Category: 医学/医療

ピアニストの脳を科学する 超絶技巧のメカニズム

By , 2013年8月24日 6:46 PM

ピアニストの脳を科学する 超絶技巧のメカニズム (古屋晋一著、春秋社)」を読み終えました。

私は、演奏家がどうやって音楽を認識しているかや、音楽家の病気などに興味があり、たまに論文を読んでは過去にブログで紹介してきました。しかし、それらは断片的な知識の寄せ集めで、イマイチこの分野の研究の全体像が見えにくいところがありました。ところが、本書は最新の知見を織り交ぜつつ、体系的にこの分野を網羅して書かれています。きちんと文中に引用文献が示され、巻末には引用文献リストがついています。

一般に音楽認知のメカニズムに対するアプローチとしては、functional MRI, PET、脳波などが知られていますが、著者はこれらの方法を使った研究を広く解説しつつ、工学畑出身の人間であることを生かし、様々な機器を使ったアプローチを紹介しています。また、著者はピアノ演奏をされるそうで、ピアニストの視点がそこにはあります。私もヴァイオリン弾きとして、「あー、これは演奏する人間だったら実感できるな」なんて思いながら読みました。

内容は高度ですが、一般人向けに平易に書かれており、音楽好きの方に、今一番勧めたい本です。

(上記リンク先、アマゾンの書評も御覧ください)

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分子生物学に魅せられた人々

By , 2013年8月18日 4:25 AM

分子生物学に魅せられた人々 (日本分子生物学会編, 東京化学同人)」を読み終えました。分子生物学の創成期に活躍した先生が数多く対談されていました。遺伝暗号も同定されていなかった時代に活躍されていた先生も多くおり、時代を感じました。本書にはこうした研究者たちの波瀾万丈な研究生活が数多く収録されています。

私は基礎研究者ではないので、基礎研究者のことはあまり知らなくて、この中で話を聴いたことがあるのは田中啓二先生くらいですが、対談を読んでいて実際に話をきいてみたい先生がたくさんいました。とはいえ、元基礎研究者の知り合いに聞くと、「(本書に名前が出てくる) ○○先生は性格悪くて有名なんだけどね」なんていうのもありましたが・・・ (^^;

特に面白かった部分を引用します。学者向けの本ではないのでマニアックな記載は少ないですが、テクニカルタームを知らないと多少わからない部分があるかもしれません。分子生物学の勉強を始めたくらいの人に勧めたい本です。

2. 岡田吉美

岡田 もちろんいろいろあったけど、特に僕の場合は留学直前に中心性網膜症になり、大変だった。阪大の眼科では「仕事をしないで安静にしていなさい。留学なんてもってのほか。太陽光線にはなるべくあたらないように」と言われた。それで大学の仕事を休んで、黒い色眼鏡を掛けて、家の一番日当たりのない部屋でじっと座っていた。僕の人生で一番沈んだ何日かだったよ。

一ヶ月くらいしてね、山村先生の主催する班会議が大阪であって、僕は事務局をしていたので、「一日くらいいいだろう、出てこい」と呼ばれて、その班会議に出ていった。そこに九州大学の眼科教授の生井先生が班員でおられたわけ。班会議が終わって懇親会のときに、「僕は今すごく落ち込んでいるんです。実は云々・・・」という話をしたんだ。そのとき生井先生がいわれた言葉を今でもはっきりと覚えている。「君、中心性網膜炎は今の医学では何をしても治らないよ。だから、安静にしていても仕事をしていても結果は同じだ。くよくよしないで早く留学しなさい。中心性網膜炎は片方の目だけで、両目に広がることはない。目は一つあれば十分だ」と言われたんだ。それで僕は生き返って、次の日から元気をだしてまた留学の準備をして、最初の予定から二ヶ月ほど遅れて出発した。

3. 村松正實

濱田 僕が記憶しているのは、α-32Pの CTPをつくるのに、ポリヌクレオチドキナーゼが必要で、それを京大の高浪満先生のところにいただきに行って、それを使って無機リン酸からつくった覚えがあります。五〇ミリキュリーぐらいの無機リン酸を使って、胸に鉛のエプロンをして。

村松 ほんと。「ベータ線だからあまり深く入っていかないよ」なんて言いながら、実は二次放射能のガンマ線を浴びていた。

(略)

村松 僕にどこか誇れるところがあるとすると、若い人が伸び伸びと育ってくれたということだと思うんですよ。この前、僕のラボにいて教授になった人数を誰かが調べたら、三六とか三八ぐらいになるんだよ。

濱田 もう一つ気付いたことは、先生は研究室の人に対して怒ったことは一度もないですね。

村松 そうかな。ある時から、人に対して怒ったら負けだという考えをもったんです。これは僕のモットーです。「怒ったら負け」。つまり、怒るということは、ある人に対して適切に扱えなくなったということですよね。評価もしなくなったし、扱えないし、関係も保てないし、となるのが感情的に怒るということでしょう。だから、自分で気にくわない人にあったら、その点を論理的につかまえて率直に言うようにして、怒るというかたちではあまり表現しなかった。「これは駄目だよ、こうこうこうだから」ということは言いました。だけど怒らない。確かに若いころは怒ったり喧嘩もいっぱいしたけど、結局、長い目で見るとあまり得しないんだよね。結局、自分があとで苦い思いをすることになる。そうじゃなくて相手をうまく説き伏せることのほうが重要だろうと思った。

4. 志村令郎

志村 (※アメリカ留学時の話) 最初の試験は、まず外国語の試験でした。最初に課された外国語はドイツ語とフランス語なんです。ドイツ語は、決められた時間で長いドイツ語の文章を英語に直すこと。フランス語は試験官の先生が会話をやった。フランス語は習ってはいたので読むことは多少できましたが、話すのはできなかったので、だいぶ抵抗したんだけど、結局、駄目というわけでね。フレンチカナディアンの人が先生で、入っていくと「ボンジュール・ムッシュ」から始まってフランス語しかしゃべらないので、それでやっと五〇点くらいとったら「駄目だ、こんなものではパスしたとは言えない」と言うから、どうしたらいいのか聞いたら、「もう一つ外国語を取ることを命ずる」と。「次の外国語は何だ」と言ったら、「二つの選択肢がある。一つはスペイン語、もう一つは日本語である。どちらがとりたい?」と言うから、「できれば日本語をとりたい」と言ったら、わかってくれて日本語をとらせてくれた。

(略)

志村 ニーレンバーグが最初に発表したわけですが、当時、ニューヨーク大学のオチョア (S.Ochoa) 教授はそれを聴いて、学会が終わる前にニューヨークに帰ってきて、自分の研究室を昼間働くグループと夜働くグループと二つに分けて、休みなしにいろいろな配列の人工ポリヌクレオチドをつくって、コーディングの問題に取組んだわけです。

このことは、研究者の間では非常に顰蹙を買いました。ポリUとか、いろいろなポリヌクレオチドを人工合成するときに使った酵素は、マナゴが、オチョアのところに留学したときに見つけたポリヌクレオチドホスホリラーゼだったんですね。オチョアは、RNA合成の酵素だと決めてノーベル賞を貰ったんだけど、実は間違いで、後年の研究から、これはむしろ RNAを分解する酵素であることがわかったのです。ちなみに、ノーベル賞選考委員会は、DNAの複製酵素とRNAの合成酵素の発見ということで、それぞれ、コーンバーグ (A.Kornberg) とオチョアにノーベル賞を同時に授賞したのだけれど、両方とも間違っていたわけですね。

5. 吉川寛

吉川 その一方で、六〇年の末のことですが、バークレーでも学生運動の洗礼を受けました。大学教員の一員として学生から厳しい追求を受けました。しかし最も衝撃的だったのは学生に同情的に傾いた大学を弾圧するため、州兵が戦車を市街に繰り出し、ヘリでキャンパスに催涙弾をまき、最後は民家の屋根に追い詰めた活動家を射殺するといった暴挙を目撃したことです。リベラリストであった学長はレーガン州知事によって罷免され、運動は完敗で終わりました。アメリカはベトナム戦の泥沼に入っていったのです。私は改めて研究者と市民の両輪に等しく責任をもつことの重みを自覚して六九年に帰国しました。

(略)

吉川 一九九〇年に枯草菌国際会議がパリのパスツール研で開かれたとき、その会議の最後に突然欧州連合とアメリカでゲノムプロジェクトを計画していることが発表されました。寝耳に水の私は思わず立ち上がって「日本のグループを排除して国際プロジェクトと言えるのか」と激しく講義しました。なにしろ当時最もゲノム的研究をしていたのは開始点付近の一万塩基対の構造と遺伝子のアノテーションを発表した私たちだったのですから。

菅澤 外国人の人たちは相当驚いたそうですね。

吉川 普段物静かでおとなしい日本人と思っていたらしいので。いや、ほんとにびっくりしたらしいですね。でも私は言いたいことを言う方ですから(笑)。急遽われわれを含めて検討を行い、数時間後に改めて欧、米、日によるプロジェクトの発足を決めたのです。

