.114)

・1803年、43~44歳にかけて華岡青洲は両下肢の麻痺で歩行困難になった。(p.127)

・華岡青洲は麻酔のことを「終身」と呼んでいたようだ。1810年に各務文献は「整骨新書」のなかで「麻睡散」という名称を用いた。「ますい」と発音する言葉の初見である。1813年杉田立卿の手術録には「麻睡之剤」という表現が登場する。1857年の緒方洪庵が翻訳した本の中に、「麻痺薬」「麻薬」「麻睡薬」「麻酔薬」などの語があり、「麻酔薬」は鎮痛薬の意味で用いられている。1849年、杉田立卿の子杉田成卿はエーテルによってもたらされる状態を「麻酔」と表現した。明治時代に催眠術が日本に紹介されたとき、「魔睡術」「麻睡術」と訳された。これらは麻酔と発音がややこしかったので、これらは催眠術という語に置き換わった。しかし、「魔睡をかける」「麻睡術をかける」と混同されて、「麻酔をかける」という語が広まった。本来、麻酔はかけるものでなく行うものである。(p.129~132)

・著者による調査では、華岡青洲が手術した乳癌患者 33名の平均術後生存期間は 47ヶ月であった。(p.165)

・華岡青洲の弟子たちは各地で「麻沸散」を用いた手術を行った。高名な福井藩士橋本左内は 1852年に陰茎切断術や乳癌手術を行っている。(p.194)

・杉田玄白は華岡青洲に手紙を書き、偉業を褒め称えたが、書簡の後半は技術を教えて欲しいという依頼であったようだ。華岡青洲は杉田一門であった宮川順達に秘法を伝授した。

・華岡青洲は臨機応変な医療を行っていた。男児が釣り針を喉の奥に引っ掛けた時、どの医者も釣り針についた針を引っ張るだけで抜くことはできなかった。華岡青洲は弟子にそろばんを割らせて、そろばんの玉をいくつも糸に通した。それが竿状になったところで糸の端を掴み玉を押しこむようにすると、力が針に伝わり抜くことができた。(p.226)

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解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯

By , 2014年10月21日 5:53 AM

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (ウェンディ・ムーア著、矢野真千子訳)」を読み終えました。

ジョン・ハンターについては、医学史関連の本に頻繁に登場する割には、「外科医の父」「無駄な手術をしたがらなかった」「死体泥棒としての影の部分」等の断片的なキーワードしか知らなかったので、一度きちんとした本を読みたいと思っていました。この本は期待に十分答えてくれるものでした。また、ヨーゼフ・ハイドン、ウィリアム・ハーヴェイ、アストリー・クーパー、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、ベンジャミン・フランクリンなど有名人がたくさん登場するのにも、読んでいてワクワクさせられました。

ハンターの住居はハンテリアン博物館となっているようなので、将来是非行きたいです。

以下、備忘録。

・ハンターの時代、膝窩動脈瘤は貸し馬車御者の職業病だった。当時の一般的な治療は下肢の切断術だった。そうしなければ、動脈瘤破裂で死ぬことになる。ハンターは動物実験を繰り返し、動脈瘤の中枢側を結紮する方法を編み出した。その患者が別の原因で亡くなった後、脚は標本になった。ハンテリアン美術館で標本 P275, P279として保存されている。

・ハンターの兄ウィリアムズは、解剖学を学び、ロンドンに講座を開こうとしていた。死体で練習をしていない外科医が初めてメスを入れるのは生きた患者となるため、ウィリアムズは解剖実習が必要だと考え、それを講座のウリにしようとした。ところが、献体という概念が生まれる前の時代であり、保存技術もなかったので、解剖用の死体が足りなかった。ウイリアムズは、死体調達をさせる目的もあり、勤務先の材木商が倒産して暇になっていた弟ジョン・ハンターを呼び寄せた。

・当時は、墓泥棒の他、死刑囚の遺体を手に入れる方法があった。その時代の絞首刑は、方法の問題で頚椎損傷ではなく、窒息が死因になることが多かった。そのため解剖台で息を吹き返すこともあった。

ウィリアム・ハーヴェイは、自身の家族が死んだ時、遺体を検死解剖した。ハーヴェイ自身は死んだ時に鉛の棺に入れて鍵をかけ、解剖学者の手に渡さないように言い遺した。

・ジョージ四世の手術を執刀し、クーパー靭帯に名を残したアストリー・クーパーは、死体泥棒に指示したことを認め、1828年の国会特別調査会で「患者の病状を知るためにはだれかがそれをしなければならない」と開き直る証言をした。

・18世紀のパリでは膀胱結石に対する石切術で 5人中 2人が死亡していた。方法は、直腸に指を入れて石を皮膚側に押し出し、会陰部を切開するものだった。経尿道アプローチする方法もあった。チェゼルデンは、フランスからの巡業医師フレール・ジャック・ド・ビューリーが会陰部から 1 cm側方を切開するのを見て、自宅での解剖実習で学んだ知識と併せて、 1725年に側方切石術を編み出した。死亡率は 10人に 1人未満になった。ハンターは兄の元で解剖学を学ぶ一方、チェゼルデンの元で外科医としての修行をした。

・ハンターは解剖学での分析によく味覚を使っていて、生徒にも使わせた。「胃液は透明に近い液体で、味はやや塩気がある。精液は匂いも味もやや吐き気をもよおす感じがするが、口の中にしばらくふくんでいると香辛料のようなあたたかみが生まれ、それがしばらくつづく」と書き残している。

・ハンターは、当時良くわかっていなかったリンパ管の役割を調べるため、生きた犬の腹を開き、腸に温めたミルクを注いだ。乳糜管は白くなったが、静脈は色が変わらなかった。そのため、リンパ管のみが脂肪と体液を吸収するという説が証明された。

