Category: 読書

祖父・小金井良精の記②

By , 2013年5月2日 7:35 AM

2013年4月24日に「祖父・小金井良精の記(星新一著、河出文庫)」の上巻について書きましたが、引き続いて下巻を読み終えました。後半は良精が付き合った人物など、細々としたことを中心に、晩年を綴っています。名前を聞いたことのある学者達がたくさん出てきて、「この人にはこんな一面があったのか」と楽しく読みました。初めて知る話が盛りだくさんでした。

・教授の停年の規定は、良精が働いていた頃はなかった。 64歳であった大正 10年、良精が言い出し、引退の規定を定めることとなった。

・欧州大戦に敗れ、ドイツは窮乏の状態にあった。ワルダイエルの遺族は多量の医学書を金にかえる必要があった。古在総長に掛け合うと、3年の年賦で金を支出するとのことで、東大で引き取ることができた。(ワルダイエル文庫は東大の図書館の蔵書となったが、良精存命中は、誰かが読もうとすると良精がじーっと後ろで立って本を傷めないか見ていたらしい。極めて優れた歴史的な書がたくさん含まれていたが、最近になって東大図書館からどこか別の場所に移されてしまい、研究者が気軽に読むことはできなくなってしまった)。

・大正 11年、森鴎外の死去の際の良精の日記。「出がけに千駄木に寄る。林太郎氏、昨日来、少しく浮腫をきたせり。かつ看護婦きたり、まったく臥床のよし。於菟へ、森氏の模様そのほか種々を書きて、手紙を出す (7月3日)」「朝、電話にて額田晋氏に森氏の容体をたずねる。去る二九日、はじめて診察したるよし。萎縮腎は重大ならざるも、他に大患あり。ただしこれは絶対秘密云々。ついにこれをもらす。左肺結核。症をいまだかつてあかさざりしこと、これがためか。・・・七時ごろ家に帰る。額田氏きたる。面談、詳細 (7月6日)」「教室。時に家より電話あり。ただちに千駄木に至る。森氏の容体、悪化に驚く。昨夜おそく額田氏来診したりと。今朝はいまだし。電話にて呼ぶ。きみはすでに先に来りおる。賀古氏と病室に入る。年号起源調査のことにつき『ふたたびこれにかかるようになれば・・・』じつに、これ最後の言なりき。秋田へ電報を発す。夕刻には、はや精神明瞭を欠く (7月7日)」

・松沢病院の歴史について。明治12年に東京府癲狂院が東大のすぐ近くに出来た。我が国初めての精神病院で、初代院長は長谷川泰。巣鴨に移転し、巣鴨病院となった。東大精神病学の初代教授は榊俶で、院長を兼ねた。榊の死後は呉秀三教授、三宅鉱一郎助教授が後を継いだ。大正 7年、広い土地を求めて松沢に移り、松沢病院と改称された。

・良精は昭和 2年 6月 20日、70歳の時に天皇の御前で講演を行った。天皇は 27歳であった。本邦の石器時代の民族、すなわち先住民族はアイヌであるという内容であった (要旨が本書に収録されている)。良精は腎臓の持病があり、頻尿の症状があった。講義中非礼がないように、講演当日、朝食の際に水分を摂取しなかったという。

・昭和天皇は皇太子時代に半年間のヨーロッパ旅行をしたことがあり、その際は内科第一講座教授で附属病院長を兼ねていた三浦謹之助が随行した。

・学士院会員達と昭和天皇のご陪食の時の会話。昭和天皇が研究論文をイギリスの学会に送り、論文を別送した旨を伝えたが、論文が途中で紛失されたらしく、再送することになった。

・金田一京助はアイヌ語の研究をしていたため、同じくアイヌ研究者である、良精の部屋に遊びに来ることもあった。

ニール・ゴードン・マンローは病苦と生活国あえぐアイヌの悲惨さに心を打たれ、日高二風谷のアイヌ診療所にとどまることにし、アイヌ研究の原稿で得た金で薬などを購入し、医療活動をつづけた。昭和 12年にチヨと結婚したが、第二次大戦の戦火がひろがるとともに本国イギリスからの送金が絶え、栄養失調で病床に伏し、79歳で息を引き取った。良精とはアイヌ研究を通じて親交があった。マンローは軽井沢で病院をやっていたこともあり、堀辰雄の小説「美しい村」に登場するレエノルズ博士はマンローがモデルだと言われているらしい。

・良精は揮毫はほとんどしなかったが、長与又郎氏から請われたとき、「真理」と揮毫した。長与又郎は病理学の教授で、のちに医学部長を経て東大総長にもなった。父は緒方洪庵の弟子の長与専斎で、弟は白樺派の作家長与善郎である。

・長岡藩の山本勘右衛門は小金井家に養子に来て小金井良和を名乗っていた時期がある。そのため山本家を継いだ山本五十六と小金井良精は家柄的に非常に近いものがある。そのことを話す目的で、良精と山本五十六は昭和 11年 1月 19日に面会した。良精 79歳のとき。ちなみに五十六は養子として山本家を継いだのであり、元々は高野貞吉という長岡藩士の 六男だった。

