「生物と無生物のあいだ(福岡伸一著、講談社現代新書)」を読み終えました。
著者は、プロローグで「生命とは何か」と問いかけます。一つは「自己複製するシステム」であるという答えを提示しますが、著者はノックアウトマウスの研究を通じて、疑問を抱くようになります。ある機能がノックアウトされたはずのマウスが、何らかの代償機構で機能不全なく生きていく、そのことで「プラモデルのようなアナロジー」では説明できない特性があると感じるようになりました。その「ダイナミズム」、ユダヤ人研究者ルドルフ・シェーンハイマーが述べるところの「動的な平衡状態」をキーワードに、生命とは何かと考察していきます。
第1章は、著者が所属したロックフェラー大学から始まります。ここは野口英世も存在した大学です。野口英世は日本では伝記に登場する偉人ですが、実際は違ったようです。著者はロックフェラー大学定期刊行雑誌 (2004年6月発行) を引用して、彼の実際を紹介しています。
ロックフェラーの創成期である二十世紀初頭の二十三年間を過ごした野口英世は、今日、キャンパスではほとんどその名を記憶するものはない。彼の業績、すなわち梅毒、ポリオ、狂犬病、あるいは黄熱病の研究成果は当時こそ賞賛を受けたが、多くの結果は矛盾と混乱に満ちたものであった。その後、間違いだったことが判明したものもある。彼はむしろヘビイ・ドランカーおよびプレイボーイとして評判だった。結局、野口の名は、ロックフェラーの歴史のにおいてはメインチャプターというよりは脚注に相当するものでしかない。
第2章は、ウイルスの発見から始まります。タバコの葉に起こるタバコモザイク病という病気があります。1890年代にロシアのディミトリ・イワノフスキーが、陶板を通した病葉の抽出液が病気を引き起こすことに気付きました。単細胞生物の10分の1以下のサイズのフィルターをすり抜けた抽出液が病原性を失わないことに、彼はびっくりしました。それからしばらくして、オランダのマルティンス・ベイエンリンクが同様の事象を再検討して、「微小な感染粒子の存在」 (つまりウイルス) を初めて提言しましたが、今日ではウイルスの最初の発見者はイワノフスキーになっているそうです。
次いで、ウイルスは生物かの議論がなされます。私は生物とは言えないと長年思っていて、分子生物に詳しい友人に聞いたところ、「生物だよ」と言われました。その時は、「はーん、そうなのか」と納得しましたが、著者はこのことに問題を論じます。
ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫とまったくかわるところがない。しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。
ウイルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといってもよい。それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争であるからだ。本稿の目的もまたそこにある。生物と無生物のあいだには一体どのような界面があるのだろうか。私はそれを今一度、定義しなおしてみたい。
結論を端的にいえば、私は、ウイルスを生物であるとは定義しない。つまり、生物とは自己複製するシステムである、との定義は不十分であると考えるのである。では、生命の特徴を捉えるには他にいかなる条件設定がありえるのか。生命の律動?そう私は先に書いた。このような言葉が喚起するイメージを、ミクロな解像力を保ったままできるだけ正確に定義づける方法はありえるのか。それを私は探ってみたいのである。
その答えを探るために、DNAに関する話題が提供されます。世界で一番最初に DNAに気付いていたのは、オズワルド・エイブリーであると言われています。1877年生まれで、1913年にロックフェラー医学研究所に勤務し始めたそうです。エイブリーが DNAの存在に気付くきっかけになったのは、肺炎双球菌の研究であったそうです。肺炎球菌には、病原性の強い S型と病原性のない R型があります。イギリスのグリフィスは、「死んでいるS型菌と生きている R型菌を混ぜて動物に注射すると肺炎が起こり、動物の体内からは、生きている S型菌が発見された」ことを見いだしていました。エイブリーはこの「形質転換物質」を追究しました。そして、研究の結果、「残った候補は、S型菌体に含まれていた酸性の物質、核酸、すなわち DNA」でした。残念ながら、そこでエイブリーはそこで定年退職してしまうのですが、ロックフェラー大学には、今でもエイブリーがノーベル賞に値する研究者であると信じてやまない人々がいるそうです。この形質転換という現象は、抗生剤に対する耐性菌という問題で、我々を悩ませています。
そしてDNAの謎を解く競争が始まります。シャルガフは、「動物、植物、微生物、どのような起源の DNAであっても、あるいはどのような DNAの一部分であっても、その構成を分析してみると、四つの文字のうち、Aと T、Cと Gの含有量は等しい」ことに気付きました。この謎を解いたのが、ワトソンとクリックだったのです。彼らはDNAの二重螺旋モデルを提唱し、瞬く間にそれは世界に受け入れられました。
しかし、世紀の発見には裏がありました。ワトソン、クリックが他者の成果を盗み見した疑惑です。ロンドン大学キングズカレッジでロザリンド・フランクリンという女性が、DNAの X線解析をしていました。しかし、彼女の上司のウィルキンズが、ワトソンに彼女の研究データを見せていたというのです。著者は、むしろクリックの方に疑惑があったように記しています。
