Category: 東日本大震災

復旧した秋田新幹線を笑顔で迎えよう

By , 2011年8月11日 8:02 AM

FaceBookで「流しの家庭医」の先生から教えて頂いたのです、「復旧した秋田新幹線を笑顔で迎えよう――Twitterで広がった記念プロジェクト」というのがあったらしいです。

震災後、秋田の当直に行くのに新幹線がなくて本当に不自由しました。リンク先、感動的です。是非御覧ください。

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月のセレナーデ

By , 2011年6月13日 8:00 AM

2011年 3月 11日の震災で、三陸鉄道は大きな被害を受けました。

 全面復旧「諦めぬ」 三セクの岩手・三陸鉄道、社員力合わせ奮闘

2011.4.14 21:33

東日本大震災で沿線が壊滅的被害を受けた岩手県のローカル線「三陸鉄道」が、震災から1カ月あまりたった今も奮闘を続けている。「今こそ地域の足となる」。停電、通信断絶、駅消滅と数々の苦難を経験しながら、社員93人の力を合わせて地震発生後5日という早さで運転を一部再開。全面復旧に向け「諦めるわけにはいかない」と力を込める。被災地に希望を運ぶ列車を動かしたのは、四半世紀あまり前の開業時から運行を支え続けた鉄道マンたちの熱い思いだった。(市岡豊大)

「終わりなのか」

三陸鉄道は、国鉄民営化に伴って廃線予定だった路線を引き継ぎ、全国初の第三セクター方式の鉄道として昭和59年4月に開業。宮古-久慈間の北リアス線(71キロ)と、盛-釜石間の南リアス線(36キロ)に分かれている。

「こんなことは後にも先にもない。悪夢のような1カ月だった」。開業当時から三陸鉄道に携わる元県職員の望月正彦社長(59)が振り返る。

3月11日、宮古市内を大津波が襲った。宮古駅の本社は被害を免れたが、停電して通信は断絶。停車中の1両を動かして車内を対策本部とし、まもなく乗客と社員全員の無事を確認した。

本部内では社員約10人が“車中泊”しながら、24時間態勢で情報収集した。しかし、状況が明らかになるにつれて絶望感が漂った。「三陸鉄道はもう終わりなのか」。ある社員はつぶやいた。

2日後の13日、開業時からの社員で旅客サービス部長の冨手淳さん(50)は、望月社長と沿線の被害確認に出た。駅舎が付近の陸橋とともに丸ごと消えた島越駅(田野畑村)を見て絶句した。「あるべきものがない。ぞっとした」。線路上や駅構内にがれきが散乱し、復旧の厳しさを痛感した。

重い足取りの帰り道。2人は線路上を歩く被災者らを見て思い直した。「道は線路しかない。生活の足となるのがローカル線の使命だ」。開業当時の熱い思いがよみがえってきた。

再開へ人海戦術

南リアス線の釜石駅長で、開業時から在籍する菊池弘充さん(46)は苦悩していた。車庫がある盛駅の被害が大きく、同線の復旧のめどが立たないからだ。

「動かせるとこから動かそう」。菊池さんは早期再開の可能性がある北リアス線に向かった。作動しない信号機の代わりに、駅での到着・発車時の安全を手旗信号で確認する「人海戦術」に、南リアス線の社員も協力し、総出で当たることにした。「絶対に動かしてやる」という菊池さんの思いは、ほかの社員と一致していた。

北リアス線の復旧可能な区間の線路点検や砕石の補充を進めたが、最大の難題はがれきの撤去。望月社長は3月15日、山本正徳・宮古市長に飛び込みで直訴した。「あと1週間で(宮古駅から)走らせる。がれき撤去を自衛隊に要請してほしい」。山本市長は「あと1週間」という言葉に驚き、望月社長の顔を見たが、「分かりました」と応諾した。

地元とともに

思いを同じくする人は、駅の外にもいた。開業と同じ年に宮古駅前で魚料理店を始めた佐々木博さん(63)は、対策本部へ毎日弁当を届けた。「ともに歩んだ26年。三陸鉄道は街になくてはならない」とエールを送る。

地元の後押しもあり、3月16日の北リアス線・陸中野田-久慈間を皮切りに、宮古-田老間、田老-小本間の運転再開にこぎ着けた。現在は、宮古-小本間で1日4往復、陸中野田-久慈間で6往復を運行。制限速度も段階的に引き上げている。ただ、南リアス線は運転再開の見通しが立っていない。