・昭和 19年 10月 16日朝、良精は自分で指を組んで胸の上に置いて「このまま逝きたいなあ」と言っていた。家族が順番に問いかけると答えていたが、最後に孫が問いかけると返事がなく、手首を握っていた次男が「お脈が絶えました。ご臨終です」と言ったのが 6時 35分だった。

・死後の解剖の結果、良精を生涯悩ませてきた血尿の原因は、膀胱と腎臓の結核だと判明した。死因は肺結核であり、空洞の周りに繊維素肺炎がみられた。三浦謹之助は生前から血尿の原因を結核だと診断していた。しかし本人が落胆するといけないので知らせていなかったらしい。

昭和 2年 4月 28日に良精は健進会 (医学部学生への課外講演会) で「日本医学に関する追憶」という講演を行いました。「ぼくももはや老齢であって、ふたたび諸君の前で、このような話をする機会があるや否や。恐らくは、なかろうと思うからして、今夕に話したことは、ぼくの遺言として聞いて下さってよろしいのである」と結んでいます。要約が本書にあるので、最後に引用します。

 しかしながら、研究の方面はどうであるかというに、この点については遺憾にたえない。ここの医学部のみならず、他の大学、医学者一般に関することである。

学者たるもの、その専攻の分野で、その進歩につくしたことを残さねばならぬ。世界の医学文献に、日本の学者の名が見えねばならぬ。しかし、その数ははなはだ少ない。海外にあって、それをなした日本人はあるが、それは事情がちがう。

学者が日本という環境のなかで、独力で具体的な業績をあげてもらいたいのである。ドイツには、学位論文は業績とはみなさぬという規則の学会がある。わが国では、学位を取れば研究終了という人が多すぎる。外国とくらべ、真の研究者が少ないと痛感する。

研究者の少ない一因は、社会的なむくわれ方が薄いからであろう。改善せねばならぬことだが、大問題なのでいまはふれない。

清貧に安んずる。現実には、口で言うほど容易なことではない。研究とは、注目されることの少ない、地味な仕事である。しかし、真理をめざし、思考と実験を反復するなかには、金銭でえられない味がある。また、業績を発表し、海外の学者から反響があると、こんなに楽しいことはない。

研究の成績は、才能ではなく、努力によるところが大きい。それだけのことは必ずある。日本の医学は、移植時代から、研究時代に入って四十年ちかくなる。世界の水準に達するのが目標である。そのために、純真な研究者が多くあらわれるのを熱望してやまない。

奇怪なことには、日本の研究者のなかには、途中で研究を中止する者がある。また、医学からはなれ、政治家や実業家になる者もある。努力不足の人といわざるをえない。その分野で社会につくしているともいえるが、学問の側からいえば、かかる人は不忠者である・・・。

研究に身を捧げた良精らしい講演ですね。

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祖父・小金井良精の記

By , 2013年4月24日 7:40 AM

祖父・小金井良精の記(星新一著、河出文庫)」の上巻を読み終えました。星新一の本を紹介するのは、「人民は弱し 官吏は強し」以来ですね。

小金井良精は明治~大正時代を代表する解剖学者で、初期の頃の東大医学部長も務めていました。星新一にとって、母方の祖父にあたります。祖父に対する愛情の漂う本です。

本書の前半は小金井家の先祖たちについて述べられています。それを読むとまず江戸時代の養子の多さに驚きます。星新一が「家とはなんであるか。濃い血液でつながらず、家風だけが伝えられていく」と述べている通りです。以前紹介した宇田川家でも養子が家を継ぐ事例がいくつかあったのを思い出しました。池波正太郎氏は、こうして家の中に血の繋がらない人間がたくさんいることが、江戸時代に礼儀作法がうるさかったことの原因の一つだったのではないかと考えていたようです。

小金井家は長岡藩の出自、それも家老の次男が養子に来たこともあるほどの家柄でした (山本家からの養子小金井良和は、後に本家に戻されて山本勘右衛門と改名して家老になった)。小金井良精の父、小金井儀兵衛良達は小林虎三郎の妹と結婚したのですが、小林虎三郎は「米百俵」の逸話で知られています。司馬遼太郎の「」でも、小林虎三郎は有能な人物として描かれていますね。ちなみに司馬遼太郎の「峠」は私が高校生時代最も好きな小説で、この手の話を語ると長くなるのでやめておきます。

江戸幕府は外国事情を調べるため洋学所を作っており、それが後に蕃書調所、洋学調所、開成所と名前を変え、明治時代には大学南校となりました。良精は上京して大学南校に入学しましたが、突然退学となりました。原因は不明ですが、著者は「良精は朝敵の藩ということで、からかわれ、それに反発して、なにかことを起こしたのかもしれない」と推測しています。結局、良精は大学東校に入ることにしました。東京大学医学部の前身です。当時の校長が長谷川泰で、長岡の人だったのが入学を後押ししたようです。校則では、満15歳以上でないと入れなかったのですが、良精は当時 13歳 11ヶ月。サバを読みました。しかし首席で卒業しました。成績優秀につき、ドイツ留学を果たします。