6. 松原謙一

松原 ものすごかったね。真っ先に飛びついたのはお医者さんで、それぞれ自分の研究している病気の遺伝子がとりたいと。だから当時の研究室には外からどんどん右も左もわからないレイピープル(素人)がおしかけてきて、ガチャン、キャー(笑)。中にいた藤山君らは大変だったと思うよ。

藤山 おかげさまで(笑)。

松原 そのころ、予防衛生研究所の所長だった大谷明先生が「組み換え実験で B型肝炎ウイルスのワクチンがつくれないか」と来られたわけ。あれは当時は、何一〇リットルという患者の血液を使って、何十匹ものチンパンジーでテストしてつくるから、大変だった。僕は組み換え実験で何でもできると思っていたし、HBVはλdvのレプリコンと同じくらいのサイズだから、二つ返事で引き受けた。それで、熊本の化学及血清療法研究所から血清が送られてきた。

藤山 幸い、プローブがすっとつくれましたね。それと、公費で日本最初の P3施設ができていたので。

松原 P3は、僕が組換ガイドラインの委員だったから、作ってくれたんですよ。ところが・・・。

藤山 結局、大腸菌ではできなかったんですよね。

松原 そう。何でもできるはずの大腸菌で、どうしてもできない。考えられる理由は、DNAが悪いか、大腸菌ではできないか。B型肝炎の血液は、当時は日赤の規制があって入手できなくて、規制よりも前に集められた茶色くグジュグジュになったものがあった。あれは DNAが悪い可能性が十分にあった。

藤山 まず HBVクローニングにとりついた人は泣きながらで、最後のサンプルを使ってようやくコロニーハイブリダイゼーションでポツポツとシグナルが見えた。

松原 それでやっとクローニングして、シークエンシングして、大腸菌でワクチンにしようとしけど、てんとしてできなくて。だけど動物細胞に入れたら蛍光抗体で光ったの。じゃあ、大腸菌が悪い。だけど動物細胞はコンタミが怖いから、核のある酵母にしようと。幸い、阪大の東江昭夫先生が、酵母の発現用プラスミドもプロモーターもポイッとくださった。

藤山 それで案外早くできましたね。しかも電子顕微鏡でデーン粒子(患者血清中に見られるウイルス由来の構造)のような構造体が見えて。

松原 今でも僕は記念にその写真を持っているよ。あれは素晴らしい写真だものね。これはまったくのラッキーでしたよ。

藤山 とりあえずこれが、当時松原先生がおっしゃった、分子生物学が社会の役に立った最初の例ですね。

8. 堀田凱樹

広海 よく「科学は士農工商と進化する」と言っておられますが、その辺から。

堀田 昔は貴族、「士」の芸術だった。たとえばショウジョウバエや線虫には今でもその名残があって、論文は美しく完璧でないと駄目だよね。少々無駄をしても完璧を期するのが科学だった。やがて「農民」が出て来た。農民ってマウス、ね?高等で複雑で難しい。だからデータは完璧でなくても許される。「工」はテクノロジー。次世代シーケンサーとかがいろいろ進歩して。今は最後の段階で、「商」の時代に来ている。「役に立つ」から商売になる。そこでわれわれはどうすべきかという話だよね。

(略)

堀田 中井準之助先生が授業で、「読んだものをいちいち覚える必要はない。忘れようと思っても忘れられないものがみつかる」と言われた。また江橋節郎先生が「テーマを探すのなら終戦後のジャーナルを読みあさるのがいいよ」と。まさにそうだと思う。(略) 戦争中に研究ができなくて鬱積していた成果がどっと出たのが五〇年代で、そのころに面白い論文がいっぱいある。

13. 田中啓二

田中 僕の予想では二~三万の 20Sプロテアソームのバンドパターン以外に分子量一〇万程度の ATPアーゼのバンドが一本検出されるはずでした。ところが四万~一〇万の位置に十数本のバンドが見えたんですね。これには正直驚きました。しかし確信を深めて ATP存在下での酵素の精製に取組みました。そこで大量の ATPが必要になったので、ATPを市販しているオリエンタル酵母工業に一キログラム注文したんですね。そうしたらすぐに販売元から電話が掛かってきて、「先生、一〇ミリグラムの間違いじゃないでしょうか」って(笑)。当時堀尾武一さんという阪大蛋白研出身の人がオリエンタル酵母工業の研究所長をしていて、「そんなにおもしろいことがあるのなら・・・」といって、最初の一キログラムを無償で提供してくれたんです。世の中、気骨のある人物はいるものですね。僕は彼とは直接面識がなかったのですが、彼が編集した「蛋白質・酵母の基礎実験法」は、非常に優れた本で、繰り返し読み、多くを学びました。

水島 本当に一キロを使ったんですか。

田中 トータルで三~四キロぐらいは使いましたね。ATP存在下で精製すると、20Sプロテアソームと多数の調節サブユニット群から構成されたいわゆる 26Sプロテアソームが非常にきれいに精製できました。それが一九九〇年ごろですね。

(略)

田中 結局、このような不思議な酵素の存在は、不審感というか、疑惑の眼差しで見られていたのですね。その理由は、構造的な情報がまったくなかったからです。昔、タンパク質構造討論会というのがあって、現在の日本蛋白質科学会の前身ですが、そこでプロテアソームの話をすると、岩永貞昭先生が出席されておられて「田中さん、その酵素の構造を決めなければ駄目だよ。一次構造がわからなければ、プロテアーゼの本質なんか全然わからないじゃないか」と指摘されました。そこで、九大理学部に岩永先生を訪ね、分離精製したサブユニットの構造解析をお願いしに行きました。たくさんのサブユニットのデータを見せると、「田中さん、これらの構造をエドマン分解で決めていたら一〇〇年以上かかるね」と言われ考え込まれました。そのころ、京大の中西重忠先生が遺伝子工学技術を導入して数多くのタンパク質の一次構造を破竹の勢いで迅速かつ正確無比に決定しておられました。岩永先生は「この複合体の構造解析は、遺伝子工学を使ってやらなければ絶対に不可能だから、中西先生を紹介しよう」と言って、そこで電話してくれたのですが、なかなか電話が終わらずに、教授室で一時間ほど待たされたのです。それで電話が終わったら「中西先生があなたの話を聞きたいと言っているから、帰ってすぐに訪ねなさい」と言われたので、僕は喜んで京大に行ったんです。そうしたら、中西先生から、「君ね、僕はプロテアソームなんて知らない。僕のラボは全国から遺伝子クローニングを学びにきている人たちで満杯状態だから、あなたに割ける実験スペースなんてまったくない」と怒っておられて、「兎も角、君の話を聞くという返事をしないと岩本先生が電話を切ってくれないから、仕方なしによんだんだ」って(笑)。「これは拙い、協力して貰うことなどとてもできないのかな」と思いながら、中西研のラボセミナーで電子顕微鏡写真などの知見を交えプロテアソームについて必死に話しました。セミナーが終わった後、間髪をいれずに中西先生は、僕にこう言ってくれましたね。「田中君、セミナーの前に僕は何か君に言ったかもしれないけど全部忘れてくれ。生体内にこんなにも巨大で複雑な物質があるとは信じがたい。これは構造を決める必要がある。うちの全力をかけて応援する」と、セミナー前の雰囲気とは一変したご様子でした。それで「クローニングで一番優秀な垣塚(彰・現京大教授)をつける」というふうに決断してくれました。中西先生は自分の弟子でも何でもないのに、その後今日に至るまですごく応援してくれています。

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朽ちていった命

By , 2013年8月7日 12:18 AM

朽ちていった命 -被曝治療 83日間の記録- (NHK「東海村臨界事故」取材班、新潮文庫)」を読み終えました。涙なしでは読めない本でした。

この本は東海村での臨界事故をテーマにしています。ずさんな放射性物質管理が公然と行われる中で、大内久氏は初めての作業を上司から指示された通りに行い、チェレンコフ光を見ました。それは目の前で臨界事故が起きたことを意味しました。

事故翌日に行われた緊急被曝医療ネットワーク会議では議事録が残っていませんが、メモには 8 Svという文字が見られます。本書には、そこからの大内氏の闘病生活が詳細に描かれています。眼を見張るのが、ズタズタに引き裂かれた染色体の写真です。治療班は末梢血造血幹細胞移植を施し、移植細胞は生着しましたが、最終的には血球貪食症候群が全てを無に帰しました。また、ズタズタに引き裂かれた染色体から容易に推測出来る通り、脱落していく皮膚の再生は望むべくもありませんでいた。本書には見るも無残な皮膚の写真が掲載されています。彼の死後、司法解剖がなされました。筋線維のほとんどない筋病理の写真が印象的でした。彼のように、一瞬で染色体がズタズタに引き裂かれるような大量被曝をすると、現代医療では全く歯が立たないことがよく分かります。

