波紋と螺旋とフィボナッチ
「波紋と螺旋とフィボナッチ (近藤滋著, 秀潤社)」を読み終えました。動物の模様が何故出来るか、などをわかりやすく解説した本です。
以前紹介した「生命科学の明日はどっちだ」というサイトに掲載された内容がベースになっており、「反応拡散的合コン必勝法」という章が追加されています。
上記サイトでも大部分読めますが、本の方が読みやすいです。アマゾンのカスタマーレビューも好評です。
「波紋と螺旋とフィボナッチ (近藤滋著, 秀潤社)」を読み終えました。動物の模様が何故出来るか、などをわかりやすく解説した本です。
以前紹介した「生命科学の明日はどっちだ」というサイトに掲載された内容がベースになっており、「反応拡散的合コン必勝法」という章が追加されています。
上記サイトでも大部分読めますが、本の方が読みやすいです。アマゾンのカスタマーレビューも好評です。
「マンガでわかる統計学 (大上丈彦著、メダカカレッジ監修、サイエンス・アイ新書)」を読み終えました。
ゆる~い雰囲気で、直感的にわかることを重視した本で、サクサク読めました。
さらに肩のこらない例のマンガが、統計学のハードルを下げています。例えば、「よくあるエロ系雑誌のアンケートマジック 『東京の女子高生の初体験は平均 17歳!!』」を題材にして、「東京のどこよ?」と突っ込み、さらに「質問した時まだ未経験でこれからもずっと処女な人は一体どう計算するの?」と疑問を述べます (p179)。これは、ランダムサンプリングの重要性について述べた場面でのマンガでした。
コラムではこんな実践的な例の呈示もあります (p154)。本書を読むと、このような計算が一発で出来るようになります。
「七王子メディカルセンター」(架空の病院です) の夜間救急外来では、平均すると 4日に一度くらい、救急搬送後に集中治療室に入院する患者がいるという。集中治療室のベッドは 2床あいており、これが埋まったら救急車の受け入れを拒否せざるをえないとする。救急車の受け入れ拒否が発生する確率はどれほどか。ただし、救急患者の搬送はポアソン分布に従うと仮定する。
「マンガ」というタイトルのせいで軽く見られてしまいがちですが、「平均・分散・標準偏差」「正規分布」から説明を始め、最終的には「いろいろな分布」「推測統計」「仮説検定」に到達するかなりレベルの高い内容です。とはいえ、直感的に理解できるようになっているので、統計学をゼロから学びたい方に御薦めの本です。
2013年9月21日のブログで「シュルレアリスム宣言」を紹介しましたが、同じブルトンが書いた「ナジャ (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」を斜め読みしました。この本は、ブルトンが実際に交際していた精神疾患のある女性ナジャをテーマにしています。
この本の中で私が最も興味を持ったのは、Babinskiについての記載です。ある舞台についてのシーンを紹介します。
「ナジャ (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 54ページ
だが私の希望的観測では、作者たち (これは喜劇役者のパローと、たしかティエリーという名の外科医と、そのうえおそらくどこかの悪魔との合作になるものだった*) はソランジュがこれ以上の目にあうのを望んでいなかっただろう。
1862年にブルトンはこの部分への注釈を記しました。何と、そこにバビンスキーが登場するのです。長い注釈ですが、全体を引用します。
*この作者たちのまぎれもない正体については、三十年後にようやく明らかにされた。一九五六年になってはじめて、雑誌『シュルレアリスム、メーム』(1) は、この『気のふれた女たち』の全文を発表することができたのだ。そこに付されている P-L・パローによるあとがき (2) が、この芝居の制作過程を解明している。「[この芝居の] 最初の着想は、パリ郊外のとある私立女学校を背景にしておこった、いささかいかがわしい事件から思いつかれたものだ。けれども私がその着想を用いるべき劇は、-双面劇場なのだから-、グラン・ギニュルに類するジャンルのものであることを考えると、絶対の科学的真実のうちにとどまりながらも、ドラマティックな側面に味つけをしなければならなかった。つまり、きわだどい側面を扱わざるをえなかった。問題は循環的・周期的な狂気の一症例だったが、それをうまくこなすためには、もちあわせのないさまざまな叡智が必要だった。そんなとき、友人のひとり、病院勤務のポール・ティエリー教授が、あの卓抜なジョゼフ・ババンスキ (3) との関係をとりもってくれた。こちらの大家がよろこんで知識の光を与えようとしてくれたおかげで、この劇作のいわば科学的な部分を大過なく扱うことができたのである。」