Category: 読書

生殖内分泌学を築いた巨匠達の群像

By , 2006年11月10日 9:37 PM

「生殖内分泌学を築いた巨匠達の群像 (五十嵐正雄著、メディカルレビュー社)」を読み終えました。かなり専門的な知識を要する本で、卵巣の組織なども解説なしにいきなり英語で書かれています。PMSや hCGのなどもある程度知っていることが前提です。学生時代の婦人科分野の知識が欠落してしまった現在、内容が全て把握出来たとは言えないものがあります。

人ないし動物の組織を人に注射する方法は、1668年の羊→人の輸血の記載以前の報告を私は知りませんが、いつ頃からあったのでしょうか。その後は時々行われることがあったようで、1798年のジェンナーによる種痘は有名です。これは牛痘に罹患した女性の膿をジェンナーが息子に注射して天然痘を予防したものです。雌牛 (Vacca) を語源としてパスツールがワクチン (Vaccine) と名付けました。

神経内科を勉強したことがあれば、Brown-Sequardという名前を聞いたことのない人はいないでしょう。彼は脊髄損傷での Brown-Sequard症候群で有名ですが、動物の副腎を摘出すると生存できないことを証明しています。彼は 72歳の時、「イヌとモルモットの睾丸のエキスを自分自身に注射して若返り効果を認めた」と発表しました。このことは British Medical Journal (BMJ) で論争を呼びました。Brown-Sequard自身が Lancetに論文を載せています。

このようなエキス注射は organotherapyとして発展を遂げ、粘液水腫に対する甲状腺エキスや、糖尿病に対する膵臓エキスで効果を認め、以後の医学の発展につながったといいます。

1690年に Frederik Ruyschが甲状腺が血中に何かを注いでいるらしいと述べ、1700年代の Bordeuも体の他の部分に影響を及ぼす放散物質を想定していたそうですが、エビデンスある内分泌学を確立したのは、Bertholdと Addisonであると著者は述べています。1849年、Bertholdは雄鶏を去勢すると鶏冠が萎縮することを報告しました。

1849年にAddisonは副腎に関する貧血を発表しました。彼は 1855年に「副腎性黒皮症 melasma suprarenale」を報告しましたが、翌年 TrousseauはAddison病と名付けました。1855年には Claude Bernardにより「内分泌 secretion interne」という用語が生まれました。

これ以後の内分泌学の発展はめざましいものがあります。最もスタンダードな方法は、動物の様々な器官 (下垂体、卵巣、子宮、精巣など) を摘出したり、それらを別の場所に移植したり、エキスにして他の動物に注射したりといったものです。

こうした研究により、様々なホルモンが「ありそうだ」と仮説が立てられるようになりました。そうしたホルモンを、同定していく作業が19世紀半ばに行われるようになりましたが、著者を始め、松尾寿之博士 (LH-RFを発見) などの大活躍がありました。様々なホルモンが同定され、役割が検証され、各研究所で激しい競争が繰り広げられました。この辺りの記述は、手に汗を握るものがあります。

これまで述べてきたことからわかるように、内分泌学というのは非常に新しい学問です。女性の排卵がいつ起こるのかがわかったのですら、1920年代なのです。ちなみにそれを突き止めたのは、荻野久作という日本人です。彼は「オギノ式」という避妊法で有名です。

荻野氏は受胎期を8日間としましたが、後にKnausという学者は5日間としました。著者の記述が笑えます。「荻野学説との違いは、受胎期を荻野は8日間としているのに対し彼は5日間としている点であり、彼の方法のほうが実際には受け入れやすいが、他方禁欲期間が短いために避妊効果についての信頼性がそれだけ低下する点が荻野式よりも劣る。」

著書の中では、一つ一つのホルモンの発見の歴史、エピソード、役割などが詳細に記されています。例えばPRL(プロラクチン)というホルモンは主な作用として乳汁分泌が知られていますが、ラットの巣作りを誘起したり、サンショウウオの繁殖を始めさせたり、両生類や魚類の浸透圧を調整したり、渡り鳥の渡航の前に脂肪を蓄積させたり多岐な作用が紹介されています。PRLは非常に古いホルモンで、無脊椎動物ばかりか単細胞動物にも存在するそうです。