その後彼がどういう人生を歩んだかは、実際に本書を読んで頂くのが良いと思いますが、備忘録代わりにいくつか印象に残った部分を書いておきます。

・良精は「よしきよ」と読む。ローマ字表記でも、本人はそう書いている。しかし、星新一は「りょうせい」と発音していた。家庭内で本人を呼ぶ時は「おじいさん」であった。

・良精がドイツ留学する直前に血尿が出現した。泌尿器系の症状は、その後生涯つきまとうことになった。良精は留学前に小松八千代と婚約し、帰国後結婚したが、八千代は妊娠に伴った疾患で死亡した。小松家の親戚に当たる原桂仙は、北里柴三郎の留学についても色々運動をしていた。

・良精はドイツではワルダイエルに師事することになった。ワルダイエルは神経説を提唱し、ニューロンという語を生み出した学者である。さらにフレミングが発見した物質に対して染色体と名づけたことでも有名である。また、エールリッヒの師でもある。良精はまず鳩の眼球を用いて解剖学の手ほどきを受け、本格的な研究に進んだ。暇な時はオペラ「タンホイザー」や「カルメン」などを鑑賞にも出かけたりしていたらしい。

・良精はドイツ時代、ウィルヒョウと良く面会し、家庭に招かれもした。

・良精は帰国後帝国大学教授に任命された。明治 17年の東京地図では、東大構内のほとんどが空地で、数えるほどの建物しかなかったことがわかる。

・東大精神科初代教授は榊俶。良精とはドイツ以来の親友だった。41歳で死去し、遺言で解剖された。医学部の教授が死後体を解剖に提供し、剖検を受けるという慣習は、榊俶から始まったようである。

・良精は森鴎外の妹の喜美子と結婚した。彼らが東片町で住んでいた家は、後に長岡半太郎が住むことになった。

・良精はアイヌの研究をしていた。そして日本人のルーツはアイヌ民族と南方から来た民族との混合であるとの説を唱えていた。良精はアイヌのことをアイノと記載していたが、アイヌの人達の発音が「アイヌ」と「アイノ」の中間のように感じていたため。

・ウィルヒョウはアイヌ人の人骨を入手し、頭骨の後下方の穴を削って大きくした人工的な跡があることを 1873年のベルリン人類学会誌に報告した。良精が入手したアイヌ人の骨も同様であった。何故このようなものがみられるのかは不明であったが、釧路でその謎が解決した。アイヌ人の人夫が頭骨から脳髄を掻き出して食べるところを見かけたからであった。どうやら、梅毒の治療薬として人の脳を食べていたらしい (明治時代の出来事)。

・良精は、ドイツから森鴎外を慕って来日した女性と森鴎外の交渉役を務めた。ちなみに森鴎外の処女作は「舞姫」で、日本人留学生とドイツ人女性との恋物語である。

・良精は 34歳の頃、囲碁に熱中していた。36歳の頃、東大医学部長となり、雑務が増え囲碁どころではなくなった。衆議院の予算委員会に呼ばれて解剖体の数についての質問に答えることもあった。

・良精は 35歳のとき明治生命で保険に入ろうとしたが断られた。

・41歳のとき、医師の権利をまもる目的で医師会法案が提出されたが、良精は玉石混交の医師の会に法的地位を与えることに反対した。そのための文章を森鴎外に書いてもらった。その法案は衆議院を通過したが、貴族院で否決された。

・43歳のとき、パリでの万国医事会議に委員として参列することになった。それに際して、医学部の建築費を受け取り、医学部改築のための視察をヨーロッパ各地、アメリカに行った。この時野口英世にも会っている。

・原桂仙が亡くなった時、遺児の世話を北里柴三郎とともに行うよう遺言で頼まれた。

・明治 27年、香港でペストが流行した。そこで良精は臨床と病理部門から青山胤通、細菌学の部門から北里柴三郎を派遣することを決めた。北里柴三郎は患者や死者から一種の細菌を検出し、培養及び動物実験を行なってペスト菌と認定した。そしてランセット誌に発表した。青山胤通は感染し、死の一歩手前まで行った。

・北里柴三郎は留学から帰国した頃、伝染病研究所の設立を説いて回った。事態は進展しなかったが、福沢諭吉が土地建物の援助を申し出て、実業家の森村市左衛門が設備と危惧の資金を出したことがきっかけとなり、国家補助が決まった。北里柴三郎が所長で、その下に志賀潔 (赤痢菌を発見)、秦佐八郎が付き、野口英世も一時勤めた。ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所とともに世界三大研究所と呼ばれたが、大隈重信内閣が東大医学部付属にせしめたことから、北里柴三郎と弟子たちは辞表を提出した。北里柴三郎は北里研究所を設立。また慶応義塾大学に医学部をもうける計画が出ると、北里は主催者に推された。