『気のふれた女たち』の念入りな制作過程にババンスキ博士が一役かっているのを知ったとき、私は大いに驚かされた。かつて私は「仮インターン」の資格で、慈善病院 (ラ・ピティエ) に勤務中の博士の補佐をかなり長くつとめていたことがあるので、この高名な神経病学者のことはしっかりと思い出にとどめている。彼が示してくれた好意についてもいまだに名誉に思っているし-たとえその好意が、私の医者としての立派な未来を予言するほど見当はずれなものだったとしても!-、自分なりにその教えを活用してきたつもりでいる。この件については、最初の『シュルレアリスム宣言』の末尾に賛辞を呈している (4)。
岩波文庫版では、上記に対する訳注が充実しています。必要な部分のみ引用します。
(1) 『シュルレアリスム、メーム』-(Le surrealisme, meme-「シュルレアリスム、そのもの」とも「シュルレアリスム、さえも」とも読める) は、一九五六年秋から五九年春まで、計五号を不定期刊行したシュルレアリスム機関誌。(以下略)
(2) 略
(3) ジョゼフ・ババンスキ (一八五七-一九三二) は著明な精神医学者。神経系統の反射機能、ヒステリーなどの研究で知られる。数行あとに出てくる慈善病院 (パリ十三区にあった神経医学慈善センターのことで、現ピティエ-サルペトリエール病院にふくまれる) に勤務し、多くの後進を育成。ブルトンがこの病院につとめたのは一九一七年の一月から九月までだった。なお、前注1にふれた別冊付録の最終ページには、このババンスキのポートレートが大きくかかげられている。
(4) 『シュルレアリスム』宣言におけるババンスキへの賛辞は、「足のうらの皮膚の反射作用の発見者」の逸話として、巻末近く (岩波文庫、八三ページ) にあらわれる。なお、『ナジャ』の五四ページでブルトンの想定している「悪魔」が、じつはババンスキだとも読めるところがおもしろい。
ブルトンの残した注釈を見ると、バビンスキーは劇の制作に一役買っていたんですね。ある先生から、「Babinskiは劇が好きでね。オペラ・ガルニエの近くに劇場があったのだけど、そこで急病人が出た時に診療するようなことをしていて、しょっちゅう劇場に入り浸っていたんだよ」と教えていただきました。
バビンスキーとブルトンの関係を考察した医学論文も最近読んだので、いずれ紹介したいと思います。
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(参考)
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」という本の中から、シュルレアリスム宣言を読み終えました。日常会話で「シュールだなぁ・・・」という表現をすることがありますが、その元になったのがシュルレアリスムという言葉のようです。
以前、岩田誠先生と現代音楽について話をしていたときに、その場にいた “はりやこいしかわ先生” が、「音楽にシュルレアリスムはないんですか?」と尋ねて、岩田先生が「それはないんだよ。なぜなら音楽にはレアルがないから。シュルレアリスムっていうのは、レアルに対するシュルなんだよ」なんて答えてらっしゃって、何も知らなかったシュルレアリスムを少し勉強してみようと思ったのがこの本を読んだ動機です。
そもそもシュルレアリスムとは何なのか、それを定義した部分を抜粋します。
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 46~48ページ
そこで、いまこそきっぱりと、私はこの言葉を定義しておく。
シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象 (オートマティスム) であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。
百科事典。(哲)。シュルレアリスムは、それまでおろそかにされてきたある種の連想形式のすぐれた現実性や、夢の全能や、思考の無私無欲な活動などへの信頼に基礎をおく。他のあらゆる心のメカニズムを決定的に破産させ、人生の諸問題の解決においてそれらにとってかわることをめざす。絶対的シュルレアリスムを行為にあらわしてきたのは、アラゴン、バロン、ボワファール、ブルトン、カリーヴ、クルヴェル、デルテイユ、デスノス、エリュアール、ジェラール、ランブール、マルキーヌ、モリーズ、ナヴィル、ノル、ペレ、ピコン、スーポー、ヴィトラックの諸氏である。
