Category: 医学史

最近の医学論文 前編

By , 2016年11月23日 7:12 PM

ガイドライン作成、Cochrane review, 講演会の準備 (1ヶ月平均 2回)、編集中の雑誌の査読に追われ、さらに和文総説の依頼なども飛び込んできて、最新論文のチェックがかなり滞っています。特に講演会は毎回テーマが異なるのでゼロから作らねばならず、かつ 12月中旬の講演会は一人で 6時間神経疾患について喋らなければいけません。と、佐藤優のメルマガの冒頭のような言い訳から始まりましたが、今回は 2ヶ月分まとめ読みしました。全部要約すると膨大な量になってしまうので、さらりと触れる形で備忘録とします。それでも量が多かったので、2回に分けました。もっとコマメにやることができれば良いのですけれどねぇ・・・。

Diagnostic challenges and clinical characteristics of hepatitis E virus-associated Guillain-Barre syndrome (2016.11.7 published online)

Guillain-Barre症候群はさまざまな先行感染の後に発症することが知られています。しかし、E型肝炎についてはこれまで調べられていませんでした。著者らは 73名の Guillain-Barre症候群/或いはその variantに対して、E型肝炎の IgM抗体 (HEV-IgM) を調べました。すると、6名 (8%) で抗体陽性でした。そのうち 4名では ALTが正常上限の 1.5倍以上でした。一方で、ALTが上昇していた患者の側からみると、22名のうち 4名 (18%) で HEV-IgMが陽性でした。HEV-IgM陽性の 6名のうち 2名はサイトメガロウイルスや EB virusの抗体も陽性で、交差反応と考えられました。最終的に、4名 (6%) が、急性 E型肝炎に合併した Guillain-Barre症候群と推測されました。

HEVとGBS

HEVとGBS

肝機能障害を合併していたり、ちょっと特殊なタイプだったりする場合には、Guillain-Barre症候群の原因検索で HEV-IgMをチェックしてみるのはアリかなと思いました。

A clinical tool for predicting survival in ALS (2016.6.4 published online)

著者らは、575名の連続症例のデータを用いて、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の生存予測曲線を作成しました。Limb onset/bulbar onset, あるいはリルゾールの有無により解析しています。ただし、この疾患は個人差が大きいので、個々の症例に適用することは難しいかもしれません。

HIV-associated motor neuron disease (2016.9.24 published online)

以前、ALSと HERV-Kについて書きました。今回、著者らは HIVに感染後、運動ニューロン疾患を発症した 5名のうち 4名の血漿 HERV-Kレベルをモニターしました。抗レトロウイルス療法を受けた 3名は、発症から 6ヶ月以内に症状が改善し、残りの 2名は数年かけて進行しました。血漿 HERV-Kレベルは、抗レトロウイルス治療に反応して低下しました。

HIVで motor neuron diseaseのような症状が出ることがあるというのと、一部の患者では HIVの治療でそれがよくなることがあるというのは知っておこうと思いました。HERV-Kは HIVと同様にレトロウイルスなので、HIVの治療は HERV-Kのウイルス量も減らすのでしょうね。HERV-Kは HIVの Tat蛋白で活性化されるとのことですが、詳細なメカニズムの解明は、今後の研究を待ちたいと思います。

Influence of cigarette smoking on ALS outcome: a population-based study (2016.9.21 published oline)

喫煙が ALSの予後に与える影響についての研究です。生存期間の中央値は、現在の喫煙群で 1.9年、過去の喫煙群で 2.3年、非喫煙群で 2.7年でした。COPDは予後不良の独立した因子でした。

ALSと診断されたら、好きなことをさせてあげれば良いと思っているのですが、思ったより生存期間に差がついていてビックリしました。

Fully implanted brain-computer interface in a locked-in patient with ALS (2016.11.12 published online)

筋萎縮性側索硬化症で閉じ込め症候群となった 58歳の女性患者の硬膜下に電極を植込み、検出される脳の電気活動を用いて、コンピューターを操作してもらう研究が発表されました。電極は左運動野の手の領域に埋め込まれ、また運動野が ALSで侵されるリスクがあるため、左前頭前野にも埋め込まれました。トレーニングの末、彼女は右手を動かすイメージを思い浮かべるなどして、コンピューターを操作できるようになりました。Surface Pro 4で動くプログラムを用いて、自宅用のシステムも作られたそうです。

これまで意思の疎通がとれなかった患者が何を考えているかというのは研究者として興味がありますし、患者の側としても自分の意図を伝えられるというのは凄く大きいですよね。こういうデバイスが臨床現場に普及してくればと思います。

Masitinib in Amyotrophic Lateral Sclerosis (ALS) (2016.4.11)

ALSに対するチロシンキナーゼ阻害薬 Masitinibの承認審査を欧州医薬品庁(EMA)がはじめたそうです。

Polypharmacy in the aging patient (2016.5.8 published online)

糖尿病患者の血糖コントロールを強化した場合、微小血管障害のアウトカム改善は 9年目以降に現れるようです。また、血糖コントロールの強化により重篤な低血糖リスクは 1.5~3倍になります。65歳以上の多くでは、HbA1c  7.5%未満或いは 9%以上だと害がメリットを上回る可能性があります。メトホルミンのように低血糖リスクが低い薬剤で、むしろ HbA1cの下限を決めて治療するのが良いかもしれません。治療薬比較の表が纏まっています。メトホルミンは心血管イベントや死亡を減らし、安く、血糖降下作用も大きいのですね。ただし、腎不全、非代償性心不全には使えないのと、副作用としての消化器症状に注意する必要があります。

glucose-lowering-medication

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Calcium supplementation and risk of dementia in women with cerebrovascular disease (2016.8.17 published online)

カルシウム補充療法を受けている女性では、特に脳卒中の既往があったり画像での白質病変がある場合、脳血管性認知症あるいは混合性認知症のリスクが高まるかもしれないという研究です。

論文の limitationにも書いてありますが、症例数が 98名と研究の規模が小さいことや、観察研究で様々な交絡因子があることが予想されることから、この研究の結果だけでものを語るのは危険だと思いました。

Cancer association as a risk factor for anti-HMGCR antibody-positive myopathy (2016.10.7 published online)

抗HMGCR陽性ミオパチー (anti-3-hydroxy-3-methylglutaryl coenzyme A reductase autoantibody-positive myopathy) は、スタチン内服との関連がこれまで指摘されていました。しかし、今回のケースシリーズでは、抗HMGCR陽性ミオパチー 33名中 12名 (36%) に癌が見つかりました。一方、スタチンを内服していたのは 21%でした。癌が見つかった患者のうち、92%はミオパチー診断の 1年以内に癌が見つかり、83%は進行癌で、75%は 2.7年以内に癌で死亡しました。

抗HMGCR陽性ミオパチーを見つけたら、癌の存在を考える必要があるのですね。勉強になりました。

Clinical relevance of microbleeds in acute stroke thrombolysis (2016.9.14 published online)

脳梗塞の超急性期治療で rt-PAによる血栓溶解療法を行う時、MRIの T2*や SWIで画像上の微小出血 (microbleeds) がある患者では治療によって出血リスクが増えないのか、私は以前から気になっていました。

著者らは meta-analysisを行い、microbleedsがあると rt-PAによる症候性出血リスクは増加する (OR 2.18; 95% CI 1.12~4.22; p=0.021) ことを明らかにしました。症候性出血は、microbleedsがあった場合 5%, なかった場合 3%でした。なお、rt-PA療法を受けた患者のうち、miclobleedsがあったのは 24%でした。Microbleedsがあると、rt-PAによる出血リスクは増えるけれど、許容範囲内だろうと著者らは判断しています。

Time to treatment with endovascular thrombectomy and outcomes from ischemic stroke: A meta-analysis (2016.9.27 published online)

2015年頃から、虚血性脳卒中に対する血管内治療の良好な成績が相次いで報告されています。使用デバイスの進歩が寄与するところが大きいと推測されています。発症から治療までの経過時間が予後に与える影響について、5つの RCT (MR CLEAN (2015), ESCAPE (2015), EXTEND-IA (2015), REVASCAT (2015), SWIFT PRIME (2015)) を統合して解析したメタアナリシスが報告されました。血栓溶解療法 (rt-PA) に血管内治療を追加すると、血栓溶解療法単独に比べて 3ヶ月後の障害が減少しましたが、発症 7.3時間以降の治療では両群に有意差はありませんでした。治療開始あるいは再灌流の達成が遅れる程、治療効果は悪くなる傾向がありました。

Early start of DOAC after ischemic stroke (2016.9.30 published online)

非弁膜症性心房細動を合併した虚血性脳卒中において、いつから抗凝固療法を始めて良いかはよくわかっていません。そこで、著者らは抗凝固療法を 7日以内に始めた群と、8日以降に始めた群で比較しました。

治療薬の選択に関しては、204名の患者を 4群に分け、リバロキサバン、ダビガトラン、アピキサバン、ワルファリンとしました。NOAC/DOACの早期開始群と後期開始群では、NIHSS 1 vs. 7と早期開始群の方が有意に軽症でした。Follow up期間中に、脳出血を着たしたのは 1例だけでした。その患者は、入院時ワルファリンを内服しており、INR 1.7, NIHSSは 8点でした。入院後、ワルファリンは中止され、発症 4日後に再開されました。その翌日に症候性脳出血を起こし、その時の INRは 1.8でした。NOAC/DOACを内服していた患者で脳出血を起こした患者はいませんでした。虚血性脳卒中再発は、早期開始群 5.1%/y, 後期開始群 9.3%/yで有意差はありませんでした。著者らは、虚血性脳卒中の早期に抗凝固療法を始めても、脳出血を起こすリスクは低いと結論しています。

