NHK将棋の時間
当直がないときは、日曜日の朝は、だいたいNHK教育「将棋の時間」を見ています。
元ネタ(NHK教育「将棋の時間」対局:毎週日曜日午前10時20分~)を知っていると楽しめるのですが、そのパロディ動画をYoutubeで見つけました。
当直がないときは、日曜日の朝は、だいたいNHK教育「将棋の時間」を見ています。
元ネタ(NHK教育「将棋の時間」対局:毎週日曜日午前10時20分~)を知っていると楽しめるのですが、そのパロディ動画をYoutubeで見つけました。
「カラヤンはなぜ目を閉じるのか-精神科医から診た”自己愛”-中広全延著、新潮社」を読み終えました。著者は精神科医です。この本は、カラヤンに残された多くの逸話が”精神疾患の分類に使われる ”DSM分類-Ⅳ” での「自己愛性人格障害」に相当するのではないかという観点から述べられています。加えて、DSM分類の問題点、賛否についても論じられています。
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「音大進学・就職塾 (茂木大輔著、音楽之友社)」を読み終えました。
特に管楽器を中心に、プロになるために必要なことや、音大に入ってから気をつけること、プロになってからのギャラの相場などが書かれていて、楽しく読みました。文章もウィットに富んでいます。本の終わりには、「楽団員のための-古典音楽一般論必須知識」と題された章ががあり、これだけでも読み物として楽しめます。
プロになるために必要なもの、それは演奏水準、演奏経験、コネなのだそうです。もちろん演奏水準は当然必要でしょうし、場数も踏まなければ実力を出せないこともあるでしょう。面白いのは「コネ」だと言い切るところです。確かに、音楽の世界の場合、実力があったからといって、黙っていても仕事が舞い込んで来るわけではありません。誰かに演奏を聴いて貰わないと、観客に知られることもありませんし、雇う側も聴いたことがない演奏家に依頼しようとは思わないでしょう。
具体的に書いてある部分を引用します。
音大・プロ志望者が漠然と誤解していることが多いのが、
・「うまければ」
・「いつか誰かが (先生) が仕事をくれる」となんとなく思っていること。
マチガイである。
技能の習得、向上は、プロを目指す以上当然の前提なのはもちろんだが、それだけをやって待っていても、一生シゴトは来ないのである。驚いたか。
この先大学院に行こうが留学しようが、「技術の向上」 (レッスンと練習) という自分の世界だけに没頭・逃避し続ける限り、状況は全然変わらない。
「シゴトを作る、もらう努力」は、別途行っていただきたい。
シゴトは、漠然とした「誰か」がくれるのではない。アンタが知っている、アンタを知っている、特定の誰かがくれるのだ。知り合いをたくさん作り、シゴトをしたい気持ち・熱意・連絡先を伝えておかなくてはならないということだ。
「コネ」を増す努力を、1年生、いや、受験生の時からしておくべきだった。これから毎日「コマネシ!」と唱えていなさい。 (古いか・・・)
シゴトを得るというだけでも、なかなか大変な世界なのですね。昔のヨーロッパでは芸術家の集まるサロンがあり、多くの音楽家が親交を結んだそうですが、日本ではあまりそういう話を聞きませんね。
さて、本書には「うまくなるには」という話も書いています。意識しなければいけないのが、音色・強弱、正確さ、雰囲気だとして、それぞれ個別に解説しています。良い音色の条件としては、雑音が少なく、音程がまっすぐでふらついていない、発音がクリアー、強弱のどちらのも思い通り進める余裕などが含まれます。また、正確さには読譜力、音程感覚、リズム感、楽器奏法上の自由があります。これらは、しばしばアマチュアに欠けているもので、プロと一緒に演奏すると、身につまされます。
そのために必要なことも議論されており、一部を引用します。
「さらう」場合に重要なのは、さらうという行いには、
・とにかく音にしてそれを聴く (ソルフェージュの補助)
