「医学のともしび (遠城寺宗徳、前川孫一郎、松田道雄著、学生社版)」を読み終えました。科学随筆文庫の一冊です。
遠城寺先生は、九州大学小児科教授だった方です。先生が小児科医として過ごしたのがどういう時代であったかを象徴するような記載があるので、一部紹介します。
小児科四十年。その間に、小児科は大いに変わった。私が小児科医になったころ、わが国の乳児の死亡率は出生千人に対し百四十二.四(一九二五年)で、世界の大関位であった。当時、世界の楽園をほこる世界のニュージーランドが四〇で、早くニュージーランド並みにというのが私たちの合言葉であった。
今やそのついに実現するどころか昨年(一九六六年)になっては、ついに一八.五と、先進国を凌駕した。全国各地では「乳児死亡減少を祝う会」という名のほがらかな催しが開かれて、私もその記念講演によばれたのである。これは、小児科学の進歩と努力ばかりではない。一般社会生活の向上と相まって、乳幼児の栄養がよくなったのと、抗生物質や予防接種の発達出現によって感染症が激減したからであるが、ともかく隔世の感である。
これまで助からなかった命がどんどん助かるようになっていた時代で、本当にやったことが報われる機会が多かったのだろうなと思います。
遠城寺先生の留学中の話が面白くて、ベルリンでは何と湯川秀樹博士と同宿だったそうです。
一九三九年八月、ドイツ軍は、突如、ポーランドに侵入した。われわれベルリンにいた日本人には大島大使から引き揚げ命令がでた。「明日、ハンブルグ港出帆の靖国丸に乗船せよ」という急な通知であった。同宿には湯川秀樹博士もいた。ほんとうに、そうこうして、ハンブルグへかけつけ、婦女子をふくめた日本人三〇〇余人が、靖国丸に乗り込んで、まずノルウェーのベルゲンに向った。
(略)
ベルゲンには、一週間くらい停舶したが、毎日散歩に上陸した。道々の話題はドイツに引き返すことへの幻想ばかりであった。湯川さんが「遠城寺さん、ここにしばらく残ってドイツに帰れる時期を、待とうではないか あなたは医師をやれば食えるでしょう。私は数学の先生でもやりますよ」など、たわいのないこともなかば本気であった。湯川博士は、たしかスイスで開かれるはずの世界物理学会に出席のため、ベルリンに待機していたところを、引き揚げ船に乗せられたのである。このとき戦争が起こらなかったら、彼のノーベル賞も、もっと早くもらえたであろうと、いまに思っている。
医師のこうした随筆集で、こんな歴史の裏話が読めるとは思っていなかったのでびっくりしました。
前川孫二郎先生は変わった経歴の持ち主です。京都大学卒業後、一時期小説を書いていたそうです。結局医学の道に戻ってきたそうですが、巻末の著者略年譜にその経緯が書いてあります。
免許証をもらい、真下内科に入局したが、当時わたしは医者になる気持は毛頭なかった。医学部の全課程をおえて、医学の幼稚さ加減にすっかり失望、このような貧弱な知識と技術で、わたしは到底医者としての職責を全うする自信がなかったし、それに私は非常に感じ易いので、手の施しようもない患者の枕頭に無為で侍するなど、とても出来そうにもなかった。それで兄の紹介で第九次?の「新新潮」の同人になり、盛んに小説を書いた。野晒紀行の芭蕉と捨子を題材に劇や自伝風の「京都の夫婦」など評判がよかったようである。それが何時しか創作を忘れ、次第に医学の道に深入りするようになったのは、全く真下先生の感化による。先生もまたあやまって医者になられた一人であった。勝れた機械に対するセンスをもち、機械を愛し、機械に明け暮れした。我が国における医学工学の先駆者である。
孫川先生の随筆は、医学的な内容が多い一方で、現代の医師目線から見ると首をかしげるような部分が目に付いたりして、あまり私の好みではありませんでした。
松田道雄先生は、結核などを専門とし、最終的には小児科で開業されました。祖先は徳川家の侍医であったそうです。
昭和 28年に書かれた、松田先生の「三等教授」という随筆は、就職難の話から始まり、この問題はいつの時代も人々を悩ませていたのだなぁと思いました。松田先生の考えでは、大学が増えたから失業が増えたというのは逆で、失業が増えて就職を有利にするために大学の需要が増えたのだとしています。そうなると、設備や機能が不備な大学が増えます。教授あるいは学部長は老人であるし、学問以外はよくわからないので、大学の運営も事務長の独占となってしまいます。大学は学問としてより役所として機能することに重点がおかれます。以下、教授達の恨み節溢れる記載が長々と記載されています。
