Category: 音楽

ベートーヴェンの生涯

By , 2009年11月10日 6:56 AM

「ベートーヴェンの生涯 (ロマン・ロラン著、片山敏彦訳、岩波文庫)」を読み終えました。短い小説なので、色々な方に是非読んで頂きたいです。

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音楽と音楽家

By , 2009年9月25日 7:08 AM

「音楽と音楽家 (シューマン著、吉田秀和訳、岩波文庫)」を読み終えました。

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フーガ

By , 2009年8月26日 9:40 PM

「フーガ (マルセル・ビッチ/ジャン・ボンフィス著、池内友次郎監修、余田安広訳、白水社)」を読み終えました。

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室内楽

By , 2009年8月11日 8:22 AM

「室内楽 ジョイス抒情詩集 (出口泰生訳、白凰社)」を読み終えました。ジョイスがこの詩を書いたのが 1907年で、この日本語訳が出版されたのが 1972年になります。何故この詩集を読もうかと思ったかというと、バーンスタインがハーバード大学で行った講義で、ジョイスの詩を口ずさんでいるシーンを DVDで見たからです。

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カラヤンはなぜ目を閉じるのか

By , 2008年8月30日 11:15 AM

「カラヤンはなぜ目を閉じるのか-精神科医から診た”自己愛”-中広全延著、新潮社」を読み終えました。著者は精神科医です。この本は、カラヤンに残された多くの逸話が”精神疾患の分類に使われる ”DSM分類-Ⅳ” での「自己愛性人格障害」に相当するのではないかという観点から述べられています。加えて、DSM分類の問題点、賛否についても論じられています。

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音大進学・就職塾

By , 2008年8月24日 11:19 AM

「音大進学・就職塾 (茂木大輔著、音楽之友社)」を読み終えました。

特に管楽器を中心に、プロになるために必要なことや、音大に入ってから気をつけること、プロになってからのギャラの相場などが書かれていて、楽しく読みました。文章もウィットに富んでいます。本の終わりには、「楽団員のための-古典音楽一般論必須知識」と題された章ががあり、これだけでも読み物として楽しめます。

プロになるために必要なもの、それは演奏水準、演奏経験、コネなのだそうです。もちろん演奏水準は当然必要でしょうし、場数も踏まなければ実力を出せないこともあるでしょう。面白いのは「コネ」だと言い切るところです。確かに、音楽の世界の場合、実力があったからといって、黙っていても仕事が舞い込んで来るわけではありません。誰かに演奏を聴いて貰わないと、観客に知られることもありませんし、雇う側も聴いたことがない演奏家に依頼しようとは思わないでしょう。

具体的に書いてある部分を引用します。

音大・プロ志望者が漠然と誤解していることが多いのが、

・「うまければ」
・「いつか誰かが (先生) が仕事をくれる」

となんとなく思っていること。

マチガイである。

技能の習得、向上は、プロを目指す以上当然の前提なのはもちろんだが、それだけをやって待っていても、一生シゴトは来ないのである。驚いたか。

この先大学院に行こうが留学しようが、「技術の向上」 (レッスンと練習) という自分の世界だけに没頭・逃避し続ける限り、状況は全然変わらない。

「シゴトを作る、もらう努力」は、別途行っていただきたい。

シゴトは、漠然とした「誰か」がくれるのではない。アンタが知っている、アンタを知っている、特定の誰かがくれるのだ。知り合いをたくさん作り、シゴトをしたい気持ち・熱意・連絡先を伝えておかなくてはならないということだ。

「コネ」を増す努力を、1年生、いや、受験生の時からしておくべきだった。これから毎日「コマネシ!」と唱えていなさい。 (古いか・・・)

シゴトを得るというだけでも、なかなか大変な世界なのですね。昔のヨーロッパでは芸術家の集まるサロンがあり、多くの音楽家が親交を結んだそうですが、日本ではあまりそういう話を聞きませんね。

さて、本書には「うまくなるには」という話も書いています。意識しなければいけないのが、音色・強弱、正確さ、雰囲気だとして、それぞれ個別に解説しています。良い音色の条件としては、雑音が少なく、音程がまっすぐでふらついていない、発音がクリアー、強弱のどちらのも思い通り進める余裕などが含まれます。また、正確さには読譜力、音程感覚、リズム感、楽器奏法上の自由があります。これらは、しばしばアマチュアに欠けているもので、プロと一緒に演奏すると、身につまされます。