・ハンターに師事したウィリアム・シッペンはハンターの手法を取り入れ、同じくハンターの教え子だったジョン・モーガンとアメリカ初の医学校を創設した。その医学校はのちにフィラデルフィア大学となった。彼らは、墓地から死体を盗んでくる手法まで取り入れ、そのせいで学校が民衆に襲撃されたこともあった。

・ハンターは軍医時代に、傷口をいじり回すより放置するほうが予後が良いことに気づいた。同じ時期に銃弾の摘出手術を受けなかった症例 5人全員が治癒したのを見たことが、その後できるだけ戦場で手術を行わないことの根拠となった。

・ハンターは色々と移植手術を試した。例えば、歯牙を移植したり、雄鶏のけづめを雌鶏のとさかに移植したり、雄鶏の睾丸を雌鶏の腹に移植した。歯牙移植は数年しか持たず、梅毒の原因にもなった。

・ハンターは淋菌と梅毒が同じ原因であるこという仮説を立て、淋病患者の膿をつけたメスで被検者のペニスを傷つけ、うつった淋病が梅毒に進行することを証明した。この時の被検者はハンターだったと言われている。しかし、用いた膿が実際には梅毒を合併した淋病患者のものだったらしく、現在では実験失敗だったことがわかっている。1838年、フィリップ・リコールは、何も知らない 2500人の患者に接種実験をして、淋病と梅毒が別の病原体であることを明らかにした。

・当時性病治療には水銀治療が行なわれていたが、淋病は自然治癒するため効果を疑問視し、ハンターはパンをプラセボとして与えた。それでも効果があったので、淋病に対して水銀は不要と証明された。

・ハンターは自著で、マスターベーションにお墨付きを与えた。また、性生活が上手くできない男性に対して、6日間何もせずに女性と並んで寝るように指示したところ、7日目には精力を取り戻し、有り余る欲望をもってベッドに飛び込んだ。

・ハンターは、カイコで人工授精の実験をした後、ヒトにも応用しようとした。尿道下裂のために不妊で悩んでいた男性の精液を注射器に集め、妻のヴァギナに注入したところ、すぐに妊娠した。この症例は史上初の人工授精とされる。

・後に種痘接種で有名になるエドワード・ジェンナーは、ハンターの家での住み込み弟子第一号となった。ハンターとジェンナーの親交は、生涯続いた。ハンターはジェンナーの最初の子供の名付け親になっている。

・ハンターの妻アンは、作詩家であり、教養人だった。作曲家のヨーゼフ・ハイドンと交流があった。

・ハンターは癌については積極的な手術を勧めた。検死解剖の経験から、癌をわずかでも残すのは全部残すのと変わらないと知っており、完全に切除できたかを慎重に調べなくてはいけないと言っていた。また、自分の手術ミスに関しては失敗をおおっぴらに認めた。「あの穿孔術で患者を殺したのは私だ」とか「あの手術で私は馬鹿なことをした」と。医療ミスは避けようがなく、失敗を隠すより失敗から学ぶべきだという持論だった。

・ハンターは、内科の三大治療「下剤・嘔吐剤・瀉血」の効果を疑っていた。瀉血は必要な場合以外避けるべきだと常々言っていた。しかし、将来自分が狭心症で倒れた時は、これらの治療法を試し、意味がないことを身を持って知った。

・ハンターが解剖した狭心症患者の検死所見は、1772年のウィリアム・ヘバーデンの論文に添付された。ヘバーデンは狭心症について世界で初めて正確な解説を書いた人物として知られる。

・哲学者デイヴィッド・ヒュームは、原因不明の腹痛に悩まされていた。ハンターの義父がヒュームのいとこだったので、ハンターはヒュームの診察をして、肝臓癌であることを診断した。

・ハンターは溺水患者の蘇生に興味があった。当時の治療は瀉血や浣腸や、タバコの煙を吹きかけることだった。ハンターは被害者の肺に空気を入れることが大事だと考えた。そして、被害者の肺をふくらませるために鼻から刺激性のガスを入れ、ベッドの中で体をゆっくりあたため、精油で体をこすることを提案した。これらをすべて試しても生き返らない場合には、電気刺激を与えることを提案した。

・ハンターは、3歳の女児が二階の窓から転落したとき、電気ショックを胸に与えた後生き返ったことを書き残した。

・当時、奇形に生まれた人々への救済処置はなく、自らを見世物として人前に晒すことが収入源だった。

・ハンターは、変異体を生物進化の証であると考えていた。「あらゆる種のあらゆる器官は、もとより奇形の特質を有する」と書き残している。

・ハンターの新居は、表通りに面した洒落た建物と、別の通りに面した地味な建物がつながったものだった。ハンターの外科医、解剖学者、教師、研究者の表の顔と、死体泥棒とつながった裏の顔が、「ジキル博士とハイド氏」が書かれるときのヒントとなった。ジキル博士の家はジョン・ハンターの家がモデルだとされている。

・ベンジャミン・フランクリンが膀胱結石で悩んでいた時に、ハンターに助言を求めた。ハンターは高齢での手術を避けることを勧めた。

・ある患者がハンターに手術を依頼したとき、ハンターは 20ギニー/件の相場と答えた。その患者家族が金を工面するために次回の来院を 2ヶ月遅らせたことを知ったハンターは 19ギニーを返し、「1ギニーだけ頂戴します。これだけなら、自分の思慮のなさに心を痛めずにすみますから」と答えた。

・ハンターの弟子には、パーキンソン病を報告したジェームス・パーキンソンがいた。パーキンソンが書き残したノートは、ハンターの講義を知る貴重な資料となっている。

・1783年に、ハンターと友人ジョージ・フォーダイスは医学外科学交流会を設立した。そして二週間毎にオールド・スローターズというコーヒーハウスに集まり、内科と外科からそれぞれ症例提示し、垣根を越えて議論を深めた。

・経済学者アダム・スミスはその技術に感銘を受け、「国富論」を一部ハンターに献呈した。スミスはハンターに痔の手術を受けた。

・ハンターは、ダーウィンが「種の起源」を出版する 70年前に、共通の祖先からの生物の進化を書き残していた。それは「種の起源」から 2年後に再発見され、「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学にかんする小論と観察」として出版された。