この本は、放射線の恐ろしさを教えてくれるとともに、助かる見込みのない命に対して我々がどのように接するべきかを考えさせます。医学的な記載が非常にしっかりしているので医療従事者が読んでも違和感がありませんし、医学的知識がなくても読めるように書かれています。是非多くの人に読んでいただきたいです。

最後に、知り合いの先生からこの症例について記された論文・抄録を教えて頂いたので、紹介しておきます。

Brief Note and Evaluation of Acute-radiation Syndrome and Treatment of a Tokai-mura Criticality Accident Patient

Pathological Changes in Gastrointestinal Tract of a Heavily Radiation-exposed Worker at Tokai-mura Criticality Accident

2.東海村放射線高線量被曝事故における緊急被爆医療ネットワークの役割

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なかのとおるの生命科学者の伝記を読む

By , 2013年7月7日 5:51 PM

なかのとおるの生命科学者の伝記を読む (中野徹著、秀潤社)」を読み終えました。著者は一流の研究者で、豊富な資料はもとより、研究者としての自身の経験が所々織り込まれており、素晴らしい本でした。本書の資料となった伝記を大量購入してしまい、かさむ書籍代と、本を置くスペースの無さにちょっと後悔です。

いつも通り備忘録がてら、印象に残った部分を記します。ここに書いてあるのはごく一部なので、是非購入して読んでみてください。

第一章 波瀾万丈に生きる

1. 野口英世 一個の男子か不徳義漢か

・本書で紹介した「野口英世」の伝記著者プレセットの父親は、進行性麻痺の患者サンプルを野口英世に提供した精神科医であった。

・野口英世は不自由な左手で手袋ができなくて、実験中の事故で黄熱病に感染したらしい

・野口英世はかなり若い時期から梅毒に感染していた (おそらく渡米時)

2. グレイグ・ベンター 闘うに足る理由

・注意欠陥・多動性障害 (ADHD) と言われるくらい落ち着きがなかった。

・海軍に入った時の IQテストで 142と高い値を叩きだしたが、本格的に勉強を始めるまでは劣等生であった

・復員兵援護法の援助で大学に入って猛勉強した。医者を目指していたが、学生時代に PNASなどに論文を載せ、基礎研究の道に進み、大学院時代に Scienceなどに 12報の論文を掲載。

・DNAシーケンサが開発中なのを知り、最初の1台を購入することを ABI (Applied Biosystem) 社に申し入れる。そして不安定な装置を使いこなした。

・長年に渡り、ジェームズ・ワトソンとの確執があった。ワトソンとの確執で研究費が取れなくなったとき、バミューダトライアングルに航海に出かけて死にかけた。

・ショットガン法でショウジョウバエ、ヒト、マウスのゲノム解読を行った。2007年、人類史上初めて全ゲノム配列が公開された人間になった。

3. アルバート・セント=ジェルジ あとは人生をもてあます異星人

・第一次大戦に召集されたが、自分の左腕に発砲し、負傷者として戦線を離脱し、医師となった。

・純化した過酸化酵素にベンチジンと過酸化水素を反応させると濃青色になるが、レモンの絞り汁は過酸化酵素を含んでいても発色が一瞬遅れる。ジェルジはそのことから還元物質がレモンの絞り汁に含まれていると確信した。副腎機能障害のアジソン病の患者の顔色が黒くなることから、還元物質が副腎にあると思い付き、副腎から還元物質の粗抽出物を得た。この研究中に職を失い、自殺を考えながら出席した国際会議でビタミンの大家フレデリック・ホプキンスが研究を紹介してくれて、ホプキンスの研究室に務める事になった。

・副腎からの還元物質抽出は難しかったが、オレンジジュースから抽出・結晶化し、還元物質が C6H8O6の弱酸性の炭水化物であることを同定した。そしてイグノース (ラテン語の「わからない」を意味する「イグノスコ」+糖を示す接尾語) と名付けたが却下され、ゴッドノース (神のみぞ知る、の意) と名づけたが却下。結局、ヘキスウロン酸という名前で発表した。研究室に新たに参加したスワーベリにジェルジは「これがビタミン Cだと思う」とヘキスウロン酸を渡したら見事に当たりだったが、そのことを知ったスワーベリの旧師キングが先に ScienceにビタミンCの正体について短報を載せてしまった。しかし、先取権争いはジェルジに分があることは明らかであり、ノーベル医学・生理学賞はジェルジの単独受賞となった。

・クレブスが 1937年に TCAサイクルを発表したが、一つの重要な段階を見落とさなければ「セント=ジェルジサイクル」と呼ばれたかもしれないくらい、その解明に貢献した。

・ミオシン糸に ATPが加えると収縮するのを観察した。また、アクチンを発見した。

・ナチスドイツにユダヤ人の友人たちが処刑されたので、研究を中断して反ナチスの活動を開始した。ハンガリーの首相ミクロシュ・カーライの密使としてイスタンブールに行き、イギリスの諜報機関の長官と会った。ヒトラーはジェルジを名指しで罵倒し、ドイツに連行するように命じた逸話があるらしい。最終的に、ソ連のハンガリー侵攻を機として政治活動をやめ、アメリカに渡った。

4. ルドルフ・ウィルヒョウ 超人・巨人・全人

・ベルリンではフォン・レックリングハウゼンなど多くの弟子を育てた。

・プロシアの下院議員となり共和国を目指して民主主義を唱えてビスマルクと対峙するが敗れた。

・静脈炎・血栓は人工産物か死後変化とされていたが、肺動脈にみられる血栓は下肢から血流に乗って肺に達して詰まった塞栓であることを明らかにした。そして実験でも確認し、血栓症 (thrombosis) という用語を考えだした。

・1845年に解剖した女性患者は、血液が白く見えるほど白血球が増加していた。これまで、そのような患者は血中に膿が溜まる膿血症としてひとくくりにして診断されていたが、ウィルヒョウは臨床症状等から新たな疾患概念を考え、白血病と命名した。

・1870年に始めた考古学研究の初期には、当時地方で医師をしていたコッホと共に発掘作業を行なっていた (のちにはコッホの結核菌を否定するという過ちを犯し、対立することとなった)。

第二章 多才に生きる

1. ジョン・ハンター マッド・サイエンティスト✕外科医

・ジョン・ハンターは手術の名手で、御者の職業病であった膝窩動脈瘤の手術法「ハンター法」を開発した。また、哲学者デビッド・ヒュームの肝臓癌を診断したり、国富論で有名なアダム・スミスの痔の手術をした。

・銃創を受けた患者にはやみくもに手術を行うのではなく、何もしないほうが良いことが見出し、旧弊な治療法をはるかに上回る治療効果を上げた。手術には慎重で、「必要という以外はメスを入れない」だけでなく、「どうしても手術が必要だという状況でも、手術はしないほうがいい」という考えを持っていた。しかし、癌だけは手術で切除しないと駄目だと考えていた。

・兄の解剖学教室の助手としてキャリアを始めたが、遺体が手に入りにくい時代 (遺体一体の値段が、インド会社で働く船員の年俸を上回っていた) だったので、闇のルートを駆使して遺体を集めた。病院勤務時代には、勝手に病院から無断で遺体を持ちだして解剖していた。230 cmの巨人チャールズ・バーンの遺体がどうしても欲しくて、騙して棺に石を入れて遺体と偽り海に沈め、遺体を手に入れた。バーンの遺体はハンターのコレクションとなり、現在ロンドンのハンテリアン博物館にあるらしい。

・妊娠後期の遺体を入手して、血管に色素を注射し、母体と胎児の血流が完全に分かれていることを突き止めた。

・一方で、いかがわしいことを沢山していて、例えば雄鶏の蹴爪を雌鶏のとさかに植えたり、鳥の睾丸を腹に植え込んだり、ロバの額に牛の角を移植しようとしたり、絞首刑になった死体を生き返らせようとしたり、冬眠による不死化実験をして失敗したりした。

・ライデン瓶で電気ショックを与えて蘇生させた記録が残っている。帝王切開や人工授精も成功させているらしい。

・淋菌と梅毒が同じ原因で起きていることを証明しようとして、淋菌の患者の膿を自分に接種し、淋菌に引き続き梅毒に罹患した。このことで、両者は同じ原因だとハンターは考えたが、実際には膿を提供した淋菌患者が淋菌と梅毒両方に罹患していただけだった。

2. トーマス・ヤング Polymath-多才の人

・ヤングの時代には、眼の調節のメカニズムとして、レンズの位置が動くとするケプラー説と、レンズの形が変わるというデカルトせつがあった。ヤングはコンパスで自分の眼球の直接測定をして、デカルト説が正しいことを示した。

・他に、光の三色説や、光は波であり干渉現象があることを唱えた。ロゼッタ・ストーンの解読にも貢献をした。

3. 森林太郎 (鴎外) 石見ノ人 鴎外と脚気論争

・明治時代の軍隊では脚気が脅威であった。日清戦争では脚気患者数 40000人余り、戦死者 1000人弱、脚気による死者 4000人以上であった (海軍では白米を制限して副食を増やしたためほとんど発生せず)。台湾平定では兵員の 90%が脚気に罹患し、その 10%が死亡した。日露戦争では陸軍 108万人のうち、脚気患者 25万人、脚気による死者 27000人以上だった。

