Category: 読書

世界で一番売れている薬

By , 2007年4月4日 12:08 AM

「世界で一番売れている薬 (山内喜美子著、小学館)」を読み終えました。

埼玉県でしている外来の患者から頂いた本です。

本書は、全体の構成が非常に練られていて、また扱ったテーマ (高脂血症治療薬であるスタチン) も興味深いもので、あっという間に読んでしまいました。

特に、スタチンの開発者が、日本人の遠藤章氏だということは、本書で初めて知りました。また、開発までの秘話も知りませんでした。それに、最初のスタチンが、ペニシリンの名のついたカビ (Penicillium citrinum) から精製されたのは興味深いですね。

しかし、科学的知識に疎い、文学部出身のジャーナリストのせいか、聞いてきたことを並べて、最後に「である」と付け加えただけの味気ない文章が多かったように思います。

また、「狭窄が進んで血液が流れなくなった状態が『心筋梗塞』である。」という表現がされていますが、実際には、虚血により心筋壊死に陥った状態を心筋梗塞と呼び、血液が流れなくなっただけでは心筋梗塞とは呼びません  (狭心症は心筋虚血により症状を呈するものですが、心筋が壊死にまでは陥らないため、血流が確保されれば元に戻ります)。細かいようですが、病気を定義する上で、大事な話です。

本書では、スタチンの安全性が繰り返し述べられますが、最近はdark side effectとして、自己免疫疾患に及ぼす影響などがトピックスになってきています (Campbell WW. Statin myopathy: The iceberg or its tip? Muscle Nerve 34: 387-390, 2006)。この辺りにも少し触れておけば、もっと良い本になったのではないでしょうか。ただ、デメリットを補ってあまりあるメリットがあり、良い薬剤であることに間違いはありません。

本書を読んでから、スタチン関係の文献を色々と集めてみました。PubMedでも、「statin」「ML-236B」「Akira Endo」などのキーワードで検索することが出来ます。

本書は、一般人向けに書かれた本です。コレステロールが気になる方は、一度読んでみては如何でしょうか?

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はじめて出会う 細胞の分子生物学

By , 2007年3月29日 9:42 PM

「はじめて出会う 細胞の分子生物学 (伊藤明夫著、岩波書店)」を読み終えました。

「細胞の分子生物学」と題打っていますが、有名な教科書「The cell 細胞の分子生物学 (教育社)」とは異なり、タンパク質を中心に扱っています。ボリュームが少ないので、一気に読めました。ぶ厚い教科書だと、後半を読む頃には前半の内容を忘れていることがあるので、その点ではすっきり読めました。

タンパク質の誕生から死までを扱っており、面白かったので、今日さっそく同じジャンルの本を買ってきました。読むのは当分先になるとは思いますが・・・。

追記
「cell」という単語を「細胞」と訳したのは、津山藩の宇田川榕菴らしいですね。実家に帰ったら、いろいろ関連史跡を見学したいと思います。更に宇田川榕菴は音楽理論の解説書も著しているらしいので、そちらにも興味があります。

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野垂れ死に

By , 2007年3月21日 7:00 PM

「野垂れ死に (藤沢秀行著、新潮新書)」を読み終えました。囲碁界の巨匠ですが、とてもスケールの大きな人物であったそうです。愛すべき方です。私は仕事で著者にお目にかかる機会があり、「君はなかなか見込みがあるなぁ」と名刺を頂きました。何の見込みだったのかは聞けずじまいでしたが。

以下、面白かった部分をいくつか紹介します。一番最初に紹介するのは、本書の冒頭部です。彼の死生観が表れています。

 こんなに生きるはずではなかった。
野垂れ死にするつもりだったのだ。
碁を打って打って打ちまくり、好きな酒を気が済むまで飲んで、ふらっと出かけた競輪場あたりである日コトッと死んでいる。
そんな最期を、もって早くに迎えてしかるべきだった。
それが、くたばり損なった。何度もチャンスはあったのだが、そのたびに間違って生き延びてしまい、何の因果か、今年二〇〇五年六月で八十歳になる。