・良精が肺炎になったとき、病院長三浦謹之助が診察し、絆創膏を脇腹にたくさん貼った。しかし同日午後青山胤通が午後診察し、はったばかりの絆創膏をびりびりとみんな剥がしてしまった。

・島峰徹は石原久教授との対立で東大を辞め、東京高等歯科医学校 (後の東京医科歯科大学) を創立した。

青空文庫に良精の作品リストというのがありますが、作業中のようです。気長に待つとします。

青空文庫 小金井良精

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名画の医学

By , 2013年4月17日 8:28 AM

数年前、滋賀医科大学麻酔科の横田敏勝先生のサイトについてお伝えしました。残念ながらそのサイトは現在閉じられています。サイトに書かれた内容を出版するなどという事情であれば良いのですが、そうでないとしたらもったいない話です。サーバーの問題なのであれば私が管理してもよいので、是非復活させて欲しいものです。

さて、横田先生が「名画の医学 (横田敏勝著、南江堂)」という本を出版されているのを最近知りました。早速読んでみました。

【主要目次】
第1部 病草紙を診る
1 白内障の男
2 歯の揺らぐ男
3 風病の男
4 肥満の女
5 霍乱の女
6 痔瘻の男
7 二形の男
8 陰虱をうつされた男
9 鍼医

第2部 泰西名画を診る
1 モナリザ
2 キメラ
3 ラス・メニーナス
4 アキレス
5 ヴィーナスの脂肪
6 思春期
7 病める少女
8 ポンパドゥール夫人
9 湯あみのバテシバ
10 鎖に繋がれたプロメテウス
11 メドゥサ
12 エビ足の少年
13 皇帝カール5世
14 愛の国
15 病める子
16 ヴィーナスの誕生
17 ペスト

各章、題材となる絵の写真があり、その後著者による考察が記載されています。

モナリザの章を例に挙げると、モナリザ妊娠説があるそうです。モナリザの輪郭が 24歳にしては母親じみていること、頸が太いこと (Gestational transient hyperthyroidismを疑わせる)、胸や手がふっくらとしていること、妊婦がよくする座り方をしていることなどです。断定出来るほど強い根拠ではないのですが、章の結びが洒落ていて「『女性を診たら・・・』の定石に従ったまでのことだ」としています。臨床現場では、見逃しを防ぐため「女性を診たら妊娠と思え、老人を診たら癌だと思え」という格言があるのです。

また、「愛の園」という章では、ルーベンスの「愛の園」という絵を扱っています。絵の中で踊っている初老の男性はルーベンス自身で、彼の持病である関節リウマチに侵された両手が描きこまれています。この絵の他にも彼の手が描かれたものがあり、辿ると彼の病歴がわかるようになっています。これらの絵は、関節リウマチの存在を示唆した歴史上初の作品とされているそうです。この絵はマドリードのプラド美術館にあるようなので、機会があれば是非一度見に行ってみたいです。

その他に、オスロ美術館にあるムンクの「病める子」は、結核に侵されて死期の迫った自身の姉と悲嘆にくれる叔母の姿を、「先立つ娘とその母親という、普遍的な人間の悲しみのテーマ」として描いたそうです。こういうことを知っていれば、2010年にオスロ美術館に行った時、もっと楽しめたのにと思いました。

絵画に興味がある方は本書を読んでみると面白いと思いますが、少しだけ残念なことがあります。一つは、1999年の時点で最先端の医学情報が書かれていて、最先端というのは年々古くなっていくことです。もう一つは、絵画に関した疾患を挙げたあと、絵画に関係ない疾患の解説が結構マニアックに続くことです。この点さえ気にならなければ、絵画の楽しみ方がまた一つ増えるに違いありません。

最後になりますが、姉妹図書として「名画と痛み (横田敏勝著、南江堂)」というのがあります。こちらも「名画と医学」と同様のスタイルになっていますが、扱う絵画が疼痛に関連したものに限定されています。併せてお薦めです。

(追記)

横田先生のサイト、アーカイブがあるとの情報を頂きました。

http://web.archive.org/web/20110207151436/http://www.shiga-med.ac.jp/~hqphysi1/yokota/yokota.html

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研究的態度の養成

By , 2013年3月30日 9:22 AM

これまで何度か寺田寅彦の随筆を紹介してきましたが、Twitterで随筆「研究的態度の養成」の存在を知りました。短い随筆ですが、素晴らしい文章だと思います。結びの文章、「現在の知識の終点を究めた後でなければ、手が出せないという事をよく呑み込まさないと、従来の知識を無視して無闇むやみに突飛とっぴな事を考えるような傾向を生ずる恐れがある」と言われると、結構耳が痛いです (^^;

結びの部分のみ引用しますが、下記リンク先から全文が読めます。

研究的態度の養成

これらの歴史を幾分でも児童に了解させるように教授する事はそれほど困難ではあるまい。かようにしていって、科学は絶対のものでない、なおいくらも研究の余地はある、諸子の研究を待っているという風にしたいと思うのである。ただ一つ児童に誤解を起させてはならぬ事がある。それは新しい研究という事はいくらも出来るが、しかしそれをするには現在の知識の終点を究めた後でなければ、手が出せないという事をよく呑み込まさないと、従来の知識を無視して無闇むやみに突飛とっぴな事を考えるような傾向を生ずる恐れがある。この種の人は正式の教育を受けない独創的気分の勝った人に往々見受ける事で甚だ惜しむべき事である。とにかく簡単なことについて歴史的に教えることも幾分加味した方が有益だと確信するのである。