非常に興味深い問題に取り組んだ研究だと思います。しかし、前向きコホート研究なので、早期開始群と後期開始群の割り付けが無作為化されておらず、早期開始群に軽症患者が偏っています。ある程度の重症例に抗凝固療法をいつから始めたら良いかという、最も知りたい疑問を明らかにしてくれる研究デザインではありませんでした。残念です。例えば、NIHSS 1点で画像での梗塞巣が小さいなら、私は躊躇なく早期から抗凝固療法を始めています。

Stroke, bleeding, and mortality risks in elderly medicare beneficiaries treated with dabigatran or rivaroxaban for nonvalvular atrial fibrillation (2016.11.1 published online)

高齢者を対象として、非弁膜症性心房細動にダビガトラン (150 mgを 1日 2回) を使用した場合とリバロキサバン (20 mgを 1日 1回) を使用した場合を比較したコホート研究。後ろ向きコホート研究で、ベースラインは propensity scoreで調整しました。

リバロキサバンは脳塞栓症の減少においてダビガトランと有意差がなく、有意に脳出血、頭蓋外出血を増やしました。また、有意差はないものの、リバロキサバンの方が死亡が多い傾向にありました (HR, 1.15; 95% CI, 1.00-1.32; P = .051; AIRD = 3.1 excess cases/1000 person-years)。特に、75歳以上、あるいは CHADS2 score 2点以上では、リバロキサバンはダビガトランに比べて有意に死亡が増えました。

これはかなり深刻な報告だと思います。リバロキサバンにとってはかなりネガティブなデータです。

Bridging anticoagulation before colonoscopy: results of a multispecialty clinician survey (2016.9.14 published online)

ワルファリンを内服している患者が下部消化管内視鏡受ける時、ワルファリンを中止するとともにヘパリン投与 (heparin bridging) をしたほうが良いかは議論があります。2015年に NEJMに掲載された RCTでは、heparin bridgingで脳梗塞は予防できず、むしろ出血性合併症が増えたという結果でした。実際の現場ではどうしているかを調べたのが今回の研究です。リスクが高くなるに従ってヘパリンを使用する割合は高くなり、中等度リスク (CHADS2 = 3) であっても脳梗塞の既往がある場合は使用することが多いという結果でした。また、診療科により heparin bridgingを行うかどうかにばらつきがありました。

2015年の RCTの結果はともかくとして、リスクが高いと思ったら heparin bridgingはしている人が多いんですね。

Cardiac magnetic resonance imaging: a new tool to identify cardioaortic sources in ischaemic stroke (2016.9.22 published online)

脳梗塞の原因検索で心臓や大動脈を評価するのに MRIを用いる方法の総説。まだ研究段階のようです。

Medical management of intracerebral haemorrhage (2016.11.16 published online)

脳出血の治療についての総説です。現在進行している臨床試験が表になっています。トラネキサム酸や鉄のキレート剤などが含まれていますが、ワクワクする臨床試験はあまりないなぁ・・・と感じました。急性期の降圧については ATACH-IIや INTERACT2が代表的な RCTですが、表があるともっと読みやすかったと思います。

Ticagrelor versus clopidogrel in symptomatic peripheral artery disease (2016.11.13 published online)

虚血性脳卒中の急性期治療でアスピリンに勝てないばかりか呼吸苦での中断も多いチェーンストークス呼吸の原因となりうるといったネガティブなニュースが最近目立つ Ticagrelorですが、このたび ABI 0.8以下の症候性末梢動脈疾患患者を対象に、Clopidogrelとの比較試験が行われました。一次エンドポイントは心臓血管死、心筋梗塞、虚血性脳卒中の複合エンドポイントで、両群間に有意差はありませんでした (Ticagrelor 10.8%, Clopidogrel 10.6%)。出血性合併症も有意差はありませんでしたが、Ticagrelor群の方が副作用による治療中断が多く、その原因が呼吸苦の副作用であった患者は Ticagrelor群全体の 4.8%にものぼりました。

鳴り物入りで登場した Ticagrelorですが、心筋梗塞の治療以外の活躍の機会は今のところあまりなさそうな印象を持ちます。

Effects of ischaemic conditioning on major clinical outcomes in people undergoing invasive procedures: systematic review and meta-analysis (2016.11.7 published online)

周期的に非致死的な虚血を血管床に導入することで、心筋虚血、急性腎障害、脳卒中を含む障害を軽減する “ischaemic conditioning” という手法があります。虚血性心疾患、脳卒中、心臓手術、移植、急性腎障害などで臨床研究がおこなわれているそうです。著者らは、その効果についてのメタアナリシスを行いました。その結果、一次エンドポイントである死亡は、行った群と行わなかった群で有意差がありませんでした。また、アウトカム別では、急性腎障害で唯一有意な治療効果がありましたが、軽症例に限るものと推測されました。脳卒中は治療効果がある傾向はみられましたが、統計学的に有意ではありませんでした。

ischaemic-conditioning

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Carpal tunnel syndrome: clinical features, diagnosis, and management (2016.11.15 published online)

Lancet Neurologyに掲載された手根管症候群の総説です。神経伝導検査の診断精度については、まず通常の正中神経の運動/感覚の検査を行い、それが正常であれば比較法 (書いていないけれどおそらく 2L-INTや ring finger method) を追加した場合、感度 80~90%, 特異度 > 95%とのことでした。また、最近流行りの神経超音波の診断精度は meta-analysisでは感度 77.6%, 特異度 86.8% (gold standardは臨床所見) でした。直接比較ではないですが、神経伝導検査の方が特異度が高いというのは感覚に合致します。治療として手根管開放術の合併症は 1~25%, 重篤なものは 0.5%未満でした。Common diseaseなのでチェックしておきたい総説です。

Prevalence of polyneuropathy in the general middle-aged and elderly population (2016.9.28 published online)

論文の図を見ると、年齢とともに末梢神経障害が増えることが、一目瞭然です。

prevalence-of-polyneuropathy

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後編】へ続く。

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解体新書展

By , 2016年3月24日 10:53 PM

2016年3月20日秋田県での当直を終えて、そのまま東京に向かい、東京文庫ミュージアムで解体新書展を見てきました。

解体新書展

解体新書はマイブームです。それは、最近岩田誠先生のコラムを読んだからです。

・骨ケ原刑場跡と観臓記念碑

・杉田玄白の足跡

これらのコラムを読んで、いくつかの本を買って読みました。なかでも感銘を受けたのは小川鼎三が著された「解体新書 蘭学をおこした人々」です。小川鼎三先生は、ターフェルアナトミアの原著と杉田玄白らの「解体新書」の読み比べをしているんですね。例えば、下記のようなことは、読み比べをして初めてわかるものです。

蘭学事始にはその次に鼻がフルヘッヘンドしているという文にぶつかり、皆がたいへん苦労してフルヘッヘンドの意味をつかもうとしたことが載っている。良沢が長崎で入手してきた簡略な小冊子を参考にして、やっとその訳をウズタカシ(堆)ときめた。その着想を玄白が言いだして皆がそれに賛成した。「その時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり」と玄白は述懐している。

むつかしい語を解いたときの愉快は大きかったであろう。ただ今日ターヘル・アナトミアの鼻のところをみても、フルヘッヘンドとかいう語 (verheffendeか) がない。「突出している」の意味では vooruitsteekendの語がそこでは用いられている。あるいは玄白の記憶ちがいかと思う。なにしろ蘭学事始を書いたときの元伯は八十三歳で、四十年あまり前の思い出を述べているのだからまちがいも起るだろう。

小川鼎三先生の著書では、解体新書の扉絵がどこに由来するか調べていたり、解体新書の翻訳に関わった人たちのその後について詳細に述べていたり、その研究の深さに驚かされます。

さて、今回の解体新書展、解体新書についての展示はそれほど多くありませんでしたが、古事記から解体新書前後までの日本の医学史を俯瞰することができ、とても勉強になりました。展示は 4月10日までですので、興味のある方はお早めにどうぞ。ちなみに、向かいの六義園は桜が咲き始めでした。今週末あたりは花見が楽しめるのではないでしょうか。

(追記)

2014年12月28日、「形影夜話」が入手できないかと書きましたが、入手することができました。「日本の名著22」に杉田玄白の書いた「蘭学事始」「後見草」「野叟独語」「犬解嘲笑」「形影夜話」「玉味噌」「耄耋独語」などが収載されています。

(参考)

津山洋学

医学用語の起り

医は忍術 (違

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The principle of Baillarger-Jackson

By , 2015年6月30日 1:08 AM

物の名前を聞いても答えられない失語症の患者さんが、日常会話だと喋れてしまうことがあります。日常臨床では割と普通に見かけることですが、この現象に名前が付いていることを Alajouanine先生の論文で最近知りました。

Baillarger and Jackson: the principle of BaillargerJackson in aphasia.