・困難な箇所を発見する
・そこを克服するために、練習方法を考える (問題を整理、理解して対処法を考える>頭脳)
・それを実行し、偶然性を排除して確率を100%に近づけるために繰り返してさらう (肉体に覚えさせる)の、4つのファクターが含まれているということ。ただバカのように繰り返して吹いているうちにいつのまにかできる、というのは、まさに偶然であり時間のムダであり、根本的な上達は望めない。
楽譜の表現が曖昧なまま、間違えていたり、イラナイ音が混じっていたり、その瞬間にくっきりと音が移り変わっていなかったり、音量や音色にばらつきがあったり、レガートが途切れていたり、スタッカートが整っていなかったり、なんとなく薄汚れた演奏をしている人間がとても多い。90点を出すのはたやすいが、それを 100点まで磨くのは地獄の特訓しかない。自分と向かい合い、録音し、意地悪く聴き、全部を直せ。
なかなか厳しい意見です。プロを志すには、必要なことなのでしょう。
幸い私はアマチュアなので、演奏に失敗しても「てへっ」って言っておけば、次から飯の種に困ることはないのですが、楽器の上達のために、上記のようなことを意識して、もう一段ステップアップしたいところです。
今日紹介するのは、「舞台裏の神々 (Rupert Scottle著、喜多尾道冬訳、音楽之友社)」です。余りにも面白くて、最初から最後まで2回読みました。
1回目は新幹線の中で一人でゲタゲタ笑いながら読んでいて、周囲から腫れ物をみるような視線を浴びてしまいました。笑いのツボを突く話が多すぎます。
話の多くは、オーケストラや指揮者のこぼれ話です。それもユーモアたっぷりです。
ウィーン・フィルハーモニーのコンサートマスターだった、ヴィリー・ボスコフスキーのような腕の立つヴァイオリニストですら、シュトラウスの作品の多さにひどくてこずったことがある。あるとき、≪影のない女≫の上演後、彼はいつもとちがって、劇場内のドリンク・コーナーに直行し、大量のワインを一気飲みしたことがある。だれもがおどろいて、そのわけを訊いた。彼はただこう答えた、「これが飲まずにいられるか。今日はじめてこのオペラの音符をぜーんぶ完璧に弾けたんだから!」。
このようなことが、いつもうまくいくと思ったら大間違い。ヨーゼフ・クリップスが、一九七〇年代のはじめに、≪ばらの騎士≫をウィーン国立歌劇場で指揮したときに、こんなことが起こった。第二幕でオクタヴィアンが剣を引き抜いて、オックス男爵に切りかかるシーンがある。ここでズボン役で名高かったアグネス・バルツァが、四小節早く出てしまった。クリップスはまごついて、懸命に追いつこうと努力した。だが奮闘も空しく、全体のアンサンブルを回復できなかった。
共演者の一部は先行するオクタヴィアンについて行き、他の一部は楽譜通りの進行にきちんと従い、残りの大部分は両派のあいだを右往左往するありさまとなった。その結果ほんらいなら愉快なシーンが、不快なひびきに終始することになったのである。
その日のオックス役は、リーダーブッシュで、彼はプロンプターに助言を求めた。彼はリーダーブッシュに、楽譜通りにオクタヴィアンの剣に当たって、大声で「やられた!」と叫べばよいと教えた。リーダーブッシュは言われた通りに叫んだ。少なくとも十回も。そんな大げさな叫び声にすっかり度肝を抜かれ、だれもが自分勝手に態勢を立て直そうとした。その混乱のなかで、この高名な指揮者は途方に暮れて腕を空しく漕いでいた。
結局、手のほどこしようのなくなった指揮者は、激しく両手をふり、聴衆にも聞こえるような甲高い声で、「中止、中止!」と叫ぶほかはなかった。そんなどうしようもない混乱のなかでも、クリップスは、オーケストラはもうとっくにアンサンブルを回復し、楽譜通りにきちんと演奏していることに気づくべきではなかったか。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、しかるべき時点で自分たちの自主権を思い出し、混乱した事態の回復を自分たちの力で成し遂げたのだ。それに気づいたクリップスは驚愕し、すっかり意気阻喪して、その後指揮活動をやめてしまった。かなり長い謹慎生活ののち、やっと気を取り直して、いつもの実入りのよい仕事に復帰したのである。