現在までのところ、以上の面々だけであって、十分なデータのないイジドール・デュカスの例をのぞけば、まずまちがうようなことはないだろう。そしてもちろん、それぞれの効果を表面的に見るだけならば、ダンテや、全盛期のシェイクスピアをはじめとして、かなりの数の詩人たちがシュルレアリストとみなされうるだろう。私は、背任の結果として天才とよばれているものを格下げするために、これまでさまざまな試みにふけってきたものだが、その間になにひとつとして、シュルレアリスム以外のプロセスに帰着しうるものを見出せなかったのである。
ヤングの「夜想」ははじめからおわりまでシュルレアリスム的であるが、あいにく語り手は牧師である。おそらくわるい牧師ではあろうが、とにかく牧師である。
スウィフトは悪意においてシュルレアリストである。
サドはサディスムにおいてシュルレアリストである。
シャトーブリヤンは、エグゾティスムにおいてシュルレアリストである。
コンスタンは政治においてシュルレアリストである。
ユゴーは馬鹿でないときはシュルレアリストである。
デボルド-ヴァルモールは愛においてシュルレアリストである。
ベルトランは過去においてシュルレアリストである。
ラップは死においてシュルレアリストである。
ポーは冒険においてシュルレアリストである。
ボードレールは道徳においてシュルレアリストである。
ランボーは人生の実践その他においてシュルレアリストである。
マラルメは打明け話においてシュルレアリストである。
ジャリはアプサント酒においてシュルレアリストである。
ヌーヴォーは接吻においてシュルレアリストである。
サン-ポー-ルーは象徴においてシュルレアリストである。
ファルグは雰囲気においてシュルレアリストである。
ヴァシェは私のなかでシュルレアリストである。
ルヴェルディは自宅にいるときにシュルレアリストである。
サン-ジョン・ペレスは距離をおいてシュルレアリストである。
ルーセルは逸話においてシュルレアリストである。
等々。
このように、連想、夢、無意識に重きを置いた姿勢は、フロイトなどの精神分析を思い起こさせますが、何とブルトンは精神医学や神経学を学んだことがあり、精神分析で有名なフロイト、神経学の歴史的偉人バビンスキーと交流がありました。シャルコー、クレペリン、フロイトなどの著書を夢中になって読んでいた時期があると言います。
シュルレアリスム宣言にも、フロイトやバビンスキーが登場します。その部分を抜粋します。まずはフロイトから。
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 19ページ
文明という体裁のもとに、進歩という口実のもとに、当否はともかく迷信だとか妄想だとかきめつけることのできるものはすべて精神から追いはらわれ、作法にあわない真理の探求方法はすべて禁じられるにいたったのだ。最近になって、知的世界の一部分が明るみに出されたことは、表面上は、いかにも大きな偶然のしわざである。だが、私の見るところ、これこそはとびぬけて重要でありながら、もはや気にもとめないふりをされていた部分なのである。これについてはフロイトの諸発見に感謝しなければならない。その諸発見をよりどころにして、ついにひとつの思潮がうかびあがり、そのおかげで人間探索者は、もはや皮相の現実ばかりを重んじなくてもいいのだという保証を得て、その調査をさらに大きく前進させることができるはずである。想像力はおそらく、いまこそ、みずからの権利をとりもどそうとしている。
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 2o~21ページ
フロイトが夢に批評をむけたのは、しごく当然のことである。じっさい、心の活動のうちのこの無視できない部分が (なぜなら人間の誕生から死までのあいだ、思考はなんら断絶を示さないものであり、時間の見地からして、夢みている時の総計は、たとえば純粋な夢、睡眠中の夢だけしか考慮に入れないにしても、現実の時、これも限定していえば覚醒中の時の総計とくらべて、短いわけではないからである)、まだこれほどわずかしか注目をひいていないというのは、うけいれがたいことである。
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 40ページ
そのころ私はまだフロイトに没頭していたし、彼の診断方法に親しみ、戦争中にはそれを患者たちに適用してみる機会もすこしばかりあったので、そこでは患者から得ることをもとめられているものを、つまり、できるだけ早口で語られる独り言を、自分自身から得ようと決意したのだった。すなわち、被検者の批判的精神がそれにどんな判断もくだすことがなく、したがってどんな故意の言いおとしにもさまたげられることがない、しかも、できるだけ正確に語られた思考になっているような独り言をである。思考の速度は言葉の速度にまさるものではなく、思考はかならず舌を、それどころか走り書きのペンをすらよせつけないものではない-あの筒切りにされた男という文句のおとずれた次第がそのことを証明していたが-と私には思えたし、いまもそう思えるのだ。