Baillargerはパリのサルペトリエール病院の医師です。Baillargerは、ある単語を発音しようとしてもできないのに、やろうとしなければ出来てしまう現象を記載しました。これに眼を止めたのが、Jacksonてんかんなどで名を残した Queen Squareの医師 Hughlings Jacksonです。Jacksonは、さまざまな調子で ”yes” “no” などの発話ができる失語症患者について、感情的言語は保たれているが命題的機能が欠けていること、時々行なわれる発話に次の 3つの状態があることを見出しました。すなわち 「(1) 感情に支配された、会話ではない発話 (“oh”, “ah” など), (2) 会話ではあるが下位の発話 (”merci”, “good-bye” など), (3) 知的な価値を持った真の会話」です。鋭い観察に基づくこれら異なった状態の分析が、発話障害におけるジャクソンの生理病態学的解釈の基本でした。

この論文著者の Alajouanine先生は、次のような症例の体験を記載しています。ある失語症患者に娘の洗礼名を質問したのですが、その患者はうまく答えられず、娘に向かって「ねぇ、ジャクリーヌ (※洗礼名)、私はあなたの名前を思い出せないのよ」と。意図しても出てこないのに、感情に支配されたシチュエーションでは、このように簡単に出てくるものなのですね。この症例では、本人がそのことに気付いていないのが興味深いです。

高次脳機能の分野は非常にマニアックなので、なかなかこうした領域の論文を読む機会は少ないのですが、あまり気に留められないこの現象をジャクソンが追求していたことを知って、新たな発見がありました。

(参考)

歌を忘れてカナリヤが

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アルツハイマー

By , 2015年5月1日 10:25 PM

アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の奇跡 (コンラート・マウアー/ウルリケ・マウアー共著, 新井公人監訳, 喜多内・オルブリッヒ ゆみ/ 羽田・クノーブラオホ 眞澄訳)」を読み終えました。

この本は、東京時代の医局の学問仲間有志が私の送別会をしてくれたとき、先輩がプレゼントしてくださいました。背表紙には、その送別会の参加者全員が寄せ書きをしてくれて、「先生には色々と教えて頂きました。下ネタも含め、勉強になりました」など、心温まるコメントがたくさんありました。

思えば、神経内科医の多くは外来ではしょっちゅうアルツハイマー病の診断を下しているのに、この疾患の歴史も、そしてアルツハイマーのこともほとんど知りません。ちゃんと知っておく必要があるという、先輩からのメッセージなのでしょう。バタバタしていて、頂いて 1ヶ月ほど経ちましたが、やっとこうして内容を纏める時間が取れました。アルツハイマーの人脈の広さ、研究範囲の広さ (アルツハイマー病で知られていますが、神経梅毒の研究で素晴らしい仕事を残しています) など、初めて知ることが多くて色々と新鮮でした。本書から抜粋して、彼の生涯を簡単に纏めます。

1864年6月14日、アロイス・アルツハイマーはエドゥアルド・アルツハイマーとその妻テレージアの次男として生を受けました。生家はマルクトブライトのヴュルツブルク通り 273番地でした。10歳の時、アルツハイマーは教育上の都合でアシャッフェンブルクに引越しました。1882年、アルツハイマーの高等学校卒業試験の一年前に、母が 42歳で亡くなりました。アルツハイマーはコッホに憧れ、高等学校卒業後の 1883~1884年、ベルリンに旅立ち、フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の職員・学生として登録されました。その際に、ゴッドフリード・フォン・ワルダイエル教授の講義と解剖実習に出席しました。1884年夏からはヴュルツブルク大学で学びました。1886年10月にテュービンゲンのエーベルハルト・カール大学に移りましたが、1887年に再びヴュルツブルク大学に戻り、1888年、医師国家試験に「最優秀」の成績で合格しました。

「アッフェンシュタイン精神病者の城」とも呼ばれたフランクフルト市立精神病・てんかん病院 (フランクフルト精神病院)  の初代院長は、絵本作家としても知られているハインリッヒ・ホフマンでした。ホフマンが 79歳で病院を退いた後、エミール・シオリが就任しました。シオリは 254人の患者を一人で抱え込むほど多忙でした。人手不足ということもあり、アルツハイマーの願書が届いたその日に、シオリは電報で採用通知を送り返しました。アルツハイマーは 1888年12月19日に助手として採用されました。そしてまもなく、1889年3月18日に、フランツ・ニッスルが主任医師として赴任してきました。ニッスルはニッスル小体、ニッスル染色などに名を残しています。ニッスルとアルツハイマーは仲が良い仕事仲間でした。

アルツハイマーは 1894年にヴィルヘルム・エルプ (Erb点などで有名) からの依頼で、ダイヤモンド卸売業者オットー・ガイゼンハイマーの診察をすることになりました。ところが、ガイゼンハイマーは、アルツハイマーがドイツに連れて帰ろうとする途中で息を引き取りました。アルツハイマーが未亡人のセシリー・シモネッテ・ナタリエ・ガイゼンハイマーの世話をしているうちに、二人は結婚することになり、アルツハイマーの親友であるフランツ・ニッスルが立会人の一人となりました。ニッスルはアルツハイマー夫妻の娘ゲルトルーデの洗礼立会人でもあります。しかし、1901年、セシリーは扁桃炎から関節や腎臓の障害をきたし、死亡しました。フリッツ・クリムシュが、後にアルツハイマーも眠ることにもなるフランクフルト中央墓地の墓を制作しました。クリムシュはウィルヒョウの記念碑を委託されたときも、セシリーの墓石とよく似たものを制作したそうです。奇しくもアルツハイマーが、最初のアルツハイマー病患者「アウグスト・D」と出会ったのも、この 1901年でした。

アルツハイマーは、1901年にハイデルベルクで員外教授になっていたニッスルの誘いもあり、1903年3月にフランクフルト・アム・マイン市立精神病院の第二医師を辞職。ハイデルベルクのクレペリンの元に移りました。そしてクレペリンがミュンヘンから招聘を受けたので、同年10月にミュンヘンに向かいました。ミュンヘンでは、三人の子どもと、妻の代わりに子供の面倒を見ていた妹のエリザベート「マーヤ」と同居しました。マーヤは、1909年7月1日ツェッペリンの飛行船の乗員のひとりとして、約 12時間の飛行に参加したそうです。アルツハイマーがミュンヘンで教授資格論文に取り組んでいた時代、精神病院に入院する患者の約 3分の 1が梅毒による進行麻痺でした。

1906年4月9日、フランクフルト精神病院の研修医がアルツハイマーに電話をかけ「アウグステ・Dが昨日亡くなった」ことを伝えました。アルツハイマーはかつての上司シオリにカルテ、脳を提供して欲しいと頼み、1906年11年テュービンゲンで開催される第 37回精神科医学会でこの症例を発表することにしました。アルツハイマー、ペルシーニ、ボンフィグリオによる分析の結果、大脳皮質全体に斑状の独特な物質代謝産物の沈着が認められ、血管の増生が確認されました。アルツハイマーはこれを単に plaques “斑” と記載しました (“訳者註:アルツハイマー病の病理学的特徴の一つである老人斑を指している。老人斑は、ブロックとマリネスコにより一八九二年に記載された。本書に見られるようにアルツハイマー自身は単に Plaquesと記載しているので「斑」と記す。また、アルツハイマーはレンドリッヒが一八九八年に老人斑という語を最初に記載したと述べている”)。この学会には、ビンスワンガー病に名を残したビンスワンガーや、クルシュマン―シュタイネルト病 (筋強直性筋ジストロフィー) に名を残したクルシュマン、デーデルライン桿菌に名を残したデーデルライン、その他メルツバッハ―、ユング、ガウプ、ブムケなどが参加していました。アルツハイマーの発表後、質問は一つもなく、会議録には「短い研究報告には適していない」と記されました。しかし、講演の全文は 1907年、「精神医学及び司法精神医学」に “大脳皮質の特異な疾患について” というタイトルで発表されました。アルツハイマーは、1907年に亡くなった B・Aや Sch.L、1908年に亡くなった R・Mにも斑を見つけました。

1912年、アルツハイマーはブレスラウのシレジア・フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の精神科正教授として招かれました。1912年8月にアルツハイマーはミュンヘン中央駅からブレスラウに旅立ちましたが、旅路で病に倒れました。クレペリンは「新しい勤務地に向かう途中、腎炎及び関節炎を伴った感染性扁桃炎にかかり、それ以降立ち直ることはなかった」と述べています。アルツハイマーが赴任した病院の初代院長はハインリッヒ・ノイマン、二代目院長はカール・ウェルニッケ、三代目院長はカール・ボンヘッファーで、アルツハイマーが四代目でした。アルツハイマーの同僚の一人はオットフリード・フェルスターであり、晩年レーニンを治療するためにロシアに派遣され、その主治医となりました。また別の同僚は、後にアルツハイマーの娘婿となるシュテルツでした。シュテルツはノンネ・マリーの下で助手を務めたことがありましたが、ノンネはノンネ―マリー病 (現在のマシャド・ジョセフ病) に名前を残した神経科医でした。

1915年12月19日、アルツハイマーは家族に囲まれて 51歳の生涯を閉じました。

本書は、人物の写真、病理標本のスケッチ、アルツハイマーが使用していた道具の写真など、資料が豊富ですし、文章が読みやすいです。帯に「伝記」と書かれている通り、医学的知識のあまりない一般人でも普通に読むことができます。アルツハイマーに興味を持った方は、是非読んでみて頂きたいと思います。

以下、備忘録として覚えておきたい部分を抜粋しておきます。

・アウグステ・Dや他の多くの不安定な患者の治療に際して、睡眠薬は、しかし、非常に重要であった。医師は患者に二~三グラムの抱水クロラールを与える。それはある程度意識の混濁をもたらすが、より持続的で静かな睡眠を約束するのである。抱水クロラールを受け付けなくなると、精神病院ではパラアルデヒドを用いる (※当時の医療)。 (43ページ)

・エドゥアルド (※アルツハイマーの父) は一年間喪に服した後、亡くなった妻の妹と結婚した。(51ページ)

・この生家 (※マルクトブライトにあるアルツハイマーの生家) は、アメリカの製薬会社イーライリリー社が購入した後、本書の著者ウルリケ・マウラーの指導の下に改修された。一九九五年一二月一九日、アロイス・アルツハイマーの没後八〇年を記念して一般公開され、現在、記念博物館として、また、医学セミナーなどのセンターとして利用されている。 (51-52ページ)

