Category: 医学/医療

誰も教えてくれなかった「風邪」の診かた

By , 2012年12月1日 7:39 PM

誰も教えてくれなかった「風邪」の診かた (岸田直樹著、医学書院)」を読み終えました。

これまで風邪の患者さんは数え切れないくらい診てきたけれど、本書のように体系だってまとめたものを読むのは初めてです。あまりに、面白くて 1日で読了しました。

ある部分では「俺が感じていたのと同じこと言っている」と親近感が湧きましたし、ある部分では「へー、初めて聞いた」と勉強になりました。

風邪の患者さんを診療しない医者はほとんどいないと思うので、読んでおきたい一冊です。

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脳からみた心

By , 2012年10月27日 11:24 AM

「悩からみた心 (山鳥重著、NHKブックス)」をアメリカ旅行中に読み終えました。山鳥重先生は、神経心理学の権威です。

本書は「言葉の世界」「知覚の世界」「記憶の世界」「心のかたち」の四部構成からなっています。Aさんから Zさんまで、脳損傷によってある機能が失われた患者さんを分析することで、脳の働きを掘り下げていきます。非常に詳細な専門的分析をしているにも関わらず、平易な文章で、解剖学用語もほぼ登場しません。音楽家の原口隆一・麗子氏が著書「歌を忘れてカナリヤが」の中で本書を紹介していたことからわかるように、医療関係者以外の方にも読みやすい本なのではないかと思います。また、ソシュール記号論なんかも登場するので、文学や哲学が好きな方が読んだら面白いかもしれません。

内容が少しでも伝わるように、目次を紹介しておきます。

目次

はじめに-脳と心の関係

I 言葉の世界

(1)言葉は意味の裾野をもつ

言葉に対するでたらめともいえない反応の仕方 言葉は意味の骨格のまわりに広い裾野をもっている

(2)語の成立基盤

名前と物が重ならない ソシュールの理論を裏づける

(3)語は範疇化機能をもつ

一つの物にしか名前をいえない 人間は物の一般的属性を切り出す能力をもつ

(4)「意味野」の構造

物の名前を言えない 語は意味野の部分である

(5)「語」から「文」への意味転換

語はわかるが「文」が理解できない 「文」は語の単純加算ではない

(6)自動的な言葉と意識的な言葉

日常的な言葉は壊れにくい 注意を集中すると言葉が理解できない

(7)言語理解における能動的な心の構え

文脈を理解していて内容を理解していない 言葉の受動的理解から能動的理解へ

(8)状況と密着した言葉

目的意識をもつとうまくいえない 言葉は習慣性の高い自動的な能力

(9)言葉はかってに走りだす

とりとめのない言葉が延々と続く 言葉は常に内容を伴うとはかぎらない

(10)過去の言葉が顔を出す

意図に反して同じ言葉がでてしまう 過去が過剰に持続する

(11)言葉の反響現象

意味の理解を伴わない言葉の自動的繰り返し 状況が大枠で適切な言葉を引きだす

(12)言葉の世界は有機体-まとめ

II 知覚の世界

(1)知覚の背景-「注意」ということ

注意を維持できない 正確な知覚には注意機能が必要

(2)注意の方向性

左側の空間に気づかない 注意がその方向に向いて知覚が成立する

(3)「見えない」のに「見えている」ということ

見えていないはずの光源の方向が分かる 「見える」、「見えない」が視覚のすべてではない

(4)「かたち」を見ること-その一

かたちの区別がつけられない 視覚的要素が「かたち」に転化する

(5)「かたち」を見ること-そのニ

文字は読めるが顔は分からない 顔が分かるには線の知覚が重要

(6)「かたち」の意味

触ると分かるが見ると分からない 知覚された形と意味が結びつく段階

(7)二つの形を同時に見ること

二つのものが同時に見えない まとまりのあるものを見ようとする過程

(8)「対象を見る」とは何か

対象が消えても眼前にありありと再現する 神経活動の過程を「見て」いる

(9)視覚イメージの分類過程

見えない視野に出現するまぼろし 視覚情報は基本パターンに分類される

(10)対象を掴む

眼前の物を掴めない 「形」ではなく「関係」の知覚能力が必要

(11)私はどこにいるのか?