ヨーゼフ・クリップスは、本書ではあまり良い印象で書かれてません。 楽団員から好かれていなかったのでしょうか。他に、カール・ベームも、格好のネタとして書かれています。
私の好きなバーンスタインの逸話もあり、人間くささが伝わってきます。
バーンスタインは親密さとやさしさを求めるあまり、常識の限度を超える態度を見せてはばからなかった。彼はだれかれなく情熱的なキス(演出家のジョナサン・ミラーの言葉を借りれば、紙やすりでこすられ、いそぎんちゃくに吸い付かれるようなキス)をふりまく、自分の指揮台にいちばん近い席に座っているというだけで、その楽員にもキスするありさまだった。ウィーン・フィルハーモニーのあるヴィオラ奏者は、このキス責めから逃れようと、二列目にいる仲間に席を替わってもらったほどである。そんなことでかんたんに引き下がるレニーではない。キスの儀式がはじまり、席を譲って前列にやってきた奏者が巧みにそれを避けると、彼は二列目に進み、やっとキスを逃れたと思った当のヴィオラ奏者にブチューとやるのだった。
バーンスタインはとくに親密な演奏に成功したあとは、オーケストラ全体に舌による愛情表現を示そうとし、そのためにひとりひとりの楽員を舞台の袖で待ちかまえていた。もしキスの洗礼を避けたければ、楽員は聴衆にまぎれてホールを出なければならなかった。バーンスタインは自分のまったく知らない人にも、濃厚をキスを見舞うこともまれではなかった。彼はもともと男性的な魅力にあふれていたから、大勢の女性から憧れの目で見られていた。そんなひとりがウィーン・フィルハーモニーのヴィオラ奏者ハインツ・コルの義姉。彼女はマエストロに一度会わせてくれと義弟にしつこく頼んでいた。彼は彼女にいいよと気安く約束したものの、バーンスタインはいつも崇拝者の群れに取り囲まれているので、そうかんたんに思い通りにならなかった。マエストロがちょうどサラダをぱくついていたとき、コルはやっと話しかけるチャンスをつかんだ。指揮者と義姉がたがいに自己紹介したあと、指揮者は舞い上がっている若い女性をすぐさま抱き寄せ、マヨネーズだらけの口で彼女にブチューとキスをして、相手の唇をマヨネーズだらけにしてしまった。それまで遠くから憧れの眼差しで見ていたのが、あっというまに現実の悲惨さを味わわされることになったわけだ。
私が指揮者だったら、相手を選んでキスするかもしれませんが(^^;)、バーンスタインは手当たり次第です。女性のマヨネーズだらけの唇を想像して笑ってしまいました。今度、相手がいれば、真似したいものです。
あと、笑えるのが、オーケストラの楽員たちの悪戯です。
ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちは、イギリス系のひどくいけ好かない指揮者に対して、ひどく巧妙な復讐を企てたことがあった。ザルツブルク音楽祭で、シューベルトの交響曲第九番≪グレート≫のプローベをしていたときのこと、この指揮者は祝祭大劇場の音響効果を調べるために、指揮台から離れ、その間オーケストラは指揮者なしのまま演奏することになっていた。彼が指揮棒を置くや、オーケストラはもっともすぐれた指揮者に導かれているかのように、すばらしいひびきで演奏しはじめた。この予期せぬ変化がくだんの指揮者の耳に聴きとれなかったはずはない。指揮台にもどった彼は、不安そうに自分の指揮棒を見つめ、それを取り上げるのにしばらく躊躇した。しかし楽員たちは容赦しなかった。彼がふたたび指揮をはじめると、この指揮者ならではの凡庸なひびきになり下がってしまった。