・森林太郎は、白米食が原因であることをなかなか認めようとせず、脚気患者の蔓延の一つの原因となった。

4. シーモア・ベンザー 「オッカムの城」建設者

・物理学者であったが、サルバドール・ルリアに会った日に生物学への転身を決意した。そして、バクテリオファージの研究をしたが、遺伝子業界が混み合ってきたことを原因に行動の原子論に進んだ。ショウジョウバエの行動変異体の解析をするうちに、periodと名付けた遺伝子座の異常で概日リズムの異常が起こることを突き止めた。70歳代後半からはショウジョウバエを用いた老化の研究を行うことになった。

・このベンザーの伝記を書いたワイナーは、「フィンチの嘴」という本でガラパゴス島の進化を紹介し、ピューリッツァー賞を受賞している。そして、筋萎縮性側索硬化症に冒された弟のためにベンチャー企業を立ち上げ奔走する兄の姿を描いた「命の番人―難病の弟を救うために最先端医療に挑んだ男」や、ハンチントン病の原因遺伝子を巡る「ウェクスラー家の選択」などの著書がある。

第三章 ストイックに生きる

1. アレキシス・カレル 「奇跡」の天才医学者

・21歳の時に、リヨンを訪れた大統領カルノーが暴漢に襲われ腹部大動脈損傷を受けて死亡した。カレルは血管を縫合すれば治療できたのではないかと考え、刺繍産業が盛んであったリヨンの職人に習い、「お針子の技術」を会得した。そして血管縫合の技術を確立した。

・1908年、カレルはニューヨーク州の医師免許は持っていなかったが、父親である医師の左手首の動脈と、その子の膝窩静脈を縫合し、輸血をして命を救った。

・1912年、「血管縫合および血管と器官の移植に関する研究」で、ノーベル医学・生理学賞を初めてアメリカにもたらした。

・カレルは宗教的奇跡を医学においても信じてしまい、病院勤務医資格を取ることができなかった。

2. オズワルド・エイブリー 大器晩成 ザ・プロフェッサー

・外科医として働いていたが、物足りなさを感じ、ホーグランド研究所で研究を始めた。ホークランド研究所では最初ヨーグルトの研究をしていたが、ボスが結核にかかったのを契機に結核の研究に転向し、ロックフェラー研究所に移ってからは、研究所の指示で抗血清による肺炎双球菌の治療法の開発に従事することになった。

・肺炎双球菌に対する特異的抗体を研究していたときに、肺炎患者の血清中に発病の初期に現れ、病気が回復すると消失する血清蛋白質を発見した。この血清蛋白質は肺炎双球菌の C多糖と反応して沈殿するので CRPと名付けられた。

・エイブリーらは、形質転換物質が DNAであることを同定した。

・エイブリーの共同研究者ハイデルバーガーは、100歳近くまで論文を書いており、論文を出版した最高齢者としてギネスブックにも認定されていた。ハイデルバーガーはラスカー賞も受賞している。

3. サルバドール・ルリア あまりにまっとうな科学者の鑑

・たまたま市街電車に乗り合わせて、車両が停電で止まってしまったため細菌学者ゲオ・リタと知り合い、バクテリオファージの研究をすることになった。

・1947年にインディアナ大学で受け持った最初の大学院生がジェームズ・ワトソン (DNA 2重螺旋モデルの提唱者) であり、同じ年にはモンタルチーニの紹介でダルベッコ (腫瘍ウイルスの研究で後にノーベル賞を受賞) も研究室に参加した。

・1950年、ルリアはイリノイ大学で大腸菌に T2ファージを感染させる実験をしていた。ある大腸菌の変異体は T2ファージの感染を受けても新たにファージは産生しない (ファージ検出用大腸菌を用いてもファージが検出できない) という奇妙な振る舞いをみせていた。ルリアはファージ検出用大腸菌の試験管を割ってしまい、仕方なく赤痢菌を用いてみたら、大腸菌変異体が産生したファージは赤痢菌には感染していることがわかった。つまり、ある大腸菌の変異体が産生した T2ファージは検出用大腸菌には感染できず、赤痢菌には感染できる特徴を持つ。これは、T2ファージが赤痢菌の中でしか増殖できないように「制限」され、「修飾」されたファージに変わっていることを意味する (ちなみに我々が実験で用いる制限酵素というのは、ある特定の塩基配列を認識することから名付けられたのではなく、この「制限」という現象で DNAを切断する酵素ということから名付けられたらしい)。のちに、「制限」という現象は菌の酵素によるファージ DNAへの攻撃であることがわかった。

4. ロザリンド・フランクリン 「伝説」の女性科学者

・ワトソンとクリックが DNAの二重螺旋モデルを提唱するにあたって、フランクリンの撮った DNAの X線解析の写真を盗み見していたという有名な話がある。クリックは世紀の発見について自分の立場から都合よく本にしているが、この章で紹介する「ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実」はそれをロザリンドの側から書いた伝記。

5. 吉田富三 鏡頭の思想家

・吉田富三は「吉田肉腫」に名を残し、日本の癌研究をリードした。この伝記の著者は、富三の長男で、大河ドラマ「太閤記」で最高視聴率 40%近くを叩きだした NHKのプロデューサーの吉田直哉氏。

・吉田富三は福島県石川郡の造り酒屋に生まれた。東京府立第一中学校を受験したが口頭試験で試験官が東北訛りを聴き取れずに不合格になった。私立の中学から第一高等学校に入ったが、そこでは堀辰雄、小林秀雄、深田久彌が同級だった。それから、父が何となく息子が医者になることを希望しているように見えたので、東京大学医学部に進学した。

・恩師は佐々木忠興だった。佐々木は 35歳で京都大学内科学教授に就任するも「町医者がいかに大切か」という考えから 3年で辞し、神田駿河台の杏雲堂病院長を父の政吉から引き継いだ (ちなみに政吉も東大教授だったが結核患者の治療のために 42歳で退職している)。そして私費による研究で帝国学士院恩賜賞、文化勲章を受賞した。佐々木は剣術の達人でもあり、16歳で北辰一刀流の目録を授けられている。

・吉田富三は佐々木の指示でアゾ色素を動物に与え、肝癌モデルを作り上げた。この研究は高く評価された。

・吉田富三は長崎医科大学病理学教授を経て、東北大学医学部に転任した。食糧難の時代、吉田肉腫 (発癌剤によりラットに腹水腫瘍を作ることに成功した) のラットを連れて柳ガレイの干物を与えながら移動したらしい。

第四章 あるがままに生きる

1. リタ・レーヴィ=モンタルチーニ

・子守であった女性が胃癌で死んだことをきっかけに、トリノ大学医学部に進んだ。しかし、それまで生物学を学んでいなかったので、コウモリと鳥の違いも知らなかった。

・トリノ大学医学部では、ダルベッコと同級生であり、一学年上にルリアがいた(モンタルチーニ、ダルベッコ、ルリアはいずれもノーベル賞を受賞している)。

・反ユダヤ人キャンペーン、そして人種法により職場から追放されて研究ができなくなり、トリノで「もぐり開業」をしていた。アメリカから帰国したばかりのあまり親しくない友人に叱咤激励され、自宅で鶏の神経発生の研究を再開した。論文はユダヤ人が投稿できないイタリアの雑誌ではなく、ベルギーの雑誌に投稿した。

・実験の材料であるニワトリの受精卵は「うちの赤ちゃんのために」と頼んで農家から入手し、実験後にはいつも料理をして食べていた。卵好きの兄はそのことを知ってから一切食べなくなった。

・論文がワシントン大学のハンバーガーの目にとまり、共同研究を誘われて渡米した。渡米する船はダルベッコと同じだった。

・シカゴではコーエンとともに神経成長因子 NGFの存在を見つけ、単離した。その 30年後にコーエンとともにノーベル医学・生理学賞を受賞した。

・自伝で研究者仲間のことを書いているが、唯一良くない評価をしているのが、DNA2重螺旋のワトソンである。

2. マックス・デルブリュック ゲームの達人 科学版

・天文学を学び、ついで理論物理学に転じた。ニールス・ボーアがデルブリュックに聴いて欲しいと伝えた「光と生命」の講演をきっかけに、生物学における相補性を研究し始めた。後に否定されることになる「遺伝子の突然変異の本質と遺伝子の構造について」という論文はマイナーなドイツ語雑誌に載り、たまたま別刷がシュレディンガーやルリアに渡った。シュレディンガーは「生命とは何か」という本で「デルブリュックモデル」として紹介した。

・デルブリュック、ハーシー (ハーシー・チェイスの実験 (DNAが遺伝物質であることを決定づけた) で有名)、ルリアの三人組「二人の敵性外国人と一人の社会不適合者」はファージ・グループを成立させた。この 3人は「ウイルスの増殖機構と遺伝物質の役割に関する発見」でノーベル医学・生理学賞を受賞した。

