南相馬市立総合病院の記録
医療ガバナンス学会に、「東日本大震災以後の当院」と題された文章が寄せられました。南相馬市立病院からです。震災後の貴重な記録ですので、様々な方に読んで頂きたいと思います。
医療ガバナンス学会に、「東日本大震災以後の当院」と題された文章が寄せられました。南相馬市立病院からです。震災後の貴重な記録ですので、様々な方に読んで頂きたいと思います。
バッハ・コレギウム・ジャパンが演奏する「J.S. バッハ:カンタータ集」を購入して聴きました。
聴いてみた感想は、良く言えば「落ち着いた演奏」、悪く言えば「ドキドキ感があまりない」といったものですが、この辺は好みでしょうね。カンタータなのでこう演奏されるべきものかもしれません。
この CDは震災義援プロジェクト作品で、印税収入が義援金として寄付されます。音楽を聴いて寄付まで出来る、一石二鳥の CDです (^^)
東日本大震災から一年が経ちました。
今夜は妹、その夫と自宅でしんみりと鍋でもして過ごす予定です。日本酒は用意しました。
【純米酒・吟醸酒】 東日本大震災鎮魂酒・復興祈願酒 慈・一セット (いつくしみ・はじめセット)
昼間はメータの第九を聴いて過ごします。
Zubin Mehta – Beethoven Symphony No.9 Choral 4th mov – Japan Earthquake Relief Concert
「石巻災害医療の全記録 (石井正著、講談社)」を読み終えました。著者は石巻赤十字病院で陣頭指揮を執った外科医です。
本書を読むと、石巻赤十字病院が修羅場のような被災地で如何に大きな存在であったかがわかります。しかし、これは周到な準備と、優れた指揮官、医療従事者や他業種の方々の尽力によるものでした。彼をサポートした災害医療の専門家達の力も大きかったようです。
もともと、震災が高確率で起こると予想されていた宮城県では、いくつもの対策がなされました。例えば、2006年5月に内陸部に移転した石巻赤十字病院は、免震構造であり、ヘリポートや被災者診療用の広いスペースを備えていました。石巻市では、2010年 1月 22日に石巻地域災害医療実務担当者ネットワーク協議会が立ち上がりました。さらに 2011年 2月 12日に著者の石井正先生が宮城県で 6人目となる「宮城県災害医療コーディネーター」に委託され、震災対策を次々と進めていました。こうした準備が、被災後に生きました。
本書には、震災に対する準備、発災直後の対応、トリアージタグ・疾患名・患者数の内訳など貴重なデータが満載です。また、「想定外」が多発したときにどのように対応していったかの詳細な記録が残されています。私は「自分だったらどうしていたか」をシュミレーションしながら読みましたが、考えさせられるところが多かったです。
本書は堅い話ばかりではなく、こんなイイ話もありました。著者には酒飲み友達のネットワークというものがあり、震災直後に NTTドコモショップ石巻店の店長が衛星携帯電話 2台、それらに優先的につながる携帯電話 10台を病院に持ってきてくれ、頼むとすぐに中継局を病院に作ってくれたそうです。積水ハウス仙台支店は被災後速やかにテントを病院の玄関前に設置してくれたとのことでした。
また、それ以外にも医療関係者以外の支援が大きかったことを感じさせるエピソードがありました。Googleの幹部クラスが病院を訪れてきて、何か出来ることはないかと言われ、結果として、避難所データの閲覧・検索ソフトを作ってくださったそうです。それも「Googleは社会貢献を旨としている会社です。支援活動で金を稼ごうなんて考えていません。金は別のところで稼げと社長にも言われていますし、それが社の理念でもありますから、ご心配なく」という言葉を残して、無料で。そして、Google社員のこの言葉に感銘を受けました。
どんな情報でも構いませんから、とにかく集めることができる情報はすべて集めてください。『これは必要ではないな』と思う情報でも構いませんし、『何が必要か』などと気にする必要もまったくありません。集まった情報を ”料理” するのはわれわれ専門家の仕事ですので、ありとあらゆる情報を集め、あとはおまかせください
石井正先生の母校の東北大学も石巻赤十字病院を支えました。石井先生は、東北大学病院の病院長から次のようなメールを受け取ったそうです。
石巻日赤からの大学病院への入院受け取りについては、従来通り対策本部一括で受け取ります。これまで同様にどのような疾患の患者が何人いるかを連絡していただければ、各科に個別に交渉する必要はありません。割り振りはこちらで行います。日赤の負担をできるだけ少なくすることが、今、大学病院にできる最大の貢献であるとの認識で一致していますから、どうぞ遠慮なく困ったときは一報入れてください。
実際、東北大学は専門に関係なく多数の患者を受け入れ、肺炎患者を泌尿器科で診ることもあったそうです。
いくつもの感動的なエピソードに、読んでいて何度も涙ぐみました。医学的知識が全く無くて読める本ですので、医療関係者はもとより、それ以外の方にも是非読んで頂きたい一冊です。
「東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり (井上和彦著、双葉社)」を読み終えました。自衛隊が震災後どのような活動をしてきたかが記してありました。初期の救出活動、それに引き続く復興への活動、原発事故対応、米軍との共同作戦・・・それぞれの現場で起こった感動的なエピソードが満載でした。
また、自衛隊の災害時の初動対処について書いてあったのがとても参考になりました。当該の部分を引用します。
現在、自衛隊は震度 5以上の地震が発生した場合、速やかに航空機などで情報収集することになっている。
たとえば、陸上自衛隊は、全国 157の駐屯地などを基盤として、出動命令の受領後 1時間を基準に出動できる即応体制を取っている。また海上自衛隊では、各地方総監部で初動対応艦 1隻指定しているほか、各航空基地では哨戒機および救難期機を待機させている。もちろん航空自衛隊も、救難機や輸送機を常に待機させるなど、発災と同時に即応できる万全の態勢をとっているのだ。
また、首都直下型震災の場合は、全国の部隊を迅速に首都に集中させるようになっている。
具体的には、陸上自衛隊は最大約 11万人、海上自衛隊は艦艇最大約 60隻と航空機最大約 50機、そして航空自衛隊は輸送機最大約 30機と救難機最大 25機、加えて偵察機最大 15機が集中投入されることになっているのだ。
残念だったのは、感動的なエピソードの羅列ばかりとなっていて、災害時の救助活動のノウハウがほとんど記載されていなかった点です。また、感動的なエピソードの後に「だから自衛隊は素晴らしい」というニュアンスの宣伝がくっついていたのが、押しつけがましくてやや興醒めでした。そんな宣伝つけなくても、自衛隊が如何に被災地で活躍していたかは、みんな知っているというのに・・・。
神経内科医の小鷹先生が大学病院をやめて南相馬市立病院に勤務することをお伝えしました。
しかし、市の対応は十分ではないようです。上昌広先生が、twitterでこんな呟きをされていました。
小鷹先生はそれなりの覚悟を持って行くのでしょうが、それに応える体制作りを考えていかないといけないと思います。
これまで、何度か小鷹昌明先生の医療ガバナンス学会への投稿をお伝えしてきました。
最新の文章によると、獨協大学医学部準教授の地位を捨て、被災地の病院に勤務することを選択されたらしいです。
一人の優秀な神経内科医がどのように考えてそのような道を選んだか、是非下記の文章をご覧下さい。
1週間前の 2月 11日で震災から 11ヶ月になりました。
イギリスのサイトで、11ヶ月間での被災地の変化を示した写真が掲載され、話題になっていたので紹介します。
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