・アルツハイマーがベルリンにやってくる直前の一八八二年に、コッホは人型結核菌を発見したのである。結核は今日、西側諸国ではあまり見られなくなったが、この時代には重大な病気の一つであり、人々を脅かした。一八八〇年当時、ドイツでは死者の七人に一人は結核で亡くなり、一五歳から四〇歳までに限ると二人に一人がこの病気に罹患して死亡した。 (62ページ)

・(ヴュルツブルク大学時代) アルツハイマーにとって重要だったのは、彼に顕微鏡の魅力的な世界を紹介した組織学者、アルベルト・フォン・ケリカー教授との繋がりを作ることであった。ケリカー研究所には後日ノーベル賞を受賞したアルフォンソ・コルチとフランツ・フォン・ライディッヒ等の有名な研究者が働いていた。彼らは器官と細胞組織に自らの名前を付与した。すなわち、内耳の蝸牛にある感覚器官であるコルチ器と、男性ホルモンを分泌する睾丸にあるライディッヒ間質細胞である。 (66-67ページ)

・彼 (※アルツハイマー) は好きな自然観額を断念することができなかったため、フリードリッヒ・コールラウシュのもとで物理を聴講した。彼 (※コールラウシュ) の名は電気工学のパイオニアとして有名で、コールラウシュの法則と呼ばれる電解質の当量伝導率を定める法則を発見した。 (67ページ)

・(アルツハイマーは) ヴュルツブルク時代には、賭けに負けて冬のマイン川を泳ぎきったことで有名であったが、テュービンゲンでは、夜中に警察署の前でどんちゃん騒ぎをしたため三マルクの罰金を科せられ、大学の会計に支払った。 (69ページ)

・標本作製に当たり、当時フランクフルトに病理学の分野で二人の一流の研究者がいたことはアルツハイマーにとって大きな助けになった。一人はカール・ワイゲルト、もう一人はルードヴィッヒ・エディンガーである。ワイゲルトは一八八五年四月一日よりフランクフルトのゼンケンベルク病理学研究所の所長であった。最新の優れた組織病理学の研究方法を学びたい者は、ワイゲルトがいる病理学研究所を訪れなければならなかった。そこでは最良の「割断と染色」法を学ぶことができた。アニリン核染色法をはじめ、多くの染色方法の発見は彼に負うこと大である。(102ページ)

・一九世紀最後の年のフランクフルト精神病・てんかん病院の発展については次のように報告されている。「ここ数年は院長を除いて四人の医師が常勤していたが、医師一人で八五名の入院患者と二四〇名の外来患者を診察していたことになる」 (130ページ)

・睡眠薬や鎮静剤が必要な場合、トリオナール、パラアルデヒド、クロラールが使用された。てんかん患者には臭素塩、また、アヘンと臭素を混合したフレクシッヒ療法がよく用いられ、うつ病にはアヘンとヒオスチンが頻繁に使われた。ヒオスチンはアヘンアルカロイドの一種で、通常皮下に注射され、特に高度の不穏患者や観念奔逸患者に用いられた。 (144ページ)

・(ニッスルの元上司で、国王ルードヴィッヒ二世とともに湖で溺死した) フォン・グッデンの解剖学質教室では、ニッスルと共に S・J・M・ガンザ―も働いていた。いわゆる仮性痴呆はガンザーの名に因んで、後日ガンザ―症候群と名付けられた。患者は、耐えられない状況に陥ったとき、窮地に陥って間の抜けた話をし、見当外れの態度をとり、無知と見せかけ、まるで精神病患者のような反応を示す。フォン・グッデンの研究室では、エミール・クレペリンも一八八四年から一八八五年まで勤務していた。 (161ページ)

・病院内でも、アルツハイマーはどんなに仕事に集中していても、冗談を受け止め、洗練されたユーモアのセンスを持っていた。孫の一人は次のように話している。「それは、ミュンヘンのヌスバウム通りにある病院の謝肉祭でのことでした。突然一人の貧しい行商人が現れました。彼はおもちゃを一杯入れた箱を首から掛けて、中の商品を売ろうとしました。しかし、そこは商売禁止で、病院の従業員は怒って営業禁止を言い渡し、アルツハイマー教授を呼んでくると言ってほどしました。ところが、『その必要はない』と行商人がいたずらっぽく笑うのです。そして仮装を脱ぎ始めると、皆は大笑いせずにはいられませんでした。アルツハイマー教授自身が行商人だったのです。おもちゃは小児患者に配られました。プレゼントすることは彼にとっていつも大きな喜びだったのです」 (192ページ)

・(ミュンヘン時代の) アルツハイマーの生徒の中には、後にその分野で有名になった学者が多くいる。スペイン人の N・アチュカロ、イタリア人のフランシスコ・ボンフィグリオ、そして、アメリカ人のルイズ・カサマジョアなどもその中に入っている。ボンフィグリオは一九〇八年に初老期痴呆の症例を発表しクレペリンの興味を引いた。イタリア人のウーゴ・ツェルレッティは一九三八年 L・ビニとともに、痙攣を誘発する電気ショックで初めて電撃療法の時代を開拓して世界的に有名になった。一九三六年、彼はローマ大学精神神経科教授となった。他にも世界的に有名になった研究者にハンス―ゲルハルト・クロイツェルトとアルフォンス・ヤコブがいる。後にこの二人の名前を取ってクロイツフェルト―ヤコブ病と名付けられた病気は、プリオン病の一種である。この病気はチンパンジーに伝染し、潜伏期間一年を経て症状が現れる。ダニエル・ガイジュセックはこの発見で、一九七六年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。コンスタンティン・フォン・エコノモ・フォン・サン・セルフ男爵の名は、第一次世界大戦後に広がった流行性脳炎に付与された。その後、彼は中脳に “睡眠調節中枢” を発見している。F・ロトマーはスイス出身で化学実験室を指導した。テュービンゲンとブエノス・アイレス研究したルードヴィッヒ・メルツバッハ―はペリツェウス―メルツバッハ―病を発見した。F・H・レビーの名から、パーキンソン病で重要な役割を果たす “レビー小体” の名が付けられた。特に強調しなくてはならない人物はガエタノ・ペルシーニである。彼はアルツハイマーと共同研究をし、共著も出版した。有名なアウグステ・Dの症例は、一九〇九年ペルシーニによって大変詳細に再発表された。彼は “アルツハイマー” の名称が全世界に広まるのに大きな貢献をした。(中略) 偶然にも、彼らは死亡日もほぼ同じという共通点がある。ペルシーにはアルツハイマーが亡くなる一週間前、第一次世界大戦で負傷した兵を助けようとして自分も致命傷を負い、一九一五年十二月八日に三六歳の若さで亡くなった。 (194-196ページ)

・(※クレペリンは自らが主催した生涯教育コースについて) 「コースの中心は私が企画した臨床講義であったが、その他、アルツハイマーが精神病の病理解剖学について、テュービンゲンのブロードマンは大脳皮質の局所解剖について、ベルリンのリープマンとチューリッヒのモナコフは交互に局在問題を、リューディンは遺伝と変性の学説を、プラウトは血清学、アラースは代謝検査を解説した。その間、私自身は臨床実験精神医学の概略を述べた。このコースの参加者は四〇~五〇任に達し、大半は外国人の参加者で占められていた。彼らはこのコースに大変満足した。」 (202ページ)

・アルツハイマーは経験豊かな神経科医であった。穿刺針を用いて脳脊髄液を採取する腰椎穿刺の手技に習熟しており、「形態上の相違を見分けるために、脳脊髄液中の細胞を満足のいくように固定する」ことの難しさを知っていた。彼は一九〇七年、神経精神医学中央雑誌に「脳脊髄液中の細胞成分固定のための方法論」として、研究成果を発表した。彼が存在を予想していた形質細胞がハッキリと確認された。(209ページ)

・マドリッド出身の組織病理学者で、当時ワシントンの国立精神病院の研究室で客員医師として働いていたゴンザロ・R・ラフォラ博士は、米国人のアルツハイマー病初報告を記載している。 (310ページ)

・一年後 (※1926年) にグリュンタールは「老年痴呆に関する臨床病理学的比較研究」と題する別の発表を行った。七〇歳以下を対象に入れなかったが、それは真のアルツハイマー病患者が含まれないということである (※アルツハイマー自身は、アルツハイマー病を若年性痴呆として報告していたため)。またもやグリュンタールは殆ど予言的な結論に達している。「アルツハイマー病に対する鑑別診断に関しては組織学的な相違はほとんどないと言える。臨床的にも老年痴呆のある例では、年齢的な違いを除いて、軽度および中等度のアルツハイマー病と全く区別することができない。しかし、アルツハイマー病では言語障害―特に喚語困難―がしばしば初期症状となるが、老年痴呆では重度の場合でも稀にしか出現しないという本質的な相違はあるように思える」 (315ページ)

・「アルツハイマー病」の病名が世界的に容認された一九八〇年半ばになっても、アウグステ・Dの診断を疑問視する声があった。その多くは、動脈硬化症か、または稀な神経疾患ではないかと推測するものであった。しかし一九九八年四月のフルクフルター・アルゲマイネ紙の学術欄の中で、アロイス・アルツハイマーの正当性が立証された。「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断に誤りはなかった。彼が診断したアウグステ・Dは、実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた。マルティンスリードの研究者は、ずっと行方不明になっていた脳標本を最近偶然発見した。その標本には特徴的な神経原線維変化とアミロイド斑が見られた。血管性痴呆の徴候はなかった。」 (334ページ)

