第一章 波瀾万丈に生きる
1. 野口英世 一個の男子か不徳義漢か
・本書で紹介した「野口英世」の伝記著者プレセットの父親は、進行性麻痺の患者サンプルを野口英世に提供した精神科医であった。
・野口英世は不自由な左手で手袋ができなくて、実験中の事故で黄熱病に感染したらしい
・野口英世はかなり若い時期から梅毒に感染していた (おそらく渡米時)
2. グレイグ・ベンター 闘うに足る理由
・注意欠陥・多動性障害 (ADHD) と言われるくらい落ち着きがなかった。
・海軍に入った時の IQテストで 142と高い値を叩きだしたが、本格的に勉強を始めるまでは劣等生であった
・復員兵援護法の援助で大学に入って猛勉強した。医者を目指していたが、学生時代に PNASなどに論文を載せ、基礎研究の道に進み、大学院時代に Scienceなどに 12報の論文を掲載。
・DNAシーケンサが開発中なのを知り、最初の1台を購入することを ABI (Applied Biosystem) 社に申し入れる。そして不安定な装置を使いこなした。
・長年に渡り、ジェームズ・ワトソンとの確執があった。ワトソンとの確執で研究費が取れなくなったとき、バミューダトライアングルに航海に出かけて死にかけた。
・ショットガン法でショウジョウバエ、ヒト、マウスのゲノム解読を行った。2007年、人類史上初めて全ゲノム配列が公開された人間になった。
3. アルバート・セント=ジェルジ あとは人生をもてあます異星人
・第一次大戦に召集されたが、自分の左腕に発砲し、負傷者として戦線を離脱し、医師となった。
・純化した過酸化酵素にベンチジンと過酸化水素を反応させると濃青色になるが、レモンの絞り汁は過酸化酵素を含んでいても発色が一瞬遅れる。ジェルジはそのことから還元物質がレモンの絞り汁に含まれていると確信した。副腎機能障害のアジソン病の患者の顔色が黒くなることから、還元物質が副腎にあると思い付き、副腎から還元物質の粗抽出物を得た。この研究中に職を失い、自殺を考えながら出席した国際会議でビタミンの大家フレデリック・ホプキンスが研究を紹介してくれて、ホプキンスの研究室に務める事になった。
・副腎からの還元物質抽出は難しかったが、オレンジジュースから抽出・結晶化し、還元物質が C6H8O6の弱酸性の炭水化物であることを同定した。そしてイグノース (ラテン語の「わからない」を意味する「イグノスコ」+糖を示す接尾語) と名付けたが却下され、ゴッドノース (神のみぞ知る、の意) と名づけたが却下。結局、ヘキスウロン酸という名前で発表した。研究室に新たに参加したスワーベリにジェルジは「これがビタミン Cだと思う」とヘキスウロン酸を渡したら見事に当たりだったが、そのことを知ったスワーベリの旧師キングが先に ScienceにビタミンCの正体について短報を載せてしまった。しかし、先取権争いはジェルジに分があることは明らかであり、ノーベル医学・生理学賞はジェルジの単独受賞となった。
・クレブスが 1937年に TCAサイクルを発表したが、一つの重要な段階を見落とさなければ「セント=ジェルジサイクル」と呼ばれたかもしれないくらい、その解明に貢献した。
・ミオシン糸に ATPが加えると収縮するのを観察した。また、アクチンを発見した。
・ナチスドイツにユダヤ人の友人たちが処刑されたので、研究を中断して反ナチスの活動を開始した。ハンガリーの首相ミクロシュ・カーライの密使としてイスタンブールに行き、イギリスの諜報機関の長官と会った。ヒトラーはジェルジを名指しで罵倒し、ドイツに連行するように命じた逸話があるらしい。最終的に、ソ連のハンガリー侵攻を機として政治活動をやめ、アメリカに渡った。
4. ルドルフ・ウィルヒョウ 超人・巨人・全人
・ベルリンではフォン・レックリングハウゼンなど多くの弟子を育てた。
・プロシアの下院議員となり共和国を目指して民主主義を唱えてビスマルクと対峙するが敗れた。
・静脈炎・血栓は人工産物か死後変化とされていたが、肺動脈にみられる血栓は下肢から血流に乗って肺に達して詰まった塞栓であることを明らかにした。そして実験でも確認し、血栓症 (thrombosis) という用語を考えだした。