方角がわからない 動かない空間を基準に自己の動きを見ること

(12)知覚の世界は宇宙空間-まとめ

III 記憶の世界

(1)刹那に生きる

昨日、今日のことを覚えていない 記憶のない行動は恐い

(2)短期記憶から長期記憶へ

新しい出来事を覚えられない 短期記憶を長期記憶へ移していく特別の機構

(3)長期記憶が作られる過程

過去へ遡る記憶の消滅 じょじょに長期記憶として固められていく

(4)記憶の意味カテゴリー

時間性を失った記憶 記憶の歴史性と状況性

(5)記憶と感情の関わり

記憶が自分のものでないように思える 感情と記憶の濃淡が時間体験の背景

(6)短期記憶はなぜ必要か

数字の復唱ができない その場の一時的な働きを支える短期記憶

(7)記憶の世界の広大な拡がり-まとめ

IV 心のかたち

(1)言語と音楽能力は関係あるか

強い言語障害でもすばらしい曲を作る 音楽的世界は言語世界から自立している

(2)言語と絵画能力は関係あるか

強い言語障害でもすばらしい絵をかく 絵画的能力と言語能力は別でありうる

(3)左大脳半球と言語 左右大脳半球を分離する-その一

右手は正しいが左手は不正確 言語機能は左大脳半球に偏っている

(4)右大脳半球の世界 左右大脳半球を分離する-そのニ

脳梁全切断患者への画期的な実験 右大脳半球は視知覚能力がすぐれる

(5)人は複数の心をもつ

複数の心の同時並列的な関係 意識が心の一つを選びとる

(6)心のかたち

参考・引用文献

あとがき

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どうして弾けなくなるの? <音楽家のジストニア>の正しい知識のために

By , 2012年10月19日 8:15 AM

紹介が遅くなりましたが、9月中旬に「どうして弾けなくなるの? 音楽家の<ジストニア>の正しい知識のために (ジャウメ・ロセー・リョベー、シルビア・ファブレガス・イ・モラス編、平孝臣・堀内正浩監修、NPO法人ジストニア友の会)」を読み終えました。

ジストニアは運動障害の一種で、筋緊張の異常のため、異常姿勢をとったり、さまざまな運動のコントロールが困難になります。ある種の熟練者に見られる特殊なジストニアもあり、音楽家に生じるものを “musician’s dystonia” と呼びます。

音楽家のジストニアで最も有名な患者は、ロベルト・シューマンでしょう。過去にロベルト・シューマンの手に関する論文を少し紹介しました (シューマンの手<1>, <2>) が、その後、シューマンはジストニアであったという説が最も有力になっています。つまり、ロベルト・シューマンは、ジストニアのために演奏家を諦め、作曲家を目指したらしいのです。シューマン以外にも多くの演奏家がその道を諦めています。どのくらい多いかというと、音楽家のジストニアはプロの音楽家の 5%に見られ、その半数で音楽家の道を諦めなければいけない事実が、本書の序文に記されています。

音楽家のジストニアは、ヴァイオリニストやピアニスト、ギタリストの手に見られるだけではなく、声楽家の喉、管楽器奏者の口などにもみられます。こうしたジストニアの診療には、楽器演奏に対するある程度の知識がないと難しいようです。例えば、演奏家の手にジストニアが生じ、第 III指が屈曲した形になると、第 II指が伸展して第 III指の屈曲を代償しようとします。このとき、患指がどの指か見極めないといけません。そして、代償のため伸展した第 II指を患指と誤りボツリヌス治療をすると、第 III指の屈曲はますますひどいものになります。

また、”musician’s dystonia” は、診た瞬間診断が確定するわけではなく、ジストニアと紛らわしい他の疾患 (末梢神経障害など) の除外をしないといけません。ジストニアがある疾患に続発しておこる場合があるので、その基礎疾患 (神経変性疾患など) を見逃さないことも重要です。

これらの事を考えると、音楽家のジストニアの診療には、ある程度楽器の演奏に精通した神経内科医に求められる部分が大きい気がします。実は私の知り合いの先生が、こうした診療をしている医師を紹介してくれるとおっしゃってくださったので、折を見て勉強しに行こうか模索しています。音楽家のジストニアの専門的な治療が出来る医師は極めて少ないので、ヴァイオリンを弾く神経内科医として、少しでも力になれればと思います。

さて、音楽家の側から見て、演奏していて楽器を扱う部位に違和感を感じた時、それを克服するために無理をすると、ジストニアを発症ないし増悪させる可能性があります。一旦安静をとり、改善がないようなら、音楽家のジストニア診療に精通した医師の診断を受ける必要があると思います。音楽家生命に関わる疾患であり、適切な対処が求められる疾患でもあるので、もっと広くこの疾患の事が知られることを望みます。

[目次]
本書の必要性

第1章  音楽家のジストニアとは何か?
書痙と同じ疾患か?
音楽家のジストニアはいつ頃から知られていたか?

第2章  音楽家のジストニアとは
初期症状
もっとも特徴的な症状
どのような音楽家が発症するか?
どのような種類の楽器で発症するか?
発症しやすい身体部位はどこか?
症状が現れたときに音楽家はどのように対処したか?
感覚トリック
手のジストニアの特徴
楽器の種類による症状の特徴はあるか?
口唇(アンブシュア)ジストニアの特徴
声楽ジストニアの特徴
どのように進行するのか?
他の動作と副楽器演奏への症状の拡大
ジストニアの進行を防ぐことは可能か?