(参考)

津浪と人間

科学者と芸術家

物理学者の心

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偉大な記憶力の物語

By , 2013年3月29日 8:25 AM

偉大な記憶力の物語 ある記憶術者の精神生活 (A.R.ルリヤ著、天野清訳、岩波現代文庫)」を読み終えました。ルリヤは歴史的に有名な神経心理学者です。

ここに登場するシィーは、著者が「文献に述べられたなかで最もすぐれた記憶力の持ち主」と評した人物です。シィーの記憶力は凄まじいものでした。例えば、次のような表を 3分間見せたとします。

024571218670X

8383390562621

6469280479950

651743132125X

この表を彼は軽々と再生しました。そればかりでなく、逆から再生、斜めに再生も問題なくできました。そして、数カ月後にも同じように再生しました。

その他、イタリア語を理解しない彼にイタリア語で「神曲 (ダンテ)」を読み聞かせたときも、彼はイタリア語で再生しました。15年後に予告なく再生を促した時も、それをそのまま再生したのでした。数学のでたらめな長い公式も、簡単に暗記し、15年後に聞いた時、そのまま再生できました。

このように忘却を知らない彼の記憶力の裏付けは、鮮明な直観像と共感覚でした。見たものを像として通りに配置し、その風景を覚えると、あとは脳内の通りを歩くだけで再生できたのです。音を味として感じ、数字が像として見える共感覚は、このような方法で覚えた記憶を強化するのに役立ちました。

ただし、彼のこの能力には欠点がありました。読むものが直ぐに像に置き換わってしまうため、抽象的な文章や詩が解釈できないのです。また、「無」のようにイメージ出来ない言葉が苦手で、「無限」という言葉も実感を持って理解できませんでした。

最初には超人のように見えた彼の能力をルリヤは鮮やかに解き明かしていきます。専門的な内容を平易に書いていますので、神経心理学に興味がある方は、是非読んでみてください。200ページくらいの薄い本です。

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人民は弱し 官吏は強し

By , 2013年3月18日 8:59 AM

人民は弱し 官吏は強し (星新一著、新潮文庫)」を読み終えました。

ショートショートでお馴染みの星新一が、父親星一について綴った著書です。星一がドイツの科学界に大きな寄付をした話は以前ブログで紹介しました。

星一は、製薬業で素晴らしい業績を残しましたが、まっとうに商売をやりすぎて、国と癒着した業者に潰されました。国を挙げての陰湿な会社いじめは、読んでいて背筋が寒くなります。大正時代には、明治政府が出来た時のような清々しい風はもう吹いていなかったのでしょう。また、今日の日本と違ってまだ民主主義として未成熟だったことがここまでえげつないイジメを生んだとも言えます。

 当時のような世の中で、権力を持った人間に賄賂を渡して癒着することを潔しとしなかったのが原因と言えばそれまでですが、彼の方が筋が通っているのは確かです。

 彼の息子の書いたこの本が、彼の無念をいくぶんかでも晴らしてくれるものだと信じます。大正時代にこんな話があったことを知って欲しいので、多くの方に本書を読んで貰いたいです。

最後に、本書で心に残ったエピソードをいくつか紹介しておきます。

太平洋を越え、やっとサンフランシスコの港にたどりついた時のことである。不慣れと興奮による心のすきにつけこまれ、知り合った在留邦人にだまされ、百ドルほどの所持金すべてを巻きあげられてしまったことがあった。星はその事件を回想し、あれもひとつの壁だったなと思った。悲観的な性格の者なら、領事に泣きついて船賃を借り、そこから引きかえしたかもしれない。しかし、すぐに職をさがし、いかにひどい仕事でもより好みせずに働くと決心することで、なんとか生き抜き、苦境を脱した。

やがて東部に行き、コロンビア大学に入学しようとした時もそうだった。どう働いても、授業料として必要な年百五十ドルがかせぎ出せない。その際は、講義を聞くのは半分だけにするから授業料を半分にまけてくれ、との案を持ち込んで交渉し、学校側を承知させた。卒業までに普通の二倍の年月を要してもいいとの覚悟で、なんとか壁を乗り越えた。あれはわれながら名案だったな。星は思い出し、楽しげに笑った。

これに類した体験は何回もあったが、いずれもなにかしら案を発見し、努力をおしまないことで道を切り開いてきた。これだけつみ重ねてくると、社会の原理のひとつと思えるのだった。絶対的な行きづまりの状態など存在しない、当事者がそう考えるだけなのだ、と。