・1845年に解剖した女性患者は、血液が白く見えるほど白血球が増加していた。これまで、そのような患者は血中に膿が溜まる膿血症としてひとくくりにして診断されていたが、ウィルヒョウは臨床症状等から新たな疾患概念を考え、白血病と命名した。
・1870年に始めた考古学研究の初期には、当時地方で医師をしていたコッホと共に発掘作業を行なっていた (のちにはコッホの結核菌を否定するという過ちを犯し、対立することとなった)。
第二章 多才に生きる
1. ジョン・ハンター マッド・サイエンティスト✕外科医
・ジョン・ハンターは手術の名手で、御者の職業病であった膝窩動脈瘤の手術法「ハンター法」を開発した。また、哲学者デビッド・ヒュームの肝臓癌を診断したり、国富論で有名なアダム・スミスの痔の手術をした。
・銃創を受けた患者にはやみくもに手術を行うのではなく、何もしないほうが良いことが見出し、旧弊な治療法をはるかに上回る治療効果を上げた。手術には慎重で、「必要という以外はメスを入れない」だけでなく、「どうしても手術が必要だという状況でも、手術はしないほうがいい」という考えを持っていた。しかし、癌だけは手術で切除しないと駄目だと考えていた。
・兄の解剖学教室の助手としてキャリアを始めたが、遺体が手に入りにくい時代 (遺体一体の値段が、インド会社で働く船員の年俸を上回っていた) だったので、闇のルートを駆使して遺体を集めた。病院勤務時代には、勝手に病院から無断で遺体を持ちだして解剖していた。230 cmの巨人チャールズ・バーンの遺体がどうしても欲しくて、騙して棺に石を入れて遺体と偽り海に沈め、遺体を手に入れた。バーンの遺体はハンターのコレクションとなり、現在ロンドンのハンテリアン博物館にあるらしい。
・妊娠後期の遺体を入手して、血管に色素を注射し、母体と胎児の血流が完全に分かれていることを突き止めた。
・一方で、いかがわしいことを沢山していて、例えば雄鶏の蹴爪を雌鶏のとさかに植えたり、鳥の睾丸を腹に植え込んだり、ロバの額に牛の角を移植しようとしたり、絞首刑になった死体を生き返らせようとしたり、冬眠による不死化実験をして失敗したりした。
・ライデン瓶で電気ショックを与えて蘇生させた記録が残っている。帝王切開や人工授精も成功させているらしい。
・淋菌と梅毒が同じ原因で起きていることを証明しようとして、淋菌の患者の膿を自分に接種し、淋菌に引き続き梅毒に罹患した。このことで、両者は同じ原因だとハンターは考えたが、実際には膿を提供した淋菌患者が淋菌と梅毒両方に罹患していただけだった。
2. トーマス・ヤング Polymath-多才の人
・ヤングの時代には、眼の調節のメカニズムとして、レンズの位置が動くとするケプラー説と、レンズの形が変わるというデカルトせつがあった。ヤングはコンパスで自分の眼球の直接測定をして、デカルト説が正しいことを示した。
・他に、光の三色説や、光は波であり干渉現象があることを唱えた。ロゼッタ・ストーンの解読にも貢献をした。
3. 森林太郎 (鴎外) 石見ノ人 鴎外と脚気論争
・明治時代の軍隊では脚気が脅威であった。日清戦争では脚気患者数 40000人余り、戦死者 1000人弱、脚気による死者 4000人以上であった (海軍では白米を制限して副食を増やしたためほとんど発生せず)。台湾平定では兵員の 90%が脚気に罹患し、その 10%が死亡した。日露戦争では陸軍 108万人のうち、脚気患者 25万人、脚気による死者 27000人以上だった。
・森林太郎は、白米食が原因であることをなかなか認めようとせず、脚気患者の蔓延の一つの原因となった。
4. シーモア・ベンザー 「オッカムの城」建設者
・物理学者であったが、サルバドール・ルリアに会った日に生物学への転身を決意した。そして、バクテリオファージの研究をしたが、遺伝子業界が混み合ってきたことを原因に行動の原子論に進んだ。ショウジョウバエの行動変異体の解析をするうちに、periodと名付けた遺伝子座の異常で概日リズムの異常が起こることを突き止めた。70歳代後半からはショウジョウバエを用いた老化の研究を行うことになった。
・このベンザーの伝記を書いたワイナーは、「フィンチの嘴」という本でガラパゴス島の進化を紹介し、ピューリッツァー賞を受賞している。そして、筋萎縮性側索硬化症に冒された弟のためにベンチャー企業を立ち上げ奔走する兄の姿を描いた「命の番人―難病の弟を救うために最先端医療に挑んだ男」や、ハンチントン病の原因遺伝子を巡る「ウェクスラー家の選択」などの著書がある。