・デルブリュックはドイツの名門家出身の生粋のドイツ人だったが、反ナチスを貫き、戦後ドイツの科学者たちを助け続けた。

・デルブリュックはノーベル賞の賞金を色々な慈善団体に寄付した。そして「自分の成し遂げたことは他の人々のやっていたことと同じ程度であり、誰が受賞の対象になるかはむしろ運なのだ」と考え、受賞を祝ってくれた人に贈ったのは平家物語の冒頭「祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」であったという。1981年、多発性骨髄腫で死去。

3. フランソワ・ジャコブとジャン・ドーセ フレンチ・サイエンティスツ

・ジャコブはもともと理工科学校が第一希望だったが、受験教育をあと 2年受ける必要があったので、医学部に進むことにした。しかし、ドイツ軍のパリ侵攻が近づくと、行き先もわからない船で密航し、難民として収容されたイギリスで自由フランス軍に元医学生として加わった。その後勉強し直して 1947年に医師となったが、右手の負傷のため外科医となることを諦め、30歳間近にして基礎研究者を目指すことになった。

・ジャコブはエリ・ウォルマンと共に、大腸菌の接合に関する実験を始め、二人はプロファージを持っているオスの染色体がメスに伝達されると伝達されるとファージ増殖が生じるという「エロティック誘発 (接合誘発)」という現象を発見した。さらに接合中の大腸菌をミキサーでひきはがすという「性交中断実験」から、オスの染色体がスパゲティーのように順々にメスに伝達されていくことも明らかにした。

・サバティカル (研究休暇) でジャック・モノ―の研究室にいたアーサー・パーディーと 3人でパジャマ実験 (PaJaMaは 3人の頭文字) を行い、乳糖によるガルクトシダーゼの誘導は乳糖のレプレッサー抑制によることを見出し、この現象がエロティック誘発と本質的に同じであるという考えから、レプレッサーが DNAに直接働きかけるに違いないと思いついた。モノ―にこのアイデアを伝え、最終的にオペロン説が確立されていった。

・ジャコブが 80歳近くに上梓した「ハエ・マウス・ヒト」という本は、「確実に予見できる出来事が一つだけある。それは、自分がいずれ死ぬということである」というところから論が起こされる。

・ジャン・ドーセはフランスのブルジョワ家庭に生まれた。医師であった父の勧めで医師になり、卒業後北アフリカの野営地で病院勤務についた。帰国後は病院の輸血センターに勤務し、新生児交換輸血などに従事した。

・ドーセは戦後サンジェルマン・デ・プレに妻ニーナとともにドラゴン書店を開店した。この書店はダダイズムの父トリスタン・ツァラがきたことなどから次第にアート・ギャラリーに変身していった。

・1952年、輸血した白血球に対して抗体ができることから、ドーセは白血球にも赤血球と同じような型が存在することを見つけた。しかし、画廊経営や医学改革が忙しく、発表するまで 6年かかった。

・臓器移植の黎明期、ドーセはボランティアに皮膚移植を事務所でさせてもらい、他の研究者の結果もあわせて白血球の型と組織移植の型が同じであることを突き止めた。そして白血球の型と組織移植の型が同一であり、移植に対して決定的な意味を持つことが証明された。その型は「HL-A」と名付けられ、後にハイフンが取れて HLAとなった。1980年、ドーセは「免疫反応を調節する細胞表面の遺伝的構造に関する研究」でノーベル医学・生理学賞を受賞した。

・かつての画廊の大得意であり、その財産である絵画コレクションをドーセに遺贈することになっていた一人の大金持ち女性の遺志により、CEPH (ヒト多型性研究センター) を設立することができた。ここでダニエル・コーエンとともに、「ヒトゲノムの遺伝的地図」の作製にとりかかった。

4. 北里柴三郎 終始一貫 (研究編)

・北里柴三郎は熊本医学校で学び、師のマンスフェルトの助言で東京医学校 (後の東京帝国大学医科大学校) に入学した。そして内務省衛生局に就職、長崎でのコレラ患者からコレラ菌を確認、純粋培養に成功した。その後、内務省からのドイツ留学生としてコッホ研究室に所属するようになった。ちなみにこのときに文部省からドイツ留学したのがジョン万次郎の息子で金沢医学校長であった中浜東一郎である。

・コッホの元では破傷風菌の研究をしていたが、純粋培養が出来ず苦労していた。ある日、研究所仲間の下宿で Eierstichという玉子豆腐のような料理を作るとき、奥の方が固まっているかどうか確かめるのに串を刺しているのを見て、破傷風菌は体の奥の方で増殖するのだから固形培地の奥の方に接種してやれば培養できるのではないかと予想し、うまくいった。このことから、破傷風菌は「嫌気性菌」であると推定した。

・培養した破傷風菌を接種すると確かに破傷風を発症するが、その症状の原因となる組織 (神経や筋肉) には破傷風菌が存在しないことの理由がわからなかった。北里は破傷風菌を取り除く濾過装置を考案し、その装置を二回通した破傷風菌の培養液をラットに注射したところ、破傷風と同じ症状が出た。そのことから、破傷風の症状は破傷風菌そのものではなく、破傷風菌の産生する毒素によることを見出した。

・次いで破傷風毒素を少量から漸増する実験をした。するとかなり大量まで耐えられるようになることがわかった。つまり、破傷風毒素に対して産生される物質によるものではないかと考えた。そして、血液中には破傷風毒素に対する「抗毒素」が存在し、それに基づくと破傷風の抗血清療法が可能であるという発見をした。

・北里はエミール・フォン・ベーリングと共にジフテリア抗毒素の研究をし、連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の実現について」として論文を発表した。その次の号には何故かベーリング単名で「動物におけるジフテリア免疫の実現についての検討」と題した論文が掲載された。1901年、第一回ノーベル医学・生理学賞はベーリングのみが受賞し、北里が受賞できなかったことは謎とされている。

・北里は外国人として初めてプロシアから Professorの称号を受け、ケンブリッジ大学やペンシルバニア大学から破格の条件で招聘をされたが、「日本国への報恩のため」断り帰国した。しかし、脚気細菌説を批判したことなどから、日本では風当たりが強かった。

・香港でペストが流行った時、政府は北里と青山胤通を派遣した。北里と青山には、学生時代、教授の質問にうまく答えられなかった青山を北里が笑ったので、青山が手に持っていた大腿骨の頑頭で北里の頭を殴ろうとした因縁があるらしい。香港では青山が解剖、北里が細菌学的解析を行い、ペスト菌を発見して Lancetに報告した。1894年6月12日に香港到着、14日に調査開始、18日に病原菌同定という超早業だった。数日遅れでフランスから派遣されたパスツールの弟子イェルサンもペスト菌の同定に成功した。北里はグラム染色の結果を明言していなかったため、そのことを森林太郎らに執拗に攻撃され、「エルザンの言ふ所の原因が正しいものと云ふことを躊躇せずして同意を表するものであります」と表明する羽目になり、ペスト菌はイェルサンの名前から Yersinia pestisと命名された。

・志賀潔 (赤痢菌 Shigellaに名を残す) は北里のペスト菌発見の演説会を聴いて感動して北里の弟子入りをした。そして下宿を引き払い、研究所の片隅に寝床を作って研究を続け、1年で赤痢菌を発見した。志賀は慶応義塾大学教授、京城帝国大学総長などを務めたが、晩年、戦争で妻、長男、三男を亡くし、空襲で一切の財産を失い、郷里に近い海岸の草屋で研究とも社会とも没交渉な生活に陥っていた。志賀は「自分の仕事と社会との関係」について問われ、「これに対する私の答はすこぶる単純である。自分の選んだ学問を通して皇国の弥栄と人類の福祉に貢献すること。それだけである。しかして自分の五十年の仕事は貧しいながらそのための捨石にはなり得たであろう。これが私の自らひそかに慰めとするところである」と答えている。

5. 北里柴三郎 終始一貫 (スキャンダル編)

・1914年10月5日に「萬朝報」、翌日に「東京朝日新聞」に伝染病研究所が東京帝国大学への移管が報道され、北里は烈火のごとく怒り、19日に「脳神経衰弱」の診断書を添えて辞表を提出した。北里の辞職に伴い、部長、助手、事務長から畜丁に至るまで自発的に辞職し、新たに設立された北里研究所に移って行った。北里は伝染病研究所に全てのものを残していったが、唯一、崇拝するコッホを祀った「コッホ神社」だけを持ち去った。

・この移管を断行したのが東京帝国大学総長の山川健次郎だった。山川は会津藩に生まれ、白虎隊の一員として戊辰戦争を迎え、鶴ヶ岡城の籠城を経験した。その後謹慎中の猪苗代から越後に脱走して、死に物狂いで勉強して渡米し、エール大学を卒業して帰国。48歳で東京大学総長に就任した。他の教授の政治的発言で辞任するが、九州帝国大学の初代総長を経て、東京大学総長に返り咲いた。