そのために必要なことも議論されており、一部を引用します。

「さらう」場合に重要なのは、さらうという行いには、

・とにかく音にしてそれを聴く (ソルフェージュの補助)
・困難な箇所を発見する
・そこを克服するために、練習方法を考える (問題を整理、理解して対処法を考える>頭脳)
・それを実行し、偶然性を排除して確率を100%に近づけるために繰り返してさらう (肉体に覚えさせる)

の、4つのファクターが含まれているということ。ただバカのように繰り返して吹いているうちにいつのまにかできる、というのは、まさに偶然であり時間のムダであり、根本的な上達は望めない。

楽譜の表現が曖昧なまま、間違えていたり、イラナイ音が混じっていたり、その瞬間にくっきりと音が移り変わっていなかったり、音量や音色にばらつきがあったり、レガートが途切れていたり、スタッカートが整っていなかったり、なんとなく薄汚れた演奏をしている人間がとても多い。90点を出すのはたやすいが、それを 100点まで磨くのは地獄の特訓しかない。自分と向かい合い、録音し、意地悪く聴き、全部を直せ。

なかなか厳しい意見です。プロを志すには、必要なことなのでしょう。

幸い私はアマチュアなので、演奏に失敗しても「てへっ」って言っておけば、次から飯の種に困ることはないのですが、楽器の上達のために、上記のようなことを意識して、もう一段ステップアップしたいところです。

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舞台裏の神々

By , 2008年3月28日 7:25 AM

今日紹介するのは、「舞台裏の神々 (Rupert Scottle著、喜多尾道冬訳、音楽之友社)」です。余りにも面白くて、最初から最後まで2回読みました。

1回目は新幹線の中で一人でゲタゲタ笑いながら読んでいて、周囲から腫れ物をみるような視線を浴びてしまいました。笑いのツボを突く話が多すぎます。

話の多くは、オーケストラや指揮者のこぼれ話です。それもユーモアたっぷりです。

ウィーン・フィルハーモニーのコンサートマスターだった、ヴィリー・ボスコフスキーのような腕の立つヴァイオリニストですら、シュトラウスの作品の多さにひどくてこずったことがある。あるとき、≪影のない女≫の上演後、彼はいつもとちがって、劇場内のドリンク・コーナーに直行し、大量のワインを一気飲みしたことがある。だれもがおどろいて、そのわけを訊いた。彼はただこう答えた、「これが飲まずにいられるか。今日はじめてこのオペラの音符をぜーんぶ完璧に弾けたんだから!」。

このようなことが、いつもうまくいくと思ったら大間違い。ヨーゼフ・クリップスが、一九七〇年代のはじめに、≪ばらの騎士≫をウィーン国立歌劇場で指揮したときに、こんなことが起こった。第二幕でオクタヴィアンが剣を引き抜いて、オックス男爵に切りかかるシーンがある。ここでズボン役で名高かったアグネス・バルツァが、四小節早く出てしまった。クリップスはまごついて、懸命に追いつこうと努力した。だが奮闘も空しく、全体のアンサンブルを回復できなかった。

共演者の一部は先行するオクタヴィアンについて行き、他の一部は楽譜通りの進行にきちんと従い、残りの大部分は両派のあいだを右往左往するありさまとなった。その結果ほんらいなら愉快なシーンが、不快なひびきに終始することになったのである

その日のオックス役は、リーダーブッシュで、彼はプロンプターに助言を求めた。彼はリーダーブッシュに、楽譜通りにオクタヴィアンの剣に当たって、大声で「やられた!」と叫べばよいと教えた。リーダーブッシュは言われた通りに叫んだ。少なくとも十回も。そんな大げさな叫び声にすっかり度肝を抜かれ、だれもが自分勝手に態勢を立て直そうとした。その混乱のなかで、この高名な指揮者は途方に暮れて腕を空しく漕いでいた。

結局、手のほどこしようのなくなった指揮者は、激しく両手をふり、聴衆にも聞こえるような甲高い声で、「中止、中止!」と叫ぶほかはなかった。そんなどうしようもない混乱のなかでも、クリップスは、オーケストラはもうとっくにアンサンブルを回復し、楽譜通りにきちんと演奏していることに気づくべきではなかったか。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、しかるべき時点で自分たちの自主権を思い出し、混乱した事態の回復を自分たちの力で成し遂げたのだ。それに気づいたクリップスは驚愕し、すっかり意気阻喪して、その後指揮活動をやめてしまった。かなり長い謹慎生活ののち、やっと気を取り直して、いつもの実入りのよい仕事に復帰したのである。

ヨーゼフ・クリップスは、本書ではあまり良い印象で書かれてません。 楽団員から好かれていなかったのでしょうか。他に、カール・ベームも、格好のネタとして書かれています。