ホルモンというのは、相互作用があったり、フィードバックがあったり、極めて複雑な動態を示します。ホルモンを発する器官と、受容する器官両方の研究が欠かせません。それらの器官が各々 1つとも限らない訳です。近代医学としての研究が始まってから、約 50年間。極めて短期間のうちに、これだけの知見を集めた研究者達に対する尊敬の念は尽きません。こういった研究の歴史が忘却されないためにもこの本は貴重です。まだ未知の知見 (ActivinやInhibinなど) もあり研究が進められていくと思います。Activin Aは単球性白血病に働いて脱癌させることも1987年に江藤穣らにより発見されたそうです。

 

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田原淳の生涯

By , 2006年10月28日 5:28 PM

宣(よ)きかな
己が父祖を好みてしのぶ者は
彼らのかずかずの業績と偉大さとを、喜びもて
聞く者に語り伝え、しかして喜びの心を抱きつつ
この、うるわしき系譜の末に
わが連なるをさとる者は (ゲーテ)

このような文章から本書「田原淳の生涯(須磨幸蔵、島田宗洋、島田達生編著、ミクロスコピア出版会/考古堂書店)」は始まります。

田原博士が心臓の研究を始めた頃、心臓を伝わる刺激は神経によるものか、筋肉によるものか不明でした。また、どのような経路を伝わるかも明らかではありませんでした。心臓にあるヒス束、プルキンエ線維などの構造物も役割が不明だったのです。田原博士の業績を列挙します。

(1)房室間連結筋束の全走行と組織像を解明し、刺激興奮の伝達を司る系とみなし、刺激伝導系と命名
(2)刺激伝導系の起始部に網目状の結節(田原の結節=房室結節)を発見
(3)左右両脚の走行の正確な記載
(4)プルキンエ線維が刺激伝導系の一部であること、また仮腱索が刺激伝導系であることを発見
(5)筋原説の正当性を決定的にする
(6)線維の太さと刺激伝導速度などに関する推論
(7)リウマチ性心筋炎患者におけるアショッフ結節の発見

田原博士は東大に主席で入学し、卒業後は東大皮膚科に入局しました。実家の九州に帰る前にドイツの Ludwig Aschoff教授のもとに留学。弁膜症で肥大した心筋はなぜ麻痺を起こしやすいかをテーマに研究を始めました。しかし、病理学的に証明できず、ヒス束に目を向けました。しかし、ヒス束についてはほとんどわかっておらず、研究を続けるうちに未知であった刺激伝導路の全貌を明らかにすることができたそうです。ちなみに Ludwig Aschoffの孫は現在ウルム大学神経内科の教授であるそうです。

田原博士は、1903年に私費でドイツに留学し、1906年には帰国していますから、わずか 3-4年でこのような偉大な業績を積み上げたことになります。

本書には、田原氏が Aschoffにあてた手紙のコピーや、田原家の家系図の他、田原氏の病理標本のスケッチなど図表も満載です。驚くべきは、田原氏のスケッチと、今日の電子顕微鏡写真がほぼ一致していることです(本書では並べて比較できるようにしてあります)。

当時は日露戦争があり、日本は世界の中で微妙な立場にありました。そうでなかったとしたら、ノーベル賞は間違いなかったのではないかと著者は述べています。

心筋間をどのように興奮が伝達するかは、最近かなりわかってきました。本書でも、最新の知見が紹介されています。心筋間の伝導の中心となるのは、ギャップ構造という特殊な連絡通路です。心筋梗塞などで心筋が障害されると、この通路は閉じて障害が広がるのを食い止めるそうです。ギャップ構造を形成するのは、コネキシン (Cx) というタンパク質で、コネキシンには 20種類ほど知られています。心筋には Cx43, Cx40, Cx45が存在し、伝導度が違うのだそうです。コネキシンの分布は心臓内で違い、房室結節で伝導速度が遅れるのは、そこに多く分布する Cx45の伝導度が低いためで、通常の心筋では Cx43が主体です。プルキンエ上流は伝導度の高い Cx40が中心だそうです。心電図がまだほとんど知られておらず、ギャップ構造も知られていなかった時代に、解剖学的特徴だけで、伝導の遅い部分と早い部分があることを推察した田原博士の先見の明には恐れ入ります。ちなみに、Cx43欠損マウスは、出生後まもなく不整脈で死亡するそうです。

余談ですが、1930年頃 WPW (Wolff-Parkinson-White) 症候群が発表されていますが、1910年にWilsonが報告しているので、WWPW (Wilson-Wolff-Parkinson-White) 症候群というのが正確ではないかなどという話も載っていました。