その当時、野口 (※野口英世) は渡米十六年、老いた母にも会いたかったし、故郷に錦を飾りたかった。しかし、名声は高くても、彼は金銭に恬淡な性格のため、少しも金の用意がなかった。野口は星に<カネオクレ、ハハニアイタシ>と電報を打ち、星はそれに応じて送金をしたのだった。

「いや、あの金はきみのために出したのではない。きみの母上のためにしたことだよ。また、きみのあの時の帰国によって、日本人も学問への尊敬ということを感じはじめたようだし、努力さえすれば世界的な業績をあげうる国民だとの自信を持てた。金のことは気にせず、研究に精を出すべきだな」

「しかし、あの時のお礼をしたい気分だ」

「そんなことを言ったって、きみは依然として金銭に淡白だし、ニューヨークの盛り場の秘密の場所を案内する知識もないだろう。もっとも、ぼくは酒を飲まないから禁酒法の目をかすめてみても楽しくない」

「その通りだな。しかし、どうも気がすまない。ぼくにできるようなことで、なにか役に立ちそうなことがあったら、言ってくれ」

野口は困ったような表情で言った。星はしばらく考えてから言った。

「そうだな。できるものなら・・・・・・」

「なんだ遠慮なく言ってみてくれ」

「ちょっとでいいのだが、エジソンに面会できないものだろうか。あれだけ多くの発見をなしとげた人物に、拝顔しておきたいと思っていたのだ」

「なるほど、それならなんとかなるかもしれない。知りあいの学者を通じて連絡をとって、つごうを聞いてみるよ」

さいわい連絡がとれ、星は野口とともに約1時間、エジソンに会うことができた。この発明王は七十七歳になっていたが、白髪と、夢想家の目と、実際家の口もとを持つ、元気にあふれた人物だった。彼の口からは、早い口調で言葉が流れ出した。

エジソンは現在もなお、蓄音機や電池の改良に専心していることを語り、さらに今までとはまったくことなる分野へ挑戦しようとしている夢を展開した。フォードの依頼により、ゴムの問題を手がけているという。ゴムはアメリカ国内で産出せず、その供給の不安定を解決するため、同じ性質を持つ、ゴムにかわる物質を発見してみせるつもりだとしゃべった。そしてこうつけくわえた。

「利益よりも、まず公共のことを考えなければ物事はうまく運ばない。私は人類のために新しい富、新しい道具、新しい産業を創造しようとして働いているのだ」

話し好きな偉大な老人に、きげんよくまくしたてられては、星も野口もあまり口をはさめなかった。エジソンは別れぎわに、大きな自分の写真にサインをして二人に手渡してくれた。それには、名前のほかに<成功しない人があるとすれば、それは努力と思考をおこたるからである>と書かれてあった。

自分が倒れたら、半分は社員たちに、半分は債権者たちに提供するよう、書類も作成してあった。その保険の掛金を払戻してもらったのである。こうなると、死ぬこともできない。死はさらに大きな迷惑を他人に及ぼすことになる。

もはや、あくまで問題の解決に努力し、事業を復活させる以外に、なすべきことは残されていない。星は決意をさらにかためなければならなかった。

星は数名の社員を連れて保険会社に出かけ、その金を受取った。現金をいくつかにわけ、何台かの自動車に分乗し、会社へと持ち帰った。銀行が利用できないとなると、このようにして運ばなければならないのだった。また、星がまとまった金を手にしたとの情報がもれると、途中で、無茶な差し押さえをされないとも限らない。そんな場合、分乗していればつかまるのは一台ですむ。さいわい無事に帰りつくことができた。

情報が他にもれないですんだわけだが、同行した社員の口から社内に伝わった。とっておきの生命保険金を、払戻して支払われた給料であると。

これからの給料がどうなるのかわからないにもかかわらず、社員たちは星のために、自発的に金を出しあってくれた。千五百名の社員従業員たちが、少しずつの金を持ちよった。だが、星にさしだしたのではない。彼らは原稿を書き、その金とともに新聞社へ持っていった。広告を掲載し、社会に訴えようというのである。そして、それは紙面にのった。こんな文面だった。

<官憲はなぜ星社長を虐待するのでしょう。親切第一を主義とし、進んで社会奉仕をし、国家貢献をなさんと一生懸命に努力している社長の活動を、なにがために妨害するのでしょう。いったい、我々をどうしようというのでしょうか。社会を毒するのならいざ知らず、我々は政府から一銭の補助金も、一銭の低利資金ももらわずに・・・>(略)

かなりの長文ではあったが、どの行にも願いの叫びがこもっていた。読んだ者は、血がしたたるのを文面から感じたかもしれない。なかには、時事新報社の神吉広告部長のように「このような広告から料金は取れない」と、独断で無料掲載してくれた新聞社もあった。

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MUSICOPHILIA

By , 2013年2月24日 10:19 AM

音楽嗜好症 (オリヴァー・サックス著、大田直子訳、早川書房)」を読み終えました。

オリヴァー・サックスの書いた本を読むのは初めてでしたが、彼は独特の研究スタイルを持っていると感じました。多くの科学者は、間違いないと確認されたことを足がかりに次のステップに進んでいきますが、彼の場合はとりあえず正確かどうかは二の次にして手に入る限りの情報を集めて、その中からエッセンスを抽出する方法を取っているようでした。そのため、所々「本当にそう言い切れるのかな?」と感じさせる部分はありましたが、独自の視点で音楽について論じることが出来ていました。