全線復旧には数十億円規模が必要で、国の支援が前提となるが、先行きは不透明だ。それでも、望月社長は「何度も廃線の2文字が頭をよぎった。存続のためにも早期復旧が必要。諦めるわけにいかない」と話している。

復旧には膨大な資金がかかるそうです。

そこで、三陸鉄道のグッズを買って支援する動きがあります

先日、注文していた三鉄オリジナルラベルワインが届きました。製造はいわてエーデルワインです。おいしく頂きたいと思います。

興味のある方、ご注文はこちらから。

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第四次ボランティア @郡山

By , 2011年5月28日 10:18 AM

きっかけは郡山の医師「しゃんでりあの君」のツイートでした。

 家族を大阪に避難させるまであと10日。その間に当直三回、日直一回もある。最後の、家族四人揃ってる時間が仕事に喰われる

5月 29日、ボランティアで「しゃんでりあの君」の分の日当直をしてきます。当直料は被災された「しゃんでりあの君」に還元します。

奇遇なことに、27日に橋本会でハッシーと飲んだ時に、ハッシーも同じ日に被災地に行くと聞きました。岩手で家を流された方からのお願いがあったそうです。お互い頑張ります♪

折角なので、28日夜は郡山で福島県立医大の先生と飲む予定です。私自身、7週連続土曜日or日曜日当直 (うち 5件が東北地方) ですが、飲み会やら将棋やらで適度に息抜きがあるので何とかやっていけそうです。

最後に、29日に親友の馬券オヤジ氏と日本ダービーを一緒に見る約束をしていましたが、飛行機をキャンセルさせることになってしまいました。馬券オヤジ氏は事情を聞いて快く納得してくれましたが、御迷惑をおかけしました m(_ _)m

落ち着いたら馬券オヤジ氏を連れ、しゃでりあの君と信州旅行でもして、乗馬を教わりたいです。

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ふるさと

By , 2011年5月15日 10:41 PM

ドルトムントフィルハーモニーオーケストラが、東日本大震災でチャリティーコンサートを行い、そのときの動画を見ることが出来ます。

・「ふるさと」 ドルトムントフィルハーモニーオーケストラ

この曲、ウィーンのホイリゲで、ロマ(ジプシー)の演奏家から「何か弾いてみろ」って言われたときに弾いたなぁ・・・。

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ゴールデンウィーク

By , 2011年5月14日 4:35 PM

ゴールデンウィークが終わりました。といっても、終わってから結構時間経ってますけれど (^^;

今年はなかなか充実したゴールデンウィークでした。

5月2日
昼頃から郡山のビッグパレットふくしまに行きました。ビッグパレットふくしまには、原発周囲(主として富岡町、川内村)からたくさんの方が避難していました。同地区で働いていた医師の方が、避難所でも医師をしており、他にも、多くの方が、もとの職業を生かしてコミュニティーを作っている光景を見ました。

頼まれていた患者さんを診察してから、郡山時代の同僚達と郡山駅前の「寧々屋」に飲みに行きました。福島県立医大の某科の先生から、色々と興味深い話を聞くことが出来ました。

・震災後、放射能の専門機関から原爆事故が起こると聞かされた。教授が「常勤以外は避難しなさい」と言ったが、全員「残る」と答えた。
・最初のうちは気が張っていて、みんな気分が高揚していたが、交通網が復旧して避難できる環境になってくると、脱落者が出てきた。
・電気の復旧した地区、水の復旧した地区などがばらばらに存在していたので、みんな自分の提供できるものを提供していた。
・○○総合病院はほぼ崩壊してしまい、残った部屋で診療を続けた。比較的マシな部屋でさえ壁にはひびが入っていた。余震の中、恐怖があった。
・東京から戻ってきた教授が、医局員全員に買ってきてくれたカツサンドの味が忘れられない。

他に聞いた話もあったけれど、ここには書けません (^^;

寧々屋で東北の美味しい日本酒を頂いた後は、しゃんでりあの君の新居へ。向かう途中、駅前ローソンのドラえもんの人形に書かれた文章に感動しました。しゃんでりあの君は、地震で部屋が水浸しになり、今の家に引っ越したそうです。そして更に、現在は郡山の放射線量が高すぎるので妻子を大阪に避難させ、単身郡山で診療を続けています。

午前2時頃まで日本酒を飲んで、4人で色々語り合いました。最後は私が持ちネタ「シャラポワ風喘ぎ声」を披露し、みんなを寝かせませんでした v(^^)