野口英世などと並ぶほどの業績を残した日本人がいたことを風化させないためにも、本書は貴重だと思います。

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カオスから見た時間の矢

By , 2006年10月22日 2:26 PM

「カオスから見た時間の矢(田崎秀一著、講談社ブルーバックス)」という本を読み終えました。非常に内容の難しい本でしたが、未知の世界を知ることが出来ました。本のテーマは、「原子や分子や、場合によっては微視的運動が可逆的なのに、それらが集まった巨視的物体はなぜ不可逆的に振る舞うのか?」というものです。読むのには、最低限高校物理くらいの知識は必要そうです。

第1章では、気体分子の運動が示されますが、これはビデオでみると順再生なのか逆再生なのか我々は知ることができません。つまり逆転した運動が起こっても不思議ではなく、分子の衝突は可逆と言えます。

第2章では、微視的運動を巨視的規模で扱える現象が示されます。それはスピン・エコーという現象で、現在MRIなどに応用されているものです。この実験では、10の19乗個もの核磁石が相互しながら行う実験も可逆であることが示されます。

第3章は、ギッブスの見方です。これは統計集団として気体を扱うというものです。ダイレクトメールの例が示してあります。つまり、ダイレクトメールを送ったとき、個々の受け手の反応はわからなくても、集団としての振る舞いがわかればよいというものです。

第4章はカオスです。カオスというと、我々は文学的な表現での「混沌」としか知りません。しかし明確な定義がしてあります。
「『吾々の眼にとまらないほどのごく小さい原因が、吾々の認めざるを得ないような重大な結果をひきおこすことがあると、かかるとき吾々はその結果は偶然に起こったという』このような運動をカオスと呼ぶ」
わかりやすい例では、パチンコ玉の振る舞いが予測出来ないのも、我々が知り得ない初期条件の微妙な違いによるもので、カオス的と言えます。このパチンコ玉は分子同士の衝突と置き換えられます。

こういった知識を元に、拡散、分布といった概念を、パイこね変換というモデルで考察します。正直、この辺で落ちこぼれてしまいました。しかし、個々の分子運動は可逆的であっても、カオス的に振る舞うため、集団としては不可逆的となり、時間の矢の向きが読み取れるようになると理解しました。

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定跡からビジョンへ

By , 2006年10月8日 11:24 PM

「定跡からビジョンへ(羽生善治、今北純一著、文藝春秋)」という本を読みました。

で、羽生さんの本は将棋のことを知らなくても読めるようになってますけど、共感できる言葉がたくさん。

「(釣った鯛を)じっと見ていてもすぐには何も変わりません。しかし、必ず腐ります。どうしてか?時の経過が状況を変えてしまうからです。だから、今は最善だけど、それは今の時点であって、今はすでに過去なのです。」

「日本ほどノーベル賞の受賞者を芸能人扱いするところはないですね。受賞者をあちこちのテレビ番組に引っ張り出すわりには、話題はほとんど本人にまつわる生活習慣やエピソードが中心で、受賞対象になった研究テーマについては誰も関心を示さない。最近のテレビを観ていると、エコノミストや評論家と称する人たちがしょっちゅう登場しては、目先の景気のなりゆきの当てっこをしていますね。大学の先生がバラエティ番組に出演したり・・・経済学者が、野球のメジャーリーグやサッカーのワールドカップのコメントをしたりするわけです。」

「日本が抱えている問題はそこに集約されます。『世間から笑われる』『世間様に申し訳ない』『そんなことをすると世間を狭くする』とか。つまるところ、行動を律するもとが世間の目というか、他人の目で、自分の目ではないのです。」

「『所属はしているけれど帰属はしていない』というのは至言です」

「これからは、個人が豊かになり、その集合体としての組織が豊かになるようにしないと、いつまでたっても閉塞状況から抜け出せません」

「私はプロになって二十年近くになり、いろいろと経験をしているし、訓練をしてきましたが、そうでありながら、『どんなに訓練を積んでも、ミスを避けられない』ということを実感として感じています」

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外科の夜明け

By , 2006年9月30日 8:18 PM

「外科の夜明け(J・トールワルド著)」という本を読み終えました。麻酔や消毒法、心臓手術をテーマにした医学史の本ですが、架空の主人公を登場させ、医学史上の人物と会話させることによって、感情移入しやすくなっています。

リスターという医師が、手術室でのスプレーによる殺菌法を始め、これが無菌手術を試みた最初とされていましたが、実際には、空気中には菌は少なく、30分に15cm四方の傷口に落下する菌は70個程度で、ほとんどが無害な菌だったため、だんだん無意味であるとされるようになりました。