私の好きなバーンスタインの逸話もあり、人間くささが伝わってきます。

バーンスタインは親密さとやさしさを求めるあまり、常識の限度を超える態度を見せてはばからなかった。彼はだれかれなく情熱的なキス(演出家のジョナサン・ミラーの言葉を借りれば、紙やすりでこすられ、いそぎんちゃくに吸い付かれるようなキス)をふりまく、自分の指揮台にいちばん近い席に座っているというだけで、その楽員にもキスするありさまだった。ウィーン・フィルハーモニーのあるヴィオラ奏者は、このキス責めから逃れようと、二列目にいる仲間に席を替わってもらったほどである。そんなことでかんたんに引き下がるレニーではない。キスの儀式がはじまり、席を譲って前列にやってきた奏者が巧みにそれを避けると、彼は二列目に進み、やっとキスを逃れたと思った当のヴィオラ奏者にブチューとやるのだった。

バーンスタインはとくに親密な演奏に成功したあとは、オーケストラ全体に舌による愛情表現を示そうとし、そのためにひとりひとりの楽員を舞台の袖で待ちかまえていた。もしキスの洗礼を避けたければ、楽員は聴衆にまぎれてホールを出なければならなかった。バーンスタインは自分のまったく知らない人にも、濃厚をキスを見舞うこともまれではなかった。彼はもともと男性的な魅力にあふれていたから、大勢の女性から憧れの目で見られていた。そんなひとりがウィーン・フィルハーモニーのヴィオラ奏者ハインツ・コルの義姉。彼女はマエストロに一度会わせてくれと義弟にしつこく頼んでいた。彼は彼女にいいよと気安く約束したものの、バーンスタインはいつも崇拝者の群れに取り囲まれているので、そうかんたんに思い通りにならなかった。マエストロがちょうどサラダをぱくついていたとき、コルはやっと話しかけるチャンスをつかんだ。指揮者と義姉がたがいに自己紹介したあと、指揮者は舞い上がっている若い女性をすぐさま抱き寄せ、マヨネーズだらけの口で彼女にブチューとキスをして、相手の唇をマヨネーズだらけにしてしまった。それまで遠くから憧れの眼差しで見ていたのが、あっというまに現実の悲惨さを味わわされることになったわけだ。

私が指揮者だったら、相手を選んでキスするかもしれませんが(^^;)、バーンスタインは手当たり次第です。女性のマヨネーズだらけの唇を想像して笑ってしまいました。今度、相手がいれば、真似したいものです。

あと、笑えるのが、オーケストラの楽員たちの悪戯です。

ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、イギリス系のひどくいけ好かない指揮者に対して、ひどく巧妙な復讐を企てたことがあった。ザルツブルク音楽祭で、シューベルトの交響曲第九番≪グレート≫のプローベをしていたときのこと、この指揮者は祝祭大劇場の音響効果を調べるために、指揮台から離れ、その間オーケストラは指揮者なしのまま演奏することになっていた。彼が指揮棒を置くや、オーケストラはもっともすぐれた指揮者に導かれているかのように、すばらしいひびきで演奏しはじめた。この予期せぬ変化がくだんの指揮者の耳に聴きとれなかったはずはない。指揮台にもどった彼は、不安そうに自分の指揮棒を見つめ、それを取り上げるのにしばらく躊躇した。しかし楽員たちは容赦しなかった。彼がふたたび指揮をはじめると、この指揮者ならではの凡庸なひびきになり下がってしまった

この有名な指揮者は、メンデルスゾーンの交響曲≪イタリア≫のような作品を録音するのに、四百箇所にも継ぎはぎを必要とした。ドイツ・グラモフォンの録音技師によると、移行句がほとんどうまくいっていないので、その箇所は編集技術を最高度に駆使してやっと切り抜けることができたという。事情通にとっては不思議でもなんでもないことだが、このイギリス人はテンポ感覚に欠けていたわけだ。彼は最後の楽章で、四時間のテイクのうち三時間もこんなテンポでやってゆくことに費やすものだから、音楽のこまかなニュアンスなど消し飛んでしまわざるを得なかった。オーケストラと録音技師たちの絶えざる抗議に出会って、彼ははじめて自分の誤りを認めた。

それでも彼の録音したCDのほとんど、すぐれた内容を示しているというから、それは編集技術の絶大な威力と言わざるを得ない。ともあれ、ドイツ・グラモフォンが、もうこれ以上彼を起用する気にならなくなったのは当然のなりゆきだ。ドイツ・グラモフォンは、二〇〇一年一月に彼とのレコード録音の契約を打ち切った。彼の言によれば、それを新聞ではじめて知ったということだ。