・北里は時の宰相の伊藤博文と競り合って「とん子」という女を落籍したが、そのことを東京朝日新聞にすっぱ抜かれた。その後、長男俊太郎が芸者と心中事件を起こし、自分だけ助かったことから大スキャンダルとなった。北里は即日、北里研究所以外の公職すべてから身を引くことを決断した。北里は「この不始末は教育者として自決の外に途はない」と慶應大学医学部長から辞任しようとしたが、「700名に及ぶ連署の血判状」を持参した学生の涙の訴えで職を続けることになった。

 

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鼻の先から尻尾まで

By , 2013年5月28日 8:00 AM

鼻の先から尻尾まで 神経内科医の生物学 (岩田誠著、中山書店)」を読み終えました。

「チンパンジーとヒトの嚥下の違い」とか、「4億年前のケファラスピス (Cephalaspis) からヒトの頭はどのように進化を遂げたか」という視点で人体を考えたことがなかった私にとっては非常に衝撃的な内容でした。様々な表現型が提示されながら、ゲーテが言う所の『』が解き明かされていくのを読みながら、感動を覚えました。こういう眼でヒトが見られれば、日々の臨床がもっと楽しくなることは間違いないと思います。

著者が主張するのは観察すること、体験することの重要性です。

私がこんなお遊びのようなことを教室で行ったのは、自分の身体機能の観察こそが臨床観察の基本だということを、学生たちに知ってほしかったからであり、患者さんの診察に入る前に、まずは自分の体はどうなっているのか、自分の体の働きはどうなっているかを、とことん観察する習慣を持ってほしいと思ったからである。物事をじっと観察すると、いくらでも面白い事実に気づくことが出来る。教科書に書かれている知識としてではなく、自らが体験した事実としての知識を身につけるような教育を行わなくては、良医は育てられないというのが、私の教育の信条だ。

本書は各項数ページの読みやすいエッセイ集です。多少の医学的、生物学的知識は必要ですが、理解できる範囲で読んでも、楽しめると思います。読むと「神経内科ってこんな面白いものを見ているんだ」と感じて頂けると思います。お薦めの一冊です。

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失われた世界

By , 2013年5月11日 9:48 PM

失われた世界 -脳損傷者の手記- (A.R.ルリヤ著, 杉下守弘・堀口健治訳, 海鳴社)」を読み終えました。ルリヤの本は、以前「偉大な記憶力の物語」を紹介したことがありましたね。

この本は、ドイツ軍との戦争で銃弾によって優位半球の頭頂葉を中心に破壊されてしまった男性及びその日記を扱っています。彼には視野障害、失語、左右失認、失算などの後遺症が残存しました。しかし彼は想像を絶する努力をして忘れたことを再学習し、直ぐに消えてしまう単語を探しながら少しずつ日記を付けました。彼が失った能力は多かったものの、おそらく前頭葉に損傷がなかったため人間らしさが失われることはありませんでした。ルリヤは次のように記しています。

負傷によって彼の脳は回復しえない損害をこうむった。彼の記憶力はことごとく抹殺された。彼の知識は無数の断片に細分されてしまった。治療によって、また時の経過によって、彼の生活を取り戻し、そして彼は無数の断片を集めて、ある記憶をとり戻す仕事を始めた。「忘れられた世界」と自分で呼んでいた彼一人の世界に彼は置かれていたが、彼は今までの生活をとり戻し、社会にとっても有益な人間にもどろうと、不変の希望をもって仕事を続けた。

しかし負傷は思いがけない結果ももっていた。それは、彼が体験してきた世界はこわされずにそのまま残されているということであり、彼の熱心さも失われず、彼の人間として市民としての個性を保持させていたことである。

彼は「忘れられた世界」 (物忘れする世界) から自分をとり戻すべく闘った。前進することはときおりきわめて困難であり、自分の無力さを感じることもあった。しかし彼には想像力が残されていた。幼年時代のときと同じように、彼は森も湖もその像を描くことができる。

これは、脳の他の機能は完全に破壊されたが、ある種の機能がそのまま残ったゆえになしえた例であった。

その結果、簡単な会話や、多くの文法構造については理解できないが、彼の歩んできた人生の驚くほど正確な記述を私達に残したのである。この日記を一ページ書くことは、彼にとっては超人的な努力を要することであるが、彼はそれを何千ページも書いたのである。彼は基本的な問題に対処することはできなかったが、自分の過去を生き生きと記述することができたのである。さらに、彼は強力な想像力、つまりきわ立った空想力や感情移入の能力を持っていた。

(略)

彼の内部にある力は完全に保持されているといえよう。この人を特色づける、道徳的な個性、生き生きとした想像力といったものは今も十分に価値があり、精彩をはなっている。それは、けがによってもなくならなかった。

この人の脳には、未だわれわれの器官では見分けることのできない、驚くべきものがある。一方の脳の部分は徹底的に破壊されながら、精神的な生活は残っている。弾の破片は他の部分を破壊せずに残し、彼が今までもっていた可能性は完全に保持させている。

この力が残っていたことが、彼に、理解できなくなってしまった世界に取り組む闘いを可能にし、精神的な強い個性を彼に与えたのであった。

ロシア語が元なので、日本語に訳した結果わかりにくくなってしまった部分はありますが、比較的読みやすい本です。訳者はあとがきを「本書は、軽度の失語症患者の音読練習の資料としても使用できるように、翻訳は平易になるように努め、また読みやすくするため行間を若干広くとった」と結んでいます。専門家にとって失語症の患者さん残した貴重な資料であることは勿論ですが、彼と同じように高次脳機能障害と戦う患者さんにも勧められる本です (少し難しいかもしれないけれど・・・)。

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おもしろ遺伝子の氏名と使命

By , 2013年5月8日 4:00 AM

おもしろ遺伝子の氏名と使命 (島田祥輔著、オーム社)」 を読み終えました。遺伝子には変な名前がついたものがあり、命名の由来を紹介した本です。勉強になることに、全て元文献が記されており、遺伝子の機能も概説してあります。

下記のリンク先に書評があります。私はこれを読んで購入を決めました。届いてから読み終えるまで、あっという間でした。お薦めの本です。

『おもしろ遺伝子の氏名と使命』 新刊超速レビュー

ちなみに、この本には載っていない遺伝子名のトリビアを一つ。

『回り回っても,一途に挑む事』

当時,日常的に細胞癌化アッセイ(Focus formation assay)を行っていたが,ある日たまたまアッセイ用細胞が余ったので,この遺伝子を導入してみた。2週間後驚いた事に,廃棄予定遺伝子が,繊維芽細胞の癌化を著しく促進した。自らの腕を疑ったわけではないが,実験が一番上手だった女子学生に,先入観を与えないために何の情報も教えず同じ実験を行ってもらった。彼女も,全く同じ結果を出した。この時は,廃棄ゴミの中から宝物を探し出した気分だった。その遺伝子は,脳,精巣,心臓で発現が高かったが,癌化促進機構は理解できなかった。しかしながら新規遺伝子であった事から,簡単なレポートを投稿する事にした。
新規遺伝子の場合,論文投稿前に,話しやすく,他人にも印象深い名前を登録する必要があった。そこで,当時この実験に従事していた大学院生Daisuke君とJunkoさん二人に敬意を込め二人の頭文字をとり「DJ-1」と名付けた。実は漫才コンビ名に触発されこの名前が思い浮かんだ。

この通り、パーキンソン病の原因遺伝子の一つ “DJ-1” は、Daisuke & Junkoの頭文字から命名されました。

DJ-1が初めて報告された論文の筆頭著者は Daisuke Nagakubo氏。ところが論文では著者名、本文中、どこにも Junkoさんの名前は出て来ません。Junkoさん、遺伝子に名前を貸してあげたのに表に名前が出ないのが、ちょっと可哀想・・・ 。いや、むしろ遺伝子に名前が残ったから、これで良いとすべきか?