続いて、彼の複雑な生い立ちについて。凄く特殊な環境で育ってきたことがよくわかります。

私は誕生日が三回変わった。母親に確かめた正しい誕生日は六月十九日なのに、どういうわけだか、引っ越すたびに、新しく交付された保険証には違う誕生日が書いてある。

(中略)

私の兄弟の数も、正確に言えば、戸籍は間違っている。私は四人兄弟の長男ということになっているが、わかっているだけで一九人兄弟なのだ。本当はもっと多いかもしれない。
ただし、それは私の親父の都合でそうなったのであって、戸籍を作ったお役人に罪はない。母親の違う子を十九人も作って、子供の戸籍を分けたのは親父の仕業である。

彼の扱い方は周りもよくわかっていたようですが、下記に示す結婚式でのエピソードは「えーっ、ここまで徹底しているの?」と思いました。

考えてみると、三男も四男も、その結婚式にすら私は出ていない。三男のときなどは、「どうせ来ないから」と呼ばれもしなかったのだ。
怠け者の私は、冠婚葬祭が大の苦手である。決まりきった形式に沿って、心にもないことを言ったりやったりするセレモニーが、面倒で仕方がない。

彼の伝説については、他にも色々とあり、本書にたくさん載っています。

(参考)

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わが真実

By , 2007年3月12日 8:23 PM

「ミッシャ・マイスキー『わが真実』、伊熊よし子著、小学館」を読み終えました。

ミッシャ・マイスキーについてのドキュメンタリー番組を見たときから、誠実な演奏家だなとの感想を持っていました。録画したビデオを何度も繰り返し見た記憶があります。

彼は、全ロシアコンクールで優勝しながら、KGBによって無実のまま牢獄に入れられます。強制労働の合間、独房の窓の間から、一枚の葉っぱが舞い込んでいたことで「生」を感じ、その葉っぱを大事にしていたエピソードが残っています。

彼がドキュメンタリーで語る言葉から、演奏が聴きたくなり、CDを買いました。バッハの無伴奏チェロ組曲ですが、1984年と1999年の録音両方聴き比べました。どちらも胸を打つ演奏でした。

本書の中で、知らない彼のことをたくさん知りましたが、過去に見たドキュメンタリーでのイメージ通りでした。苦難のいくつかに、読んでいて泣きそうになりました。

最近、乾いている人には、お薦めの一冊です。

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梅毒の歴史

By , 2007年3月11日 10:59 AM

「梅毒の歴史 (C. ケテル著, 寺田光徳訳, 藤原出版)」を読み終えました。量、内容ともに重い本でした。

梅毒は、その激烈な症状と、周囲の偏見により患者を苦しめてきました。また、予防についても、貧しさから売春を生活の手段とする売春婦や無知な若者、ストレスにさらされる兵隊から性をとりあげることは、人権を含めて困難でした。そして、発見のための方法や、家庭内に入り込んで配偶者に移された梅毒の治療についてなど問題は山積みでした。

梅毒は Treponema pallidumによって起こります。Pallidumは蒼いという意味で、例えば脳の淡蒼球という部位は、ラテン語で globus pallidusと言います。トレポネーマ自体は、Treponema pertenue, Treponema carateumとして紀元前1000年代にユーラシア大陸に存在し、ゴム腫に侵された骨-骨膜障害が示されています。

コロンブスは 1493年3月31日にアメリカからスペインに帰国しました。彼は 4月20日にバルセロナに入り、6人のインディアンを披露しました。このためか、梅毒の起源について、コロンブスがアメリカから持ち帰ったとまことしやかに言われています。

ところが、彼らの誰かが梅毒に感染していたという記録はありません。そして第2回目の航海は 1496年なので、コロンブスが新大陸から梅毒を持ち帰ったとは言えないのかもしれません。むしろ、その間にアントニオ・デ・トレスが 1494年に 26人、1495年春に 300人の男女をアメリカからスペインに持ち帰っています。