無能な独裁者よりもさらに困った存在が、音楽の講釈を楽員に延々と垂れることが大好きな指揮者である。そんなひとりがヨーゼフ・クリップスである。彼はプローベを時間通りに終えることはまずなかった。予定された時間にプローベが終わっても、もう一度といってまたやり直す。というのも、「楽員というものはしごけばしごくほどよくなる!」、と頑なに信じているからだが、これほど楽員をばかにした言い草もない。このような無意味な時間の浪費は、楽員の復讐心を掻き立てる。それはある絶好の機会に実行に移された。クリップスは絶対音感に恵まれていないことにひどく悩んでいた。だから楽員たちはいつもそのことを当てこすっては彼にいやがらせをした。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちが、ブルックナーの交響曲第四番をプローベしていたときのこと、半音低く演奏した。それがわかったのは、チェロ奏者たちが三和音に似た主要主題を弾き出し、明るい高音に移ったときだった。

クリップスは泣き声で自分のミスをくどくどと弁解しはじめた。この勝利は正当なものだったが、これがなんども繰り返されることになる。たとえば、シューベルトの≪未完成≫交響曲の第一楽章の出だしは、コントラバスとチェロだけではじまる。この楽器の奏者たちはたがいにこの箇所を半音高く演奏しようと陰謀を企てた。それに気づかないヴァイオリン奏者が、楽譜通りに入ってきたとたん、一瞬ひどい耳障りな音になった。怒ったクリップスはヴァイオリン奏者たちの間違いを注意した。彼らはちゃんと楽譜通りに弾いていますと抗議する。しばらく考えたあと、彼はその張本人たちはだれかに気づいてひどく傷ついた。そして休憩時間に彼らをきびしく叱責した。

指揮者に腹を立てたとき、正面衝突するのではなく、こうした方法を取ることに、文化を感じます。抗議するのも楽しんでいるのですね。私はオーケストラで弾くのが嫌いなので、こうした悪戯をする機会はなさそうですが、一回やってみたい気もします。指揮者にしてみたら、最高にキツイでしょうね。

本書は、最初から最後までこうした逸話で構成されています。読みやすいですし、是非お薦めです。

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バイオリン奏法

By , 2007年6月3日 4:08 PM

かの有名なW.A.Mozartの父は、レオポルド・モーツァルトといい、名音楽教師でした。彼は「Versuch einer Grundlichen Violinschule」という本を書いており、邦訳が出版されています(「バイオリン奏法 (レオポルド・モーツァルト著、塚原哲夫訳、全音楽譜出版社)」)。

目次

バイオリン奏法 (Violinschule) への序
第1節 弦楽器、特にバイオリンについて
第2節 音楽の起源、および楽器について
第1章
第1節 新旧の音楽文学と音符、そして現在使われている譜線と音部記号について
第2節 拍子について
第3節 音符、休止符、符点などの長さ、または価値について。同時に、全ての音楽記号と音楽用語について
第2章 バイオリンの持ち方と弓の扱い方
第3章 生徒は弾き始める前に何を守らねばならないか。言葉を変えて言うと、一番始めに生徒に何を示さなければならないか
第4章 上弓と下弓の理法について
第5章 弓を巧みにコントロールし、いかに美しい音色をバイオリンから引き出すか。正しい様式の中で生み出すか
第6章 3連符と呼ばれるものについて
第7章 種々のボウイングについて
第1節 同じ音符におけるボウイングの変化
第2節 様々の音符よりなる音型におけるボウイングの変化
第8章 ポジション
第1節 全ポジションについて
第2節 半ポジションについて
第3節 複合または混合ポジションについて
第9章 前打音とそれに属する装飾音について
第10章 トリルについて
第11章 トレモロ、モルデント、その他即興の装飾音について
第12章 楽譜を正しく読むこと。優れた演奏について

鈴木慎一氏は本書の冒頭に寄せて「恐らく、このレオポルド・モーツァルトの『バイオリン奏法』は、世界で最初のバイオリン奏法の本ではないでしょうか。」と記しています。

実は、1751年にジェミニアーニが、「The Art of Playing on the VIOLIN」という本を書いているのですが、これはほとんどが練習曲で構成されており、それに対する解説がつけてあるというスタイルなので、L. Mozartの本とは若干異なります。ちなみにジェミニアーニの本も、邦訳が簡単に手に入ります。「バロックのヴァイオリン奏法 (フランチェスコ・ジェミニアーニ著、サイモン・モリス解説、内田智雄訳、シンフォニア)」という邦題です。