5月3日
郡山から直接羽田空港へ行き、実家に帰りました。実家では鍋をつつきながら、親と酒を飲み、将棋を指しました。

5月4日
馬券オヤジ氏と鳥取県大山に出掛け乗馬。ゴールデンウィーク中は混むため乗馬レッスンはやっておらず、40分程トレッキングをしました。久々の乗馬だったので、最初は手綱の持ち方も忘れていたのですが、徐々に思い出しました。大山乗馬センターは親子連れの観光客で賑わっていました。

乗馬を終えた後は、島根原発に向かいました。島根原発の近くには、島根原子力館が建てられていて、原発のしくみの展示などをみることができました。実物大の燃料棒は、原子炉のイメージを持つ上でとても参考になりました。

シアタールームでは、島根原発の建設風景や内部の構造などを映画で見ることができました。短時間の映画が終わった後、館員が福島原発の問題についてパワーポイントで 1時間近く講義をしてくださいました。原発の構造、福島原発の現在の状況、島根原発の新たな対策など、とても勉強になりました。10人くらいしかいなかったのが残念でしたが、私ともう一人の客が、結構つっこんで質問しました。館員は「私の立場からは何も言えないんだけど・・・」と言いながら、「政府が情報開示をしないのはけしからん。県庁とか大きな部屋でマスコミ関係、医療関係ほか様々な業種を集めて会見して情報を全部出すべき」「東電のやり方も、もっと色々あると思うんだけど、手際が悪いなぁ・・・」とか、ちくちく本音が出ていました。館員によると、もっと色々な方に原子力館に聞きに来て頂いて、説明したいそうです。

島根原子力館の見学を終えてから、松江に行きました。駅前のホテルに宿泊手続きして、飲みに出掛けました。ホテル近くの 「Dinningなごみ」には、李白、七冠馬、死神、豊ノ秋、やまたのおろち、開春、高正宗、黒牛、月山、扶桑鶴、玉櫻・・・といった島根の地酒があり、いくつか飲みました。

5月5日
日本海に向かい、潜戸で遊覧船に乗りました。ちゃんとした船かと思いきや、小さな漁船のような船。日本海の荒波で凄く揺れました。天然に出来た穴を船で抜ける所があり、その日は高波で中止するとアナウンスがあったのですが、一転トライすることになり、熟練の船長の技術ですれすれで通過しました。通ったあとは拍手喝采でした。途中で船を止めて、有名な賽の河原に案内されました。

遊覧船を下りてから、境港に行き、昼食を食べて、蟹などを購入して帰宅しました。

自宅に戻ると、methyl先生から東北の日本酒が届いていて、日高見を美味しく頂きました。日本酒のラベルには「絶対負けない石巻」と書かれ、裏には下記の文章が書かれていました。

 日高見 震災復興酒 希望の光

このお酒は、平成23年3月11日(金)の東日本大震災によって被災したお酒です。純米酒を中心に大吟醸や純米吟醸など、発酵中のお酒が被害に遭いました。震災直後、仕込み蔵は地震の揺れの激しさから、発酵中の醪(お酒)がタンクから流れ、床一面、白い絨毯を敷き詰めたのかと、錯覚するような情景でした。溢れ出た醪は震災になり辺り一面に立ち込め、蔵の奥が良く見通せない状況で、目の前の光景を疑いました。そして、溢れ出た醪が発生している音なのか、今までに聞いた事の無いような音が蔵内にこだまし、まるで醪の悲鳴のようにも聞こえ、何とも言えない恐怖感を覚えました。建物のいたるところが壊れ、立ち入る事が困難になり、同時にライフラインが寸断し、発酵中のお酒の管理が出来なくなってしまいました。何の手立ても出来ず、ただ、呆然と指をくわえて見守る日々が続きました。一週間が過ぎても復旧の目処が立たず、発酵中の醪の全廃を覚悟しました。しかし、震災から二週間目、電気など一部ライフラインの復旧などが重なり、詰め掛けていた醪を、遂にお酒として甦えさせる日がやって参りました。ただ、放置している時間が余りにも長く、垂れ口から搾り出されるお酒の品質がとても心配でした。しかし、我々の心配をよそに、そのお酒はとても力強く生命力に溢れ、我々に勇気と希望を与えてくれました。

本来の酒造りでは、如何に良い酒を造ろうかと凌ぎを削りますが、このお酒からは普段の酒造りでは味わえない感動を貰いました。蔵の有る宮城県石巻市はこの度の震災で、壊滅的な被害を受けました。勿論、弊社も甚大な被害を受けました。しかし、被災した石巻市の惨状を見た時に、弊社は本当に生かされたのだと、強く感じるほか有りませんでした。

