今日「死に方 目下研究中。-医学者と文学者の彼岸探し対談-(田辺保/岩田誠、恒星出版)」という本を読み終えました。死生観についての本です。この本を読んでから、死に直面している患者への接し方も少し変わるような気がします。
「死」を意識すると、その分「生」を意識することにもなると思います。中でも面白かったのは、健康が幻想であるということです。障害と病気は同一ではなく、障害があっても健康ということもある。「健康というものは身体的な状態を表現する言葉ではなく自分の心の状態を表現するのによりふさわしい言葉であることを知った」とあります。また、安楽死、尊厳死に関しても目の覚めるような記述がありました。医師向けに書かれた本ではなく、文学者との対談という形式からもわかるとおり、誰にでも楽しめる内容となっています。皆様、是非一読されることを勧めます。死は誰にでも平等に訪れるものですから。
「人の魂は皮膚にあるのか(小野友道著,主婦の友社)」という本を読み終えました。著者は熊本大学医学部皮膚科教授です。とても文学に造詣が深く、様々な小説に出てくる表現を題材に、皮膚疾患を解説していきます。医師向けに書かれた本ではないので、一般人でも読みやすいと思います。外傷や皮膚疾患などで、外見を苦に自殺したり、思い悩む人が多いのをみて、著者はこのタイトルを付けたようです。我々が普段意識することの少ない皮膚も、何か起こると気になってしかたないものとなります。一度このような本を読んでおくのも良いかなと思います。それにしても著者は博学です。
近代外科学の父と言われるビルロート(1829-1894)の伝記「ビルロートの生涯 (武智秀夫著、考古堂)」を読み終えました。医学生にとってはなじみ深い名前ですが、その人生については知らないことだらけ。本の中では当時の有名な医学者が多数登場しました。
ビルロートの親友にはゲオルク・マイスナーがいます。マイスナー神経叢で有名です。また、グレーフェ徴候で有名な眼科医グレーフェのもとも一時期熱心に訪れました。病理学者メッケルや生理学者ミュラーとも仕事をしていました。
ウィルヒョウとはベルリン大学病理解剖学教授選挙を戦い敗れています。その後、眼科兼外科でチューリッヒ大学教授になりました。数年後、眼科はホルネル(ホルネル徴候で有名)に譲って外科に専念することになったようです。医学教育にも力を注ぎ、「学生は放っておくと講義に出ない」などと、思わず苦笑いするようなことも言っています。
ビルロートはランゲンベックのもとで外科を勉強しましたが、ランゲンベックは森鴎外の「隊務日記」でも「爛剣魄骨」として登場します。
ビルロートの学士論文は「両側の迷走神経を頸部で切断した後の肺の変化の性質と原因」というものです。「血管の発生について」という論文で教授資格を得ています。
彼の先駆的な仕事として、「手術結果を追跡調査し統計をとること」をはじめ、患者の体温を記録すること(温度板)などがあります。何より、一番の仕事は、初めて胃ガン患者の胃切除手術を成功させたことです。その胃切除の方法をビルロートⅠ法と名付けたのは、コッヘルという甲状腺外科医で、彼の名前を冠したコッヘルという有名な手術器具があります。ビルロートはその後ビルロートⅡ法という術式を編み出しました。ビルロートⅠ法、Ⅱ法とも今日でも日常的に行われていますが、日進月歩の医学の中で、100年以上術式が残っているのは、きわめて異例といえます。ビルロートは他にも喉頭癌の手術を成功させ、人工喉頭の元となるアイデアで声を復元しようとしています。
歴史的には、胃ガン患者に最初に胃切除を行ったのは、ジュール・ペアンだそうです。手術器具でペアンというものがありますが、最も良く使われる器具の一つです。
ブラームスが弦楽四重奏曲第1,2番をビルロートに捧げ、さらにはビルロートと部下のミクリッツがピアノ連弾で弾けるように、交響曲の第1,2番をピアノ連弾様に編曲したという逸話も紹介されていました。ビルロートはピアノ、ヴァイオリン、ビオラを演奏し、ピアノの一オクターブより二つ指が届いたそうです。
ビルロートはウィーンで旧フランク邸に住んでいたことがありますが、フランクは音楽愛好家の医師で、ベートーヴェンの難聴を診察しています。ビルロートがブラームスに宛てた手紙の中で、「いつも興味あることだと思うんだが、フランクとベートーヴェンはこの家で交際していた。そして100年後の今日、同じ屋根の下で君と僕が交わっている。ベートーヴェンはこの庭の小道を散歩したことだろう。」と記されています。ビルロートの家では、ハンスリックやヨアヒムなどが呼ばれ、ブラームスの新作の演奏が行われていたとのことでした。
音楽と医学が交わるところに存在した医師で、医学史の上でも重要な人物。興味がある方は読んでみてください。「ビルロートの生涯(武智秀夫著、考古堂刊)(ISBN 4-87499-998-0)」で、アマゾンなどで買えます。
本の中で、ビルロートが好んだ言葉は「Nonquam re-tororsum(決して振り返るな、いつも前へ)」だったと紹介されていました。先駆的な業績を挙げた人に相応しい言葉です。