本書のはしがきに「1756年干草月 (※7月) の26日に書かれた」とありますから、ジェミニアーニの少し後ですね。

本書では、まずバイオリン属の楽器について解説します。ポケット用ガイゲ (Geige=fiddle)、4分の1ないし2分の1サイズのガイゲ、普通のバイオリン (「これこそ特にこの本でこれから扱っていこうというものなのです」と記載あり)、アルト用ガイゲ、バス・ビオル、大バス(ビオロン)、ガムバ、ボルドン、ビオラ・ダモーレ、ビオレッタなどです。知らない楽器がたくさんあります。

ついで、楽器の構造について、それから簡単な音楽史、音楽理論と進みます。第2章では楽器の持ち方が記載され、以後実際の演奏法が豊富な譜例とともに記されます。演奏する上での留意点が充実しています。

最後の言葉は、こう締めくくられています。

この本を私は骨を折って書きましたが、目的があったためです。それは初心者を正しい道に導き、彼らのために、音楽のよい趣味への知識と感覚を準備するということです。我々の尊ぶべき壇上の芸術家のために、もう少し言いたいことがあるのですが、ここで筆を置くことにします。もしかしたら私はあえて再び音楽の世界にもう1冊の本を出そうとするかもしれません。が、それは誰にもわかりません。それは、初心者に役立ちたいというこの私の熱意が、全く役に立たないわけではなかった、ということがわかった時のことです。

数多の名曲を残したモーツァルトの父親も、偉大な人物だったのですね。

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わが真実

By , 2007年3月12日 8:23 PM

「ミッシャ・マイスキー『わが真実』、伊熊よし子著、小学館」を読み終えました。

ミッシャ・マイスキーについてのドキュメンタリー番組を見たときから、誠実な演奏家だなとの感想を持っていました。録画したビデオを何度も繰り返し見た記憶があります。

彼は、全ロシアコンクールで優勝しながら、KGBによって無実のまま牢獄に入れられます。強制労働の合間、独房の窓の間から、一枚の葉っぱが舞い込んでいたことで「生」を感じ、その葉っぱを大事にしていたエピソードが残っています。

彼がドキュメンタリーで語る言葉から、演奏が聴きたくなり、CDを買いました。バッハの無伴奏チェロ組曲ですが、1984年と1999年の録音両方聴き比べました。どちらも胸を打つ演奏でした。

本書の中で、知らない彼のことをたくさん知りましたが、過去に見たドキュメンタリーでのイメージ通りでした。苦難のいくつかに、読んでいて泣きそうになりました。

最近、乾いている人には、お薦めの一冊です。

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ブラームスの音符達

By , 2006年5月20日 9:06 PM

最近は、「ブラームスの音符たち (池辺晋一郎著、音楽の友社)」という本を読んでいます。ブラームスは、近代外科学の父「ビルロート」の親友であったことも有名です。医師として少し親近感がわきます。

彼は「髭のあるブラームスと髭のないブラームス」という例えどおり、堅苦しいアカデミックな雰囲気の曲と同時に、聴きやすい曲も多く作曲しています。バッハからブラームスくらいまでの時代の曲は、表面上とても心地良く聞こえるように書いてありながら、曲の中にさまざまな工夫、トリックを見ることが出来ます。バッハ以前の音楽は、曲の構造としてはやや単純で、ブラームス以降は例外はあるものの、すこし取っ付きにくい作曲家が多い印象があります。論文を書くときは、だいたいバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタかベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きながらで、心が落ち着きます。

音楽について勉強して、ある程度曲の構造が見えるようになると、建築物を見るような「構造美」を知ることが出来、新しい感動があります。井福部昭はピカソの言葉を引用して、「鳥の声は聞いているだけで心地良い。音楽もそれで良いではないか」と述べていますが、確かにそうではありながら、人によっては、より知的好奇心を満たす鑑賞の仕方もあると思うのです。そもそも、井福部昭氏が、音楽を深く知った上で鑑賞していた人なのですから。

モーツァルトのCD全集は、ようやくオペラを残して全部聴きました。今は、オペラを聴いていますが、本当は解説本を読みながら聴きたいところです。車での通勤途中に聴いているので難しいところですが、いずれまた聴きなおしたいと思っています。結構、いろいろな曲が気づかないように使いまわされていたり、他の作曲家の曲と似ている部分があったり、聴いていて飽きません。

話は変わりますが、実家の近くから、狂牛病の牛が見つかって少し驚いています。
(参考)http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/04/h0419-2.html

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