第三章 ストイックに生きる
1. アレキシス・カレル 「奇跡」の天才医学者
・21歳の時に、リヨンを訪れた大統領カルノーが暴漢に襲われ腹部大動脈損傷を受けて死亡した。カレルは血管を縫合すれば治療できたのではないかと考え、刺繍産業が盛んであったリヨンの職人に習い、「お針子の技術」を会得した。そして血管縫合の技術を確立した。
・1908年、カレルはニューヨーク州の医師免許は持っていなかったが、父親である医師の左手首の動脈と、その子の膝窩静脈を縫合し、輸血をして命を救った。
・1912年、「血管縫合および血管と器官の移植に関する研究」で、ノーベル医学・生理学賞を初めてアメリカにもたらした。
・カレルは宗教的奇跡を医学においても信じてしまい、病院勤務医資格を取ることができなかった。
2. オズワルド・エイブリー 大器晩成 ザ・プロフェッサー
・外科医として働いていたが、物足りなさを感じ、ホーグランド研究所で研究を始めた。ホークランド研究所では最初ヨーグルトの研究をしていたが、ボスが結核にかかったのを契機に結核の研究に転向し、ロックフェラー研究所に移ってからは、研究所の指示で抗血清による肺炎双球菌の治療法の開発に従事することになった。
・肺炎双球菌に対する特異的抗体を研究していたときに、肺炎患者の血清中に発病の初期に現れ、病気が回復すると消失する血清蛋白質を発見した。この血清蛋白質は肺炎双球菌の C多糖と反応して沈殿するので CRPと名付けられた。
・エイブリーらは、形質転換物質が DNAであることを同定した。
・エイブリーの共同研究者ハイデルバーガーは、100歳近くまで論文を書いており、論文を出版した最高齢者としてギネスブックにも認定されていた。ハイデルバーガーはラスカー賞も受賞している。
3. サルバドール・ルリア あまりにまっとうな科学者の鑑
・たまたま市街電車に乗り合わせて、車両が停電で止まってしまったため細菌学者ゲオ・リタと知り合い、バクテリオファージの研究をすることになった。
・1947年にインディアナ大学で受け持った最初の大学院生がジェームズ・ワトソン (DNA 2重螺旋モデルの提唱者) であり、同じ年にはモンタルチーニの紹介でダルベッコ (腫瘍ウイルスの研究で後にノーベル賞を受賞) も研究室に参加した。
・1950年、ルリアはイリノイ大学で大腸菌に T2ファージを感染させる実験をしていた。ある大腸菌の変異体は T2ファージの感染を受けても新たにファージは産生しない (ファージ検出用大腸菌を用いてもファージが検出できない) という奇妙な振る舞いをみせていた。ルリアはファージ検出用大腸菌の試験管を割ってしまい、仕方なく赤痢菌を用いてみたら、大腸菌変異体が産生したファージは赤痢菌には感染していることがわかった。つまり、ある大腸菌の変異体が産生した T2ファージは検出用大腸菌には感染できず、赤痢菌には感染できる特徴を持つ。これは、T2ファージが赤痢菌の中でしか増殖できないように「制限」され、「修飾」されたファージに変わっていることを意味する (ちなみに我々が実験で用いる制限酵素というのは、ある特定の塩基配列を認識することから名付けられたのではなく、この「制限」という現象で DNAを切断する酵素ということから名付けられたらしい)。のちに、「制限」という現象は菌の酵素によるファージ DNAへの攻撃であることがわかった。
4. ロザリンド・フランクリン 「伝説」の女性科学者
・ワトソンとクリックが DNAの二重螺旋モデルを提唱するにあたって、フランクリンの撮った DNAの X線解析の写真を盗み見していたという有名な話がある。クリックは世紀の発見について自分の立場から都合よく本にしているが、この章で紹介する「ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実」はそれをロザリンドの側から書いた伝記。
5. 吉田富三 鏡頭の思想家
・吉田富三は「吉田肉腫」に名を残し、日本の癌研究をリードした。この伝記の著者は、富三の長男で、大河ドラマ「太閤記」で最高視聴率 40%近くを叩きだした NHKのプロデューサーの吉田直哉氏。