明日は、東京でボツリヌス毒素の講習を聞く予定となっています。ボツリヌス毒素による筋弛緩を利用して、眼瞼痙攣などの治療をすることがあるのですが、その為には資格が必要だからです。資格といっても、手技的には簡単なものなので、講習を聞くだけで可能となっています。
前回は、「裁判官が日本を滅ぼす」という本を紹介しましたが、同時に購入した「裁判官はなぜ誤るのか(秋山賢三)」という本の方が、読んで明らかに面白かったです。こちらは元裁判官が、自省を含め、構造的な問題を指摘しています。2冊を比較すると、ジャーナリストの文章のいい加減さが見えてくる気がします。
その他最近購入した本は、「ビルロートの生涯(武智秀夫著)」「人の魂は皮膚にあるのか(小野友道著)」「ヨーロッパ医科学史散歩(石田純郎著)」「臨床医が語る脳とコトバのはなし(岩田誠著)」「死に方目下研究中。(田辺保、岩田誠著)」「精神医学の歴史(小俣和一郎)」「外科の歴史(W.J.ビショップ)」「死の真相―死因が語る歴史上の人物(ハンス・バンクル著)」といった所です。どれも魅力的な本で、これから読むのが楽しみです。特に、ビルロートの本は、ビルロートが作曲した歌曲の楽譜がついていて、是非演奏したいと思います。
ここ1ヶ月くらい、毎朝5時半に起きて読書をしています。今日読み終えたのは、「裁判官が日本を滅ぼす((門田隆将著)」という本です。医師は白衣を着ていますが、裁判官は黒い服を着ています。一冊を通じて、「何物にも染まらない意志表示」で黒い服を着ているのではなくて、「既に染まりきってしまったから」黒いのかという皮肉を思いつきました。
何故、このような本を読もうかと思ったのは、最近の医療裁判において見当はずれの判決が多発しているからです。医療行為というのは、人間である医療スタッフが、刻々と変化する状況の中で限られた情報を元に行うものです。従って、後から結果を検証した場合、常に最善だったということはありません。次善であったり、その後出てきた検査結果を照らし合わせれば最初の決断が間違っていることもあります。でも、決断をしないと治療は進みません。それが現実だと思います。
医学的な専門知識を他の医師並に持ち、その時点において妥当と思われる選択をした医師に、後付の理由で結果責任を問うたり、およそ現場からは常識はずれの判決が多発しているのを良く耳にします。私は法律は素人なので多くの判決が妥当かは論じられませんが、医療に関する訴訟を常識的に判断すると、違和感を覚えることが多いように感じます。医師に対して厳しすぎる判決のみならず、甘い判決の場合にもです。
本の内容としては、およそタイトル通りでした。裁判官を糾弾する内容に終始していて、さまざまな誤判が具体的に書かれていました。しかし、だんだんとジャーナリズムと表現の自由についての記述が増えていき、最終的に裁判官が表現の自由を侵害しているという結論が伝えたかったようです。途中述べられていたのが、「新潮45」が名誉毀損で訴えられたことがおかしいということ。そしてこの本の出版元も新潮社。少し本の裏に隠れた意図も見えました。誤判を集めて、被害者の辛い感情を並べて、読者に義憤がこみ上げてくるように書いていますが、もう少し裁判官の立場についてとか、多面的に書いて欲しかったと思います。価値観が分かれる部分も断定的な表現が多用されたのが目立ちました。
裁判というのは、及ぼす結果が甚大なだけに、完全を求められることは理解できます。ただ、人間のすること。全てパーフェクトとはいきません。そこが難しいところと思います。
最近は、「ブラームスの音符たち (池辺晋一郎著、音楽の友社)」という本を読んでいます。ブラームスは、近代外科学の父「ビルロート」の親友であったことも有名です。医師として少し親近感がわきます。
彼は「髭のあるブラームスと髭のないブラームス」という例えどおり、堅苦しいアカデミックな雰囲気の曲と同時に、聴きやすい曲も多く作曲しています。バッハからブラームスくらいまでの時代の曲は、表面上とても心地良く聞こえるように書いてありながら、曲の中にさまざまな工夫、トリックを見ることが出来ます。バッハ以前の音楽は、曲の構造としてはやや単純で、ブラームス以降は例外はあるものの、すこし取っ付きにくい作曲家が多い印象があります。論文を書くときは、だいたいバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタかベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きながらで、心が落ち着きます。
音楽について勉強して、ある程度曲の構造が見えるようになると、建築物を見るような「構造美」を知ることが出来、新しい感動があります。井福部昭はピカソの言葉を引用して、「鳥の声は聞いているだけで心地良い。音楽もそれで良いではないか」と述べていますが、確かにそうではありながら、人によっては、より知的好奇心を満たす鑑賞の仕方もあると思うのです。そもそも、井福部昭氏が、音楽を深く知った上で鑑賞していた人なのですから。