さて、バビンスキーの方はというと、実名は登場しませんが、該当部分を読むと、バビンスキーであることは一目瞭然です。
「シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (アンドレ・ブルトン著、巌谷國士訳、岩波文庫)」 83ページ
科学者の方法についていえば、私はそれを私の方法とおなじ価値のあるものとみなす。私はかつて足のうらの皮膚の反射作用の発見者が仕事をしているところを見た。彼はやすみなく被験物をいじくっていたが、やっているのは「診察」とはまったくべつのことで、彼がもはやどんなプランもあてにしていないことは明らかだった。ときどき、長い間をおいて所見をしたためるのだが、だからといってピンをおくわけではなく、他方、彼の小槌はあいかわらずすばやく動きつづけていた。患者の治療はというと、そんなくだらない仕事はほかの者にまかせていた。彼はその聖なる情熱にすべてをそそいでいたのである。
医学を学び、フロイト、バビンスキーと同時代にその影響を受けた人物が、芸術に一つの潮流を創りだしたというのは、面白いことですね。精神疾患患者であったLeona Delcourtとの交際をテーマにした「ナジャ」は時間を見つけて是非読みたいです。タイトルに惹かれて、ブルトンの著作「性に関する探求」をアマゾンでポチってしまったのはここだけの秘密です (^^;
「一億人の茶道教養講座 (岡本浩一著、淡交新書)」を読み終えました。基本的なことから書いてあってわかりやすかったです。
茶の湯と聞くと千利休を思い浮かべますが、キーパーソンから流れを見ると、次のような歴史があるのですね。
・能阿弥
書院飾りを制定した。足利義政に茶を出すための茶の湯の手前を確立した (東山茶湯)。
・珠光
能阿弥の「将軍家茶湯」に対照する形で「下々の茶湯」「茶数寄」を工夫した。「茶禅一味」を提唱し、「茶の修行は仏道修行にあり」と唱え、「侘び茶」の最初のコンセプトを確立した。珠光の茶湯を「奈良茶湯」と呼ぶ。(珠光は宗珠を養嗣にするが、その後継者が村田姓だったため、村田珠光とも呼ばれる)
・武野紹鴎
今井宗久、津田宗及、千利休の師。数寄茶屋の確立者と見られる。
・千利休
「草庵茶屋」の確立者。ただし、侘び茶をしたのは最晩年の三年弱。
・古田織部
千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた後、秀吉の意向の入った茶の湯を行った。具体的には、帯刀したまま茶が出来るようにした。藪内流、遠州流、石州流はこの系統。
・千宗旦
利休の孫。侘び茶を完成させた。宗旦の子供から表千家、裏千家、武者小路千家に別れる (子供同士が仲悪かったわけではない)。
・仙叟宗室
裏千家の基礎を築いた。
・如心斎天然
小間が主流の茶の湯を広間中心に変えた。
・玄々斎精中
裏千家の手前や所作を独立したものとして確立し、裏千家の基礎を作った。
茶碗の話も面白くて、楽茶碗はバクテリアが豊富な土で焼くので、バクテリアが燃やされるときに炭酸ガスが生じ、気泡となります。その結果、熱伝導率が低いので茶が冷めにくく、また軽いといった特徴が生じます。これが茶の湯のスタイルに影響を与えたのだそうです。
あと面白かったのは、侘びの英訳。辞書的には “beauty of asymmetry” と言うそうですが、本書にあった “imperfect beauty”, “beauty of imperfection” という訳語には説得力があります。日本文化に興味を持つ外国人に色々聞かれた時、この表現は使えるなと思いました。
私は茶の湯はやらないけれど、茶碗に地酒を入れて飲むのだったらやってもいいかなぁ・・・。みぐのすけ式酒道とか妄想しました。
最後に本書の序論にあった言葉を紹介。こういうのを読むと、日々精進しないといけないなと思います。
人間の「重さ」とは、教養の「重さ」です。人間は自分と教養の質の似ている人を深く信頼するようになるのです。
「人民は弱し 官吏は強し (星新一著、新潮文庫)」を読み終えました。
ショートショートでお馴染みの星新一が、父親星一について綴った著書です。星一がドイツの科学界に大きな寄付をした話は以前ブログで紹介しました。
星一は、製薬業で素晴らしい業績を残しましたが、まっとうに商売をやりすぎて、国と癒着した業者に潰されました。国を挙げての陰湿な会社いじめは、読んでいて背筋が寒くなります。大正時代には、明治政府が出来た時のような清々しい風はもう吹いていなかったのでしょう。また、今日の日本と違ってまだ民主主義として未成熟だったことがここまでえげつないイジメを生んだとも言えます。