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祖父・小金井良精の記②

By , 2013年5月2日 7:35 AM

2013年4月24日に「祖父・小金井良精の記(星新一著、河出文庫)」の上巻について書きましたが、引き続いて下巻を読み終えました。後半は良精が付き合った人物など、細々としたことを中心に、晩年を綴っています。名前を聞いたことのある学者達がたくさん出てきて、「この人にはこんな一面があったのか」と楽しく読みました。初めて知る話が盛りだくさんでした。

・教授の停年の規定は、良精が働いていた頃はなかった。 64歳であった大正 10年、良精が言い出し、引退の規定を定めることとなった。

・欧州大戦に敗れ、ドイツは窮乏の状態にあった。ワルダイエルの遺族は多量の医学書を金にかえる必要があった。古在総長に掛け合うと、3年の年賦で金を支出するとのことで、東大で引き取ることができた。(ワルダイエル文庫は東大の図書館の蔵書となったが、良精存命中は、誰かが読もうとすると良精がじーっと後ろで立って本を傷めないか見ていたらしい。極めて優れた歴史的な書がたくさん含まれていたが、最近になって東大図書館からどこか別の場所に移されてしまい、研究者が気軽に読むことはできなくなってしまった)。

・大正 11年、森鴎外の死去の際の良精の日記。「出がけに千駄木に寄る。林太郎氏、昨日来、少しく浮腫をきたせり。かつ看護婦きたり、まったく臥床のよし。於菟へ、森氏の模様そのほか種々を書きて、手紙を出す (7月3日)」「朝、電話にて額田晋氏に森氏の容体をたずねる。去る二九日、はじめて診察したるよし。萎縮腎は重大ならざるも、他に大患あり。ただしこれは絶対秘密云々。ついにこれをもらす。左肺結核。症をいまだかつてあかさざりしこと、これがためか。・・・七時ごろ家に帰る。額田氏きたる。面談、詳細 (7月6日)」「教室。時に家より電話あり。ただちに千駄木に至る。森氏の容体、悪化に驚く。昨夜おそく額田氏来診したりと。今朝はいまだし。電話にて呼ぶ。きみはすでに先に来りおる。賀古氏と病室に入る。年号起源調査のことにつき『ふたたびこれにかかるようになれば・・・』じつに、これ最後の言なりき。秋田へ電報を発す。夕刻には、はや精神明瞭を欠く (7月7日)」

・松沢病院の歴史について。明治12年に東京府癲狂院が東大のすぐ近くに出来た。我が国初めての精神病院で、初代院長は長谷川泰。巣鴨に移転し、巣鴨病院となった。東大精神病学の初代教授は榊俶で、院長を兼ねた。榊の死後は呉秀三教授、三宅鉱一郎助教授が後を継いだ。大正 7年、広い土地を求めて松沢に移り、松沢病院と改称された。

・良精は昭和 2年 6月 20日、70歳の時に天皇の御前で講演を行った。天皇は 27歳であった。本邦の石器時代の民族、すなわち先住民族はアイヌであるという内容であった (要旨が本書に収録されている)。良精は腎臓の持病があり、頻尿の症状があった。講義中非礼がないように、講演当日、朝食の際に水分を摂取しなかったという。

・昭和天皇は皇太子時代に半年間のヨーロッパ旅行をしたことがあり、その際は内科第一講座教授で附属病院長を兼ねていた三浦謹之助が随行した。

・学士院会員達と昭和天皇のご陪食の時の会話。昭和天皇が研究論文をイギリスの学会に送り、論文を別送した旨を伝えたが、論文が途中で紛失されたらしく、再送することになった。

・金田一京助はアイヌ語の研究をしていたため、同じくアイヌ研究者である、良精の部屋に遊びに来ることもあった。

ニール・ゴードン・マンローは病苦と生活国あえぐアイヌの悲惨さに心を打たれ、日高二風谷のアイヌ診療所にとどまることにし、アイヌ研究の原稿で得た金で薬などを購入し、医療活動をつづけた。昭和 12年にチヨと結婚したが、第二次大戦の戦火がひろがるとともに本国イギリスからの送金が絶え、栄養失調で病床に伏し、79歳で息を引き取った。良精とはアイヌ研究を通じて親交があった。マンローは軽井沢で病院をやっていたこともあり、堀辰雄の小説「美しい村」に登場するレエノルズ博士はマンローがモデルだと言われているらしい。

・良精は揮毫はほとんどしなかったが、長与又郎氏から請われたとき、「真理」と揮毫した。長与又郎は病理学の教授で、のちに医学部長を経て東大総長にもなった。父は緒方洪庵の弟子の長与専斎で、弟は白樺派の作家長与善郎である。

・長岡藩の山本勘右衛門は小金井家に養子に来て小金井良和を名乗っていた時期がある。そのため山本家を継いだ山本五十六と小金井良精は家柄的に非常に近いものがある。そのことを話す目的で、良精と山本五十六は昭和 11年 1月 19日に面会した。良精 79歳のとき。ちなみに五十六は養子として山本家を継いだのであり、元々は高野貞吉という長岡藩士の 六男だった。

・昭和 19年 10月 16日朝、良精は自分で指を組んで胸の上に置いて「このまま逝きたいなあ」と言っていた。家族が順番に問いかけると答えていたが、最後に孫が問いかけると返事がなく、手首を握っていた次男が「お脈が絶えました。ご臨終です」と言ったのが 6時 35分だった。

・死後の解剖の結果、良精を生涯悩ませてきた血尿の原因は、膀胱と腎臓の結核だと判明した。死因は肺結核であり、空洞の周りに繊維素肺炎がみられた。三浦謹之助は生前から血尿の原因を結核だと診断していた。しかし本人が落胆するといけないので知らせていなかったらしい。

昭和 2年 4月 28日に良精は健進会 (医学部学生への課外講演会) で「日本医学に関する追憶」という講演を行いました。「ぼくももはや老齢であって、ふたたび諸君の前で、このような話をする機会があるや否や。恐らくは、なかろうと思うからして、今夕に話したことは、ぼくの遺言として聞いて下さってよろしいのである」と結んでいます。要約が本書にあるので、最後に引用します。

 しかしながら、研究の方面はどうであるかというに、この点については遺憾にたえない。ここの医学部のみならず、他の大学、医学者一般に関することである。

学者たるもの、その専攻の分野で、その進歩につくしたことを残さねばならぬ。世界の医学文献に、日本の学者の名が見えねばならぬ。しかし、その数ははなはだ少ない。海外にあって、それをなした日本人はあるが、それは事情がちがう。

学者が日本という環境のなかで、独力で具体的な業績をあげてもらいたいのである。ドイツには、学位論文は業績とはみなさぬという規則の学会がある。わが国では、学位を取れば研究終了という人が多すぎる。外国とくらべ、真の研究者が少ないと痛感する。

研究者の少ない一因は、社会的なむくわれ方が薄いからであろう。改善せねばならぬことだが、大問題なのでいまはふれない。

清貧に安んずる。現実には、口で言うほど容易なことではない。研究とは、注目されることの少ない、地味な仕事である。しかし、真理をめざし、思考と実験を反復するなかには、金銭でえられない味がある。また、業績を発表し、海外の学者から反響があると、こんなに楽しいことはない。

研究の成績は、才能ではなく、努力によるところが大きい。それだけのことは必ずある。日本の医学は、移植時代から、研究時代に入って四十年ちかくなる。世界の水準に達するのが目標である。そのために、純真な研究者が多くあらわれるのを熱望してやまない。

奇怪なことには、日本の研究者のなかには、途中で研究を中止する者がある。また、医学からはなれ、政治家や実業家になる者もある。努力不足の人といわざるをえない。その分野で社会につくしているともいえるが、学問の側からいえば、かかる人は不忠者である・・・。

研究に身を捧げた良精らしい講演ですね。

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祖父・小金井良精の記

By , 2013年4月24日 7:40 AM

祖父・小金井良精の記(星新一著、河出文庫)」の上巻を読み終えました。星新一の本を紹介するのは、「人民は弱し 官吏は強し」以来ですね。

小金井良精は明治~大正時代を代表する解剖学者で、初期の頃の東大医学部長も務めていました。星新一にとって、母方の祖父にあたります。祖父に対する愛情の漂う本です。

本書の前半は小金井家の先祖たちについて述べられています。それを読むとまず江戸時代の養子の多さに驚きます。星新一が「家とはなんであるか。濃い血液でつながらず、家風だけが伝えられていく」と述べている通りです。以前紹介した宇田川家でも養子が家を継ぐ事例がいくつかあったのを思い出しました。池波正太郎氏は、こうして家の中に血の繋がらない人間がたくさんいることが、江戸時代に礼儀作法がうるさかったことの原因の一つだったのではないかと考えていたようです。

小金井家は長岡藩の出自、それも家老の次男が養子に来たこともあるほどの家柄でした (山本家からの養子小金井良和は、後に本家に戻されて山本勘右衛門と改名して家老になった)。小金井良精の父、小金井儀兵衛良達は小林虎三郎の妹と結婚したのですが、小林虎三郎は「米百俵」の逸話で知られています。司馬遼太郎の「」でも、小林虎三郎は有能な人物として描かれていますね。ちなみに司馬遼太郎の「峠」は私が高校生時代最も好きな小説で、この手の話を語ると長くなるのでやめておきます。

江戸幕府は外国事情を調べるため洋学所を作っており、それが後に蕃書調所、洋学調所、開成所と名前を変え、明治時代には大学南校となりました。良精は上京して大学南校に入学しましたが、突然退学となりました。原因は不明ですが、著者は「良精は朝敵の藩ということで、からかわれ、それに反発して、なにかことを起こしたのかもしれない」と推測しています。結局、良精は大学東校に入ることにしました。東京大学医学部の前身です。当時の校長が長谷川泰で、長岡の人だったのが入学を後押ししたようです。校則では、満15歳以上でないと入れなかったのですが、良精は当時 13歳 11ヶ月。サバを読みました。しかし首席で卒業しました。成績優秀につき、ドイツ留学を果たします。