残念なことに医学部は病院だけではやっていけない。解剖、生理、医化学などの基礎医学を教えるところがなくてはならない。新しい建物をつくるゆとりはないと、よく目をつけられるのは、昔の連隊あとである。兵舎は講堂だ。馬小屋は解剖教室だ。炊事場は医化学実験室だ。兵器庫は教授室だ。
基礎医学のほうはなるべく世帯を小さくする。教授一人に助手一人というところが珍しくない。
臨床の教室は連隊あとからは半時間も電車にのっていく市民病院であったり、県立病院であったりとする。もともと学生を教えるようになっていないから、とてもせまい。建てましということになるとまず病室だ。研究室などという収入がなくて支出ばかりのあるところは、なるべくあとまわしにされる。病舎についている検尿室でも、ガスがあるんだから、実験はできるでしょうなどと言われる。
教授は毎日、病院へ来る病人をみなければならない。昔からの官立の大学病院では教授は一週に二回、午前中に特にえらばれた病人を五、六人みればよかったのに、ここでは一日四十人みなければならない。その間に見学に来ている学生に臨床を教えなければならない。その上、毎週二時間の講義の準備もしなければならない。病舎に県会議員の身うちでもはいっていると、事務室からの催促で、何のかわりもないのに一日に二度も三度もみなければならない。それでいて教授だから学会には報告をもっていかなければならない。学問はきらいでないにしても、こう追いつかわれていては、なかなか、まとまった研究にとりかかれない。研究はただではできない。研究費として使えるのは一つの講座で一年十万円もあればいいほうで、五万円以下のところもある。外国から雑誌を二種類、教科書を二冊も買うと、そのあとの実験は自分のポケットから出してやらなければならない。
著者はこうした境遇を三等教授とさげすむ教授達に、「君たちは一等教授だ。君たちがいるからこそ、日本の大学は多すぎはしないといえるのだ」と激励しています。戦後の地方大学置かれた環境を知ることができ、ためになる随筆でした。
忘れてはいけないのが「晩年の平井毓太郎先生」という随筆。平井先生は京都大学小児科教授でしたが、素晴らしい人物であったそうです。退官後、有名医学雑誌をいくつも自ら購読し、医師達に講義、抄読していました。開業している医師が診断のつかない病人にぶつかると、よく平井先生の往診を頼みましたが、頼んだ医者の顔を立てて往診は拒みませんでした。一方で、報酬は拒み、無理においていくと、ほんの一部をとってあとは結核予防協会に寄附しました。寄付額は、京都の富豪達の寄付額と比べても、上の方だったといいます。医師として格好良すぎます!
この随筆は次のように締めくくられています。
治療では過剰治療にたいする嫌悪をかくされなかった。今まで注射しなければ無効とされていた治療が、それ以外の方法でも治しうるという種類の報告は見のがされることがなかった。治療としてなされている行為で有害であるということが判明したものは、どんな小さな記事でも紹介された。病人を不必要に苦しめることは、非道徳的であり、それによって利益を求めようとするのは、犯罪であるという信念を先生は、かつてゆるがされることがなかった。
けれども先生は雑誌会の講義でも、倫理を倫理として説かれたことはなかった。人を指導してやっているのだという意識は先生には絶えてなかった。本を読むことが好きな老人が、読んだことを繰り返して記憶をつようめることをたのしんでいるという風であった。八十歳に近い老人が、十五、六人の医者が座席の前のほうにばらばらに並んでいる、粗末な教室で、汗を拭いながら、ドイツの雑誌をよみ、フランスの教科書を示し、軍医団雑誌をひらいて語り、ああもう時間が来てしまったとつぶやく姿は、むしろ崇高であった。これほど倫理的な教育が他のどこにあったか。
先生は学問に酩酊していられたのである。私たちは、その酔いのかおりをかいで、すこしばかり興奮した。人をしてこれほどまで酔わしめる学問にたいして熱心でなかったことに慚愧し、それでいて、生ける古典の弟子であることに誇りを覚えるのだった。
それは、もろもろの雑草が夕やみのなかに没し去ったあとに、ただ一つ喬木が落日に鞘をかがやかせている風景に似ていた。