梅毒の最初の記載は、フォルノヴォの戦い (1495年7月5日) の記録にあり、いずれにしても流行は 1495年以降と言えそうです。筆者の立場は、むしろアントニオ・デ・トレスらの艦隊がアメリカから持ち帰った女性が、スペイン人らに「利用」されて、梅毒が広まったというもののようです。

フランスのシャルル 8世のイタリア遠征で、大量のフランス人兵士が梅毒に感染したと言われています。フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼びました。

このことについての文章が面白いので引用します。

病に最近襲われたばかりの国では伝染病だとの疑いをかけた-たいていは正しい-隣国の名をそれぞれの病に付与することとなった。そのため呼称は瞠目すべき多様さを示している。モスクワの人々はポーランド病、ポーランド人はドイツ病、ドイツ人はフランス病と言う-フランス病という名はイギリス人にも、イタリア人にも (このことが問題を難しくしている) 歓迎された。フランドル人やオランダ人は「スペイン病」と言い、マグレブ人の呼び方と同じである。ポルトガル人は、「カスティリヤ病」と名付けているのに対して、日本人や東インドの住民は「ポルトガル病」と呼ぶ。スペイン人だけが黙して語らない。奇妙なことだが・・・。

梅毒は瞬く間に世界中に広まりました。1607年に死亡した戦国武将の結城秀康も梅毒 (シナ潰瘍) だったと言われています。

当時は治療法がありませんでした。水銀療法かグアイヤックによる治療が主体で、いずれにしても大量に発汗させて毒素を出すのが治療とされていました。サウナのようなところに閉じこめられて、治療のせいで死亡した人もたくさんいたそうです。最終的には、水銀治療が中心となりましたが、今日ではあまり効果がないとされています。詐欺まがいの治療が横行した時代でした (この点は、現在の日本の新聞の広告欄で宣伝される健康食品と変わりません)。

罹患予防にコンドームが開発されましたが、性行為後にかぶせるのが使用方法でした。

乞食を閉じこめるための政策として、1656年パリ総合救貧院が建設され、男性用はビセートル、女性用はサルペトリエールとして知られるようになりましたが、梅毒患者が多く収容され、人体実験のようなものも行われていました。

こうした暗黒時代は 1800年前後まで続きました。

19世紀に入ると、リコールが登場します。彼はデュピュイトランの弟子で、ナポレオン 3世付きの医者でしたが、様々な業績を残しました。例えば、囚人に淋病を移植し、梅毒が発生しなかったことから、梅毒と淋病は違う疾患であることを示しました。

19世紀後半には、リコールの弟子であるフルニエらにより、統計学的、理論的考察がされるようになります。梅毒の原因探しが始まります。

1877年にパストゥールにより伝染病の性質が明らかにされたことにより、伝染病の研究が加速します。1878年にクレープスが下疳の中に梅毒螺旋虫 (エリコモナス) を発見したと主張しました。1905年ジーゲルが梅毒患者の血液と病変部に原生動物を発見し、シトリクテズ・ルイス (梅毒封入体) と命名しました。シャウディンとホフマンが諸臓器にそれを追認しました。このスピロヘータはトレポネーマ (ねじれた) ・パリドゥム (蒼白い) と命名されました。

1906年には、ボルデが非トレポネーマ抗原反応、その後ワッセルマンやナイサー、ブルックらが溶血反応による診断を開発し、ボルデ=ワッセルマン反応と呼ばれることになります。そして、野口英世らは、つかの間の培養に成功します (長期の培養は現代でも不可能とされています)。

治療の面では、1905年にアトキシルという砒酸剤が生まれますが、毒性のため放棄されます。一方、エールリッヒは、梅毒の病原体のみを排除する「魔法の弾丸」を求め、5価の砒素を3価とし、1909年に日本人秦左八郎の協力で、606回目の化合物を作るに至り、サルヴァルサン、通称「606」が誕生しました。さらにエールリヒはネオ-サルヴァルサン、通称「914」を開発しました。梅毒に大打撃を与えることは出来ず、水銀に対してすら優位性を示せませんでしたが、明るい兆しが出始めました。