当時のような世の中で、権力を持った人間に賄賂を渡して癒着することを潔しとしなかったのが原因と言えばそれまでですが、彼の方が筋が通っているのは確かです。
彼の息子の書いたこの本が、彼の無念をいくぶんかでも晴らしてくれるものだと信じます。大正時代にこんな話があったことを知って欲しいので、多くの方に本書を読んで貰いたいです。
最後に、本書で心に残ったエピソードをいくつか紹介しておきます。
太平洋を越え、やっとサンフランシスコの港にたどりついた時のことである。不慣れと興奮による心のすきにつけこまれ、知り合った在留邦人にだまされ、百ドルほどの所持金すべてを巻きあげられてしまったことがあった。星はその事件を回想し、あれもひとつの壁だったなと思った。悲観的な性格の者なら、領事に泣きついて船賃を借り、そこから引きかえしたかもしれない。しかし、すぐに職をさがし、いかにひどい仕事でもより好みせずに働くと決心することで、なんとか生き抜き、苦境を脱した。
やがて東部に行き、コロンビア大学に入学しようとした時もそうだった。どう働いても、授業料として必要な年百五十ドルがかせぎ出せない。その際は、講義を聞くのは半分だけにするから授業料を半分にまけてくれ、との案を持ち込んで交渉し、学校側を承知させた。卒業までに普通の二倍の年月を要してもいいとの覚悟で、なんとか壁を乗り越えた。あれはわれながら名案だったな。星は思い出し、楽しげに笑った。
これに類した体験は何回もあったが、いずれもなにかしら案を発見し、努力をおしまないことで道を切り開いてきた。これだけつみ重ねてくると、社会の原理のひとつと思えるのだった。絶対的な行きづまりの状態など存在しない、当事者がそう考えるだけなのだ、と。
その当時、野口 (※野口英世) は渡米十六年、老いた母にも会いたかったし、故郷に錦を飾りたかった。しかし、名声は高くても、彼は金銭に恬淡な性格のため、少しも金の用意がなかった。野口は星に<カネオクレ、ハハニアイタシ>と電報を打ち、星はそれに応じて送金をしたのだった。
「いや、あの金はきみのために出したのではない。きみの母上のためにしたことだよ。また、きみのあの時の帰国によって、日本人も学問への尊敬ということを感じはじめたようだし、努力さえすれば世界的な業績をあげうる国民だとの自信を持てた。金のことは気にせず、研究に精を出すべきだな」
「しかし、あの時のお礼をしたい気分だ」
「そんなことを言ったって、きみは依然として金銭に淡白だし、ニューヨークの盛り場の秘密の場所を案内する知識もないだろう。もっとも、ぼくは酒を飲まないから禁酒法の目をかすめてみても楽しくない」
「その通りだな。しかし、どうも気がすまない。ぼくにできるようなことで、なにか役に立ちそうなことがあったら、言ってくれ」
野口は困ったような表情で言った。星はしばらく考えてから言った。
「そうだな。できるものなら・・・・・・」
「なんだ遠慮なく言ってみてくれ」
「ちょっとでいいのだが、エジソンに面会できないものだろうか。あれだけ多くの発見をなしとげた人物に、拝顔しておきたいと思っていたのだ」
「なるほど、それならなんとかなるかもしれない。知りあいの学者を通じて連絡をとって、つごうを聞いてみるよ」
さいわい連絡がとれ、星は野口とともに約1時間、エジソンに会うことができた。この発明王は七十七歳になっていたが、白髪と、夢想家の目と、実際家の口もとを持つ、元気にあふれた人物だった。彼の口からは、早い口調で言葉が流れ出した。
エジソンは現在もなお、蓄音機や電池の改良に専心していることを語り、さらに今までとはまったくことなる分野へ挑戦しようとしている夢を展開した。フォードの依頼により、ゴムの問題を手がけているという。ゴムはアメリカ国内で産出せず、その供給の不安定を解決するため、同じ性質を持つ、ゴムにかわる物質を発見してみせるつもりだとしゃべった。そしてこうつけくわえた。
「利益よりも、まず公共のことを考えなければ物事はうまく運ばない。私は人類のために新しい富、新しい道具、新しい産業を創造しようとして働いているのだ」
話し好きな偉大な老人に、きげんよくまくしたてられては、星も野口もあまり口をはさめなかった。エジソンは別れぎわに、大きな自分の写真にサインをして二人に手渡してくれた。それには、名前のほかに<成功しない人があるとすれば、それは努力と思考をおこたるからである>と書かれてあった。
自分が倒れたら、半分は社員たちに、半分は債権者たちに提供するよう、書類も作成してあった。その保険の掛金を払戻してもらったのである。こうなると、死ぬこともできない。死はさらに大きな迷惑を他人に及ぼすことになる。