この有名な指揮者は、メンデルスゾーンの交響曲≪イタリア≫のような作品を録音するのに、四百箇所にも継ぎはぎを必要とした。ドイツ・グラモフォンの録音技師によると、移行句がほとんどうまくいっていないので、その箇所は編集技術を最高度に駆使してやっと切り抜けることができたという。事情通にとっては不思議でもなんでもないことだが、このイギリス人はテンポ感覚に欠けていたわけだ。彼は最後の楽章で、四時間のテイクのうち三時間もこんなテンポでやってゆくことに費やすものだから、音楽のこまかなニュアンスなど消し飛んでしまわざるを得なかった。オーケストラと録音技師たちの絶えざる抗議に出会って、彼ははじめて自分の誤りを認めた。
それでも彼の録音したCDのほとんど、すぐれた内容を示しているというから、それは編集技術の絶大な威力と言わざるを得ない。ともあれ、ドイツ・グラモフォンが、もうこれ以上彼を起用する気にならなくなったのは当然のなりゆきだ。ドイツ・グラモフォンは、二〇〇一年一月に彼とのレコード録音の契約を打ち切った。彼の言によれば、それを新聞ではじめて知ったということだ。
無能な独裁者よりもさらに困った存在が、音楽の講釈を楽員に延々と垂れることが大好きな指揮者である。そんなひとりがヨーゼフ・クリップスである。彼はプローベを時間通りに終えることはまずなかった。予定された時間にプローベが終わっても、もう一度といってまたやり直す。というのも、「楽員というものはしごけばしごくほどよくなる!」、と頑なに信じているからだが、これほど楽員をばかにした言い草もない。このような無意味な時間の浪費は、楽員の復讐心を掻き立てる。それはある絶好の機会に実行に移された。クリップスは絶対音感に恵まれていないことにひどく悩んでいた。だから楽員たちはいつもそのことを当てこすっては彼にいやがらせをした。ウィーン・フィルハーモニーの楽員たちが、ブルックナーの交響曲第四番をプローベしていたときのこと、半音低く演奏した。それがわかったのは、チェロ奏者たちが三和音に似た主要主題を弾き出し、明るい高音に移ったときだった。
クリップスは泣き声で自分のミスをくどくどと弁解しはじめた。この勝利は正当なものだったが、これがなんども繰り返されることになる。たとえば、シューベルトの≪未完成≫交響曲の第一楽章の出だしは、コントラバスとチェロだけではじまる。この楽器の奏者たちはたがいにこの箇所を半音高く演奏しようと陰謀を企てた。それに気づかないヴァイオリン奏者が、楽譜通りに入ってきたとたん、一瞬ひどい耳障りな音になった。怒ったクリップスはヴァイオリン奏者たちの間違いを注意した。彼らはちゃんと楽譜通りに弾いていますと抗議する。しばらく考えたあと、彼はその張本人たちはだれかに気づいてひどく傷ついた。そして休憩時間に彼らをきびしく叱責した。
指揮者に腹を立てたとき、正面衝突するのではなく、こうした方法を取ることに、文化を感じます。抗議するのも楽しんでいるのですね。私はオーケストラで弾くのが嫌いなので、こうした悪戯をする機会はなさそうですが、一回やってみたい気もします。指揮者にしてみたら、最高にキツイでしょうね。
本書は、最初から最後までこうした逸話で構成されています。読みやすいですし、是非お薦めです。
「脳とことば (岩田誠著、共立出版)」を読み終えました。
本書は、失語症研究の歴史から始まります。紆余曲折を経て、現在の失語症の分類体系があり、これまでの研究の過程を知っておくことは、非常に有用です。また、自分が同時代の人になったような感覚を覚え、次の興味が引き起こされ、引き込まれます。
失語には、全失語、ウェルニッケ失語、ブローカ失語、超皮質性感覚失語、超皮質性運動失語、皮質下性感覚失語、皮質下性運動失語、伝導失語、失名辞失語など多くのタイプがあることが知られていますが、それぞれの責任病巣がどこにあるのかは、議論の余地があります。一般的な教科書的には、○○の部位で△△の失語が起こると書いてあるのですが、例外も列挙されており、それらを総合すると、結局「どこででも起こりうるんじゃないか?」と感じさせられます。でも、本書を読むと、何故そこで起こるのか、例外があるとすれば、どう扱われるべきものか、詳細に検討されており、知識を整理することが出来ました。本書の優れた点は、「○○という報告がある」ことを列挙するのではなく、一つ一つ検討し、それらを全て説明出来る体系を築いていることです。