・吉田富三は福島県石川郡の造り酒屋に生まれた。東京府立第一中学校を受験したが口頭試験で試験官が東北訛りを聴き取れずに不合格になった。私立の中学から第一高等学校に入ったが、そこでは堀辰雄、小林秀雄、深田久彌が同級だった。それから、父が何となく息子が医者になることを希望しているように見えたので、東京大学医学部に進学した。
・恩師は佐々木忠興だった。佐々木は 35歳で京都大学内科学教授に就任するも「町医者がいかに大切か」という考えから 3年で辞し、神田駿河台の杏雲堂病院長を父の政吉から引き継いだ (ちなみに政吉も東大教授だったが結核患者の治療のために 42歳で退職している)。そして私費による研究で帝国学士院恩賜賞、文化勲章を受賞した。佐々木は剣術の達人でもあり、16歳で北辰一刀流の目録を授けられている。
・吉田富三は佐々木の指示でアゾ色素を動物に与え、肝癌モデルを作り上げた。この研究は高く評価された。
・吉田富三は長崎医科大学病理学教授を経て、東北大学医学部に転任した。食糧難の時代、吉田肉腫 (発癌剤によりラットに腹水腫瘍を作ることに成功した) のラットを連れて柳ガレイの干物を与えながら移動したらしい。
第四章 あるがままに生きる
1. リタ・レーヴィ=モンタルチーニ
・子守であった女性が胃癌で死んだことをきっかけに、トリノ大学医学部に進んだ。しかし、それまで生物学を学んでいなかったので、コウモリと鳥の違いも知らなかった。
・トリノ大学医学部では、ダルベッコと同級生であり、一学年上にルリアがいた(モンタルチーニ、ダルベッコ、ルリアはいずれもノーベル賞を受賞している)。
・反ユダヤ人キャンペーン、そして人種法により職場から追放されて研究ができなくなり、トリノで「もぐり開業」をしていた。アメリカから帰国したばかりのあまり親しくない友人に叱咤激励され、自宅で鶏の神経発生の研究を再開した。論文はユダヤ人が投稿できないイタリアの雑誌ではなく、ベルギーの雑誌に投稿した。
・実験の材料であるニワトリの受精卵は「うちの赤ちゃんのために」と頼んで農家から入手し、実験後にはいつも料理をして食べていた。卵好きの兄はそのことを知ってから一切食べなくなった。
・論文がワシントン大学のハンバーガーの目にとまり、共同研究を誘われて渡米した。渡米する船はダルベッコと同じだった。
・シカゴではコーエンとともに神経成長因子 NGFの存在を見つけ、単離した。その 30年後にコーエンとともにノーベル医学・生理学賞を受賞した。
・自伝で研究者仲間のことを書いているが、唯一良くない評価をしているのが、DNA2重螺旋のワトソンである。
2. マックス・デルブリュック ゲームの達人 科学版
・天文学を学び、ついで理論物理学に転じた。ニールス・ボーアがデルブリュックに聴いて欲しいと伝えた「光と生命」の講演をきっかけに、生物学における相補性を研究し始めた。後に否定されることになる「遺伝子の突然変異の本質と遺伝子の構造について」という論文はマイナーなドイツ語雑誌に載り、たまたま別刷がシュレディンガーやルリアに渡った。シュレディンガーは「生命とは何か」という本で「デルブリュックモデル」として紹介した。
・デルブリュック、ハーシー (ハーシー・チェイスの実験 (DNAが遺伝物質であることを決定づけた) で有名)、ルリアの三人組「二人の敵性外国人と一人の社会不適合者」はファージ・グループを成立させた。この 3人は「ウイルスの増殖機構と遺伝物質の役割に関する発見」でノーベル医学・生理学賞を受賞した。
・デルブリュックはドイツの名門家出身の生粋のドイツ人だったが、反ナチスを貫き、戦後ドイツの科学者たちを助け続けた。
・デルブリュックはノーベル賞の賞金を色々な慈善団体に寄付した。そして「自分の成し遂げたことは他の人々のやっていたことと同じ程度であり、誰が受賞の対象になるかはむしろ運なのだ」と考え、受賞を祝ってくれた人に贈ったのは平家物語の冒頭「祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・」であったという。1981年、多発性骨髄腫で死去。
3. フランソワ・ジャコブとジャン・ドーセ フレンチ・サイエンティスツ