もはや、あくまで問題の解決に努力し、事業を復活させる以外に、なすべきことは残されていない。星は決意をさらにかためなければならなかった。
星は数名の社員を連れて保険会社に出かけ、その金を受取った。現金をいくつかにわけ、何台かの自動車に分乗し、会社へと持ち帰った。銀行が利用できないとなると、このようにして運ばなければならないのだった。また、星がまとまった金を手にしたとの情報がもれると、途中で、無茶な差し押さえをされないとも限らない。そんな場合、分乗していればつかまるのは一台ですむ。さいわい無事に帰りつくことができた。
情報が他にもれないですんだわけだが、同行した社員の口から社内に伝わった。とっておきの生命保険金を、払戻して支払われた給料であると。
これからの給料がどうなるのかわからないにもかかわらず、社員たちは星のために、自発的に金を出しあってくれた。千五百名の社員従業員たちが、少しずつの金を持ちよった。だが、星にさしだしたのではない。彼らは原稿を書き、その金とともに新聞社へ持っていった。広告を掲載し、社会に訴えようというのである。そして、それは紙面にのった。こんな文面だった。
<官憲はなぜ星社長を虐待するのでしょう。親切第一を主義とし、進んで社会奉仕をし、国家貢献をなさんと一生懸命に努力している社長の活動を、なにがために妨害するのでしょう。いったい、我々をどうしようというのでしょうか。社会を毒するのならいざ知らず、我々は政府から一銭の補助金も、一銭の低利資金ももらわずに・・・>(略)
かなりの長文ではあったが、どの行にも願いの叫びがこもっていた。読んだ者は、血がしたたるのを文面から感じたかもしれない。なかには、時事新報社の神吉広告部長のように「このような広告から料金は取れない」と、独断で無料掲載してくれた新聞社もあった。
「ルバイヤート (オマル・ハイヤーム作、小川亮作訳、岩波文庫)」を読み終えました。ペルシア語で四行詩を「ルバーイイ」といい、ルバイヤートは、日本語に直訳すると「四行詩集」となります。
オマル・ハイヤームは、1040年頃ペルシアに生まれました。詩人としてのみならず、優れた数学者、天文学者であったことが知られています。彼はイラン=イスラム文化を代表する詩人でありましたが、イスラム教を信仰していませんでした。本書のあとがきにそのことが記されています。
そもそもイスラム教は異民族たるアラビア人の宗教であって、オマルのこの宗教に対する反感は、彼の哲学思想たる唯物論・無神論の当然の帰結であるばかりでなく、イラン人としての彼の民族的感情をも交えた人間性の深所からの叫びであった。(略)
要するにオマル・ハイヤームはイスラム文化史上ユニークな地位を占める唯物主義哲学者であり、無神論的反逆をイスラム教に向け、烈々たる批判的精神によって固陋な宗教的束縛から人間性を解放し、あらゆる人間的な悩みを哲学的ペシミズムの純粋さにまで濾過し、感情と理性、詩と哲学との渾成になる独自の美の境地を開発したヒューマニスト思想家であった。
さて、この詩集では、人生の無常などが詠われていますが、酒に関する記述が非常に多いのが特徴です。イスラム教は酒を禁じていましたが、彼はそれに猛然と反発しています。
わが宗旨はうんと酒のんでたのしむこと、
わが信条は正信と邪教の争いをはなれること。
久遠の花嫁に欲しい形見は何かときいたら、
答えて言ったよ-君が心のよろこびをと。
さらに、オマル・ハイヤームはイスラム教を信仰しなかったばかりでなく、仏教徒やゾロアスター教徒も皮肉ってます。
いつまで水の上に瓦を積んでおれようや!
仏教徒や拝火教徒の説にはもう飽きはてた。
またの世に地獄があるなどと言うのは誰か?
誰か地獄から帰って来たとでも言うのか?
宗教はともかく、次のように酒を詠んだ詩は、酒飲みにはぐっときますね。
愛しい友よ、いつかまた相会うことがあってくれ、
酌み交わす酒にはおれを偲んでくれ。
おれのいた座にもし盃がめぐって来たら、
地に傾けてその酒をおれに注いでくれ。
さて、岩波文庫版「ルバイヤート」は、小川亮作氏がペルシャ語の原典から訳したものですが、いくつかの翻訳が存在します。まず、この「ルバイヤート」を世界に広めたのは、イギリス人のフィツジェラルドによる翻訳版です。フィツジェラルドによる翻訳は読みませんでしが、ジャスティン・ハントリー・マッカーシーが英訳したものを、片野文吾氏が日本語訳した本がちくま学芸文庫から出版されていたので、同じ詩を岩波文庫版と比較してみました。
岩波文庫版
墓の中から酒の香が立ちのぼるほど、
そして墓場へやって来る酒のみがあっても
その香に酔痴れて倒れるほど、
ああ、そんなにも酒をのみたいもの!