第3章  どのように診断するか?
病歴
診察所見
楽器演奏中の症状の評価
ジストニアの患指と代償指の診断
除外すべき疾患は?
その他の特発性ジストニアとの鑑別診断
偽性ジストニア
口唇ジストニアの鑑別診断における注意点
喉頭ジストニアの鑑別診断における注意点
どのような補足検査が必要か?

第4章  ジストニアの原因は何か?
精度の高い定型的反復動作、困難と動機づけ、基本的要素
なぜ一部の熟練した音楽家だけがジストニアになるのか?
発見された変化

第5章  ジストニアの心理学的側面
ジストニアの発症を促す心理学的要素は存在するか?
音楽家のジストニアへの対処法は?
ジストニアは心理的な問題を引き起こすか?
心理的な要因によりジストニアの回復が難しくなるか?
周囲の人々はジストニアを理解しているか?
ジストニアが回復すると、感情のバランスも安定するか?

第6章  予防対策

第7章  ジストニアの症状が出たときに何をすべきか?
ジストニアを改善させるための一般的な注意
内服薬
ボツリヌス毒素
神経リハビリテーション
興奮性の調整
外科手術

付録1 私のジストニア闘病記
マルコ・デ・ビアージ:ギタリスト
ジャンニ・ヴィエロ:オーボエ奏者
ジュリアーノ・ダイウト:ギタリスト
フランシスコ・サン・エメテリオ・サントス:ピアニスト

付録2 ジストニアをとりまく法律および労働に関する状況

あとがき
文献
一覧
索引

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神経病理学に魅せられて

By , 2012年9月26日 7:19 PM

神経病理学に魅せられて (平野朝雄著, 星和書店)」を読み終えました。神経内科医であれば平野先生の名前を聞いた人はいないと思います。神経病理学の日本人パイオニアの一人で、 多くの業績を残しています。毎年、神経病理学の初学者向けにセミナーを開催しており、参加した神経内科医は多いと思います (私は毎回当直でまだ参加できていません・・・)。

平野先生は京都大学第一外科 (荒木脳外科) に入局した後、30ドルと片道切符を持ってニューヨークに向かいました。そこで師事したのが Zimmermanでした。Zimmermanはドイツのエール大学に神経病理部門を創立した後、ニューヨークの Montefiore病院の基礎部門全体のディレークター及びコロンビア大学の病理学教授となった神経病理学の大御所です。Zimmermanは Albert Einstein医科大学の新設に際して、 Einsteinの元を訪れて彼の名を冠する承諾を得て、その大学の初代ディレクターにも就任しているそうです。

平野先生はニューヨークで多くの業績を積み重ねましたが、グアムに滞在し Guam ALS, Parkinsonism-dementia complex (PDC) の疾患概念確立に貢献しました。戦後初めてグアムの地を踏んだ日本人は平野夫妻だったと言われています。その時の仕事は Brain誌に掲載され、米国神経病理学会最優秀論文賞を受賞しましたが、いずれも日本人として初めての快挙でした。またニューヨーク時代、中枢神経の髄鞘構築を明らかにした Journal of Cell Biology論文は、多くの研究者から引用されています。

平野先生について、先輩から聞いた面白い逸話があります。平野先生は教育にも定評があり、多くの日本人が彼のもとに留学しています。ある日本人医師が「神経病理は全くの初心者で何もわかりませんが、勉強しに伺いたいのですが・・・」と問い合わせると、「経験がないのは問題ありません。(「何もわからない」ことに対して、) わかっているなら来る必要はありません」と言われたそうです。

本書は著者が回想するという形式をとっているため、教科書とは違って読みやすいです。神経内科専門医試験を受験するくらいの知識があれば楽しく読めると思います。最後に目次を紹介しておきます。

目次

まえがき

神経病理回想五十年

神経病理学入門までの思い出

  1. 学生時代
  2. 米国でのインターンと neurology residency
  3. 神経病理学に

グアムでの研究 (前編)

  1. グアム島へ
  2. Guam ALS
  3. Parkinsonism-dementia complex (PDC) on Guam

グアムでの研究 (後編)