一つは著者の優れた洞察力があるでしょうし、さらには形態学者として、臨床医としてなど、様々な方向のアプローチが挙げられるでしょう。著者の業績として特筆すべきは、”漢字” と ”かな” の二重回路仮説です。著者は、さまざまな脳血管障害症例を検討し、漢字とかなは別の回路で認識していることを提唱し、証明しました。これは、失語症研究に新たなる方向性を与えました。
医学的な素養が読むのに必要かもしれませんが、高次機能学の勉強をするのに、本書は最も薦めたい本の中の一冊です。
「科学と人間を語る (福井謙一、江崎玲於奈、共同通信社)」を読み終えました。
江崎玲於奈氏は 1948年ノーベル物理学賞、福井謙一氏は 1956年にノーベル化学賞を受賞しておられます。
「お産の歴史-縄文時代から現代まで(杉立義一、集英社新書)」を読み終えました。
人類が始まったところから、お産はあったのに違いないのですが、我々は縄文時代の遺跡から、昔のお産文化をうかがい知ることが出来ます。土偶などです。縄文時代の遺跡を見ると、胎児から生後一年までの乳幼児の墓が、成人の墓の六倍存在するなどといった事実が本書に記されています。
次に、古事記の記載です。
伊耶那岐命 (イザナキノミコト) がその妻の伊耶那美命 (イザナミノミコト) に尋ねて「お前の身体はどのようにできているか」と言うと、答えて、「私の身体は成り整ってまだ合わないところが一か所あります」と申した。さらに伊耶那岐命が「私の身体は成り整って余ったところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところでお前の身体の足りないところをさし塞いで国を生もうと思う。生むことはどうか」と仰せになると、伊耶那美命は「はい、それでよい」と答えて言った。そして、伊耶那岐命は「それならば、私とお前でこの天の御柱のまわりをめぐって出会い、寝所で交わりをしよう」と仰せになった。こう約束して、すぐに「お前は右からめぐって私と出会え。私は左からめぐってお前と出会おう」と仰せになった。約束しおわって柱をめぐり出会った時に、まず伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言い、あとから伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女であろう」と言った。それぞれ言いおわったあとで、伊耶那岐命が妻に仰せになって「まず女の方から言ったのは良くなかった」と言った。そうは言いながらも、婚姻の場所でことを始めて、生んだ子は、水蛭子 (ひるこ) だった。この子は葦の船に乗せて流しやった。次に淡島を生んだ。これもまた、子の数には入れない。
そこで二柱の神は相談して「今私たちが生んだ子はよろしくない。やはり天つ神のもとに参上してこのことを申し上げよう」と言って、ただちに一緒に高天原に参上し、天つ神の指示を求めた。そこで、天つ神はふとまにで占い、「女が先に言葉を言ったのでよくないのだ。まだ降って帰り、言いなおしなさい」と仰せになった。こうして、二神は淤能碁呂島 (おのごろしま) へ帰り降って、ふたたびその天の御柱を前のようにめぐった。
そこで、まず伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女だろう」と言い、あとから妻の伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言った。こう言いおわって結婚され、生んだ子は、淡路之穂之狭別島 (あわじのほのさわけのしま)
古事記には、編纂された頃の思想が反映されていると思うのですが、男性から求婚することが、強く求められています。現代でも、男性からプロポーズすることが多いのは、何か植え付けられた意識があるのか、それとも別に要素があるからでしょうか?