ちくま学芸文庫版
願わしきは心ゆくまで飲まんことなり、心ゆくまで飲める酒の芳香、我眠れる土の辺りにただよひ居て、昨宵の酒宴の為に尚眩暈みつつ我墓を訪ふ者の、我墓の香気の為のみにて酔ひ倒れるることあるまで、さばかり痛く酔はんかな。
この二つの翻訳、私は最初はちくま学芸文庫版の方が、文学っぽくて良いのかなと思ったのですが、岩波文庫版の方を読むと、その翻訳には深い理由があったようで、感銘を受けました。長いですが、岩波文庫版からの解説を引用します。
ルバーイイはもと民衆的な起源を有するもので、人々が愛誦した民謡の形式であった。だから今日でもこの詩形を別にタラーネ (歌) と呼ぶ人さえある。それは、普通は、シナ詩の絶句体のような、起承転結の表現様式と押韻形式 (aabaの脚韻) とをとり、またたまには全詩脚同一韻の aaaaの形式をもとる一連四行の詩形で、各行は、日本語のような音の数や英詩のような音の強弱の原理ではなくて、古典ギリシア詩のような、音の長短の原理に基づき組み合わされた独特のリズム構成を有する三つ半の詩脚から成り、その最後はいずれも半分の詩脚で終わっている。だから四行を通じて見れば、完全な詩脚が一二と半分のものが四つあるわけである。各詩脚はいずれも長音歩三単位の長さに等しく (長音歩一つは短音歩二つの長さに等しい、以下長音歩を単位音歩、短音歩を半音歩とも称する)、その長短の組み合わせには、長長短短、長短長短、長長長の三通りがあり、また最後の詩脚は長音歩一つまたは一つ半の長さである。したがってこれらの詩脚の種々の配置によって、各行には長音歩十単位のものが一二、十単位半のものが一二、合計二四の構成様式が可能なわけである。(※文章にするとわかりにくいが、本書解説の図を見ると理解しやすい)
ルバイヤートはリズム構成が大事で、岩波文庫版の翻訳は、すべてリズム構成をルバーイイに合わせてあったのですね。それを知って読むと、より深く楽しむ事ができました。
さて、この詩集を読み終えて、イスラム文化について Wikipediaでお勉強していた私は、リンク先を辿るうちに、「Wikipedia-イスラーム世界の性文化」という興味深いサイトに辿り着いたのでした。←ルバイヤート関係ないし (爆)
「セレンディップの三人の王子 (エリザベス・ジャミソン・ホッジズ著、真由子 V. ブレシニャック、中野泰子、中野武重訳、パトリシア・デモリ画、バベル・プレス)」を読み終えました。
セレンディピティ- Wikipedia
セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力のことである。
私が初めて「セレンディピティ」という言葉を知ったのは、「医学を変えた発見の物語」という本の一節からでした。「セレンディップの三人の王子」は、この「セレンディピティ」の語源となった物語です。セレンディップ (セイロン) の三人の王子が、竜を倒す強力な魔法が書かれた巻物を求めて旅をするのですが、その道中に起こるイベントに知恵と勇気を持って立ち向かい、予期しない幸運を得ることが出来ました。
子供向けに書かれた童話とはいえ、大人が読んでも楽しめる本でした。
「猿橋勝子という生き方 (米沢富美子著、岩波書店)」を読み終えました。猿橋勝子氏は日本の女性科学者の草分けで、「猿橋賞」の創設者としても名を残しています。
猿橋氏の時代は女性のアカデミックへの道は限りなく狭いものだったそうです。
猿橋が第六高等女学校を卒業した一九三七年には、高女卒業後に正規の高等教育機関に進学した女性は、同年代の女性の約0.6%に過ぎなかった。
そのような時代に、猿橋氏は、当初医師になることを志し、東京女子医専 (現・東京女子医科大学) を受験しました。1941年、21歳であった猿橋氏は東京女子医専の創始者、 70歳の吉岡彌生の面接を受けました。その時の様子を彼女は後に繰り返し人に語っています。
面接試験は二つの部屋で行なわれた。私は当時校長であった吉岡彌生先生のいらっしゃる部屋に入る順番となった。吉岡にお会いするのは、はじめてであった。かねて尊敬する先生とお会いすることに、私はうれしくもあったが、面接試験ということに、多少の不安もあった。
先生の前の椅子に腰をおろした私に、先生は「どうしてこの学校を受験しましたか」とおっしゃるので、私は「一生懸命勉強して、先生のような立派な女医になりたいと思います」とお答えした。すると先生は、天井の方を見上げながら、カラカラと笑われた。そして、「私のようになりたいですって。とんでもない。私のようになりたいといったって、そうたやすくなれるもんじゃありませんよ」とおっしゃったのである。私は、びっくりして、先生の顔を見つめていた。そして先生への尊敬の念がしだいに後退し、女子医専に入学することへの期待は、大きな失望に変わっていった。
このようなことがあり、彼女は合格した東京女子医専を辞退し、開校したばかりの帝国女子理学専門学校 (現・東邦大学理学部) に一期生として入学しました。そして戦争に協力していった吉岡彌生とは対照的に反戦の姿勢を貫きました。