フランクリンが英国医学研究機構に提出した報告書の写しはまずペルーツに行き、そこからクリックの手に渡った。クリックはフランクリンのデータを見ることができたのである。じっくりと、誰にもじゃまされることなく。
この報告書はワトソンとクリックにとってありえないほど貴重な意味をもつ文書だった。そこには生データではなく、フランクリン自身による測定数値や解釈も書き込まれていた。つまり彼らは交戦国の暗号解読表を手にしたのも同然だったのである。そこには DNA結晶の単位格子についての解析データが明記されていた。これを見れば、DNAラセンの直径や一巻きの大きさ、そしてその間にいくつの塩基が階段状に配置されているかが解読できたはずである。その上で報告書にはさりげない、しかし最も大きい意味をもつ記述があった。
「DNAの結晶構造は C2空間群である」
この一文は、そのままクリックのプリペアード・マインドにストンとはまった。あたかもジグゾーパズルの最後のピースのように。C2空間群とは、二つの構成単位が互いに逆方向をとって点対称的に配置されたときに成立する。(中略)
おそらく、ワトソンとクリックはこの報告書を前にして、初めて自分たちのモデルの正しさを確信できたのだ。すぐに彼らは論文を『ネイチャー』誌に送った。
しかし、である。ピア・レビューの途上にある、未発表のデータを含む報告書が、本人のまったくあずかり知らないうちに、ひそかにライバル研究者の手に入り、それが鍵となって世紀の大発見につながったのであれば、これは端的にいって重大な研究上のルール違反である。
結局、フランクリンはワトソン、クリック、ウィルキンズが「ノーベル賞を受賞したことも知らず、そして自身のデータが彼らの発見に決定的な役割を果たしたことさえも生涯気づかないまま、この年 (ワトソンらがノーベル賞を受賞した年) の四年前の一九五八年四月、ガンに侵されて三七歳でこの世を去」りました。X線を無防備に受けすぎたためとも言われています。
第9章で、前述のシェーンハイマーが登場します。シェーンハイマーは、トレーサーを使った実験技術を開発しました。このシェーンハイマーの実験から生まれた「身体構成成分の動的な状態 (The dynamic state of body constituents)」という概念を、著者はシェーンハイマーの言葉を使って紹介しています。
生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質とともに変化して止まない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。
そして、「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」をキーワードに議論を展開します。そして、生命の新しい定義を提唱するのです。
生命とは動的平衡(dynamic equilibrium)にある流れである。
以後、動的平衡が、タンパク質の動態、細胞膜のダイナミズムなどを例に紹介されます。
パラーディーは、放射性同位元素でラベリングしたアミノ酸を用いて、細胞内での動きを観察しました。これは、小胞体輸送を始めとした細胞内ネットワークに大きく貢献しました。パラーディーの流れを汲む著者らは、膵細胞を用いた GP2蛋白の動態を研究し、球形の膜形成に大きな役割を果たしていることを突き止めました。しかし、129系マウスを用いた、GP2ノックアウトマウスによる実験で、GP2欠損マウスに何の障害がないことも見いだしたのです。一連の実験で、生命における「時間」の重要性を痛感させられるシーンがあります、
この研究から、著者らは「生命とはなにか」という問いに、次のような考察を与えています。
機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。
今、私の目の前にいる GP2ノックアウトマウスは、飼育ケージの中で何事もなく一心に餌を食べている。しかしここに出現している正常さは、遺伝子欠損が何も影響をももたらさなかったものとしてあるのでない。つまり GP2は無用の長物ではない。おそらく GP2には細胞膜に対する重要な役割が課せられている。ここに今、見えていることは、生命という動的平衡が GP2の欠落を、ある時点以降、見事に埋め合わせた結果なのだ。正常さは、欠落に対するさまざまな応答と適応の連鎖、つまりアクションの帰趨によって作り出された別の平衡としてここにあるのだ。
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。
結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。
著者は本当に文章が上手で、引き込まれました。生物学的な手法に、基本的な説明があり、こういった本を読んだことのない方でも読みやすい本だと思います。
ここで紹介した以外にも、面白いネタが多数収録されています。
例えば、PCR (ポリメラーゼ連鎖反応) 装置という遺伝子複製機器の開発秘話として、キャリー・マリスがデート中に思いついたということ。
(正常) プリオンのノックアウトマウスに異常はないが、頭から1/3の分子を欠損した不完全プリオン蛋白をノックインしたマウスが、狂鼠病ともいうべき病態を発症すること。
シュレーディンガー方程式で有名なシュレーディンガーによる、「なぜ原子はそんなに小さいのか」、ひいては原子に対してなぜ我々はこのように大きいのかという話。
読みやすく、後に残る物の多い本でした。