1877年にパストゥールがカビと細菌の関係から抗生剤の登場を予感し、1928年にアレクサンダー・フレミングがペニシリウム・ノタトゥムを発見しました。そして 1939年にオクスフォード大学の研究チームが精製に成功しました。1943年にマホネー、アーノルド、ハリスが梅毒治療を成功させ、「奇跡の砲弾」が見つかりました。

梅毒は一旦激減しましたが、その後それ以上減ることはありませんでした。性病の恐怖が去り、若者の間で感染者が増加し始めたからです。

ちなみに、benzathine Penicillin G 240万単位一回筋注で梅毒の治療は終わりですが、日本では手に入りません。アジスロマイシン 2g 1回内服で良いとする報告もありますが、耐性菌の問題があるようです。日本で梅毒の治療をするには、認可されている薬の問題などで、ちょっとした工夫が必要です (「抗菌薬の使い方,考え方」岩田健太郎, 宮入烈著, 中外医学社, 参照)。

1980年に天然痘撲滅宣言がされましたが、翌年、1981年にロサンジェルスでカリニ肺炎が同性愛者に多発しました。1983年にパリのパストゥール研究所で新種のレトルウイルスが検出され「LAV: Lymphadenopathy associated virus」と名付けられました。これはHTLV-Ⅲとも呼ばれますが、現在ではHIVと呼ばれています。感染症の制圧に近づきつつあった人類は、新たな敵に会いました。このウイルスに罹患すると、免疫が破綻するため、これまで制圧したはずの感染症も重篤化するのです。

人類が梅毒制圧に要したのは約 450年。本書の結びの言葉はこうです。「エイズ・ウイルスについてもこれと同様なことを言えるようになるのに五世紀の期間を必要とすることがないよう祈ろう。」

追記:本書には、多くの文学小説が登場しますが、梅毒であったシューベルトやパガニーニのことは書かれておらず、少しがっかりましした。しかし、彼らの置かれた時代のことはわかり、満足でした。

(参考)
進行麻痺

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よみがえる人生

By , 2007年2月10日 9:15 PM

「よみがえる人生 パーキンソン病新薬誕生物語(アラステア・ダウ著、難波陽光訳、講談社)」を読み終えました。

一般のジャーナリストが一般人向けに書いた本としては、ストレスなく読めます。パーキンソン病の治療薬であるデプレニルという薬剤について扱っています。デプレニルは現在セレギリンと呼ばれ、エフピーという商品名で、日本で売られています。私もパーキンソン病患者の治療によく使用します。開発秘話については知らなかったので、新鮮でした。

開発には紆余曲折があったといいます。まず、最初の転機は結核治療薬イソニアジドから、似たような結核治療薬としてイプロニアジドが開発されたことです。しかし、患者が次々と躁状態になりました。イプロニアジドはMAO(モノアミンオキシダーゼ)阻害作用があることがわかり、鬱病の治療薬としてMAO阻害薬は急速に注目を集めました。

キノイン社のエクゼリ博士はMAO阻害薬のパルギリンをベースに、メタンフェタミンを結合させた物質を作るように指示し、指示を受けたミラーは250種の物質を試し、250番目にE250という物質を開発しました。これがデプレニルです。

ヨゼフ・クノールはゼンメルヴァイス医科大学でゼンメルヴァイスから数えて4代目の薬理学科長らしいのですが、デプレニルを研究し、薬理効果を明らかにしました。デプレニルがMAO-Bに選択的に効果があることを示し、ねばり強く研究を続けた彼がいなければ、この薬が臨床応用されることもなかったかもしれません。クノールはユダヤ人で14歳の時にアウシュビッツに送られます。家族は皆殺されたそうです。クノールも4人でいたとき3人が射殺され、自分は「振り向かなかったから」助かったと述べています。

バークマイヤーは、過去ドイツの軍医でしたが、パーキンソン病治療の権威でした。彼が、デプレニルを臨床応用しました。クノールとバークマイヤーは、「アウシュビッツに送られたユダヤ人とナチスの軍人」という、自分たちの過去について囚われなく協力関係を結べたといいます。