普段の生活では感じ得ない、感謝の気持ちを強く痛感させられ、造り酒屋として何か地域に貢献することは出来ないか、自然と、その様な気持ちが芽生えて参りました。そして、この気持ちを大事にしたいと考えるようになり、この被災したお酒を震災復興酒として販売し、少ない金額になりますが、売上金の一部を義援金として、私達の住む石巻市に献金したいと考えております。また、我々が励まされた、このお酒を通じて、御愛飲頂く全ての方々に希望の光をお送りする事が出来れば幸いに思います。

            (株)平孝酒造 亭主謹白

さっぱりとした飲みやすい出来映えでした。少し飲んで酔っぱらってから、日本酒片手に将棋。オヤジ相手に7連勝しました。「駒落ちはしない」「手は抜くな」と言われていたので、わからないように弛めようと思ったのですが、無理でした。さりげなく弛めるのにはテクニックが必要なんですね。

結局、親とその日のうちに 1升空けてしまいました (^^;

5月6日
昼前の飛行機で羽田空港に戻り、自宅に寄ってから、新幹線で仙台に向かいました。国分町で被災地で金を使うプロジェクト的な・・・一人飲みでした。東北の日本酒と海の幸を堪能しました。

5月7日
秋田で当直でした。時間があったので、朝から東北本線に乗って、鈍行で盛岡に向かいました。東北本線は、ボタンを押して電車のドアを開けるようになっていて、ヨーロッパの鉄道を思い出しました。ちなみに、私の地元岡山の電車は、手で開けるドアです (^^;

盛岡に着いてぴょんぴょん舎で焼肉や冷麺を食べて、秋田の当直先に向かいました。

当直では、「頭に虫がいる」という主訴の方がいらして、診察時は刺し口しか確認できなかったのですが、虫の写メを見せて貰うとツツガムシ!ミノサイクリンを処方して帰宅としましたが、貴重な経験をさせて頂きました。

5月8日
朝4時半くらいから CPAの対応。30分以上の Asystoleから何とか ROSC得られたのですが、遅れて駆けつけた遠い親戚から延命の希望がないと知らされ、治療を中断。8時頃にお看取りとなりました。

当直の帰りに、盛岡で下車して、「わんこ蕎麦」の店に入りました。2時間前に病院で検食していたことや、日本酒を頼んで出来上がっていたことなどが災いして、 102杯しか食べられませんでした。本当は「101匹わんちゃん」ならぬ「101杯わんこ」を狙っていたのですが、蓋を閉めるタイミングを逸しました。

ちなみに、15杯がそば1人前に相当し、店の記録は女性で 570杯くらいらしいです。後日、私のラボの痩せた女性は 120杯だったと教えてくれました。今度は空腹でリベンジしに行こうと思います。

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第三次ボランティア at 郡山

By , 2011年5月1日 8:14 AM

切ないニュースですね。

人目避け車内で寝泊まり パーキンソン病の双子

福島県郡山市の避難所で、ともにパーキンソン病の男性の双子が駐車場に止めた車内で、1カ月近く寝泊まりしていることが25日、分かった。2人は避難所で「歩き方が変」などと言われ、人目を避けるようになったと話す。

難病患者を支援するNPO法人「SORD」の小泉二郎代表は24日に2人を確認。「行政側はプライバシーに配慮し、避難所とは別の施設などで個室を用意すべき事案だ」としている。

パーキンソン病は、脳内の神経伝達物質ドーパミンが減少することで、手足が震えたり歩行が困難になったりする厚生労働省指定難病。

2人は同県富岡町に住む40歳の兄弟で、ともに20代半ばで発症したという。震災後、3月15日に郡山市のイベント施設「ビッグパレットふくしま」に両親とともに避難し、同月下旬までの10日余りを施設内で過ごした。

入所後、「あの人、歩き方が変だよね」と言う若い人の声が耳に入った。人目が気になり、睡眠不足も重なって兄の症状が悪化。このため3月20日、救護所で医師の診察を受けた。医師からは「1週間でも2週間でも入院した方がいい。郡山市内の病院の紹介状を書く」と言われたが、兄は「知り合いがいるこの避難所がいい」と断った。

弟はその後、救護所で「施設内でプライバシーなどに配慮した場所はないか」と相談したが「個別対応はできない」と言われたという。

結局2人は3月下旬、富岡町の自宅に軽ワゴン車を取りに戻り、その日以来、ビッグパレットの駐車場に車を止め、支給された毛布を持ち込んで寝泊まりを続けている。

救護所で兄を診察した医師は「『プライバシーに配慮した場所を』と言われた記憶も記録もない。保健師が言われたかもしれないが分からない」と話す。富岡町は「当時は大混乱しており、ご迷惑を掛けたかもしれない」としている。