モーツァルトのCD全集は、ようやくオペラを残して全部聴きました。今は、オペラを聴いていますが、本当は解説本を読みながら聴きたいところです。車での通勤途中に聴いているので難しいところですが、いずれまた聴きなおしたいと思っています。結構、いろいろな曲が気づかないように使いまわされていたり、他の作曲家の曲と似ている部分があったり、聴いていて飽きません。
話は変わりますが、実家の近くから、狂牛病の牛が見つかって少し驚いています。
(参考)http://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/04/h0419-2.html
正月以来、帰省することが出来、友人には会うことが出来なかったものの、家族で楽器を合わせたり、家庭料理を食べたりすることが出来ました。岡山はとても暑く、郡山よりは気候が温暖だと実感しました。
岡山から郡山の新幹線の中で、「物理屋になりたかったんだよ(小柴昌俊著)」という本を買い、あまりの面白さに新幹線の中で一気に読んでしまいました。物理学の本は、高校生時代に、「ホーキング宇宙を語る」と「神と新しい物理学(ポール・デイヴィス著)」という本を読んで以来ですが、初心者にもわかりやすく読むことが出来ました。彼はノーベル物理学賞を受賞していますが、若い頃音楽家を目指したことがあったり、後年、音楽家との親交もあるようです。
一冊を通じて面白かったのですが、特に興味深かった部分を引用します。
たしかに、わたしたちは幸運だった。でも、あまり幸運だ、幸運だ、とばかり言われると、それはちがうだろう、と言いたくなる。幸運はみんなのところに同じように降り注いでいたではないか、それを捕まえられるか捕まえられないかは、ちゃんと準備していたかいなかったかの差ではないか、と。
また、こんなことも書いてありました。
わたしは、モーツァルトとアインシュタインをくらべたとき、モーツァルトのほうがほんとうの意味での天才だと思っている。なぜなら、たとえアインシュタインが相対性理論を思いつかなかったとしても、ほかの人が論理をたどっていって同じ真理にたどりつくことは可能だ。ところが、モーツァルトがつくったあのすばらしい曲は、彼以外のほかのだれにもつくれないではないか。
今日は、病院前の磐越西線の線路を、SLが走っていました。雪の中を走るSLは幻想的な雰囲気を感じさせました。時々あるイベントの一つですが、職場から見えるというのは何か得した気分になります。
先月友人から贈られた「国家なる幻影(石原慎太郎著)」という本を昨日読み終えました。司馬遼太郎にしても然りですが、自分独自の史観を持っているのは大事なことで、読み手はその史観を体の中に一度通すことで、現代起こっていることをまた違った角度から眺めることが出来るようになります。彼も彼しか知り得ない情報を分析し、彼しか出来ない体験の中から、無二の史観を確立したのではないかと思います。ありふれた良識や、大衆迎合的な意見にとらわれることなく、その裏にあるものを絶えず意識し、行動出来る人はそうはいないのではないでしょうか。また、損を承知で自分を貫く潔さは見習わなければいけません。
ただ、医学論文のように誤読をさせない文章を嗜む私としては、文学者の以て回ったような文章は時に煩わしく、伝える情報が簡単なことであっても敢えて難しい表現を使うことに奇異さを感じました。複雑な内面を語る時には、そのような表現方法は避けられないでしょうが、文章のほとんどがそうなっているのは、文体という作家のアイデンティティに関わる問題なのかもしれません。
電気の周波数の単位が「ヘルツ」ということは誰しもが知っていることです。しかし、ヘルツがどのような人物であったか知っている人はあまりいないのではないでしょうか?
「ヘルツの生涯 (山崎岐男著、考古堂)」を読み終えました。本の最初は、電磁気の歴史、真空放電の歴史にかなりのページを割いています。興味のある方には読むことを勧めます。内容を一部紹介します。
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11月22日、大学時代の親友 Tomoの家に遊びに行ってきました。親友が仕事で遅くなるということで、ヴァイオリンのレッスンを受けて、午後9時半くらいに伺ったのですが、親友の彼女は次の日が仕事とのことで、迷惑をかけてしまったようです。
でも、一緒に鍋をして、とても楽しい時間を過ごせました。考えてみると、国家試験前が終わった日に彼の家で飲んで、その2年後くらいに一緒に食事をして、それ以来なので、非常に懐かしかったです。彼は外科4年目、私は内科4年目なので、それぞれ専門分野が全然違って、その意見交換といった意味でも楽しめました。最後は3人で、ボジョレーヌーボー3本空けて寝ました。今度は是非郡山に招待したいと思っています。
その日のヴァイオリンのレッスンですが、バッハの無伴奏パルティータを和声の面から教わり、非常に勉強になりました。
今一番のおすすめの本は「音楽の形式(門馬直衛著)」です。一部形式~複合三部形式、ロンド形式、ソナタ形式など、非常にわかりやすく解説しています。今まで漫然と聴いていた曲が、全然違って聴こえるようになりました。モーツァルト、ベートーヴェンなどは、形式を理解せずして語れない音楽で、彼らが如何に苦心していたか良くわかりました。