その後彼がどういう人生を歩んだかは、実際に本書を読んで頂くのが良いと思いますが、備忘録代わりにいくつか印象に残った部分を書いておきます。

・良精は「よしきよ」と読む。ローマ字表記でも、本人はそう書いている。しかし、星新一は「りょうせい」と発音していた。家庭内で本人を呼ぶ時は「おじいさん」であった。

・良精がドイツ留学する直前に血尿が出現した。泌尿器系の症状は、その後生涯つきまとうことになった。良精は留学前に小松八千代と婚約し、帰国後結婚したが、八千代は妊娠に伴った疾患で死亡した。小松家の親戚に当たる原桂仙は、北里柴三郎の留学についても色々運動をしていた。

・良精はドイツではワルダイエルに師事することになった。ワルダイエルは神経説を提唱し、ニューロンという語を生み出した学者である。さらにフレミングが発見した物質に対して染色体と名づけたことでも有名である。また、エールリッヒの師でもある。良精はまず鳩の眼球を用いて解剖学の手ほどきを受け、本格的な研究に進んだ。暇な時はオペラ「タンホイザー」や「カルメン」などを鑑賞にも出かけたりしていたらしい。

・良精はドイツ時代、ウィルヒョウと良く面会し、家庭に招かれもした。

・良精は帰国後帝国大学教授に任命された。明治 17年の東京地図では、東大構内のほとんどが空地で、数えるほどの建物しかなかったことがわかる。

・東大精神科初代教授は榊俶。良精とはドイツ以来の親友だった。41歳で死去し、遺言で解剖された。医学部の教授が死後体を解剖に提供し、剖検を受けるという慣習は、榊俶から始まったようである。

・良精は森鴎外の妹の喜美子と結婚した。彼らが東片町で住んでいた家は、後に長岡半太郎が住むことになった。

・良精はアイヌの研究をしていた。そして日本人のルーツはアイヌ民族と南方から来た民族との混合であるとの説を唱えていた。良精はアイヌのことをアイノと記載していたが、アイヌの人達の発音が「アイヌ」と「アイノ」の中間のように感じていたため。

・ウィルヒョウはアイヌ人の人骨を入手し、頭骨の後下方の穴を削って大きくした人工的な跡があることを 1873年のベルリン人類学会誌に報告した。良精が入手したアイヌ人の骨も同様であった。何故このようなものがみられるのかは不明であったが、釧路でその謎が解決した。アイヌ人の人夫が頭骨から脳髄を掻き出して食べるところを見かけたからであった。どうやら、梅毒の治療薬として人の脳を食べていたらしい (明治時代の出来事)。

・良精は、ドイツから森鴎外を慕って来日した女性と森鴎外の交渉役を務めた。ちなみに森鴎外の処女作は「舞姫」で、日本人留学生とドイツ人女性との恋物語である。

・良精は 34歳の頃、囲碁に熱中していた。36歳の頃、東大医学部長となり、雑務が増え囲碁どころではなくなった。衆議院の予算委員会に呼ばれて解剖体の数についての質問に答えることもあった。

・良精は 35歳のとき明治生命で保険に入ろうとしたが断られた。

・41歳のとき、医師の権利をまもる目的で医師会法案が提出されたが、良精は玉石混交の医師の会に法的地位を与えることに反対した。そのための文章を森鴎外に書いてもらった。その法案は衆議院を通過したが、貴族院で否決された。

・43歳のとき、パリでの万国医事会議に委員として参列することになった。それに際して、医学部の建築費を受け取り、医学部改築のための視察をヨーロッパ各地、アメリカに行った。この時野口英世にも会っている。

・原桂仙が亡くなった時、遺児の世話を北里柴三郎とともに行うよう遺言で頼まれた。

・明治 27年、香港でペストが流行した。そこで良精は臨床と病理部門から青山胤通、細菌学の部門から北里柴三郎を派遣することを決めた。北里柴三郎は患者や死者から一種の細菌を検出し、培養及び動物実験を行なってペスト菌と認定した。そしてランセット誌に発表した。青山胤通は感染し、死の一歩手前まで行った。

・北里柴三郎は留学から帰国した頃、伝染病研究所の設立を説いて回った。事態は進展しなかったが、福沢諭吉が土地建物の援助を申し出て、実業家の森村市左衛門が設備と危惧の資金を出したことがきっかけとなり、国家補助が決まった。北里柴三郎が所長で、その下に志賀潔 (赤痢菌を発見)、秦佐八郎が付き、野口英世も一時勤めた。ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所とともに世界三大研究所と呼ばれたが、大隈重信内閣が東大医学部付属にせしめたことから、北里柴三郎と弟子たちは辞表を提出した。北里柴三郎は北里研究所を設立。また慶応義塾大学に医学部をもうける計画が出ると、北里は主催者に推された。

・良精が肺炎になったとき、病院長三浦謹之助が診察し、絆創膏を脇腹にたくさん貼った。しかし同日午後青山胤通が午後診察し、はったばかりの絆創膏をびりびりとみんな剥がしてしまった。

・島峰徹は石原久教授との対立で東大を辞め、東京高等歯科医学校 (後の東京医科歯科大学) を創立した。

青空文庫に良精の作品リストというのがありますが、作業中のようです。気長に待つとします。

青空文庫 小金井良精

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名画の医学

By , 2013年4月17日 8:28 AM

数年前、滋賀医科大学麻酔科の横田敏勝先生のサイトについてお伝えしました。残念ながらそのサイトは現在閉じられています。サイトに書かれた内容を出版するなどという事情であれば良いのですが、そうでないとしたらもったいない話です。サーバーの問題なのであれば私が管理してもよいので、是非復活させて欲しいものです。

さて、横田先生が「名画の医学 (横田敏勝著、南江堂)」という本を出版されているのを最近知りました。早速読んでみました。

【主要目次】
第1部 病草紙を診る
1 白内障の男
2 歯の揺らぐ男
3 風病の男
4 肥満の女
5 霍乱の女
6 痔瘻の男
7 二形の男
8 陰虱をうつされた男
9 鍼医

第2部 泰西名画を診る
1 モナリザ
2 キメラ
3 ラス・メニーナス
4 アキレス
5 ヴィーナスの脂肪
6 思春期
7 病める少女
8 ポンパドゥール夫人
9 湯あみのバテシバ
10 鎖に繋がれたプロメテウス
11 メドゥサ
12 エビ足の少年
13 皇帝カール5世
14 愛の国
15 病める子
16 ヴィーナスの誕生
17 ペスト

各章、題材となる絵の写真があり、その後著者による考察が記載されています。

モナリザの章を例に挙げると、モナリザ妊娠説があるそうです。モナリザの輪郭が 24歳にしては母親じみていること、頸が太いこと (Gestational transient hyperthyroidismを疑わせる)、胸や手がふっくらとしていること、妊婦がよくする座り方をしていることなどです。断定出来るほど強い根拠ではないのですが、章の結びが洒落ていて「『女性を診たら・・・』の定石に従ったまでのことだ」としています。臨床現場では、見逃しを防ぐため「女性を診たら妊娠と思え、老人を診たら癌だと思え」という格言があるのです。

また、「愛の園」という章では、ルーベンスの「愛の園」という絵を扱っています。絵の中で踊っている初老の男性はルーベンス自身で、彼の持病である関節リウマチに侵された両手が描きこまれています。この絵の他にも彼の手が描かれたものがあり、辿ると彼の病歴がわかるようになっています。これらの絵は、関節リウマチの存在を示唆した歴史上初の作品とされているそうです。この絵はマドリードのプラド美術館にあるようなので、機会があれば是非一度見に行ってみたいです。

その他に、オスロ美術館にあるムンクの「病める子」は、結核に侵されて死期の迫った自身の姉と悲嘆にくれる叔母の姿を、「先立つ娘とその母親という、普遍的な人間の悲しみのテーマ」として描いたそうです。こういうことを知っていれば、2010年にオスロ美術館に行った時、もっと楽しめたのにと思いました。

絵画に興味がある方は本書を読んでみると面白いと思いますが、少しだけ残念なことがあります。一つは、1999年の時点で最先端の医学情報が書かれていて、最先端というのは年々古くなっていくことです。もう一つは、絵画に関した疾患を挙げたあと、絵画に関係ない疾患の解説が結構マニアックに続くことです。この点さえ気にならなければ、絵画の楽しみ方がまた一つ増えるに違いありません。

最後になりますが、姉妹図書として「名画と痛み (横田敏勝著、南江堂)」というのがあります。こちらも「名画と医学」と同様のスタイルになっていますが、扱う絵画が疼痛に関連したものに限定されています。併せてお薦めです。

(追記)

横田先生のサイト、アーカイブがあるとの情報を頂きました。

http://web.archive.org/web/20110207151436/http://www.shiga-med.ac.jp/~hqphysi1/yokota/yokota.html

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