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L-dopa

By , 2014年12月30日 10:34 AM

パーキンソン病の第一選択薬の L-dopaが臨床的に用いられるようになって約 50年ということで、Movement disorders誌で特集が組まれていました (2014年12月30日現在、early viewで読むことができます)。L-dopa開発において、歴史的に重要な 4名の研究者についての文献を紹介したあと、興味を持った論文にリンクを貼っておきます。

Four Pioneers of L-dopa Treatment: Arvid Carlsson, Oleh Hornykiewicz, George Cotzias, and Melvin Yahr

L-dopa治療の 4人のパイオニアについて。四人とも medical doctorであり、最初の 3人は薬理学のトレーニングを受け、研究も薬理学におけるものであった。4人目は臨床神経内科医である。

1. Arvid Carlsson
インドシャボクの根は、市場で寄生虫、下痢、精神病の治療薬として売られていた。Siddquiらは 1939年に降圧作用を報告し、それは Vakilにより確認された。1950年代初旬には、Ciba研究所がインドシャボクの根からレセルピン、ヨヒンビン、アジュマリンなど多くのアルカノイドを分離し、レセルピンを降圧薬 Serpasilとして販売した。レセルピンは統合失調症や躁うつ病のような精神疾患にも臨床研究が行なわれ、用いられるようになった。それらが一般的に用いられるようになってから時を経ず、自殺やパーキンソン病様症候群の報告が相次いだ。
Carlssonはレセルピンの鎮静作用に興味を持ち研究を始めた。彼はドパミンが脳内に十分な量存在し、それがレセルピンで著明に減少すること、ドーパが正常レベルまで回復させることを確認した。1957年にレボドパがレセルピンによる寡動を改善することを動物実験で示したのは、彼の最も重要な実験である。彼はドパミンが神経伝達物質であることを主張した。彼の元で学んでいた学生 Bertlerと Rosengrenはウサギの線条体に多量のドパミンが存在することを示した。Carlssonは 2002年にノーベル賞を受賞した。

2. Oleh Hornykiewicz
Hornykiewiczは医学部卒業後、薬理学の研究に向かった。彼は Carlssonらの研究に刺激を受け、パーキンソン病患者のドパミンレベルを研究した。彼は遺体の脳を得て、パーキンソン病患者の線条体ではドパミンが著明に減少していることを 1960年に報告した。彼はパーキンソン病患者の重症度と、線条体のドパミン消失の程度が相関することを報告した。1960年11月に Hornykiewicsは内科医の Walther Birkmayerに連絡を取り、Hoffmann La Rocheから提供された L-dopaを投与する研究を1961年7月から開始することにした。Birkmayerは L-dopa 50~150 mgを生理食塩水に溶解し、パーキンソン病及び脳炎後パーキンソニズムのボランティア 20名に投与した。結果は印象的であり、Birkmayerと Hornykiewiczは、後に次のように書き残している。
「L-dopaの単回静脈内投与で無動は完全に消失するか、大幅に改善した。起き上がることのできなかった寝たきりの患者、座った時に立てなかった患者、立った時に歩けなかった患者が、L-dopaを投与すると楽に出来るようになった。彼らは正常な動きで歩きまわり、走ったりジャンプしたりさえ出来た。小声でよく聞き取れない発語は、正常者のように力強く明瞭になった。短時間の間、彼らは運動をすることができたが、これは他のどのような薬剤でも出来なかったことである。」
L-dopaは初回量から効果があり、寡動に対する効果は 3~24時間継続したと報告された。振戦や筋強剛に対する効果は明らかではなかった。MAO阻害薬 isocarboxazidの前投与で、抗無動効果は延長した。これらは最終的に、遺体の脳における線条体のドパミン欠乏の報告の 11ヶ月後に報告された。
その後、Rudolf Degkwitzもレセルピンによるパーキンソニズムに対する L-dopaの効果を報告し、ほぼ同じ時期に Barbeau, Sourkes, Murphyが L-dopa 100~200 mg経口投与 2時間後の筋強剛が改善すること、D-dopaでは改善しないことを報告した。
2000年に Arvid Carlsson, Paul Greengard, Erick Kandelにノーベル賞が贈られた後、250名以上の著名な科学者が Hornykiewiczが外れていることについてノーベル賞委員会に公開質問状を送った。

3. Geroge C. Cotzias
1966年に George Cotziasはパーキンソニズムのある患者に、最初は D, L-dopaを、最終的に L-dopaを漸増して経口投与した。この実験は、D, L-dopaの 2時間毎の内服を少量で開始し、数週間かけて認容可能な上限まで漸増することで、患者の運動症状や障害の改善に著明な効果がある、という素晴らしい結果に終わった。結果は 1967年の New England Journal of Medicineに掲載された。Nutritional Biochemicals Corporationは、 D-dopaは毒性がラセミ体混合物 (D-dopaとL-dopa)の 50%だが、治療効果がないことを発見した。D-dopaに効果がないのであれば L-dopaのみとすることで投与量を半分にすることができ、その分副作用を軽減させることができる。Cotziasらは、パーキンソン病における L-dopaの長期治療効果を発表した。これらの発見により、1970年に FDAは L-dopaをパーキンソン病の治療薬として承認した。Guggenheimがこのアミノ酸を空豆から分離した約 60年後のことであった。
ちなみに、この研究は試行錯誤の末に生まれたもので、パーキンソン病患者の黒質緻密部ではメラニンを欠くので、それを補充しようとして beta melanophre-stimulating hormoneを投与して、患者の皮膚が黒くなった失敗もあった。
1963年に Bartholiniらが Ro 4-4602が少量で末梢でのドーパ脱炭酸酵素を選択的に阻害し、それをドパミン前駆体 L-dopaと共に投与することでドーパの脳への移行を高めることを見出していた。Corziasらは、alpha-methyldopa hydrazine (carbidopa) を 1968年に使い始めた。Alpha-methyldopa hydrazineを併用することで、症状をコントロールするための L-dopaは少量でよく、効果発現も早く、心血管や胃腸への副作用も少なかった。しかし、L-dopa誘発性低血圧、不随意運動、精神症状には効果がなかった。1972年の Corzias の New England Journal of Medicine論文 “Levodopa in Parkinsonism: potentiation of central effects with peripheral inhibitor” により、L-dopaを末梢ドーパ脱炭酸酵素阻害薬と併用することが一般的になり、現在でもそうされている。彼は L-dopaの効果を高めるため、末梢組織で O-methyltransferase を阻害することも提唱し、現在使用されている Catechol-O-Methyl transferase阻害薬が開発されることとなった。
Cotziasらはまた、L-dopa誘発ジストニアの最初の報告をしている。彼らは L-dopaをやめるとジスキネジアが消失し、再導入するとまた出現することを見出した。
Cotziasらは、apomorphineの研究も行い、その数年後の apomorphine皮下注射製剤開発につながった。この製剤を通じて、Cotziasは最初の経口 apomorphine、ついで N-propylnoraporphineの研究を行うようになった。
Cotziasは James Ginosと共に、合成ドパミンと同じようにドパミン受容体に作用するドパミン類似物を研究した。これらの研究は、別の研究者による piribedilや bromocriptine、その他のドパミンアゴニストの開発につながった。

4. Melvin D. Yahr
Yahrはモンテフィオーレ病院の Houston Merrittのもとで神経学を学んだ。そしてMerrittがコロンビア大学の神経内科部門の責任者になったとき、Yahrはそれに加わった。Yahrがコロンビア大学で fellowshipプログラムを始めたときの臨床 fellowが Margaret Hoehnで、Hoehnはコロンビア大学で治療を受けているパーキンソン病患者数百人の臨床データの評価を命じられた。Hoehnと Yahrは L-dopa前時代におけるパーキンソン病患者の自然経過と死亡率を記載した。その論文で彼らが紹介した、パーキンソン病のステージ分類である Hoehn-Yahr scaleは、今日でも広く使用されている。
Yahrは Ehringerと Hornykiewiczによるパーキンソン病患者での線条体ドパミンレベルの低下について、また Birkmayerと Hornykiewiczによる L-dopa投与でのパーキンソン病患者の劇的な改善についての報告を知っていた。しかし、効果が無いという報告も複数あるなど、L-dopaの効果については意見が分かれていた。Cotziasらが 1967年に報告した研究は、印象的な抗パーキンソン病効果を示したが、D, L-dopaを 4-18 g/day内服するなど高用量であり、吐気や血液学的異常やアテトーシスなどの副作用のある治療レジメンであった。この結果にも関わらず、Yahrは自分の目で確認するまでは懐疑的であり続け、その後 L-dopaに対する治療の潜在的な重要性を確信するようになった。Cotziasらの研究はオープンラベル試験であり、Yahrはその限界に良く気付いていて、プラセボ効果や効果判定へのバイアスがあるのではないかと思った。この問題を解決するために、Yahrは二重盲検法プラセボ対象前向き臨床試験を行うことにした (※パーキンソン病における最初のプラセボ対照試験)。この試験では、60名のパーキンソン病患者 (56名の特発性パーキンソン病患者と 4名の症候性パーキンソニズム) が4~12週間入院し、プラセボないしはプラセボ+L-dopaを投与量毎に毎日 5~10錠内服した。その後、プラセボ錠は、至適効果が得られるまで 24~48時間毎に 0.5 gの L-dopaに置き換えられた。患者は、L-dopaは総量 8 g/日、もしくは認容できない副作用が生じるまでの量を内服した。治療効果のあった 9名のサブグループでは、L-dopaが急に中止されてプラセボに置き換えられた。入院中、患者は各種評価を受けた。また、退院後、4~12ヶ月間外来でフォローされた。
この研究では、49名 (81%) が二重盲検期間中に著明な治療効果を経験し、4名を除く全員 (91%) が 4ヶ月の治療で少なくとも 20%の改善を認めた (平均 59%の改善)。改善は、パーキンソン病の全ての運動症状に及んだ。治療効果は治療約 2~3週間後に投与量が 5 g/日となったところで始まり、投与量、治療期間と共に増した。L-dopaからプラセボに置き換えられて約 2日間で治療効果は消失した。吐気、嘔吐、不整脈、低血圧が主な急性期の副作用であったが、これらは通常自然に消失した。対照的に、慢性的な治療は 37名に不随意運動を引き起こした。著者らは、L-dopaはパーキンソン病に対して効果的であり、それまで行なわれていた他のどんな内服治療や手術療法にも優ると結論づけた (Yahr MD, Duvoisin RC, Schear MJ, Barrett RE, Hoehn MM. Treatment of parkinsonism with levodopa. Arch Neurol 1969;21:343-354)。
こうして、L-dopaの時代が到来した。臨床医は、Cotziasの 1967年と 1969年の報告、Yahrの 1969年の報告を元に、パーキンソン病の治療に L-dopaを使い始めた。数年以内に、ほとんどの患者が L-dopa治療を受けるようになり、現在世界で数百万人のパーキンソン病患者がこの治療の恩恵を受けている。