  1. PDCの神経病理
  2. おわりに

脳浮腫の電顕による考察の回想

中枢神経の髄鞘の構造解析についての回想

  1. はじめに
  2. 末梢性髄鞘
  3. 中枢性髄鞘
  4. 脳浮腫に伴う有髄線維の変化の解析

小脳における異常シナプスの研究を振り返って

  1. Purkinje細胞の unattached spine
  2. 小脳腫瘍

筋萎縮性側索硬化症の神経病理学的研究についての思い出

  1. Bunina小体
  2. Spheroid

家族性 ALSの神経病理

  1. 後索型
  2. Lewy小体様封入体
  3. SOD1

神経系腫瘍の病理診断についての思い出

  1. 内胚葉性上皮性嚢胞
  2. 馬尾部の傍神経節腫
  3. Weibel-Palade小体

AIDSの神経病理についての思い出

あとがき

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眠れない一族

By , 2012年8月27日 11:13 PM

「眠れない一族 (ダニエル T.マックス著, 柴田 裕之 翻訳, 紀伊國屋書店)」を読み終えました。

Neurology 興味を持った「神経内科」論文 「眠れない一族 (最高にスリリングなプリオン病の本)」

本の内容については、上記リンク先をごらんください。

本書はジャーナリストが書いた本なので、医学知識がなくても読めます。一方で、参考文献は膨大で、きちんと医学雑誌も読み込んで書いています (この辺が日本のジャーナリストとの違い)。医療関係者にも非医療関係者 (特に牛肉を食べる機会のある人) にもオススメ。神経内科医は多分必読です。

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トーク認知症

By , 2012年8月13日 9:56 AM

「トーク 認知症 (小阪憲司、田邉敬貴、医学書院)」を読み終えました。シリーズ「神経心理学コレクション」の一冊です。小阪憲司先生は、Lewy小体病の提唱者としても有名ですね。序文に本書のコンセプトが書かれています。

単なる臨床の症例集、あるいは神経病理の教科書でもなく、臨床をじっくり見た上で剖検脳を調べるという、Charcot以来の神経精神医学の基本に立ち返り、加えて近年の画像診断法の粋をも取り入れた、類を見ない試みである。

エキスパートがどのような点に着目して診療をしているかがわかり、それが画像、病理所見とどのようにリンクしているのか非常に勉強になりました。アルツハイマー病や前頭側頭型認知症など比較的 commonな疾患が大部分でしたが、diffuse neurofibrillary tangle with calcification (DNTC) や limbic neurofibrillary tangle dementia (LNTD) といったマイナーな疾患は、本書で初めて詳しく知りました。近年、画像検査でわかることがどんどん多くなり、それとともに「わかった気になって」剖検を行わずに済ませることが多くなっていますが、剖検してみないとわからないことも多いというのが印象的でした。そして、剖検所見を活かすには、生前の詳細な観察が必要なのですね。

もう一冊、神経心理学コレクションから「痴呆の症候学 (田邉敬貴、医学書院)」も読み終えましたが、こちらは初学者向け。よく纏まっていると思いました。

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歌を忘れてカナリヤが

By , 2012年7月10日 6:59 AM

歌を忘れてカナリヤが (原口隆一・麗子著、文芸社)」を読み終えました。

著者の原口隆一氏は武蔵野音大の教員であり、声楽家としても活動を続けていました。ところが、 1993年 9月 24日に脳梗塞を発症しました。後遺症として失語症が強く残り、著者は地道にリハビリを続けました。実際の彼のノートの一部が印刷されているのですが、「お父さん=男→父→パパ」と書いてあります。さらにルビまで振ってあるのです。このレベルの単語が失われてからのリハビリだったので、大変な努力が必要だったのではないかと思います。

しかし、彼は歌手としての復帰を目指し、2000年にその夢を叶えました。その努力の奇跡が本に描かれています。

私は神経内科医として脳梗塞の患者さんを多く見ていますが、患者さんの思いというものが伝わってきて、非常に感動しました。

同じように脳梗塞の後遺症で苦しんでいる方、リハビリ関係の方、脳卒中診療に関わる方などに読んで欲しいと思いました。また、音楽家が内面を綴った文章ですので、音楽関係の方にも興味を持っていただけるのではないかと思います。

 

「唄を忘れたカナリヤ」(西條八十「砂金」より)

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
後の山に棄てましよか
いえいえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は
背戸の小藪に埋(い)けましょか
いえいえ それはなりませぬ

唄を忘れた金糸雀は
柳の鞭でぶちましよか
いえいえ それはかわいそう

唄を忘れた金糸雀は
象牙(ぞうげ)の船に銀の櫂(かい)
月夜の海に浮べれば
忘れた唄をおもいだす

(参考)

第35回日本神経心理学会総会

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古代アンデスの謎

By , 2012年6月26日 8:27 AM

「古代アンデスの謎 二〇〇〇年前の脳外科手術 (片山容一著、廣済堂出版)」を読み終えました。丁度 20年前、1992年に書かれた本です。

著者は日大の脳神経外科教授ですが、 UCLAの名誉教授も務めています。そして定位脳手術の世界的権威です。医学生時代にボリビア・アンデス一帯を登山し、博物館で穴を開けられた数々の頭蓋骨を見たのが著者とアンデスの頭蓋骨の出会いでした。以後、著者はこの穴の謎の探求を続けることになります。

どうやらこの穴は、生きている時に開けられたらしいのです。この穴が脳外科手術によって開けられたことに初めて言及したのは、かの有名なブローカでした。というのも、穴の周囲の骨が増殖し、穴が滑らかになっているのが確認されているからです。これは穴を開けてから、その人物が長く生きたことを意味します。