・1793年10月16日にハンターが死んだ後、「自分が死んだら検死するように」という遺言通り解剖された。診断は、彼の生前診断どおり冠動脈疾患だった。ハンターは心臓とアキレス腱 (1766年に切断し自然治癒で治した) を保存するように言い遺していたが、義弟ホームはそれを守らなかった。

・義弟ホームは、ハンターの死後ハンターの業績を横取りして発表し、ハンターの残した書類を証拠隠滅に焼却した。

・ハンターの博物館-ハンテリアン博物館-は、その後フランスのルイ・ナポレオンやチャールズ・ダーウィンなどが訪れている。

・1859年1月、ハンターの遺骨が収められた納骨堂が整理されるという記事をみつけたフランシス・バックランドは、3000以上の棺を 7日間かけて探しまわり、残された棺あと 2個というところでハンターの棺を見つけた。ハンターは 3月28日に改葬された。

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反射の検査

By , 2014年8月1日 7:58 PM

反射の検査 (ロバート・ワルテンベルグ著、佐野圭司訳、医学書院)」を読み終えました。古い症候学の本ですが、内容に圧倒されました。

腱反射の検査は、神経症候学の初学者たちにとって高いハードルとなっています。覚えなければならない反射がたくさんあり、かつ判定が難しく、さらに解釈に頭を悩ませることも少なくありません。ワルテンベルグは、(深部) 腱反射を「筋肉が急激な伸展に反応して収縮すること」という原則で捉え、様々な研究者がまちまちに名付けた膨大な数の反射を整理しました。引用文献数 465 (英語、ドイツ語、フランス語などを含む) が示す通り、内容は極めて網羅的ですが、読みやすくまとめられています。神経内科医は一度は読んでおきたい本です。

佐野圭司先生は同じ本で、さらにワルテンベルグの論文 2本を訳出しています。その一本が、”Babinski反射の 50年” で、ワルテンベルグが 1947年の JAMAに “The Babinski reflex after fifty years” というタイトルで書いた論文です。ワルテンベルグは Babinskiの弟子でした。もう一本が、”Brudzinski徴候と Kernig徴候” です。どちらも素晴らしい論文でした。

本書を読んで、ワルテンベルグの才能は、「本質を見抜くこと」にあると思いました。(深部) 腱反射は、「筋肉が急激な伸展に反応して収縮すること」という原則で全てを整理しました (腱を打腱器で叩くと筋肉は伸展する)。Babinski反射は「同側集団屈曲反射の一部で、よじ登る運動の過程の痕跡的な表れ」であり、Babinski変法も全てこれで説明できます。Brudzinski徴候や Kernig徴候は、「脊髄や神経根の伸展で生じる疼痛 (脊髄や神経根の自由な運動が炎症や疾病で妨げられると出現する) を逃れるため、伸展を最小にする姿勢をとる」ことが本質です。

神経症候学に関する本を読んだのは久しぶりでしたが、とても良い刺激を受けました。こういう本を読むと、診察が楽しくなります。

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緑の天啓

By , 2014年6月7日 6:00 PM

先日の神経学会総会で無料配布されていた「緑の天啓 SMON研究の思い出 (井上尚英著, 海鳥社)」を読み終えました。

SMON (Subacute Myelo-Optico-Neuropathy) は、キノホルム製剤により、亜急性に脊髄、視神経、末梢神経の障害や消化器症状が出現する疾患です。昭和 30~40年代に問題となった、我が国最大級の薬害でした。原因が薬の副作用だったにもかかわらず、それがわかるのに長い年月を必要としました。私は本書を読むまでは、「通常、薬剤内服歴はチェックするはずなのに、なぜそれがわからなかったのか」と疑問に思っていましたが、実はそれにはいくつも理由があったようです。

・薬剤を内服してから症状が出るまで、数週間のタイムラグがあった。

・量依存的に症状が出現するため、少量であれば飲んでも影響がなかった。「飲んでいても大丈夫」な患者がいたため、疑いにくかっった。

・キノホルムを含む整腸剤に副作用はなく無害だと思われていた (海外では投与量が制限されていたが、日本の説明書ではそこが省かれていた。安全だと信じこんで大量投与を行う医師がいて、その地域に患者が集中した事情があったらしい)。

・キノホルムを含有する薬剤は複数あり、単一の商品ではなかった。そのため商品名だけチェックしてもわかりにくかった。

・キノホルムが胃腸炎などで消化器症状を呈した患者に対する治療薬として使われため、内服後に副作用で消化器症状が出たとしても、もともとの病気の症状と判断されてしまった。

原因不明と思われた SMONは、日本中の神経内科医らがしのぎを削って研究し、最後はあっけなく原因が同定されました。研究の過程で登場するのは、豊倉先生、高須先生、黒岩先生、椿先生、井形先生など、そうそうたる神経内科医たちです。まさに叡智を結集してと言って良いです。

この薬害から改めて思うことは、「クスリはリスク」ということです。副作用のない薬はないと考え、必要ない薬は使わない、使うとしても用量をきちんと検討することが重要ですね。

本書を読みながら、薬害に苦しんだ患者や、良かれと思ってキノホルムを処方して薬害を作ってしまった医師たちの心中を考え、心が痛みました。

SMONの原因が同定されてから数十年が経ちます。私を含め、今の若い医師たちはあまりこの問題を知らないと思います。風化させてはいけないと思いますので、是非多くの方にこの本を読んで頂きたいです。

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パリ医学散歩

By , 2014年5月31日 8:04 AM

パリ医学散歩 (岩田誠著, 岩波書店)」を読み終えました。

私はヨーロッパ旅行をするときは、医学や音楽にまつわる史跡をできるだけ巡るようにしています。昨年パリ旅行をしたときは、「ペールラシェーズの医学者たち」を参考にしてペール・ラシェーズ墓地を訪れましたが、本書を読んで、まだまだパリに行くべき場所があるのを知りました。それにしても、岩田先生の本は外れがないです。