本書では、古事記のその後の記載から、お産を考察しています。
時代が下って、奈良時代には「女医 (にょい)」という官職があり、主として助産婦のような仕事をしていたことがわかります。ただ、今の「女医 (じょい)」とは全く別のものだったようです。
平安時代のお産については、栄花物語での出産シーンを研究したものがあるそうです。
産科史的にみて重要なことは、妊産婦の産後の死亡が多いことで、この点に関しては、佐藤千春の詳細な研究 (「栄花物語のお産」『日本医事新報』一九八九年八月) がある。それにもとづいて計算すると、四十七人の妊産婦のうち十一人の死亡例 (二三.四%) があり、出産回数でいえば、六十四回の出産に対し十七・二%の母体死亡となる。
びっくりするほどの数字ですね。当時は近親婚も多かったし、色々出産にマイナスとなる習慣もあったのでしょうが、何故縁起を担ぐ行事がそこまで発展したかわかるような気がします。
江戸時代の産婆は酒を飲んで仕事していた人がいたそうで、香月牛山著の『婦人寿草』の「産婆を選ぶ基準」に次のように書いてあると紹介されていて、笑ってしまいました。
産婆の多くはよく酒を飲み、性格も剛胆である。ただし、あまり多くの酒を飲ませるべきではない。気力の助けとなるくらいのわずかな量で充分であり、多いと眠気をさそい、酒臭い息が産婦にかかり、その息を嫌う産婦も多い。
仕事中に酒を飲むのはダメですよね。
江戸時代以前にも、変な風習は多かったのですが、江戸時代には徐々にそれらが正されていきます。近代産科学の創始者加賀玄悦は「産論」を著しました。
当時上は后妃から下は庶民の妻にいたるまで、産後七日間は産椅という椅子に正坐させて、昼夜看視する人がついて眠らせず、横臥させないという風習があった。
「産論」などを通じて、こうした風習を加賀玄悦は正していくのですが、7日間寝かせないというのは、拷問にも等しいですね。加賀玄悦には、他にも多大な業績があり、例えば回生術といって死胎児を取り出す(胎児の頭蓋を砕いたり、手足を切断したりする)方法を広め、多くの母体を救いました。
玄悦の後を次いだのが、出羽国横堀出身の玄迪です。彼は「正常胎位を図示したわが国初めての妊娠図」を書いたのだそうです。そうこうして、加賀流産科術は日本で広まっていきました。会津にも山内謙瑞という医師が会津若松町で開業した記録が残っているそうです。玄悦の弟子の奥劣斎は、日本で初めて尿道カテーテルを行った医師なのだそうです。
ただ、加賀流は、鈎を用いるので、胎児に傷が付きやすかったそうで、陸奥国白川郡渡瀬出身の蛭田克明は、加賀流に対抗する蛭田流を作ったそうです。
会津若松で開業した山内謙瑞や、白川出身の蛭田克明など、福島県には産科史的に重要な役割を果たした医師の名前が見られる一方で、最近、大野病院事件のように産科医療崩壊の引き金になった事件も起こり、不思議な感覚がしました。
さて、興味深いのは帝王切開についてです。いつくらいからこのような方法が行われているのか興味があります。俗説では、カエサル・シーザーが帝王切開で生まれたというのがありますが、誤りのようです。Wikipediaからの引用です。
日本語訳の「帝王切開」はドイツ語の「Kaiserschnitt」の翻訳が最初と言われ、ドイツ語の「Kaiser=皇帝」、「Schnitt=手術」よりの訳語である。 語源として現在もっとも有力な説は、古代ローマにおいて妊婦を埋葬する際に胎児をとり出す事を定めた Lex Caesareaにあるとされている。
さらに「Kaiserschnitt」の語源であるラテン語の「sectio caesarea」は「切る」と言う意味の単語二つが、重複している。これが各言語に翻訳されるにあたり、「caesarea」を本来の「切る」という意味ではなく、カエサルと勘違いしたのが誤訳の原因であるという説もある。
そのほかの現在は誤っているとされる語源の説として
ガイウス・ユリウス・カエサルがこの方法によって誕生したということから。