ブローカ以後、有名な脳外科医がこの問題に取り組みます。世界で最初に脊髄腫瘍の手術をしたホースレイはてんかんの治療だと考え、ルカ・シャンピオニエールは減圧開頭術ではないかと推測しました。その後も、バランス、シェリントン、ウォーカーなど、錚々たる学者、脳外科医がこの問題に言及しました。

著者は現代の脳外科医の眼から見て、当時の手術がどのように行われていたかを推測します。そして、最終的に、この穴が急性硬膜外血腫の手術痕だったのではないかという結論に達しました。しかし、当時は CTのなかった時代です。診断技術に乏しく、危険な手術に踏み切るかどうかアンデスの医師たちは悩んだことでしょう。この悩みを著者は現代の医師たちに重ねあわせています。

迷いの内容は違うが、手術をしたほうがいいのかどうかわからないのは、古代アンデスの外科医とまったく同じである。そして決断の核心には、まったく医学的治療や科学的な因果関係などといったことばで語られるような確信はないのである。これも古代アンデスの外科医とまったく同じである。

こういうとき、なにか無条件に従わなければならない原則が決まっていたとしたら、医師の仕事は大変やりやすいものになる。原則に従うということで、自分は正しいことをしているのだと思い込むことができるからである。

古代アンデスの頭蓋骨の謎から、時代を超えて現代まで通じる考察ができるのが、著者の見識の高さではないかと思います。そして、あとがきでは現代の医療問題について触れられていました。このあとがきが、医療崩壊が叫ばれるより前に書かれていたことに驚きました。

こういう意味では、彼らの置かれた立場は想像を絶するほど難しいものであったに違いない。そんな彼らが少しでも気を楽にする方法は、彼らも持っていたと思われる体系と原則に沿い、頭蓋穿孔について社会が自然に形作ってきた合意と要請に従って、仕事を進めることであっただろう。

医療技術というものは、よほどはっきりした根拠がない限り、それぞれの医師の確信のみにもとづいて行われるわけではない。一部の例外を除いて、全体的には社会的な合意と要請に従うように行われる傾向がある。

医療の問題を語るとき、誰かが作り出した常套句がよく使われる。薬漬け、検査漬け、などはすぐ頭に浮かぶものである。こういった常套句はわかりやすいだけに、容易に使われることが多く、しかもそれですべてがわかったつもりになってしまう。だから問題の本質を考える上では、かえって妨げになっていることが多いようである。

医療費の高騰は、現代の社会の持つ大きな問題のひとつである。その原因探しは行政の大切な役目になっている。この問題を語るときに必ず出てくる、薬漬け、検査漬け、といった常套句の与える印象どおり、医師たちが自分の利益のために不必要な検査や投薬を行なっているのなら、医師を責めれば問題は解決するだろう。しかしそれだけでは到底解決できないことは、もうだんだんと誰の目にもはっきりしてきている。

医師に対する不信というのも常套句のひとつである。しかしこれはなにも今に始まったものではない。医師に対する不信という問題は、古今東西の著作をあたってみればいくらでもみつけることができる。多少の知識のある人なら誰でも知っていることだろう。そこには、もっと本質的な問題がもともとあるのである。医師に信頼回復を叫ぶだけでは、問題は絶対に解決しないようにわたしには思える。そろそろ医療技術というものの本質的な性質を、社会との関係から考えてみることのできる時期にきているのではないだろうか。

この解説まで読むと、単に頭蓋骨の穴の謎を解くだけではなく、古代アンデス、現代に共通する、医療問題の普遍性を見ぬくことが、本書のもう一つの目的であることに気付かされます。

最後に、現代の実際の手術風景の描写から、著者を指導した教授の含蓄ある言葉を記しておきます。著者たちは、こういうことを思いながら手術を進めているのですね。

傷んでいる脳ほどほんの少しでも大切にしなければいけないのだ。このひとには、この傷んでいる脳しかないのだから。

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医学者の手帖

By , 2012年5月24日 6:36 AM

「医学者の手帖 (緒方富雄、森於菟著、学生社版)」を読み終えました。科学随筆文庫の一冊です。

緒方富雄氏は、緒方洪庵の曾孫にあたります。クラシック音楽が好きだったようです。「ないようで」という随筆には、次のように演奏の話が出てきます。

書いてあることだけが、われわれのいとなみを規定するのではない。書いてないものも大いにわれわれを規定する。

ある楽譜を、書かれたまま演奏すればいいのなら、仕事は簡単である。実は、譜に書かれていないものを演奏し出すところに、むずかしさがある。つきつめていえば、それを「書かれてないもの」と見るかどうかに問題の中心がある。

どこをあるいてもよさそうな道にも、ひとがつくったもうひとつの「みち」があるように、どうふるまってもよさそうにみえるところにも、おのずから「なにか」があるところに、人のいとなみの「みち」がある。