無菌手術の研究が進むにつれて、器具や手の消毒に注意が払われるようになりました。リスターは手を石炭酸に浸すことを提唱しましたが、これは違った理由で効果があるのが後々わかりました。外科医が石炭酸のにおいを消すために手を石けんと水で洗ったことが奏功したというのです。

ミクリッツという外科医は、殺菌したニットの手袋を用いましたが、すぐに濡れて取り替えないといけないという難点がありました。そこにハルステッドという医師がすばらしい発明をしました。ハルステッドは、お気に入りの看護婦の手が荒れることを気にしていました。そのため手を保護するためのゴム手袋を送りました。手袋は滅菌されており、昇汞水で手を洗う必要はありませんでした。彼女は後にハルステッドの妻になりましたが、彼女が去ったあと、あとには手袋が残ったそうです。

ハルステッドは、コカイン中毒を乗り越えて教授になった人物ですが、ヘルニアの術式に名を残しています。

手術用手袋一つにこんなロマンがあったなどとは知りませんでした。

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検査を築いた人々

By , 2006年9月23日 7:04 PM

「検査を築いた人々(酒井シヅ、深瀬泰旦著)」という本を読み終えました。100人の科学者の伝記を見開き2ページずつで紹介する本です。

例えばヒポクラテス一人を取ってみても、「『ヒポクラテスの誓い』として広く知られ、医師が一人前になったときに読む誓詞は、ヒポクラテス自身の著作ではないというのが通説である」との記述があり、それは初めて知りました。

また、医師が自身を実験とした報告は多数ありますが、中でもトインビーという耳科病理学を確立した医師は、耳硬化症(ベートーヴェンが罹患していたとする説がある)を初めて記載した医師でもある一方、悲惨な死に方をしました。本から引用しますと「耳鳴りが、ヴァルサルヴァ式の通気と、クロロホルムの吸入によって治癒すると信じて、トインビーはこれを自分自身に試みたところ、1866年7月7日、診察室で死体となって発見された。」とありました。

プルキンエ細胞やプルキンエ線維で有名なプルキンエはゲーテと親交があり、ゲーテの著作のチェコ語への翻訳も行っていたそうです。

医学には人命のついた用語がたくさんありますが、由来となった人物を知ると、また新たな発見があります

それから、脳腫瘍診断のための脳動脈撮影法を発明したモーニスは、1949年に前頭葉切除によるロボトミーによってノーベル賞を受賞したそうですが、作曲家でもあり、ポルトガル外務大臣でもあり、ベルサイユ条約にはポルトガル代表として調印しました。医師のみならず、広く活躍した人で、憧れるものがあります。

この本で紹介されているのは、ヒポクラテス、ガレノス、レーウェンフック、プルキンエ、デシェンヌ、ウォラー、グレーフェ、メンデレーエフ、エルプ、クインケ、コッホ、ゴルジ、レントゲン、ウェルニッケ、ガフキー、カハール、グラム、バビンスキー、ランドシュタイナー、ベルガー、パパニコロウ、ダンディなどです。

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麻酔の歴史

By , 2006年9月9日 6:46 PM

さて、次なる本として「麻酔の歴史(G.B.Rushman著、松木明知監訳、克誠堂)」という本を読み終えました。

当初の麻酔薬というのは、吸入麻酔であったため、酸素や二酸化炭素といった気体の研究が基礎になっています。1600年代中旬から100年間くらいは、大気中にフロジストンという可燃物があり、蓄積すると燃焼や呼吸を抑制するとされていました。そういったなか、Priestley(1733-1804)が赤色酸化水銀を熱して、酸素(彼の言う脱フロジストン空気)を初めて発見したそうです。それをLavoisierが酸素(oxy-gen, oxy=酸, gen=作るもの)と命名しました。で、Priestleyはいろいろ多くのガスを吸入して実験していたそうなのです(危険な男です!)。こうした中、Priestleyは1772年に初めて笑気を作り、「フロジストンのない窒素空気」と呼んでいたそうです。そればかりでなく、彼はアンモニア、二酸化硫黄、亜酸化窒素、二酸化窒素を分離しました。

その後、19歳で気体研究所の所長に任命されたDavyは、自分の歯肉の炎症時に、笑気を吸った後症状が軽くなることを記載しました(ちなみにナトリウム、カリウムを発見したFaradyはDavyの弟子だそうです)。Davyの記述は40年もの間注目されなかったそうですが、Coltonらの笑気吸入実験中に、笑気を吸った助手が偶然怪我をして、その際痛くなかったといった事実がありました。実験仲間の歯科医Wellsが自分の親知らずを抜くのに使うことを希望して、結果は大成功だったのです。その時のColtonの台詞が「抜歯に新時代が来る」だったそうですが、その後Wellsは公開実験に失敗し、講義室を去りました。