(2011年4月25日)

切ないニュースですね。

さて、5月 2日、SORDからの依頼で、郡山の避難所に診察に出掛けることになりました。神経疾患で困っている方など診てきます。

出来れば、診察後、郡山で奮闘する先生達と飲みに行けたらなぁ・・・と思っています。

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第二次ボランティア at 渡波

By , 2011年4月29日 11:29 AM

報告が遅れましたが、4月 11~13日に石巻市渡波に、ジャパンハートのメンバーと共に行ってきました。


大きな地図で見る

渡波は、石巻市の東部に位置する、海沿いの地区です。津波で甚大な被害を受けました。この地区にある自民党のプレハブ選挙事務所を拠点に、診療所を開き活動をしました (選挙事務所は、津波で選挙が出来ない状況になって、候補者の方が貸してくださったのです。しかし、浸水したところをジャパンハートのスタッフが片づけてのスタートでした)。幸い、私が行く数日前に診療所に電気、水道が通っており、その恩恵を被ることが出来ました。

診療所では、意外と小児科の患者さんが多く、「専門的治療が必要なので石巻赤十字に行ってください」と言いたくても、受診患者さんの半数が車を失い、さらに石巻赤十字まで 10 kmくらいあるという状況の中での診療でした。

渡波から 10 kmくらいの距離にある女川に一度出掛けましたが、街の中心部は何もなくなっており、3階建てのビルの屋上に車が打ち上げられているなど、悲惨な光景でした。高台にある女川町立病院にも津波が押し寄せており、診療が出来る状況なのか凄く気になりました (2月21日から病院のサイトも更新されていません)。

今回は、行った期間が短かった (毎週木曜日が外来、土曜日が当直なので纏まった活動時間がとれない) ため、私は満足する活動が出来ませんでしたが、私と入れ替わりで戻ってきたナースは、10日間入浴もせずにぶっ続けで働いていたとのことで、頭が下がりました。

Golden weekは纏まった時間がとれそうなので、被災地に行こうかと思いました。しかし、多くの医療ボランティアが参加を表明しており、枠がありませんでした。多くの人がまだ「何とかしなきゃ」と思い続けていることを嬉しく思います。

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メータ

By , 2011年4月24日 2:15 PM

東北関東大震災被災者支援チャリティー・コンサートがネット配信されています。

東北関東大震災被災者支援チャリティー・コンサート (ネット配信は後日終了)

指揮はズビン・メータで、曲は「G線上のアリア (Bach)」「交響曲第九番 (Beethoven)」です。

動画から、演奏家達が自分たちにとって出来る精一杯のことを尽くしている様子が伝わってきました。メータの表情も、必死で悲しみを堪えて前に進もうとしているかのようでした。感動的な演奏で、何度も鑑賞しました。

放射線への危惧から、来日を取りやめる外国人が多い中、演奏家としての使命感を持って、タクトを振ってくださったメータに、感謝の意を伝えたいです。彼の挨拶にある「この偉大な国、日本を襲った未曾有の悲劇の後に、何かこの国の素晴らしい人々を助けられることがないかと考えておりました」という言葉から彼の人柄を感じました。

プロフィールを見ていると、メータは一時医学を志したことがあるそうですね。余談ですが、そのことでも少し親近感が湧きました。

 指揮:ズービン・メータ Conductor: Zubin Mehta

1936年、ボンベイに生まれる。有名なコンサート・ヴァイオリニストでボンベイ交響楽団の創立者でもあった父、メーリ・メータより最初に音楽の手ほどきを受けた。ほんの短期間ボンベイで医学部進学課程に籍をおいたものの、(略)

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Rescue 311

By , 2011年4月16日 9:30 AM

医療機関にアクセス困難な被災地の患者さんからの医療相談に答えるメールサービス「Rescue 311」。私も参加していて「中の人」ですが、答える側のシステム操作に慣れるため、トレーニング中です。

Rescue 311

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再び被災地へ

By , 2011年4月11日 8:33 AM

4月11~13日、再び被災地にボランティアで行ってきます。前回同様、本吉地区を中心に活動する予定ですが、状況次第で別の場所になる可能性もあります。  2週間振りになりますが、復興のムードが感じられれば幸いです。大きなことは出来ませんが、コツコツとやってきます。  本日 13時にジャパンハート事務局に集合して、出発です。

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