L-dopa開発の歴史は、朧気ながらどこかで読んだことがありましたが、このように詳しく読むのは初めてだったので、勉強になりました。Yahrの業績は、Hoehn-Yahr scaleくらいしか知りませんでしたが、この時代にきちんとしたデザインの臨床試験を組んで薬剤の評価をしていたのは素晴らしいことだと思います。

(以下、その他に興味を持った論文)

Mortality in Parkinson’s disease: A 38-Year Follow-up Study
38年間のフォローアップで、パーキンソン病の標準化死亡比は 2.02であった。死因は肺炎、脳血管障害、心血管病が多く、SMRsはそれぞれ 3.55, 1.84, 1.58であった。

Behavioral Effects of Levodopa
近年、L-dopa誘発性行動障害が問題になっている。そのスペクトラムに含まれる、非運動症状の日内変動の神経心理学的側面、反復常同行動、ドパミン調節障害、精神症状と幻覚、軽躁/躁、衝動制御障害についての総説。

Clinical Spectrum of Levodopa-Induced Complication
L-dopaの副作用についての総説。レボドパ誘発性合併症の危険因子、臨床像 (motor fluctuations (wearing-off, sudden offs, dose failure, on-off fluctuations), Levodopa-induced dyskinesia (high-dose dyskinesia, chorea, dystonia, myoclonus, ocular dyskinesia, respiratory dyskinesia), low-dose dyskinesia (off-period dystonia, diphasic dyskinesia), non-motor fluctuations (autonomic symptoms, sensory symptoms))。

Levodopa: Effect on Cell Death and Natural History of Parkinson’s Disease
L-dopaに神経毒性があり、神経変性や臨床症状を促進するのではないかという議論が昔からなされている。確かに in vitroでは L-dopaは神経細胞の変性を引き起こすが、パーキンソン病患者の脳で同じことを起こすかどうかはわかっていない。In vivoにおいては、L-dopaがパーキンソン病動物モデルのドパミン作動性神経へ毒性を持つという結果は観察されていない。しかしながら、これらの動物モデルはパーキンソン病を忠実に再現したものではない。臨床試験では、毒性を示唆するいかなる所見も得られていないが、薬剤の効果が進行している神経変性をマスクしている可能性がある。さらに画像検査において、L-dopaではプラセボやドパミンアゴニストと比較して、ドパミン作動性の機能が大きく低下することが知られており、毒性があるという考えに合致する (ELLDOPA trial) (ただし、受容体のダウンレギュレーションを見ている可能性は否定出来ない)。病理学的には、L-dopaがドパミン作動性神経細胞の脱落を促進するという事実は知られていないが、バイアスを排除したきちんとした試験デザインにより得られた所見ではない。このように、L-dopaに毒性がないという確固たる根拠はないのが現状である。従って、臨床医は (その有用性のため) L-dopaを継続することが推奨されるものの、臨床的に満足にコントロールできる最小の量を用いられるべきである。

The medical treatment of Parkinson disease from James Parkinson to George Cotzias
Parkinson病の治療法開発の歴史。

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蘭学事始

By , 2014年12月28日 8:13 AM

蘭学事始 (杉田玄白著, 片桐一男訳, 講談社学術文庫)」を読み終えました。

杉田玄白が日本の蘭学黎明期を綴った、あまりにも有名な本です。南蛮流、西流外科、栗崎流外科、桂川流といった、日本に存在する西洋医学の流派の解説から始まります。それは日本が鎖国する前に入ってきたものであったり、あるいは鎖国後に出島から入ってきたものであったりします。しかし、多くが口伝によるもので、西洋の本を読んで学んだ者は皆無でした。一つには、日本で横文字が禁止されていたことがあります。この辺りの事情について、杉田玄白は次のように綴っています。

幕府創業の前後、西洋のことについては、いろいろなことがあって、すべて厳しい御禁制が出されていた。そのため、渡来を許されていたオランダでさえも、通用している横書きの文字を読み書きすることは禁止されていた。それで、通詞 (通訳官) たちも、ただオランダ語を片仮名で書き留めておく程度で、口で覚えて通弁の用を足すくらいで年月を経てしまった。そんなことで、誰一人として、横書きの文字を読み習いたいという人もいなかったということである。

しかるに、万事その時がくれば、おのずから開け整うものであろうか。有徳廟 (八代将軍吉宗) の御時、長崎の阿蘭陀通詞西善三郎、吉雄幸左衛門、もう一人名を忘れてしまったが、なにがしという人びとが寄り合って相談したところでは、「これまで通詞の家で、一切の御用向きを取り扱うのに、あちらの文字というものを知らないで、ただ暗記していることばだけで通弁して、入り組んだ多くの御用を、どうにかこうにか 弁じつとめてはいるものの、これではあまりにも不十分な状態である。どうかわれわれだけでも横文字を習い、あちらの国の書物を読んでもよい許可をいただいたらどうだろうか。そのようになれば、今後は万事につけ、あちらの事情も明白にわかり、御用も弁じよくなるはずである。これまでのようでは、あちらの国の人にいつわりだまされるようなことがあっても、これを問いただす手段もないことである」と、三人は相談して、このことを申し出て、「なにとぞ御許可をいただきたい」と幕府へお願いしたところ、聞きとどけられ、「至極もっともな願いの筋である」ということで、すぐに許可をいただいたということである。これこそ、オランダ人が渡来するようになってから百年あまりして、横文字を学ぶことのはじめであるということである。

これを読むと、江戸時代中期までの蘭学が、どういう状況であったかがよくわかります。杉田玄白が、ターヘル・アナトミアを手に入れた直後に骨が原で腑分けがあり、そこで見たものは、「ターヘル・アナトミア」に描かれた図と全く同じでした。その翌日から、前野良沢や中川淳庵らと、ターヘル・アナトミアを翻訳した「解体新書」の執筆に取り掛かったのは、あまりにも有名な話です。

本書には、「解体新書」執筆にあたるエピソードが多数登場します。有名な逸話が多いのですが、その中で私が知らなかったのは、前野良沢が執筆に専念するあまり、本務を怠って、主君に告げ口されていたことです。ところが主君の奥平昌鹿公は、「毎日の治療に精勤するのも勤務である。また、その医療のため役立つことにつとめ、ついには天下後世の人民のために有益となるようなことをしようとするのも、とりもなおさず、その仕事を勤めるということである。彼はなにかしたいと思うところがあるように見うけられるから、好きなようにさせておくべきである」と答えたそうです。懐の広い主君だったのですね。その他、杉田玄白が「諸君が事業の完成をみる日には、わたしは地下に眠る人になって、草葉の蔭からその成果を見ていることだろう」と語ったことをきっかけに、桂川甫周が杉田玄白に「草葉の蔭」というあだ名をつけたというエピソードには笑いました。凄いあだ名ですね。

横文字の許可、「解体新書」の出版などを経て、蘭学が日本全国に広まっていきました。本書には、こうして生まれた蘭学者たちの人物評も多数載っています。私の地元津山出身の宇田川玄真、宇田川玄随なども評されていました。

さて、最後にお願いがあります。私は、杉田玄白が書いた別の本も読みたいと思っています。解体新書は昔読みましたが、まだ読んでいないのが「形影夜話」という本です。杉田玄白が、行灯の光で出来た自分の影との対話を記しています。現在絶版であるものの、希望する方が多ければ、復刊される可能性があります。下記のリンクより、リクエストを出して頂ければ嬉しいです。

杉田玄白 形影夜話

 

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解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯

By , 2014年10月21日 5:53 AM

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (ウェンディ・ムーア著、矢野真千子訳)」を読み終えました。

ジョン・ハンターについては、医学史関連の本に頻繁に登場する割には、「外科医の父」「無駄な手術をしたがらなかった」「死体泥棒としての影の部分」等の断片的なキーワードしか知らなかったので、一度きちんとした本を読みたいと思っていました。この本は期待に十分答えてくれるものでした。また、ヨーゼフ・ハイドン、ウィリアム・ハーヴェイ、アストリー・クーパー、デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、ベンジャミン・フランクリンなど有名人がたくさん登場するのにも、読んでいてワクワクさせられました。