・ジャコブはもともと理工科学校が第一希望だったが、受験教育をあと 2年受ける必要があったので、医学部に進むことにした。しかし、ドイツ軍のパリ侵攻が近づくと、行き先もわからない船で密航し、難民として収容されたイギリスで自由フランス軍に元医学生として加わった。その後勉強し直して 1947年に医師となったが、右手の負傷のため外科医となることを諦め、30歳間近にして基礎研究者を目指すことになった。
・ジャコブはエリ・ウォルマンと共に、大腸菌の接合に関する実験を始め、二人はプロファージを持っているオスの染色体がメスに伝達されると伝達されるとファージ増殖が生じるという「エロティック誘発 (接合誘発)」という現象を発見した。さらに接合中の大腸菌をミキサーでひきはがすという「性交中断実験」から、オスの染色体がスパゲティーのように順々にメスに伝達されていくことも明らかにした。
・サバティカル (研究休暇) でジャック・モノ―の研究室にいたアーサー・パーディーと 3人でパジャマ実験 (PaJaMaは 3人の頭文字) を行い、乳糖によるガルクトシダーゼの誘導は乳糖のレプレッサー抑制によることを見出し、この現象がエロティック誘発と本質的に同じであるという考えから、レプレッサーが DNAに直接働きかけるに違いないと思いついた。モノ―にこのアイデアを伝え、最終的にオペロン説が確立されていった。
・ジャコブが 80歳近くに上梓した「ハエ・マウス・ヒト」という本は、「確実に予見できる出来事が一つだけある。それは、自分がいずれ死ぬということである」というところから論が起こされる。
・ジャン・ドーセはフランスのブルジョワ家庭に生まれた。医師であった父の勧めで医師になり、卒業後北アフリカの野営地で病院勤務についた。帰国後は病院の輸血センターに勤務し、新生児交換輸血などに従事した。
・ドーセは戦後サンジェルマン・デ・プレに妻ニーナとともにドラゴン書店を開店した。この書店はダダイズムの父トリスタン・ツァラがきたことなどから次第にアート・ギャラリーに変身していった。
・1952年、輸血した白血球に対して抗体ができることから、ドーセは白血球にも赤血球と同じような型が存在することを見つけた。しかし、画廊経営や医学改革が忙しく、発表するまで 6年かかった。
・臓器移植の黎明期、ドーセはボランティアに皮膚移植を事務所でさせてもらい、他の研究者の結果もあわせて白血球の型と組織移植の型が同じであることを突き止めた。そして白血球の型と組織移植の型が同一であり、移植に対して決定的な意味を持つことが証明された。その型は「HL-A」と名付けられ、後にハイフンが取れて HLAとなった。1980年、ドーセは「免疫反応を調節する細胞表面の遺伝的構造に関する研究」でノーベル医学・生理学賞を受賞した。
・かつての画廊の大得意であり、その財産である絵画コレクションをドーセに遺贈することになっていた一人の大金持ち女性の遺志により、CEPH (ヒト多型性研究センター) を設立することができた。ここでダニエル・コーエンとともに、「ヒトゲノムの遺伝的地図」の作製にとりかかった。
4. 北里柴三郎 終始一貫 (研究編)
・北里柴三郎は熊本医学校で学び、師のマンスフェルトの助言で東京医学校 (後の東京帝国大学医科大学校) に入学した。そして内務省衛生局に就職、長崎でのコレラ患者からコレラ菌を確認、純粋培養に成功した。その後、内務省からのドイツ留学生としてコッホ研究室に所属するようになった。ちなみにこのときに文部省からドイツ留学したのがジョン万次郎の息子で金沢医学校長であった中浜東一郎である。
・コッホの元では破傷風菌の研究をしていたが、純粋培養が出来ず苦労していた。ある日、研究所仲間の下宿で Eierstichという玉子豆腐のような料理を作るとき、奥の方が固まっているかどうか確かめるのに串を刺しているのを見て、破傷風菌は体の奥の方で増殖するのだから固形培地の奥の方に接種してやれば培養できるのではないかと予想し、うまくいった。このことから、破傷風菌は「嫌気性菌」であると推定した。
・培養した破傷風菌を接種すると確かに破傷風を発症するが、その症状の原因となる組織 (神経や筋肉) には破傷風菌が存在しないことの理由がわからなかった。北里は破傷風菌を取り除く濾過装置を考案し、その装置を二回通した破傷風菌の培養液をラットに注射したところ、破傷風と同じ症状が出た。そのことから、破傷風の症状は破傷風菌そのものではなく、破傷風菌の産生する毒素によることを見出した。