また、下記のような歴史的な事実は、本書で初めて知りました。医学史に興味がある方におすすめの本です。

・オテル・ディユーは長い間パリ市内唯一の病院だったため、いつも患者があふれていた。その結果、一つのベッドに何人もの患者が寝ているようなことは日常茶飯事であり、十六世紀頃の記録では、五〇〇床のベッドに対し、多い時には一五〇〇人もの入院患者がいたと記されている。一床一人の原則が確立したのは、ボナパルト時代であった。

・ヴュルピアンはシャルコーの友であり、デジェリンの師であった。彼は一八六六年にクリュヴェイエの後任としてパリ大学医学部の病理解剖学講座の主任教授となり、フランスの病理学に初めて顕微鏡を導入した。また、多発性硬化症という術語を最初に用いたのはシャルコーではなくヴュルピアンであった。

・旧シャリテ病院脇のジャコブ通り界隈には、シャリテ病院に縁のある医者たちが多く住んだ。ルイ一四世の筆頭外科医であったジョルジュ・マレシャル、失語症研究のポール・ブローカなどである。その通りの一四番地にはリヒャルト・ワーグナーが住み、四〇年後にそこに住んだのは神経学の巨匠ジュール・デジェリンだった。

・パストゥールの発見は、ビュルピアンらが支持したが反論も多かった。ある日、シャルコーはパストゥールの研究室を訪れ、弟子のルーに説明を求めた。彼はルーの話に一時間以上にわたってじっと耳を傾け、二、三の質問をした後、実験記録を見せてくれと要求した。その直後の一八八七年七月一二日の医学アカデミーでパストゥールを弁護した。そしてサルペトリエール病院神経病クリニックの中に微生物学研究室をつくろうとしたが、シャルコー急死のためこの計画は中止となった。

・クロード・ベルナールは一八六六年、病気のため実験室を去ってボージョレにある故郷の家で静養していたが、身の不運を嘆いてうつに陥っていた。パストゥールはベルナールを励ますため「世界事情」に「クロード・ベルナール:その研究、教育、方法論の意義」という記事を書いた。そこでベルナールの業績中もっとも重要なものとして肝臓におけるグリコーゲン産生の発見を取り上げた。そして「今、はからずも静養を余儀なくされているこの偉大な患者が、彼の思想と情熱を世に紹介するこの論文によって元気づけられ、彼の友人や同僚たちが、彼がまた研究にもどってくる日を待ち望んでいることを知って喜んでくれることを期待したい」と結んだ。この記事は、ベルナールがうつから立ち直るきっかけとなった。

・ベルナールは、「糖尿病患者が自分で摂取するでんぷんや糖などの炭水化物よりはるかに大量のブドウ糖を尿から排泄するのはなぜだろうか?」「糖尿病患者の糖尿が消失しないのはなぜか」ということに疑問をもった。そして、人体にはブドウ糖を産生する未知の機構があるのではないかと考えた。当時は、糖を産生できるのは植物だけであると信じられていた。しかし、ベルナールは「もし理論に合致しない事実が見出されたなら、どんなに権威のある常識的な理論であろうと、その理論を捨てて事実をとるべきである」という信条を持っていた。ベルナールは動物を肉だけで飼育し、門脈と肝静脈の血液をとって比較してみると、門脈中にはブドウ糖がないにもかかわらず、肝静脈中にはブドウ糖が大量に存在することがわかった。このことから、肝臓中にグリコーゲンを発見するに至った。

・セヴール通りにあるネッケール病院は「ひとつのベッドに一人の患者を」というモデル病院を作る計画に従い、一七七八年に開かれた。ラエネックは一八〇六年頃にネッケール病院に赴任した。ウィーンの医師アウエンブルッガーにより発見された打診法をフランスに広めたのはコルヴィサールであり、ラエネックはコルヴィサールの弟子であった。一八一六年、ルーヴル広場を通りかかったラエネックは、二人の子供が大きな材木をたたいて遊んでいるのに気づいた。ひとりの子供が材木の一方の端をトントンと叩くと、もう一人はもう一方の端に耳をつけてこれを聞いて遊んでいた。この様子をみたラエネックは自分の患者に応用してみた。ネッケール病院に戻ると、心臓病の少女にきつくまいた紙の筒の一方の端をあて、もう一方の端を自分のみみにあててみた。すると、直接胸に耳を押しあてて聴くのとは比べ物にならないほどはるかにはっきりと、患者の心臓の鼓動が聞こえた。彼はこの方法が、あらゆる種類の胸部疾患の診断に応用できることに気づいた。そして紙筒を木の筒に換え、これを「聴診器」と名づけた。一八二六年八月二三日、彼は肺結核で亡くなった。ネッケール病院の入口に隣り合う壁には「この病院でラエネックは聴診法を発見した」という石碑が掲げられている。

・一三四八年にパリにペストが流行し、フランソア一世はペスト患者専門の収容病院をパリ市街に建設しようと計画したが、宗教戦争等で実現しなかった。一六〇六年に再度ペストが流行したため、計画はようやく実行に移された。当時は西風が病毒を運ぶと考えられていたため、パリ東北に病院の建設地が定められた。サン・ルイ病院は一六一一年に完成し、一六一八年に開院された。当初は感染性疾患のセンターであったが、当時皮膚感染症が多かったため、そのうちこの病院は皮膚科専門の病院になっていった。フランス人の名前を冠せれた皮膚疾患は多いが、ほとんどはこの病院に足跡を残した人々の名前である。ここに勉強に来たのが太田正雄 (作家としてのペンネームは木下杢太郎) である。木下杢太郎はサブロー寒天培地に名前を残したサブロー教授の研究室で真菌症の研究を始め、白癬菌の新しい分類体系を確立した。また、日本に戻ってからは太田母斑 (眼上顎褐青色母斑) を世界に先駆けて記載した。