本書は、音楽に対して医学的にあらゆる角度からアプローチしています。症例が豊富ですし、論理を裏づけるために引用した科学論文も膨大な量です (末尾に文献集があります)。

特に印象に残ったのはパーキンソン病と音楽療法についてです。日本では林明人先生が「パーキンソン病に効く音楽療法CDブック」を出されていますが、L-Dopa登場前に既に行われていて、大きな効果を上げていたことは初めて知りました。

また「誘惑と無関心」と題された、失音楽に関する章でイザベル・ペレッツの名前を見た時は驚きました。メールのやり取りをしたことがある研究者だったからです。この業界では有名人なので、登場してもおかしくはないのですが。

それと、ウイリアムズ症候群の患者達がバンドを組んでデビューしている話も興味深かったです。Youtubeで動画が見られます。

The Williams Five

5足す 3が出来ないくらいの mental retardationがありながら、プロの音楽家として立派に活躍しているというのは、音楽がそういうことは別に存在していることを示しています。

このように興味深い話題が豊富なのですが、内容をすべては紹介できないので、代わりに目次を紹介しておきます。本書がどれだけ広範な角度から音楽にアプローチしているか、伝われば幸いです。

序章

第1部 音楽に憑かれて

第1章 青天の霹靂―突発性音楽嗜好症

第2章 妙に憶えがある感覚―音楽発作

第3章 音楽への恐怖―音楽誘発性癲癇

第4章 脳のなかの音楽―心象と想像

第5章 脳の虫、しつこい音楽、耳に残るメロディー

第6章 音楽幻聴

第2部 さまざまな音楽の才能

第7章 感覚と感性―さまざまな音楽の才能

第8章 ばらばらの世界―失音楽症と不調和

第9章 パパはソの音ではなをかむ―絶対音感

第10章 不完全な音感―蝸牛失音楽症

第11章 生きたステレオ装置―なぜ耳は二つあるのか

第12章 二〇〇〇曲のオペラ―音楽サヴァン症候群

第13章 聴覚の世界―音楽と視覚障害

第14章 鮮やかなグリーンの調―共感覚と音楽

第3部 記憶、行動、そして音楽

第15章 瞬間を生きる―音楽と記憶喪失

第16章 話すことと、歌うこと―失語症と音楽療法

第17章 偶然の祈り―運動障害と朗唱

第18章 団結―音楽とトゥレット症候群

第19章 拍子をとる―リズムと動き

第20章 運動メロディー―パーキンソン病と音楽療法

第21章 幻の指―片腕のピアニストの場合

第22章 小筋肉のアスリート―音楽家のジストニー

第4部 感情、アイデンティティ、そして音楽

第23章 目覚めと眠り―音楽の夢

第24章 誘惑と無関心

第25章 哀歌―音楽と狂喜と憂鬱

第26章 ハリー・Sの場合―音楽と感情

第27章 抑制不能―音楽と側頭葉

第28章 病的に音楽好きな人々―ウィリアムズ症候群

第29章 音楽とアイデンティティ―認知症と音楽療法

謝辞

訳者あとがき

参考文献

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失語の国のオペラ指揮者

By , 2013年1月30日 7:29 AM

「失語の国のオペラ指揮者 神経科医が明かす脳の不思議な働き (ハロルド・クローアンズ著、吉田利子訳、早川書房)」を読み終えました。以前紹介した、「医師が裁かれるとき」という本と同じ著者です。

教科書では読めないような、神経学に関する話題が満載でした。どの話も面白かったのですが、「音楽は続く、いつまでも」というエッセイを読んだときには、電車内であったにも関わらず、「あっ」と声を上げました。なぜなら、「脳梗塞と音楽能力」でエントリーで紹介した患者のことが書かれていたからです。この本では患者は論文と別の名前になっていますが、明らかに同一人物です。著者は、担当医による紹介を経て患者に実際会っており、そのときのエピソードが綴られています。論文には記されていない裏話が満載です。

もう一つ紹介しておきたいのが「シーフ・リヴァー・フォールズの隠者 病気の名祖との最初の対面」というエッセイです。末梢神経障害、運動失調、網膜炎を症状とする患者を診療する機会があり、一年目の研修医であった著者は Refsum病と診断しました。そして、なんと名付け親となった Refsum教授が症例検討会に参加することになりました。Refsum病は、本来「heredopathia atactica polyneuritiformis (遺伝性失調性多発神経炎)」というラテン語名が正式名称です。Refsum教授は一度も “Refsum病” と口にしたことはなく、正式名称で呼んでいたそうですが、著者は「もし、新しい病気を発見して名前をつけることがあれば、正確ではあってもややこしいラテン語の名前をつけよう。そうすれば、すぐに名祖になれる。病名として名が残れば、十五分で忘れ去られることはない」と冗談めかして書いています。Refsum教授は巧みな問診で患者の生活歴を暴き、治療方針を立てました。Refsum氏が指示した治療、フィタン酸を多く含む木の実の摂取制限は有効だったそうです。