二酸化炭素は、Helmontが発見しましたが、彼はKhos(カオスを意味するギリシャ語)からガスという用語を作りました。笑気を始めとするガスは、吸入遊びとして流行していたそうですが、Hickmanは二酸化炭素を用いて麻酔しようと試み、やがてもっと有用な気体として笑気やエーテルが用いられるようになっていったと言います。

John Snow(1813-58年)という医師は、麻酔深度を5期に分け、Ⅳ期が外科麻酔期、Ⅴ期が呼吸が麻痺する時期としました。そして既知の濃度のエーテルを使用することとしました。彼はクロロフォルムを良く使い、4000例以上に投与し、死亡例は1例のみだったそうです。往年のSnowはコレラが水系感染した際、水道会社のポンプのハンドルを外してコレラを終焉させたこともあったそうです。

エーテルを広めたのはMorton(1819-68年)という歯科医でした。彼は前記のWellsの笑気の実験の失敗の目撃者だったそうです。彼の墓には「彼以来科学は痛みを支配した」とあります。Mortonの発見を受けて、1846年にListon教授が下肢切断術の公開手術に用いていますが、この時の見学者が防腐法で有名なLister(1827-1912年)でした。

こうした麻酔薬の進歩には、歯科がかなり関与していました。こうした麻酔の進歩とListerの開発した防腐法を始めとする消毒法が相まって、外科学が進歩していくのですが、麻酔学における大きな実験の際、防腐法の開発者Listerが居合わせたというのは、偶然とは思えません。

特筆すべきは、1800年代の麻酔薬に関する発見の多くは、20歳代の人間によってなされていることです。もう私の20歳代は帰ってきませんが・・・。

こうして読んでいると、医学の歴史が試行錯誤の繰り返しであったことがよくわかります。例えば、犬に対する輸血実験は1666年が初めてらしいのですが、人に対しては、Jean Baptiste Denis(1625-1704年)が羊の血を使用したそうです。最初の患者は輸血後経過良好でしたが、二人目と三人目は死亡したため断念されたと1668年の報告にあります。羊の血を輸血するというのは、倫理的にどうかとも思いますが、当時には当時の事情もあったのでしょう。

人から人への輸血は1818年に成功して以降たびたび行われていたそうですが、Karl LandsteinerがABO型を発見したのが1900年、DecastelloがAB型を発見したのが1902年であったそうですから、かなり危険性はあったのではないかと思います。1930年代のソ連では死体血を用いて輸血していたそうです。抗凝固薬であるヘパリンが発見されたのは1916年です。

産科麻酔では宗教との戦いがあり、キリスト教側が聖書「創世記」から「汝は苦難のうちに子供を産み・・・」と述べたことに、医学側は同じく「創世記」から「そして主なる神はアダムを深く眠らせ、眠ったときにそのあばら骨の一つを取って」
を根拠に、神も麻酔を使ったではないかと反論したそうです。

また、手動式血圧計はvon Recklinghausenが開発したものであること、フロイトはコカインがモルヒネ中毒の治療薬であると信じていたこと、多くの研究者が実験で自分にコカインを使い中毒になっていったことなど、あまり知られていない出来事も書いてあって勉強になりました。

などなど、専門的で読みにくいかもしれませが、お薦めの本として挙げておきます。こうした紹介だけでなく、いつか自分も内容のある本が書けるようになりたいと思いますし、そのためにはもっと知性を高めないといけないと考えています。

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精神医学の歴史(2)

By , 2006年9月7日 8:48 PM

前回紹介した「精神医学の歴史」という本を読み終えました。

ドイツの優性思想だとか、その時代背景だとか、それが過去や現在の医学の考え方とどのように結びついたかにも触れていて面白かったです。

紀元前18世紀から既にハシュシュが存在し、BC1550年頃にはエジプトでケシopiumが鎮痛剤として用いられていたことから、かなり昔から精神に作用を及ぼす薬を使っていたことがわかります。ちなみに最古の意識変容薬は、アルコールか、もしくはシャーマンが用いた毒キノコと言われています。