・ピネルは一九九三年にビセートル病院の内科医師となり、まずここで男性精神病患者を鎖から解き放った後、一七九五年にラ・サルペトリエールに赴任し、今度は女性患者を解放した。サルペトリエール病院の門の前にはピネルの像が立ち、サルペトリエール病院神経病クリニックにとなり合うシャルコー図書館の入り口には、ピネルが患者を鎖から解放している絵が掲げられている。

・ ブローカの墓は、モンパルナス墓地にある。墓石にはブローカの名前が刻んであるのみで、墓石には彼の生前の業績を讃える何の言葉も見出せず、ほとんど訪れる人もない。

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臨床研究の道標

By , 2014年5月27日 6:07 AM

「臨床研究の道標 (福原俊一著, 健康医療評価研究機構)」を読み終えました。1年前に購入して「読む本リスト」に入っていたのですが、臨床研究をやりたいという医師に相談を受けた時に推薦書として貸したら戻ってこなくなり、再度購入したのです。

冒頭で「医者の過重労働が診療に影響を与えているのではないか」という clinical questionが提示され、それを元に主人公の Oliveが臨床研究をデザインする様子を描いた本です。どのようなプロセスを経て研究デザインが組まれるのか、実際の例を通じて解説されるため、非常に理解しやすいです。教科書っぽくなく、読みやすかったです。

読みやすい一方で、内容のレベルは決して低くなく、「線形性の確認をしないで連続変数で解析することの危険性」「リスク・発生割合 (一定期間のアウトカム新規発生割合) と発生率 (アウトカム新規発生の速さ, 分母が総人年などになる) の違い」「propensity scoreは、測定可能な交絡因子のみで調整する多変量解析による調整と変わりがないことが明らかになってきていること」「点推定+区間推定を用いず p値を用いることの問題点」「p値関数」などについては、本書で初めて知りました。

そして、医師主導型臨床研究についての記述は、まさに私が考えていることと同じでした。

一方、治験以外の臨床試験として、近年増えている「医師主導型臨床試験」はどうでしょうか?これはあたかも、医師や研究者が、独自あるいは公的研究費を財源として、製薬企業と関係なく研究を行っているように聞こえますが、すべてはそうではありません。多くの「医師主導型臨床試験」が、特定あるいは複数の製薬企業からの委託や寄付によって研究費の一部あるいは、全部が賄われている可能性があります (詳細なデータは公開されてないことが少なくありません)。この種の研究に対して、規制や監視は行われていないのが現状です。筆者は、利益相反が問題となり得るのは、治験よりも、この「医師 (研究者) 主導型臨床試験」の方ではないかと見ています。 (248ページ)

臨床疫学の勉強を始めたい方に、「医学的研究のデザイン」と並んで薦めたい本です。

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診断法を評価する

By , 2014年5月17日 12:00 PM

診断法を評価する (杉岡隆、野口善令、大西良浩著、福原俊一監修、健康医療評価機構)」を読み終えました。140ページ弱の薄い本ですし、レイアウトも見やすくて、あっという間に読むことができました。

本書の前半では、我々が普段使う診断法がどの程度の診断性能を持っているか評価する方法などをわかりやすく解説していました。また、後半にある「clinical prediction ruleの開発と検証」という章では、診断に使う「◯◯スコア」というのがどうやって作られるのか知って、勉強になりました。

診断法の評価の入門書として、オススメの本です。

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医学的研究のデザイン

By , 2014年5月1日 6:53 PM

医学的研究のデザイン -研究の質を高める疫学的アプローチ- 第3版 (木原雅子/木原正博訳, メディカル・サイエンス・インターナショナル)」を読み終えました。硬派な臨床疫学の本です。

臨床医としての知識のアップデートには、質の高い臨床研究の論文を多く読むことが不可欠です。しかし、実際には世の中に出てくる臨床研究の質は玉石混交です。特に製薬会社の息がかかった臨床研究には、製薬会社にとって結果が有利になるようなバイアスがかかっている場合が多々あります。研究の質を判断するためには、まず試験デザインが適切かどうか、その試験デザインではどのようなバイアスがかかり得るか判断出来なければいけません。

また、自分自身が臨床研究を行うときにも、研究デザインに不備があると、どんなに素晴らしい統計手法を使用したとしても研究は意味を持たなくなります。臨床研究にとって、試験デザインというのは骨格をなすもので、非常に重要です。

本書は、それぞれの試験デザインについて、豊富な例題を用いながら詳細に解説しています。陥りやすいピットフォールも丁寧に説明されています。また、サンプルサイズを知るためのパワー計算の方法についても充実しています。臨床試験を行う上での倫理的な問題についても、しっかりと書かれています。私は臨床疫学について勉強を始めたばかりですが、きちんとした基礎を作ってくれそうな本でした。多くの臨床医に読んでいただきたい本です。

余談ですが、本書の 253ページに「科学的な違反行為」という項があり、この部分の記載が今話題の小保方問題を理解するのに役立つと思うので、最後に紹介しておきます (アメリカだけでなく、日本でも通用する記述だと思います)。

科学的な違反行為

研究者が研究データを捏造したり、データを改ざんしたり、適格ではない対象者を臨床試験に用いたり、といった事例がいくつか発覚しています。そうした行為は、誤った結論を導き、研究に対する社会の信頼を損ない、研究費の公的補助の妥当性をさえ危機に曝すことにもなります。

連邦政府は、研究における違反行為 misconductを捏造 (ねつぞう)、改ざん、剽窃 (ひょうせつ) の 3つに狭義に定義しています (Office for Research Integrityの Webサイトを参照)。捏造 fabricationとは、架空のデータを作って、それを記録したり、報告したりすることを言い、改ざん falsificationとは、研究試料や機器や研究手順に操作を加えたり、あるいは一部のデータを変更したり削除したりして、データを作り変えることを言います。剽窃 plagiarismとは他の人の考えや研究結果、あるいは文章を適切な断りもなく自分のものであるかのように装って用いることです。