これは一例ですが、「ある日」という随筆で、カーネギーホールでの切符の買い方を教えてくれた人物に触れていますから、アメリカ時代は良くコンサートを聴きに行っていたのではないかと思います。

森於菟 (もりおと) 氏は森鴎外の長男です。台湾大学医学部長を務めました。さらにその長男は皮膚科医で、社会保険埼玉中央病院で皮膚科部長になられたそうです。

さて、森於菟氏の随筆には、森鴎外のことが多く登場します。「観潮楼始末日記」は、森鴎外が住んでいた家の処分に奔走した話で、鴎外との想い出が、多くの文人との逸話と共に彩られています。下記に記すワンシーンは、明治時代の文学史がそのままそこにあります。

つぎは明治四十三年の春某日の夕、観潮楼階上で月例の歌会(父は短詩会と呼んでいた)が催されていた。父のほかには竹柏園主人佐佐木信綱、いつも紋附羽織袴お公卿様のような端麗な風采で悠然と柱に背を寄せておられる。わざと縁側に座蒲団を持って来て、あぐらをかき腕を組む肥大漢は根岸派の伊藤左千夫。新詩社のおん大与謝野寛はすべてに滑らかなとりなしで起居も丁寧である。皆その日の出題によった短歌の想を練っているのであった。若い人たちはもとの「明星」派が圧倒的に多い。伯爵の若殿吉井勇は大柄な立派な体躯でゆったりと控える。おでこの石川啄木は故郷の山河に別れて間のないころであったろう、頭に浮かんだ歌を特有のキンキン声で口ずさむと父が大声で笑う。北原白秋は既にキリシタンの詩で知られており、平井修は幸徳秋水を弁護することで父に相談にきた弁護士である。木下杢太郎は東大医科の学生太田正雄で私より数年の先輩。大久保栄さんが生きていたらこの中にいるだろうにと私は思う。平野万里は工学士で私の幼なじみ、私が里子に言った大学前森川町の煙草店の長男で当時私の「兄ちゃん」とよんだ人。このほかに「アララギ」派では伊藤左千夫のほか時々斎藤茂吉、小泉千樫など。

森於菟が書いた「鴎外の健康と死」という随筆で初めて知ったのが、森鴎外の死因となった病気について。一般的には萎縮腎(腎不全)とされているらしいのですが、これは誤りらしいです。その経緯について、非常に面白いことが書かれていましたので、長いですが引用します。

父の事績を忠実に記録したのは父の末弟なる森潤三郎であるが彼も真実を知らなかったのでその後の伝記の誤りはすべてこれに端を発しているといってよい。私にこれを語ったのは父の死床における主治医額田晉博士である。私が終戦による台湾からの帰国後勤務した東邦大学の医学部長(現在は学長)であった同君は、父の終世の親友で遺書を托した故賀古鶴所翁の愛姪を婦人とする人である。賀古さんは重態に陥りながら誰にも見せない父を説き落とした結果、それなら額田にだけ見せようとその診察を受けることを父が承知したただ一人の医師が額田君で、私と独協中学からの同窓、東大を出て十年に満たない少壮の内科医、賀古氏と同じく父の親友青山胤通博士門下の俊秀であった。父の最終の日記「委蛇録」中、大正十一年壬戊日記六月の条に「二十九日。木。(在家)第十五日。額田晉診予。」とあるのがそれで、その翌日からは吉田増蔵代筆で七月五日まで記録がつづき、九日終焉となったのである。

私が東邦大学の教授となった年、夏休暇前と思うが「いつか君にいって置こうと思っていたのだが」と前置きして額田君は話し出した。「鴎外さんはすべての医師に自分の身体も体液も見せなかった。ぼくにだけ許したので、その尿には相当に進んだ萎縮腎の徴候が歴然とあったが、それよりも驚いたのは喀痰で、顕微鏡で調べると結核菌が一ぱい、まるで純培養を見るようであった。鴎外さんはそのとき、これで君に皆わかったと思うがこのことだけは人に言ってくれるな、子供もまだ小さいからと頼まれた。それで二つある病気の中で腎臓の方を主として診断書を書いたので、真実を知ったのは僕と賀古翁、それに鴎外さんの妹婿小金井良精博士だけと思う。もっとも奥さんに平常のことをきいたとき、よほど前から痰を吐いた紙を集めて、鴎外さんが自分の庭の隅っこへ行って焼いていたと言われたから、奥さんは察していられたかも知れない。」

Wikipediaには、鴎外の死因に腎不全と結核を挙げています。極めてシンプルな記載です。

1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。

さて、鴎外の健康を論じる以上、家族歴は極めて重要です。森家の家族歴についても詳しく書いてあります。全部は紹介しきれないのですが、本文中に簡単な要約があります。

女性は概して長命であり、男性は晩年に動脈硬化が著しく、ことに腎臓を侵して萎縮腎になりやすい。

家族性の腎不全だと、多発性嚢胞腎などが挙げられるかと思いますが、動脈硬化が著しいという記載をみると高血圧+腎硬化症も鑑別になるのでしょうか。

森鴎外の最初の妻であり、森於菟の母であった森登志子は離婚後結核で亡くなっているそうです。森鴎外が結核であったことを考えると、夫婦はどちらかが移したものである可能性が高いでしょうね。