また、アラブ世界からコーヒーをヨーロッパに持ち帰ったラウヴォルフが、インド蛇木から採った薬をヨーロッパに紹介しましたが、その主成分が降圧剤として使用されたレセルピンで、副作用である抑うつ状態の研究の過程で脳内アミン類の減少が報告され、現在の鬱病の原因としてのモノアミン仮説が唱えられるようになったそうです。他に、製薬会社社長が覚醒剤中毒になった友人を治療するために開発したのが統合失調症治療薬のハロペリドールだったとか、躁病治療薬のリチウムが19世紀にはリウマチの治療薬であったとか、嫌酒薬ジスルフィラムがもともと回虫駆除薬であったとか、話題に事欠きません。

梅毒患者の慢性脳髄膜炎による精神症状について、脳から初めてスピロヘータ・パリーダを分離したのが野口英世ですが、当時治療としては患者の血液中にマラリア患者の血液を注入し、高熱を出させて治療することが行われていたことを知って、ぞっとしました。

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精神医学の歴史(1)

By , 2006年9月4日 11:17 PM

今、読んでいる本が「精神医学の歴史(小俣和一郎著、レグルス文庫)」です。まだ四分の一くらいしか読んでいないので、全てを把握した訳ではありませんが、これが実に面白い本です。

出だしは、人類の歴史から始まります。それから言語の起源に触れます。なぜかというと、言語なくして精神病を診断することは非常に困難であるし、言語の中に昔の精神病に関する表現が残っているからです。一方で、文字のない言葉も存在し、インディオ文化、アイヌ語、ポリネシア語などが該当することを初めて知りました。神経内科では痴呆(dementia)を扱いますが、「dementia」はラテン語の「de=逸脱」「mens=心」から派生しており、他に「amentia」という単語があるそうです。

次に、宗教との関わりに進みます。ここでヒポクラテスの誓いに関する面白い記述があります。当時はヒポクラテスらの自然療法主義よりも、宗教的な治療であるアスクレピオス信仰の方が人気が圧倒的に高く、両者は対立していた可能性があります。攻撃を避けるため、ヒポクラテスがアスクレピオス信仰に対して帰順の意を示したのが、「誓い」であると考えられるのです。従って、「誓い」は「医神アポロン、(中略)その他すべての神々の前で、私は誓います。」と始まります。その事実を示されると、文章の受け止め方が少し変わってきます。

また古代ギリシャには、精神の在処を横隔膜(Phrenos)に求める考え方があり、これが転じて「統合失調症(schizo-phrenia)」という語が出来たそうです。

これからも通勤時間に読み進めていくつもりですが、筆者はとても論理的で説得力があります。言語を中心とした文化論や芸術にも造詣が深く、本書は名著と思います。

医学史についても触れながら話が展開していきますが、昔読んだ「医学の歴史(梶田昭著、講談社学術文庫)」の復習にもなり、楽しめました。

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偉人たちの死亡診断書

By , 2006年9月3日 2:05 PM

「偉人たちの死亡診断書(中原英臣、佐川峻著)」を読みましたが、内容に乏しい本です。診断の根拠に乏しく、医師が読むととうてい納得できません。根拠となる部分の引用もありません。

例えば、「信玄の病気については、当時、労咳と呼ばれていた肺結核といわれたり、あるいは隔病と呼ばれていた胃ガンともいわれている。『甲陽軍艦』の記述からみると、信玄の死因は胃ガンであったと思われる。」において、「甲陽軍艦」のどの部分の記述かは不明です。

他にも「その死因については、いろいろな説があるが、砒素による毒殺という説が有力のようだから、ナポレオンは砒素中毒で死んだということになる。」「もし、ナポレオンが本当に砒素で殺害されたとするなら、急性中毒ではなく慢性中毒だったはずだから」など、首をかしげるような論理の飛躍があります。

病気についてのあたりさわりのない解説が大部分を占めていますが、一般人向けだからでしょうか。でも、「○○だったとすれば○○だったことは確実だ」という部分においても、必ずしもそうではなかったり、抗生剤があれば肺炎で死ななくてすむとか、高血圧が容易に降圧剤でコントロール出来るとか、高血圧がコントロールされれば脳出血で死ぬことはなかったはずだとか、臨床医なら可能性としてしか示せないことも、かなり断定的に書いていて、嫌になります。

更に致命的な間違いを発見しました。「今では、脚気の原因がビタミンB2の欠乏であることくらい、小学生でも知っている。そのため、脚気は医学的には『ビタミンB2欠乏症』と呼ばれている。」という記述ですが、脚気はビタミンB1の欠乏で起こります。

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