このエッセイ「シーフ・リヴァー・フォールズの隠者 病気の名祖との最初の対面」は、Sigvald Refsumが Georg Herman Monrad-Krohnと編集した教科書についてのエピソードで結ばれています。その教科書に掲載されている気脳図 (CTや MRIがなかった時代は、髄腔から空気を入れてレントゲンを撮り、空気が入った脳室の形を見て判断することがあったが、激烈な頭痛を伴い、しばしば命を落とす侵襲的な検査だった) は、ある有名政治家、ナチスに協力したクヴィスリンクのものらしいです。第二次大戦後、クヴィスリンクの異常な行為が疾患のせいではないことを確かめるため気脳図を撮られ、正常であることを確認後に銃殺されたそうです。どうやらその時の写真が正常像として教科書に使われたらしいのです。

余談ですが、ノルウェーがドイツに占領されていた時期、食料がドイツに送られ、国民が菜食を強いられました。そのため、Refsum病の原因となるフィタン酸が蓄積しやすい状況が作られました。Refsum教授が Refsum病を発見したのには、このような時代背景のため Refsum病の患者が増加していた事情があったようです。

私が師匠に Refsum教授の話をすると、師匠は彼が来日した際、講演を聞いて話をしたことがあると仰っていました。Refsum教授は素晴らしい紳士で、風格のある方だったらしいです。そして、Sigvald Refsumと Georg Herman Monrad-Krohnが纏めた教科書は素晴らしく、Parkinson病患者の表情の情動的不全麻痺の記載には感銘を受けたと仰っていました。

ちなみに、Refsumと Monrad-Krohnが編集した教科書は「神経疾患検査法 (医博 稲永和豊訳, 医歯薬出版)」として邦訳されています。邦訳版を手に入れたので、掲載されていた気脳図の写真を下に示しておきます。クローアンズの言うとおりなら、クヴィスリンクのものかもしれません。

あおむけの姿勢でとられた正常な気脳撮影写真

うつむけの姿勢でとった正常な気脳撮影像

正常気脳撮影写真側面像

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外来を愉しむ攻める問診

By , 2013年1月26日 7:49 AM

外来を愉しむ攻める問診 (山中克郎著、文光堂)」を読み終えました。

診察において問診は極めて重要で、問診のみでほぼ診断がつく病気は珍しくありません。診察や検査は、それを裏づけるための補助的なものにすぎないことはしばしばです。また、通常問診によって当たりをつけてから、行う検査を決定します。従って、問診の巧みさは医師の診断能力に直結しています。

本書は、主訴別に想定しなければならない疾患を挙げ、それに対する問診の仕方について、感度・特異度を織り交ぜながら解説しています。また頻度の少ない疾患であっても、見逃すと危険性が高い疾患をピックアップするテクニックも示されています。

内容が豊富で一度読んだだけでは消化できなかった部分があるので、時間をあけてから再度読みたいです。何度も読むだけの価値のある本だと思います。

なお、最近患者家族になった知り合いの先生曰く、「問診は時に侵襲的ですので、用法用量を守って正しくご使用ください」とのことですので、それは肝に命じておきたいと思います。

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医者が裁かれるとき

By , 2013年1月19日 9:43 AM

医者が裁かれるとき 神経内科医が語る医と法のドラマ (ハロルド・クローアンズ著、長谷川成海訳、白楊社)」を読み終えました。読み始めるとすぐに嵌ってしまい、一気に読了しました。

著者はシカゴのラッシュ-長老派-聖ルカ・メディカルセンター神経内科教授です。多くの裁判で専門鑑定人を務めています。その時の経験を中心に本に綴ったものです。

神経内科医としてはお馴染みの疾患がずらりと並んでおり、実感を持って読むことができました。「ヒステリーは難しい」というのは、改めて感じたところです。

驚いたことに、本書にギブズが登場します。ギブズは脳波研究で世界最高の権威の一人です。まさに歴史的人物です。この本を読んで知ったことですが、ギブズは医学部卒業後、臨床研修は行わず、すぐに研究室にこもってひたすら脳波を読み続けたそうです。患者を診察することはありませんでした。そのためか、訴訟において、「脳波のほうが臨床診断より有効だ」「もし脳波と臨床診断との間で違いが出たら、脳波をとる」と断言しています。現在ではそのような考えをする医師はまずいません。異常脳波で発作がないこともあるし、てんかん患者でも発作前後でなければ脳波で異常が見つからないことが少なくないことは、今日では一般的に知られています。著者は、一卵性双生児における遺伝性の小発作で、脳波所見が重篤な方が臨床症状は軽く、脳波所見が軽い方が臨床症状が重かった症例を経験しています。

本書は、読み物として非常に面白いので、一般の方にも是非読んで欲しいです。また、神経内科医なら読んで嵌ることを約束します。

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