連邦政府によるこうした違反行為の定義は、本人が違反行為であることを承知の上であえて行ったことを前提としています。つまり、通常の研究の過程で、知らずに行ったこと honest errorや科学的な見解の相違と見なされるものは、この中には含まれません。また、連邦政府の定義の中には、二重出版 double publication, 研究試料の独り占め、セクシャルハラスメントといった違反行為は含まれません。こうした行為は、連邦政府ではなく、研究責任者や研究施設が扱うべき問題と考えているからです。

これらの違反行為についての訴えがあった場合には、研究助成組織や研究施設は、公正かつ迅速に、尋問や調査を実施しなければなりません。調査の間は、告発者 whistleblowerや被疑者はともに尊重される権利があります。告発者は、復讐の危険から保護される必要があり、被疑者は嫌疑の内容を知り、それに反論する権利が保証されなければなりません。違反行為が明らかになった場合には、研究費支給の差し止め、将来にわたる研究費申請の禁止や、その他の行政的、刑法的、民事的懲罰が課せられることになります。

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頭のなかをのぞく

By , 2014年4月15日 6:16 AM

頭のなかをのぞく (萬年甫著、岩田誠編、中山書店)」を読み終えました。わが国を代表する脳解剖学者で、多くの弟子を育てられた萬年甫 (まんねんはじめ) 先生は、2011年12月27日に亡くなられました。残された原稿を岩田誠先生が纏められたのが、この本です。

第一章は、「解剖学はなぜ必要か」をテーマにした、萬年甫先生と岩田誠先生の対談になっています。

第二章は、「脳」と「腦」の字の違いについてです。これは萬年甫先生の「動物の脳採集記」という本でも述べられていましたが、本書の方がもう少し詳しく述べられています。

第三章は、「脳と脊髄の形」と題し、神経系の基本構造について概説しています。発生学から説明を始め、脳の構造がどうやって出来上がっていくのかを俯瞰します。私はこういう見方で神経解剖を勉強したことがなかったので、とても新鮮でした。神経解剖学の基本となる知識がわかりやすく整理されることもあり、神経内科医には是非読んで欲しいです。

第四章「神経系の構成要素」はニューロン説に関連した内容が主体です。

第五章「脳研究 5000年」は、本書で最も面白い章の一つでした。簡単に抜粋要約します。

古代:脳に関する記録の最古のものは、1862年にエドウィン・スミスがナイル河中流のルクソールで古物商から買ったエドウィン・スミス・パピルスで、大脳がそれに相当する名前とともに登場するとのことです。このパピルスは、紀元前 17世紀のものですが、紀元前 30世紀に編纂された古王国の教科書の写本というのが真相らしいです。内容は、頭部外傷、頚部外傷の 48例の臨床報告で、「頭部外傷では眼球の偏位を伴い、患者は脚を引きずって歩く」等の記述がみられるそうです。脳解剖を最初に行ったのが、紀元前 500年頃のアルクマイオンで、眼の手術を行った最初の人でした。紀元前 5, 4世紀のギリシャにソクラテス、プラトン、アリストテレスが登場し、紀元前 3世紀のアレキサンドリアにはヘロフィルス、エラシストラトス、紀元前 2世紀のローマにはガレノスが登場しました。ガレノスはウシの脳を調べて、脳硬膜 (dura mater, 強い母)、脳軟膜 (pia mater, 優しい母) を命名し、脳梁、4つの脳室、脳弓、四丘体、松果体、下垂体、漏斗も命名しました。頚髄を様々なレベルで切断し、その表現型を観察していたとされます。交感神経 (Nervus sympathicus) は、ガレノスが第一頚神経節を迷走神経の分枝と見なし、働きを分かち合う意で「sympathia (共感)」の語を用いたのが由来なのだそうです。

中世:医学部で初めて人体解剖を始めたのは、中世 14世紀のボローニャ大学教授のモンディーノ・デ・ルッツィでした。やがて他の地域の大学でも行われるようになりました。しかし、古典の教科書と、実際の解剖学的所見の不一致もあり、そういうときは「その死体は間違っている」とか「人体は以前より退化した」と解釈されていたそうです。

 ルネッサンス期:レオナルド・ダ・ヴィンチが登場し、いくつもの医学的スケッチを残しました。シルヴィウス教授の弟子シャルル・エティエンヌは、「人体諸部の解剖」を出版を試みましたが、解剖の実技と解剖図の大半を分担した外科医エティエンウ・ド・ラ・リヴィエールとのいざこざで、出版が遅れ、ヴェサリウスの「ファブリカ」に先を越されました (私はヴェサリウスが書いた解剖学書のドイツ語版をベルリンで購入しましたが、彼の本が未だに本屋に並んでいることに驚きです)。ヴェサリウスの「ファブリカ」の出版は、1543年で、日本に鉄砲が伝来した年でした。ヴェサリウスは後にローマ帝国皇帝侍医となっています。ボローニャ、ついでローマの解剖学教授となったヴァロニオが前頭葉、頭頂葉、側頭葉、後頭葉を名づけ、海馬などに名を残しました。1586年にピッコロミニが大脳皮質と大脳白質を描き分けました。