ハンターの住居はハンテリアン博物館となっているようなので、将来是非行きたいです。

以下、備忘録。

・ハンターの時代、膝窩動脈瘤は貸し馬車御者の職業病だった。当時の一般的な治療は下肢の切断術だった。そうしなければ、動脈瘤破裂で死ぬことになる。ハンターは動物実験を繰り返し、動脈瘤の中枢側を結紮する方法を編み出した。その患者が別の原因で亡くなった後、脚は標本になった。ハンテリアン美術館で標本 P275, P279として保存されている。

・ハンターの兄ウィリアムズは、解剖学を学び、ロンドンに講座を開こうとしていた。死体で練習をしていない外科医が初めてメスを入れるのは生きた患者となるため、ウィリアムズは解剖実習が必要だと考え、それを講座のウリにしようとした。ところが、献体という概念が生まれる前の時代であり、保存技術もなかったので、解剖用の死体が足りなかった。ウイリアムズは、死体調達をさせる目的もあり、勤務先の材木商が倒産して暇になっていた弟ジョン・ハンターを呼び寄せた。

・当時は、墓泥棒の他、死刑囚の遺体を手に入れる方法があった。その時代の絞首刑は、方法の問題で頚椎損傷ではなく、窒息が死因になることが多かった。そのため解剖台で息を吹き返すこともあった。

ウィリアム・ハーヴェイは、自身の家族が死んだ時、遺体を検死解剖した。ハーヴェイ自身は死んだ時に鉛の棺に入れて鍵をかけ、解剖学者の手に渡さないように言い遺した。

・ジョージ四世の手術を執刀し、クーパー靭帯に名を残したアストリー・クーパーは、死体泥棒に指示したことを認め、1828年の国会特別調査会で「患者の病状を知るためにはだれかがそれをしなければならない」と開き直る証言をした。

・18世紀のパリでは膀胱結石に対する石切術で 5人中 2人が死亡していた。方法は、直腸に指を入れて石を皮膚側に押し出し、会陰部を切開するものだった。経尿道アプローチする方法もあった。チェゼルデンは、フランスからの巡業医師フレール・ジャック・ド・ビューリーが会陰部から 1 cm側方を切開するのを見て、自宅での解剖実習で学んだ知識と併せて、 1725年に側方切石術を編み出した。死亡率は 10人に 1人未満になった。ハンターは兄の元で解剖学を学ぶ一方、チェゼルデンの元で外科医としての修行をした。

・ハンターは解剖学での分析によく味覚を使っていて、生徒にも使わせた。「胃液は透明に近い液体で、味はやや塩気がある。精液は匂いも味もやや吐き気をもよおす感じがするが、口の中にしばらくふくんでいると香辛料のようなあたたかみが生まれ、それがしばらくつづく」と書き残している。

・ハンターは、当時良くわかっていなかったリンパ管の役割を調べるため、生きた犬の腹を開き、腸に温めたミルクを注いだ。乳糜管は白くなったが、静脈は色が変わらなかった。そのため、リンパ管のみが脂肪と体液を吸収するという説が証明された。

・ハンターに師事したウィリアム・シッペンはハンターの手法を取り入れ、同じくハンターの教え子だったジョン・モーガンとアメリカ初の医学校を創設した。その医学校はのちにフィラデルフィア大学となった。彼らは、墓地から死体を盗んでくる手法まで取り入れ、そのせいで学校が民衆に襲撃されたこともあった。

・ハンターは軍医時代に、傷口をいじり回すより放置するほうが予後が良いことに気づいた。同じ時期に銃弾の摘出手術を受けなかった症例 5人全員が治癒したのを見たことが、その後できるだけ戦場で手術を行わないことの根拠となった。

・ハンターは色々と移植手術を試した。例えば、歯牙を移植したり、雄鶏のけづめを雌鶏のとさかに移植したり、雄鶏の睾丸を雌鶏の腹に移植した。歯牙移植は数年しか持たず、梅毒の原因にもなった。

・ハンターは淋菌と梅毒が同じ原因であるこという仮説を立て、淋病患者の膿をつけたメスで被検者のペニスを傷つけ、うつった淋病が梅毒に進行することを証明した。この時の被検者はハンターだったと言われている。しかし、用いた膿が実際には梅毒を合併した淋病患者のものだったらしく、現在では実験失敗だったことがわかっている。1838年、フィリップ・リコールは、何も知らない 2500人の患者に接種実験をして、淋病と梅毒が別の病原体であることを明らかにした。

・当時性病治療には水銀治療が行なわれていたが、淋病は自然治癒するため効果を疑問視し、ハンターはパンをプラセボとして与えた。それでも効果があったので、淋病に対して水銀は不要と証明された。

・ハンターは自著で、マスターベーションにお墨付きを与えた。また、性生活が上手くできない男性に対して、6日間何もせずに女性と並んで寝るように指示したところ、7日目には精力を取り戻し、有り余る欲望をもってベッドに飛び込んだ。

・ハンターは、カイコで人工授精の実験をした後、ヒトにも応用しようとした。尿道下裂のために不妊で悩んでいた男性の精液を注射器に集め、妻のヴァギナに注入したところ、すぐに妊娠した。この症例は史上初の人工授精とされる。

・後に種痘接種で有名になるエドワード・ジェンナーは、ハンターの家での住み込み弟子第一号となった。ハンターとジェンナーの親交は、生涯続いた。ハンターはジェンナーの最初の子供の名付け親になっている。

・ハンターの妻アンは、作詩家であり、教養人だった。作曲家のヨーゼフ・ハイドンと交流があった。

・ハンターは癌については積極的な手術を勧めた。検死解剖の経験から、癌をわずかでも残すのは全部残すのと変わらないと知っており、完全に切除できたかを慎重に調べなくてはいけないと言っていた。また、自分の手術ミスに関しては失敗をおおっぴらに認めた。「あの穿孔術で患者を殺したのは私だ」とか「あの手術で私は馬鹿なことをした」と。医療ミスは避けようがなく、失敗を隠すより失敗から学ぶべきだという持論だった。

・ハンターは、内科の三大治療「下剤・嘔吐剤・瀉血」の効果を疑っていた。瀉血は必要な場合以外避けるべきだと常々言っていた。しかし、将来自分が狭心症で倒れた時は、これらの治療法を試し、意味がないことを身を持って知った。

・ハンターが解剖した狭心症患者の検死所見は、1772年のウィリアム・ヘバーデンの論文に添付された。ヘバーデンは狭心症について世界で初めて正確な解説を書いた人物として知られる。

・哲学者デイヴィッド・ヒュームは、原因不明の腹痛に悩まされていた。ハンターの義父がヒュームのいとこだったので、ハンターはヒュームの診察をして、肝臓癌であることを診断した。

・ハンターは溺水患者の蘇生に興味があった。当時の治療は瀉血や浣腸や、タバコの煙を吹きかけることだった。ハンターは被害者の肺に空気を入れることが大事だと考えた。そして、被害者の肺をふくらませるために鼻から刺激性のガスを入れ、ベッドの中で体をゆっくりあたため、精油で体をこすることを提案した。これらをすべて試しても生き返らない場合には、電気刺激を与えることを提案した。

・ハンターは、3歳の女児が二階の窓から転落したとき、電気ショックを胸に与えた後生き返ったことを書き残した。

・当時、奇形に生まれた人々への救済処置はなく、自らを見世物として人前に晒すことが収入源だった。

・ハンターは、変異体を生物進化の証であると考えていた。「あらゆる種のあらゆる器官は、もとより奇形の特質を有する」と書き残している。

・ハンターの新居は、表通りに面した洒落た建物と、別の通りに面した地味な建物がつながったものだった。ハンターの外科医、解剖学者、教師、研究者の表の顔と、死体泥棒とつながった裏の顔が、「ジキル博士とハイド氏」が書かれるときのヒントとなった。ジキル博士の家はジョン・ハンターの家がモデルだとされている。

・ベンジャミン・フランクリンが膀胱結石で悩んでいた時に、ハンターに助言を求めた。ハンターは高齢での手術を避けることを勧めた。

・ある患者がハンターに手術を依頼したとき、ハンターは 20ギニー/件の相場と答えた。その患者家族が金を工面するために次回の来院を 2ヶ月遅らせたことを知ったハンターは 19ギニーを返し、「1ギニーだけ頂戴します。これだけなら、自分の思慮のなさに心を痛めずにすみますから」と答えた。

・ハンターの弟子には、パーキンソン病を報告したジェームス・パーキンソンがいた。パーキンソンが書き残したノートは、ハンターの講義を知る貴重な資料となっている。

・1783年に、ハンターと友人ジョージ・フォーダイスは医学外科学交流会を設立した。そして二週間毎にオールド・スローターズというコーヒーハウスに集まり、内科と外科からそれぞれ症例提示し、垣根を越えて議論を深めた。

・経済学者アダム・スミスはその技術に感銘を受け、「国富論」を一部ハンターに献呈した。スミスはハンターに痔の手術を受けた。

・ハンターは、ダーウィンが「種の起源」を出版する 70年前に、共通の祖先からの生物の進化を書き残していた。それは「種の起源」から 2年後に再発見され、「博物学、解剖学、生理学、心理学、地質学にかんする小論と観察」として出版された。

・1793年10月16日にハンターが死んだ後、「自分が死んだら検死するように」という遺言通り解剖された。診断は、彼の生前診断どおり冠動脈疾患だった。ハンターは心臓とアキレス腱 (1766年に切断し自然治癒で治した) を保存するように言い遺していたが、義弟ホームはそれを守らなかった。