レボドパを最初に投与した医師はバーボウですが、ほぼ同時期に、バークマイヤーらも静脈注射で投与したそうです。バークマイヤーらは「バークマイヤー効果」という言葉があるほど、パーキンソン病治療について名声があったそうです。

本書には、他にMAO-A阻害薬とMAO-B阻害薬の違い、チーズ作用(MAO-Aが肝臓に存在するので、チーズやワインに含まれるチラミンの代謝が抑制される)、デプレニルが認可されるまでの苦闘などについて扱っています。そのほか、動物実験で、デプレニルはラットの生存期間(寿命)を延長させたことも記載されています。面白いのは、デプレニルには性的活発度を上昇させる作用もあり、性的活発度と生存期間の間に著しい相関関係があったことです。何故でしょうか・・・。

一般的に、こうした本を読むと、理想的な薬にみえます。しかし、どんなに魅力的な薬であっても、絶対な薬はありません。実際に使う立場からすれば、この薬にしても、効かない、副作用が強くて使えないなどのケースは多々経験します。

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抗菌薬の考え方,使い方

By , 2007年2月4日 9:05 PM

「抗菌薬の考え方,使い方 Ver. 2 (岩田健太郎、宮入烈著、中外医学社)」を読み終えました。本の著者は、亀田総合病院の感染症科部長。読み始めたらあまりに面白く、一気に読み終えました。

一般的な感染症の他、結核、HIV、マラリア、旅行者の下痢など興味深い項も扱っています。

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抗体科学入門

By , 2006年12月4日 8:31 PM

「抗体科学入門(岡村和夫著、工学社)」を読み終えました。著者は生化学が専門のようですが、抗体に対して、物理学や化学からのアプローチがされていて新鮮でした。物理学や化学の基礎が出来ていない私にとってはかなり辛い内容でしたが・・・。

前半は「The cell」で説明されている内容と似通っていたのですが、より物理学的ないし化学的なアプローチがされており、分子間力や抗体の親和性に多くのページが割かれていました。数式にはついていけませんでしたが、何となく雰囲気はわかりました。

後半は最新の知見が紹介されていて楽しめました。例えば、抗腫瘍抗体で臓器内の腫瘍化した部位を特定するといった応用についても紹介されていました。臨床家が読んでも面白い内容と思います。

著者のWeb pageがあり、一部内容が掲載されています。

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近代手術の開拓者

By , 2006年11月23日 9:23 PM

「近代手術の開拓者(J・トールワルド著、尾方一郎訳、深瀬泰旦解説、小学館)」を読み終えました。

以前紹介した「外科の夜明け」という本の続編です。扱う内容は、脳外科手術、甲状腺手術、胆嚢摘出、喉頭癌などです。詳細な解説があり、医学的知識が無くても読むことが出来ます。

第1話は、「脳外科の門出」。脳に局在があるという説は、ガルの骨相学より始まっていますが、今から150年くらい前は、フルーレンによる全体説が主流でした。その後、局在論を唱えたフェリアと、全体論を唱えたゴルツらが激しい論争を繰り広げました。これはその頃の話。今から120年くらい前のことです。脳の一部を除去した猿を用いた実験で、フェリアが勝利を収める様子が描かれています。失語を発症し、左前頭葉、第2・3前頭回に軟化した患部を認めたブローカの症例(局在を示唆する)を裏付けるものでした。この当時には、てんかんのジャクソン・マーチで有名なヒューリングス・ジャクソンが「運動中枢」を提唱しています。パジェット、パストゥール、ウィルヒョウ、コッヘルなどが活躍した時代のことです。

第2話は、甲状腺腫摘出の話。1880年代までは、甲状腺腫の患者の多くが、気道を圧迫した腫瘍により、呼吸困難で死亡していたそうです。エドムンド・ロゼが防腐法、鉗子などの利用によって手術を成功させ、タブーを打ち破りました。彼以前の時代の甲状腺手術は、出血の合併症での死亡例が多く、また反回神経麻痺により声を失うこともあったそうです。「ビルロートの生涯」という本の紹介でも登場した、手術器具に名前を残した外科医コッヘルは、その技術を高めました。しかし、術後、甲状腺機能低下症が多発し、可能な場合は全摘から部分切除に術式が改められました。テタニーという合併症から、上皮小体(副甲状腺)を温存することが常識になり、その役割が研究されました。副甲状腺ホルモンが同定されたのはその後です。