近世:1661年に、マルピギーが初めて顕微鏡を用いて脳を観察しました。トーマス・ウィリスは、視床という言葉を初めて導入し、基底核にレンズ核、線条体という言葉を用い、毛様神経節と肋間神経を記述しました。神経学 (Neurology) という言葉も彼に発するそうです。ウィリスは、内包病変で片麻痺が生じることを記載しました。ウィリスはウィリス輪 (脳底動脈輪) に名を残していますが、実際にはヴェサリウスの弟子ファロッピオが 1561年に最初に指摘し、パドヴァ教授カッセリオが 1616年に初めて図示しているそうです。1685年に、モンペリエの解剖学者ヴィユサンスによって錐体、延髄オリーブ核、卵円中心、三叉神経半月神経節が記載されました。1687年ライデンの教授フランシスクス・ド・ル・ボエ (通称シルヴィウス) により、大脳外側裂 (シルヴィウス裂)、中脳水道が命名されました。ちなみに、このシルヴィウスは、前述のシルヴィウスとは別人です。1710年にフランスの学生プールフール・デュ・プティにより、初めて錐体交叉が認められました。ゼンメリンクは、12対の脳神経を分類しました。コトゥーニョは脳脊髄液を記載し、それを調べるために 1774年に腰椎穿刺を試みました。フランスの比較解剖学者フェリックス・ヴィック・ダジールは、脳の研究にアルコール固定を導入し、乳頭体視床路、中心溝、中心前回、中心後溝、島を記載しました。ベルリンの内科・神経科医ライルは、島や小脳の各葉に名を与え、レンズ核、内側毛帯、外側毛帯を記載しました。

近代:フランスの解剖学者ガルが骨相学を提唱しました。脳の機能局在、左右差は、ブロカの失語の症例で確認されました。ヒッツィヒ、フリッチュは、大脳皮質の機能局在を電気生理学的に証明しました。ドイツの神経学者ヴェルニッケは、感覚性失語を報告しました。

第五章では、こうした脳研究の歴史の紹介の後、病理学的研究について詳細に解説されます。章末に、わが国に「脳を固める・切る・染める」技術が、どうやって渡来したのかについて記載があります。北海道小樽生まれの布施現之助先生が大きな役割を果たしています。布施先生は熱血漢で、東大医学部の学生だった頃、足尾銅山鉱毒事件の街頭演説会の演壇に上がり、「諸君、諸君」と呼びかけただけで言葉が続かず、涙を流しながら演壇を下りたエピソードがあるそうです。布施先生は、ゴルジとカハールのノーベル賞受賞を気に高まった脳研究の機運に情熱を燃やし、チューリッヒ大学のコンスタンチン・フォン・モナコウ教授 (モナコフ) の元に 4年間滞在し、神経解剖学を専攻しました。モナコウは、Diaschisisという概念を提唱し、さらに Monakow症候群に名を残しています。布施現之助先生の弟子の一人が小川鼎三先生で、萬年甫先生の師にあたります。本書を纏められた岩田誠先生は、萬年甫先生の弟子です。日本の神経学者が知っておくべき学問の系譜です。

第六章は、「ニューロンの真景を求めて」と題され、神経と真景がうまく掛け合わされたタイトルになっています。萬年甫先生がなされた研究の一部が記されています。ゴルジ法切片の美しさには目を見張りました。

第七章は、「脳を透視する技術」です。レントゲンから始まり、MRIに至るまで、実際に解剖しないで脳を調べる技術が概説されています。最初に、レントゲン発見の瞬間について、1968年 (昭和 43年) 5月26日の毎日新聞日曜版の「レントゲン線・現代物理学の出発点」という記事が引用されていたのが、興味を引きました。ボン特派員であった塚本哲也氏が、実際にレントゲンの養女に会ってインタビューしたものです。「私はあの時 14歳でした。研究に夢中の父は秋ごろから帰宅もおそく、朝晩のあいさつ以外に言葉をかわすこともない毎日でした。ところがある夜、父が階段をダッダッと駈足で上がってきて、荒々しくドアをあけるなり、『お母さんはどこだ。悪魔を追い払ったぞ』というのです。いつもの静かな父とは別人でした。父は奥の部屋にいた母の手を引っぱって、ころげるようにして階段を降りて行きました。父がはじめて X線で母の手を撮影したのがその時でした。忘れませんとも、あの時のことを・・・」。読むと情景が思い浮かびます。この辺りのエピソードは本書に詳しく書かれているので、興味のある方は読んで頂きたいです。1901年、第 1回ノーベル賞がレントゲン博士に与えられた後、彼は賞金全額を大学に寄贈し、「私の発見は全人類のものだ。一個人の利益を求むべきではない」と特許をとらず、貴族の称号も断りました。そしてミュンヘンで困窮のうちに亡くなったと言います。これに対し、レントゲンの養女は「父は自分自身にも私にも何一つ残さなかった。それだから私は感謝しているのです。父は立派な教育者、立派な人間でした。私にみずからを捨てて人間のために生きるという人生の生き方を身をもって教えてくれました」と述べています。胸を打つ話でした。

本書の終わりに、付録として「ヨーロッパの脳研究施設を訪ねて」という文章が載せられています。萬年先生が、ヨーロッパのさまざまな研究施設を訪れ、高名な学者たち (ガルサン、ハラーフォルデン、シュパッツ、フォークトなど) に面会したときのことを綴った文章です。萬年先生の興奮が、読み手にも伝わってきます。

このように、本書は読み応え十分の本です。是非、多くの神経内科医に読んで欲しいです。

(参考)

神経学の源流1 ババンスキーとともに-(1)

動物の脳採集記

神経学の源流 2 ラモニ・カハール

脳の探求者ラモニ・カハール スペインの輝ける星

ラモン・イ・カハル自伝

神経学の源流 3 ブロカ

医学用語の起り

鯨の話

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漱石の疼痛、カントの激痛

By , 2014年3月27日 8:07 AM

漱石の疼痛、カントの激痛  『頭痛・肩凝り・歯痛』列伝 (横田敏勝著、講談社現代新書)」を読み終えました。

横田氏の著書については、「名画の医学」を以前ブログで紹介したことがあります。非常に芸術に造詣の深い先生で、尊敬しております。本書は、「作家、画家、その作品」と、医師が日常診療する疼痛とを並べて扱っています。扱われた芸術作品をみると、著者の教養の広さがわかります。関節リウマチを「慢性関節リウマチ」と記述していたり、片頭痛治療でエルゴタミンを紹介していたり、少し古くなってしまった記述もありますが、一般人向けに書かれているにも関わらず、医師の眼から読んで唸らされることばかりです。オススメの一冊です。