最後に、余談ですが、森家と順天堂の接点が書かれていました。

さてここで父の最初の妻すなわち私の実母の病歴をみよう。登志子の父赤松則良は幕臣で西周、津田真道と共に西欧に派遣された赤松大三郎である。その妻貞子は林洞海の女、佐藤尚中や松本順の姪に当り順天堂はその一族で、また、その姉は子爵榎本武揚の室である。

この本、こうした裏話が満載で、かなりお勧めです。

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医学のともしび

By , 2012年5月9日 9:03 AM

「医学のともしび (遠城寺宗徳、前川孫一郎、松田道雄著、学生社版)」を読み終えました。科学随筆文庫の一冊です。

遠城寺先生は、九州大学小児科教授だった方です。先生が小児科医として過ごしたのがどういう時代であったかを象徴するような記載があるので、一部紹介します。

小児科四十年。その間に、小児科は大いに変わった。私が小児科医になったころ、わが国の乳児の死亡率は出生千人に対し百四十二.四(一九二五年)で、世界の大関位であった。当時、世界の楽園をほこる世界のニュージーランドが四〇で、早くニュージーランド並みにというのが私たちの合言葉であった。

今やそのついに実現するどころか昨年(一九六六年)になっては、ついに一八.五と、先進国を凌駕した。全国各地では「乳児死亡減少を祝う会」という名のほがらかな催しが開かれて、私もその記念講演によばれたのである。これは、小児科学の進歩と努力ばかりではない。一般社会生活の向上と相まって、乳幼児の栄養がよくなったのと、抗生物質や予防接種の発達出現によって感染症が激減したからであるが、ともかく隔世の感である。

これまで助からなかった命がどんどん助かるようになっていた時代で、本当にやったことが報われる機会が多かったのだろうなと思います。

遠城寺先生の留学中の話が面白くて、ベルリンでは何と湯川秀樹博士と同宿だったそうです。

一九三九年八月、ドイツ軍は、突如、ポーランドに侵入した。われわれベルリンにいた日本人には大島大使から引き揚げ命令がでた。「明日、ハンブルグ港出帆の靖国丸に乗船せよ」という急な通知であった。同宿には湯川秀樹博士もいた。ほんとうに、そうこうして、ハンブルグへかけつけ、婦女子をふくめた日本人三〇〇余人が、靖国丸に乗り込んで、まずノルウェーのベルゲンに向った。

(略)

ベルゲンには、一週間くらい停舶したが、毎日散歩に上陸した。道々の話題はドイツに引き返すことへの幻想ばかりであった。湯川さんが「遠城寺さん、ここにしばらく残ってドイツに帰れる時期を、待とうではないか あなたは医師をやれば食えるでしょう。私は数学の先生でもやりますよ」など、たわいのないこともなかば本気であった。湯川博士は、たしかスイスで開かれるはずの世界物理学会に出席のため、ベルリンに待機していたところを、引き揚げ船に乗せられたのである。このとき戦争が起こらなかったら、彼のノーベル賞も、もっと早くもらえたであろうと、いまに思っている。

医師のこうした随筆集で、こんな歴史の裏話が読めるとは思っていなかったのでびっくりしました。

前川孫二郎先生は変わった経歴の持ち主です。京都大学卒業後、一時期小説を書いていたそうです。結局医学の道に戻ってきたそうですが、巻末の著者略年譜にその経緯が書いてあります。

免許証をもらい、真下内科に入局したが、当時わたしは医者になる気持は毛頭なかった。医学部の全課程をおえて、医学の幼稚さ加減にすっかり失望、このような貧弱な知識と技術で、わたしは到底医者としての職責を全うする自信がなかったし、それに私は非常に感じ易いので、手の施しようもない患者の枕頭に無為で侍するなど、とても出来そうにもなかった。それで兄の紹介で第九次?の「新新潮」の同人になり、盛んに小説を書いた。野晒紀行の芭蕉と捨子を題材に劇や自伝風の「京都の夫婦」など評判がよかったようである。それが何時しか創作を忘れ、次第に医学の道に深入りするようになったのは、全く真下先生の感化による。先生もまたあやまって医者になられた一人であった。勝れた機械に対するセンスをもち、機械を愛し、機械に明け暮れした。我が国における医学工学の先駆者である。