大学在学中、猿橋氏は生涯の付き合いとなる三宅泰雄氏の研究室を訪れ、ポロニウムの研究を行いました。卒業後は「戦争に協力するのは嫌」という理由で、中央気象台に就職しました。中央気象台では当初オゾン層について研究していたそうですが、1950年頃からは水中に溶解した炭酸物質の研究を始めました。彼女は「微量拡散分析装置」を開発し、塩素量・水温・pHに対する炭酸物質の存在比を表にしました。この「サルハシの表」は国際的に高く評価され、数十年に渡って使われたそうです。
1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの核実験で第五福竜丸が被曝したことで、彼女に転機が訪れます。
炭酸物質の研究に加えて、第五福竜丸の死の灰被災事件を機に、私は死の灰の地球化学研究にもたずさわることになった。核兵器爆発によって大気中に放出された死の灰が、大気、海洋の中をどのように行動するかを追跡する仕事である。アメリカのネバダで核爆発すると、その影響は、日本に約三週間で達し、また中国の核爆発の影響は二、三日で日本に到達することが明らかになったのは、私たちの研究室の成果の一つである。
「海洋上に落ちた死の灰が、表面から深海に拡散していく速さが予想以上に速く、わずかの五、六年で六千メートルの深海に到達することも、私たちの研究からわかった」
彼女達は海水や雨水中のストロンチウム九〇やセシウム一三七を測定しました。ところが、これらの結果 (例えば、1960年の日本近海のセシウム一三七の濃度は、海水 1Lあたり、 0.8~4.8×1012キュリーだった) を発表して核実験による大気汚染の深刻さを警鐘を鳴らしたところ、アメリカの研究者から「日本側の分析の不備」を指摘され、データは信用されませんでした。この問題に決着をつけるため、猿橋氏は単身アメリカに乗り込みました。
1962年、猿橋氏はサンディエゴにあるカリフォルニア大学スクリップス海洋研究所で、フォルサム博士らとセシウム一三四の回収実験で雌雄を決することになります。そして、より難度の高い方のサンプルを用いた上で、より高い回収率を上げ、分析競争に勝利しました。この分析競争の結果により、アメリカの原子力委員会も日本のデータを認めざるを得なくなり、「核実験は安全」だというアメリカの主張の根拠が崩れました。地上核実験廃止にも影響を与えたそうです。
この本は、歴史に影響を与えた日本人科学者「猿橋勝子」のことを知ることのできる素晴らしい本ですので、興味のある方は読んでみてください。
(追記)
日本近海のセシウム 137について、1959年の Natureにこのような論文を見つけましたが、私が所属する研究所からだと有料でした。どこか無料でアクセスできる研究所に行く事があれば読んでみたいと思います。
Concentration of Cæsium-137 in the Coastal Waters of Japan (1959)
NOBORU YAMAGATA
Institute of Public Health, Tokyo. Aug. 14.
I HAVE analysed bittern and carnallite of industrial origin and deduced the concentration of cæsium-137 in the coastal waters in early 1958 of Japan as 70–150 µµc. kgm./l.1 Recently, by application of a low-level β-counting equipment, cæsium-137 has been successfully determined by direct treatment of 6–20 litres of sea-water.
「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 (河北新報社、文藝春秋刊)」を読み終えました。新聞社の出した本だけあって、さすがに文章は上手でした。
被災直後の社内の状況が手に取るようにわかりましたし、極限の状況の中、皆が必死に新聞を発行している様子が目に浮かぶようでした。何よりも心に響いたのは、生々しい記者たちの本音が伝わってきたことです。例えば、ある記者は原発事故の時福島にいましたが、一時的に新潟に避難した後、福島に戻って取材を続けました。しかし、結局記者を辞めることにしたそうです。心境が綴られています。
今回福島を離れた私の姿は、自分がこれまで追い求めた理想の記者像とあまりに懸け離れ、その落差に言いようのない絶望感を覚えました。自分の中の弱さ、報道の使命、会社の立場・・・それらいろいろな因子の折り合いをつけて前に進むのが記者なのかもしれません。
でも、一度福島を去った私にはそう割り切ることができなかった。震災後をどう生きていけばいいのか、記者の立場を離れた一人の人間として考えようと思いました。
被災した新聞社に印税を支援する意味でも、”買い” の一冊ですね。
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