神経内科医にとって「頭痛」は、初診患者での主訴として最も多い疾患の一つです。本書では、頭痛に関連した項で、片頭痛、緊張型頭痛、群発頭痛、クモ膜下出血による頭痛 (源頼朝)、高血圧性頭痛、二日酔いよる頭痛 (源実朝) などが扱われています。例えば、芥川龍之介の「歯車」という小説で、芥川自身の片頭痛体験が記されていることは本書で初めて知りました。小説中では閃輝暗点が詳細に描かれています。ちなみに、文学作品の中で「肩が凝る」という言葉を初めて使ったのは夏目漱石だったそうです。「門」という小説に登場します。欧米では「肩こり」という語はないそうで、彼らは「首の凝り」あるいは「僧帽筋の筋肉痛」と呼んでいます。

沢村伝之助 (三代目) という花形役者が閉塞性血栓性血管炎で下肢を切断することになったとき、手術したのはジェームズ・カーティス・ヘボンでした。手術はクロロホルム麻酔下で行われました。ヘボンの名は、ローマ字で「ヘボン式」というとピンときますね。ヘボンの弟子に、大村益次郎、高橋是清、林董、などがいます。彼は後年、明治学院で教鞭をとり、その間に島崎藤村を教えました。また、最初の和英・英和辞典 「和英語林集成」 を完成させています (上海で印刷)。ヘボンが「ヘボン式ローマ字」の開発など日本と西洋文化をつないだ人だとは知っていましたが、医師として業績は、本書で初めて知りました。

本書には疼痛に関するネタが満載なのですが、私の好きなミレーの「落穂拾い」の絵が腰痛の項で扱われていますので、絵の背景に関する部分を最後に紹介しておきます。この背景を知っていれば、「落穂拾い」の絵がもっと楽しめるはずです。

ジャン・フランソワ・ミレーの名作「落穂拾い」は、旧約聖書の「ルツ記」をもとにしている。「ルツ記」は名もない民衆の一人の物語である。

-むかし、ベツレヘムの村にエリメルクという人がいた。妻ナオミとの間にキリオンとマロンという息子があった。エリメルクは裕福であったが、ベツレヘム一帯が飢饉に襲われ、すっかり財産をなくしてしまう。従兄弟ボアズの助けをかりることもできたが、新しい土地に移って心機一転やり直そうと決意し、死海のさきのモアブに移住した。

エリメルクは新しい土地で懸命に働き、間もなく多少の資産ができた。しかし、過労がたたって、病に倒れ、死んでしまう。残されたナオミは、幼い二人の子を抱えながら、よく働いた。やがて成長した息子たちは、母親をよく助け、近くに住むモアブ人から嫁を迎えた。こうして、ナオミと息子たちの家族は、モアブの地に根を下ろすことができた。

ところが、息子たちは二人とも病弱で、相次いで死んでしまう。気落ちしたナオミは、故郷のベツレヘムに帰りたいと思った。息子の嫁たちには、ベツレヘムに行くのか、残るのか、自分の好きなように選ばせた。キリオンの嫁のオルパは残ることにし、マロンの嫁のルツは、ひとりぼっちになったナオミを見捨てることはできないと言い、一緒にベツレヘムへと旅立った。

苦しい旅の末にベツレヘムにたどりついた二人には、一切れのパンを買うお金も残されていなかった。ルツは、何とかして年老いた姑においしいパンを食べさせたいと思う。ちょうど麦刈りの時期だったので、畑に出て落穂を拾い、それを粉にして、パンを焼くことにした。イスラエルでは、収穫が済んだあとの畑で落穂を拾うことが、貧しい人たちの権利として認められていたのである。これはモーゼが定めた掟の一つで、ルツは貧しい人たちにまじって、毎日毎日落穂を拾い、ナオミに食べさせた。やがてルツとナオミの噂がベツレヘムの人たちの間にひろがり、ナオミの亡き夫の従兄弟ボアズの耳にも届いた。

ボアズはルツの人柄に感心して、彼女の様子を見たいと思った。そこで、そしらぬふりをして、彼女がせっせと働く姿を見ていたが、昼になると、彼女を食事に誘った。ルツは食卓に出されたパンのほんの一部を食べ、残りを年老いた姑のために持ち帰った。

ボアズはルツとナオミを助けようと、麦の借り手たちに言いつけて、あまり念入りに収穫せず落穂をたくさん残すようにした。あくる日も落穂拾いにきたルツは、持って帰れないほどの落穂を拾うことができた。ナオミは「ボアズがルツに好意を抱いているな」と思って、大変喜んだ。「自分はそんなに長く行きられない。嫁のルツの身の振り方が気がかりだ。妻に死なれてやもめ暮らしをしているボアズがルツをめとってくれたらいいのだが。ボアズも幸せになれるだろうし、このけなげで優しいルツも、立派な主婦になって、幸せに暮らせるだろう」、こんな思いから「どうか私が死ぬ前に、この二人が幸せになれますように」と祈るのだった。やがてこの願いがかなえられ、ルツはボアズと結ばれて、子宝に恵まれた。ナオミは初孫を抱いてから、この世を去った-。

ミレーの「落穂拾い」は、貧しいながらも落穂を拾って、けなげに生きるルツのイメージを伝えている。貧しさと厳しい労働に耐えている姿が痛々しい。背景の豊かな収穫は、貧しさを一段と際だたせている。この絵に描かれた姿勢で長時間働いていると、筋筋膜痛症候群になり、筋肉が痛むようになるだろう。長年前かがみの姿勢で農作業に従事していると、立ち上がるときに腰が伸びにくくなり、歩くと腰の痛みがひどくなる。五十歳を過ぎた農村の女性の背骨は農作業をするのに適した前かがみの姿勢に固まってしまい、いつもこの姿勢で歩くようになる。この絵を見ていると、心が痛む。

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