・義弟ホームは、ハンターの死後ハンターの業績を横取りして発表し、ハンターの残した書類を証拠隠滅に焼却した。

・ハンターの博物館-ハンテリアン博物館-は、その後フランスのルイ・ナポレオンやチャールズ・ダーウィンなどが訪れている。

・1859年1月、ハンターの遺骨が収められた納骨堂が整理されるという記事をみつけたフランシス・バックランドは、3000以上の棺を 7日間かけて探しまわり、残された棺あと 2個というところでハンターの棺を見つけた。ハンターは 3月28日に改葬された。

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Open Library

By , 2014年7月21日 6:39 PM

医学史関係の書籍を読むのがマイブームとなり、月 10万円を超える医学書代に頭を悩ませているみぐのすけです。

調べ物をしている最中に、偶然 Open Libraryという凄いサイトを見つけてしまいました。

Open Library [Author Search]

Open Libraryの Author Searchというスペースに著者名を入れると、普通では手に入らないような古書達を無料で読むことができます。そればかりでなく、PDFでダウンロードもできます。

実際に、Hippocratesや、Thomas Willis, Morgagniといった医学者、Babinskiや Parkinson, Charcotといった神経学者らによる、膨大な書籍が手に入ることを確認しました。

しばらくは、これで相当楽しめそうです。いくつかダウンロードした本を読んでみた感想ですが、1600年代の英語の本は少し読みにくい (“s” のフォントが “f” に酷似している, “n’t” という省略形が多いなど) のですが、1800年代の本は割と抵抗なく読むことができます。時代を感じます。

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パリ医学散歩

By , 2014年5月31日 8:04 AM

パリ医学散歩 (岩田誠著, 岩波書店)」を読み終えました。

私はヨーロッパ旅行をするときは、医学や音楽にまつわる史跡をできるだけ巡るようにしています。昨年パリ旅行をしたときは、「ペールラシェーズの医学者たち」を参考にしてペール・ラシェーズ墓地を訪れましたが、本書を読んで、まだまだパリに行くべき場所があるのを知りました。それにしても、岩田先生の本は外れがないです。

また、下記のような歴史的な事実は、本書で初めて知りました。医学史に興味がある方におすすめの本です。

・オテル・ディユーは長い間パリ市内唯一の病院だったため、いつも患者があふれていた。その結果、一つのベッドに何人もの患者が寝ているようなことは日常茶飯事であり、十六世紀頃の記録では、五〇〇床のベッドに対し、多い時には一五〇〇人もの入院患者がいたと記されている。一床一人の原則が確立したのは、ボナパルト時代であった。

・ヴュルピアンはシャルコーの友であり、デジェリンの師であった。彼は一八六六年にクリュヴェイエの後任としてパリ大学医学部の病理解剖学講座の主任教授となり、フランスの病理学に初めて顕微鏡を導入した。また、多発性硬化症という術語を最初に用いたのはシャルコーではなくヴュルピアンであった。

・旧シャリテ病院脇のジャコブ通り界隈には、シャリテ病院に縁のある医者たちが多く住んだ。ルイ一四世の筆頭外科医であったジョルジュ・マレシャル、失語症研究のポール・ブローカなどである。その通りの一四番地にはリヒャルト・ワーグナーが住み、四〇年後にそこに住んだのは神経学の巨匠ジュール・デジェリンだった。

・パストゥールの発見は、ビュルピアンらが支持したが反論も多かった。ある日、シャルコーはパストゥールの研究室を訪れ、弟子のルーに説明を求めた。彼はルーの話に一時間以上にわたってじっと耳を傾け、二、三の質問をした後、実験記録を見せてくれと要求した。その直後の一八八七年七月一二日の医学アカデミーでパストゥールを弁護した。そしてサルペトリエール病院神経病クリニックの中に微生物学研究室をつくろうとしたが、シャルコー急死のためこの計画は中止となった。

・クロード・ベルナールは一八六六年、病気のため実験室を去ってボージョレにある故郷の家で静養していたが、身の不運を嘆いてうつに陥っていた。パストゥールはベルナールを励ますため「世界事情」に「クロード・ベルナール:その研究、教育、方法論の意義」という記事を書いた。そこでベルナールの業績中もっとも重要なものとして肝臓におけるグリコーゲン産生の発見を取り上げた。そして「今、はからずも静養を余儀なくされているこの偉大な患者が、彼の思想と情熱を世に紹介するこの論文によって元気づけられ、彼の友人や同僚たちが、彼がまた研究にもどってくる日を待ち望んでいることを知って喜んでくれることを期待したい」と結んだ。この記事は、ベルナールがうつから立ち直るきっかけとなった。

・ベルナールは、「糖尿病患者が自分で摂取するでんぷんや糖などの炭水化物よりはるかに大量のブドウ糖を尿から排泄するのはなぜだろうか?」「糖尿病患者の糖尿が消失しないのはなぜか」ということに疑問をもった。そして、人体にはブドウ糖を産生する未知の機構があるのではないかと考えた。当時は、糖を産生できるのは植物だけであると信じられていた。しかし、ベルナールは「もし理論に合致しない事実が見出されたなら、どんなに権威のある常識的な理論であろうと、その理論を捨てて事実をとるべきである」という信条を持っていた。ベルナールは動物を肉だけで飼育し、門脈と肝静脈の血液をとって比較してみると、門脈中にはブドウ糖がないにもかかわらず、肝静脈中にはブドウ糖が大量に存在することがわかった。このことから、肝臓中にグリコーゲンを発見するに至った。

・セヴール通りにあるネッケール病院は「ひとつのベッドに一人の患者を」というモデル病院を作る計画に従い、一七七八年に開かれた。ラエネックは一八〇六年頃にネッケール病院に赴任した。ウィーンの医師アウエンブルッガーにより発見された打診法をフランスに広めたのはコルヴィサールであり、ラエネックはコルヴィサールの弟子であった。一八一六年、ルーヴル広場を通りかかったラエネックは、二人の子供が大きな材木をたたいて遊んでいるのに気づいた。ひとりの子供が材木の一方の端をトントンと叩くと、もう一人はもう一方の端に耳をつけてこれを聞いて遊んでいた。この様子をみたラエネックは自分の患者に応用してみた。ネッケール病院に戻ると、心臓病の少女にきつくまいた紙の筒の一方の端をあて、もう一方の端を自分のみみにあててみた。すると、直接胸に耳を押しあてて聴くのとは比べ物にならないほどはるかにはっきりと、患者の心臓の鼓動が聞こえた。彼はこの方法が、あらゆる種類の胸部疾患の診断に応用できることに気づいた。そして紙筒を木の筒に換え、これを「聴診器」と名づけた。一八二六年八月二三日、彼は肺結核で亡くなった。ネッケール病院の入口に隣り合う壁には「この病院でラエネックは聴診法を発見した」という石碑が掲げられている。

・一三四八年にパリにペストが流行し、フランソア一世はペスト患者専門の収容病院をパリ市街に建設しようと計画したが、宗教戦争等で実現しなかった。一六〇六年に再度ペストが流行したため、計画はようやく実行に移された。当時は西風が病毒を運ぶと考えられていたため、パリ東北に病院の建設地が定められた。サン・ルイ病院は一六一一年に完成し、一六一八年に開院された。当初は感染性疾患のセンターであったが、当時皮膚感染症が多かったため、そのうちこの病院は皮膚科専門の病院になっていった。フランス人の名前を冠せれた皮膚疾患は多いが、ほとんどはこの病院に足跡を残した人々の名前である。ここに勉強に来たのが太田正雄 (作家としてのペンネームは木下杢太郎) である。木下杢太郎はサブロー寒天培地に名前を残したサブロー教授の研究室で真菌症の研究を始め、白癬菌の新しい分類体系を確立した。また、日本に戻ってからは太田母斑 (眼上顎褐青色母斑) を世界に先駆けて記載した。

・ピネルは一九九三年にビセートル病院の内科医師となり、まずここで男性精神病患者を鎖から解き放った後、一七九五年にラ・サルペトリエールに赴任し、今度は女性患者を解放した。サルペトリエール病院の門の前にはピネルの像が立ち、サルペトリエール病院神経病クリニックにとなり合うシャルコー図書館の入り口には、ピネルが患者を鎖から解放している絵が掲げられている。

・ ブローカの墓は、モンパルナス墓地にある。墓石にはブローカの名前が刻んであるのみで、墓石には彼の生前の業績を讃える何の言葉も見出せず、ほとんど訪れる人もない。

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医は忍術 (違

By , 2014年3月21日 5:36 AM

国立科学博物館の特別展「医は仁術」に行って来ました。酒井シヅ氏が監修に加わっていると聞いていたので、以前から楽しみにしていました。

特別展 医は仁術

入口付近は漢方関係の資料が多く、洋学の資料は少ないかと思って不安になりましたが、最初のブロックを過ぎるとその不安は杞憂だとわかりました。とにかく資料が膨大でした。

シーボルトの処方箋、華岡青洲の手術器具および手術記録、珈琲を日本に紹介した宇田川榕菴のミルとか医学史好き垂涎の資料が所狭しと展示されていました。その他、展示会場を埋め尽くしていたのが、膨大な数の江戸時代の医学書です。名前を聴いたことのある書物はほぼ全部ありました。解体新書の横には、ターヘル・アナトミアの該当するページを開いてあって、図が比較できるなどの気配りがありました。以前訪れた津山洋学資料館蔵の展示品もいくつかありました。

あとは、徳川家康所用の薬壺とか、とにかくとにかく御薦めです。開催期間は 3月15日~6月15日です。

公式ガイドブックと、「酒は微酔 花は半開 (リンク先音が出ます)」のクリアファイルを購入して帰宅しました。

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