・次いで破傷風毒素を少量から漸増する実験をした。するとかなり大量まで耐えられるようになることがわかった。つまり、破傷風毒素に対して産生される物質によるものではないかと考えた。そして、血液中には破傷風毒素に対する「抗毒素」が存在し、それに基づくと破傷風の抗血清療法が可能であるという発見をした。
・北里はエミール・フォン・ベーリングと共にジフテリア抗毒素の研究をし、連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の実現について」として論文を発表した。その次の号には何故かベーリング単名で「動物におけるジフテリア免疫の実現についての検討」と題した論文が掲載された。1901年、第一回ノーベル医学・生理学賞はベーリングのみが受賞し、北里が受賞できなかったことは謎とされている。
・北里は外国人として初めてプロシアから Professorの称号を受け、ケンブリッジ大学やペンシルバニア大学から破格の条件で招聘をされたが、「日本国への報恩のため」断り帰国した。しかし、脚気細菌説を批判したことなどから、日本では風当たりが強かった。
・香港でペストが流行った時、政府は北里と青山胤通を派遣した。北里と青山には、学生時代、教授の質問にうまく答えられなかった青山を北里が笑ったので、青山が手に持っていた大腿骨の頑頭で北里の頭を殴ろうとした因縁があるらしい。香港では青山が解剖、北里が細菌学的解析を行い、ペスト菌を発見して Lancetに報告した。1894年6月12日に香港到着、14日に調査開始、18日に病原菌同定という超早業だった。数日遅れでフランスから派遣されたパスツールの弟子イェルサンもペスト菌の同定に成功した。北里はグラム染色の結果を明言していなかったため、そのことを森林太郎らに執拗に攻撃され、「エルザンの言ふ所の原因が正しいものと云ふことを躊躇せずして同意を表するものであります」と表明する羽目になり、ペスト菌はイェルサンの名前から Yersinia pestisと命名された。
・志賀潔 (赤痢菌 Shigellaに名を残す) は北里のペスト菌発見の演説会を聴いて感動して北里の弟子入りをした。そして下宿を引き払い、研究所の片隅に寝床を作って研究を続け、1年で赤痢菌を発見した。志賀は慶応義塾大学教授、京城帝国大学総長などを務めたが、晩年、戦争で妻、長男、三男を亡くし、空襲で一切の財産を失い、郷里に近い海岸の草屋で研究とも社会とも没交渉な生活に陥っていた。志賀は「自分の仕事と社会との関係」について問われ、「これに対する私の答はすこぶる単純である。自分の選んだ学問を通して皇国の弥栄と人類の福祉に貢献すること。それだけである。しかして自分の五十年の仕事は貧しいながらそのための捨石にはなり得たであろう。これが私の自らひそかに慰めとするところである」と答えている。
5. 北里柴三郎 終始一貫 (スキャンダル編)
・1914年10月5日に「萬朝報」、翌日に「東京朝日新聞」に伝染病研究所が東京帝国大学への移管が報道され、北里は烈火のごとく怒り、19日に「脳神経衰弱」の診断書を添えて辞表を提出した。北里の辞職に伴い、部長、助手、事務長から畜丁に至るまで自発的に辞職し、新たに設立された北里研究所に移って行った。北里は伝染病研究所に全てのものを残していったが、唯一、崇拝するコッホを祀った「コッホ神社」だけを持ち去った。
・この移管を断行したのが東京帝国大学総長の山川健次郎だった。山川は会津藩に生まれ、白虎隊の一員として戊辰戦争を迎え、鶴ヶ岡城の籠城を経験した。その後謹慎中の猪苗代から越後に脱走して、死に物狂いで勉強して渡米し、エール大学を卒業して帰国。48歳で東京大学総長に就任した。他の教授の政治的発言で辞任するが、九州帝国大学の初代総長を経て、東京大学総長に返り咲いた。
・北里は時の宰相の伊藤博文と競り合って「とん子」という女を落籍したが、そのことを東京朝日新聞にすっぱ抜かれた。その後、長男俊太郎が芸者と心中事件を起こし、自分だけ助かったことから大スキャンダルとなった。北里は即日、北里研究所以外の公職すべてから身を引くことを決断した。北里は「この不始末は教育者として自決の外に途はない」と慶應大学医学部長から辞任しようとしたが、「700名に及ぶ連署の血判状」を持参した学生の涙の訴えで職を続けることになった。