一つの術式の確立の裏に、多数の患者の犠牲があったことを忘れてはなりません。近年、医療は安全なもので、完全な治療をすれば命は助かり、何かトラブルがあったら医療者に過誤がある筈だという風潮があります。しかし、このように実験的な治療の積み重ねの上にデータが蓄積されてきたものの、未知の部分もまだ多いのが実情です。

第6章は、喉頭癌です。ドイツのフリードリヒ3世(当時、皇太子)は、喉頭の腫瘍を発症しました。ドイツの医師団は、白金線で焼き切ったにも係わらず再発したため、癌と診断しました。

しかし、セカンドオピニオンを求めようということで、皇太子妃はイギリスからマッケンジーという医師を呼び寄せたのです。マッケンジーは癌ではないと診断しました。患者心理としては、良い方の診断を信じたい、また皇太子妃はイギリス出身で、マッケンジーの診断が支持されました。以後、明らかに癌としての経過をとったため、ドイツ医師団は何度も癌であり、今手術(世界最初の喉頭全摘術はビルロートが成功させた)すれば助かる見込みがあると進言しましたが、いずれも退けられました。皇太子妃はドイツ医師団を遠ざけました。

マッケンジーも徐々に癌と感じるようになっていたのかもしれませんが、自分のプライド、王妃から得た信頼などのため診断を変えることはしませんでした。

結局、皇太子は癌で死亡しました。死ぬ少し前に、父のヴィルヘルム1世が死亡したため、短期間フリードリヒ3世として皇帝となりました。死後、宰相ビスマルクの許可を得て、ウィルヒョウとヴァルダイアーが解剖を行いました。診断は喉頭癌と確定しましたが、マッケンジーはあくまで非を認めず、ドイツ医師団を中傷する内容の本を出版し、英国王立医学界から追放されましたそうです。マッケンジーは、癌と確定した後も、「自分も癌だと思っていたが、喉頭手術は死の確率が高いので、皇帝を手術による死から守った」と言い訳をしていました。

甲状腺手術の話を読んだ感想です。今の医療では当たり前のこととなっていることの陰に、多くの犠牲者が過去に存在したことを忘れてはなりません。現在では当たり前の治療を見たとき、「昔の人もこの技術があれば、多くの助かった命が助かっただろう」とか、「このような治療しかない時代に、病気にかかったときの患者、家族や周りの人はどんなだっただろう」と感じるときがあります。何故その術式がいけないか、手術が失敗して死んだ人がいたから判明したことも多々あります。

未来の人から、現在の医療はどう映るでしょうか?

第6話からは、セカンドオピニオンの難しさを感じました。二つの相容れない診断があったとき、患者は良い方の結果を信じやすいが、正しいかどうかは別問題ということです。フリードリヒ3世は、どのような医師を動かせる立場であっても、マッケンジーの甘い言葉に嵌ってしまいました。今日の日本人は皆、115年前の皇帝より優れた医療を受けていますが、セカンドオピニオンの本質としては、変わらない部分があり、気を付けないといけないと思います。もちろん、セカンドオピニオンというのは、非常に有用な制度です。

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好きになる免疫学

By , 2006年11月16日 11:53 PM

「好きになる免疫学(萩原清文著、多田富雄監修、講談社サイエンティフィク)」を読みました。中学生でも読めるような簡単な本です。癌やリウマチ、エイズなどを簡単に解説していますが、免疫学的な知識を基礎から説明してくれ、内容の半分はわかりやすくイラストで表現されています。多田氏はサプレッサーT細胞を発見した学者ですし、萩原氏もとても文章が上手です。多田氏には、学生時代に「免疫の意味論」という本を興味深く読ませて頂きました。

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