中国の皇帝は占星術によって、母子の状態に関係なく誕生日を決められていたため、誕生日を守るために切開で出産していたとされることから。
シェークスピアの戯曲「マクベス」の主人公の帝王が、「女の股から生まれた男には帝王の座は奪われない」との占いを聞き、大いに喜び自分がこの世の帝王だと信じていたが、あまりの圧制に反乱を企てた反乱軍のリーダーとの決闘の際この占いの話をしたところ、「俺は母親の腹を割かれて生まれてきた」と返された上で殺され、その反乱軍のリーダーが新たな帝王になった。という話から。
本書で、帝王切開の歴史に触れていますので紹介しておきましょう。
生きている産婦に対する世界ではじめての帝王切開は、ザクセン地方の外科医トラウトマンが一六一〇年四月二十一日におこなったのが最初といわれる。このとき、母親は二十五日間生きた。つぎの二世紀におこなわれた帝王切開は、直接の大量出血と感染によりすべて一週間以内に死亡した。そのためフランスでは一七九七年、反帝王切開協会が組織されるにいたったほど、当時の帝王切開術は危険を伴うものだった。アメリカ合衆国では、一七九四年にはじめて成功、以降、一八七八年まで八十例の帝王切開がおこなわれたが、ここでも母の死亡率は五三%と高かった。
わが国における伝承としては、一六四一 (寛永一八) 年、肥後 (現・熊本県) 人吉藩で、藩主相良頼喬の誕生の際に、生母周光院殿 (十九歳) に帝王切開をおこなった。母は死亡したが、胎児は救われた。ただし明確な証拠はない。
文献上、日本で最初に帝王切開が紹介されたのは、一七六二 (宝暦十二) 年に、長崎でオランダ外科を教えていた吉雄耕牛の講義を、門人の合田求吾が書き残した『紅毛医談』である。(略)
そうした状況のなかで、実際にこの手術をおこなった医師があらわれた。伊古田純道 (一八〇二~八六年) と岡部均平 (一八一五~九五年) の二人の医師で、一八五二 (嘉永五) 年四月二十五日 (陽暦六月十二日)、武州秩父郡我野村正丸 (現・埼玉県飯能市)、本橋常七の妻み登の出産の際に、帝王切開の手術をおこなった。(略)
純道は右側に立って、左下腹部を縦に切開し、ついで子宮を約一〇センチ切開して、胎児および付属物と汚物をすっかり取り除いて (子宮の切開創はそのままにして)、腹壁を縫合して無事手術を終えた。その間半刻 (一時間) ばかりであった。(略)
その後、み登は九十二歳の天寿をまっとうした。
日本は、欧米に遅れて成功していますが、長崎から学問が入って来たことが、大きな役割を果たしています。学問に関しては、情報の伝達が非常に大切であることが痛感されます。それにしても、初めて帝王切開受けた女性はどんな思いだったでしょう。それを受けないと死ぬという状況でしたし、ものを考えられる状況にはなかったかもしれませんが。
最後に、「産経」というのは、中国最古の産科専門書といいます。産経新聞とは関係がないようです。
久しぶりに本を読んで泣きました。
本のタイトルは「潜水服は蝶の夢を見る (ジャン=ドミニック・ボービー著、河野万里子訳、講談社)」です。
著者は、フランスのファッション誌「ELLE」の編集長です。彼は、「Rocked in syndrome」に罹患し、左眼と首をわずかに動かせる程度の「寝たきり」になってしまいました。「Rocked in syndrome」は脳幹部 (中脳・橋・延髄の総称) の障害で起こり、日本語では「閉じこめ症候群」と呼ばれます。脳からの運動の命令は、通常脳幹部を通って四肢に伝わるのですが、脳幹部が障害されることによって、伝わらなくなってしまうのです。従って、彼は知的機能はクリアに保たれつつも、四肢を動かすことが全くできなくなってしまいました。ただし、頭頸部への運動神経の一部がスペアされ、左眼と首をわずかに動かすことができました。
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