孫川先生の随筆は、医学的な内容が多い一方で、現代の医師目線から見ると首をかしげるような部分が目に付いたりして、あまり私の好みではありませんでした。

松田道雄先生は、結核などを専門とし、最終的には小児科で開業されました。祖先は徳川家の侍医であったそうです。

昭和 28年に書かれた、松田先生の「三等教授」という随筆は、就職難の話から始まり、この問題はいつの時代も人々を悩ませていたのだなぁと思いました。松田先生の考えでは、大学が増えたから失業が増えたというのは逆で、失業が増えて就職を有利にするために大学の需要が増えたのだとしています。そうなると、設備や機能が不備な大学が増えます。教授あるいは学部長は老人であるし、学問以外はよくわからないので、大学の運営も事務長の独占となってしまいます。大学は学問としてより役所として機能することに重点がおかれます。以下、教授達の恨み節溢れる記載が長々と記載されています。

残念なことに医学部は病院だけではやっていけない。解剖、生理、医化学などの基礎医学を教えるところがなくてはならない。新しい建物をつくるゆとりはないと、よく目をつけられるのは、昔の連隊あとである。兵舎は講堂だ。馬小屋は解剖教室だ。炊事場は医化学実験室だ。兵器庫は教授室だ。

基礎医学のほうはなるべく世帯を小さくする。教授一人に助手一人というところが珍しくない。

臨床の教室は連隊あとからは半時間も電車にのっていく市民病院であったり、県立病院であったりとする。もともと学生を教えるようになっていないから、とてもせまい。建てましということになるとまず病室だ。研究室などという収入がなくて支出ばかりのあるところは、なるべくあとまわしにされる。病舎についている検尿室でも、ガスがあるんだから、実験はできるでしょうなどと言われる。

教授は毎日、病院へ来る病人をみなければならない。昔からの官立の大学病院では教授は一週に二回、午前中に特にえらばれた病人を五、六人みればよかったのに、ここでは一日四十人みなければならない。その間に見学に来ている学生に臨床を教えなければならない。その上、毎週二時間の講義の準備もしなければならない。病舎に県会議員の身うちでもはいっていると、事務室からの催促で、何のかわりもないのに一日に二度も三度もみなければならない。それでいて教授だから学会には報告をもっていかなければならない。学問はきらいでないにしても、こう追いつかわれていては、なかなか、まとまった研究にとりかかれない。研究はただではできない。研究費として使えるのは一つの講座で一年十万円もあればいいほうで、五万円以下のところもある。外国から雑誌を二種類、教科書を二冊も買うと、そのあとの実験は自分のポケットから出してやらなければならない。

著者はこうした境遇を三等教授とさげすむ教授達に、「君たちは一等教授だ。君たちがいるからこそ、日本の大学は多すぎはしないといえるのだ」と激励しています。戦後の地方大学置かれた環境を知ることができ、ためになる随筆でした。

忘れてはいけないのが「晩年の平井毓太郎先生」という随筆。平井先生は京都大学小児科教授でしたが、素晴らしい人物であったそうです。退官後、有名医学雑誌をいくつも自ら購読し、医師達に講義、抄読していました。開業している医師が診断のつかない病人にぶつかると、よく平井先生の往診を頼みましたが、頼んだ医者の顔を立てて往診は拒みませんでした。一方で、報酬は拒み、無理においていくと、ほんの一部をとってあとは結核予防協会に寄附しました。寄付額は、京都の富豪達の寄付額と比べても、上の方だったといいます。医師として格好良すぎます!

この随筆は次のように締めくくられています。

治療では過剰治療にたいする嫌悪をかくされなかった。今まで注射しなければ無効とされていた治療が、それ以外の方法でも治しうるという種類の報告は見のがされることがなかった。治療としてなされている行為で有害であるということが判明したものは、どんな小さな記事でも紹介された。病人を不必要に苦しめることは、非道徳的であり、それによって利益を求めようとするのは、犯罪であるという信念を先生は、かつてゆるがされることがなかった。

けれども先生は雑誌会の講義でも、倫理を倫理として説かれたことはなかった。人を指導してやっているのだという意識は先生には絶えてなかった。本を読むことが好きな老人が、読んだことを繰り返して記憶をつようめることをたのしんでいるという風であった。八十歳に近い老人が、十五、六人の医者が座席の前のほうにばらばらに並んでいる、粗末な教室で、汗を拭いながら、ドイツの雑誌をよみ、フランスの教科書を示し、軍医団雑誌をひらいて語り、ああもう時間が来てしまったとつぶやく姿は、むしろ崇高であった。これほど倫理的な教育が他のどこにあったか。

先生は学問に酩酊していられたのである。私たちは、その酔いのかおりをかいで、すこしばかり興奮した。人をしてこれほどまで酔わしめる学問にたいして熱心でなかったことに慚愧し、それでいて、生ける古典の弟子であることに誇りを覚えるのだった。

それは、もろもろの雑草が夕やみのなかに没し去ったあとに、ただ一つ喬木が落日に鞘をかがやかせている風景に似ていた。

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