Category: 医学史

内科学会誌

By , 2012年8月20日 9:02 PM

日本内科学会のサイトにアクセスすると、会員は「日本内科学会アーカイブ」で過去の内科学会誌を全てオンラインで読めることに気づきました。

記念すべき第一号第一頁は、腎臓病という論文です。

論説

腎臓病

第十回日本内科學會総會宿題報告

醫學博士 佐々木 隆興述

我ハ昨年五月下旬頃前會長ヨリノ御命令ニヨリ、本年ノ内科學會宿題腎盂炎ニ就ヲ御報告致スハ光栄ニ存ジマス

このような冒頭で始まります。1913年の文章なのですが、時代を感じますね。

第一号の二本目の論文は、周期性四肢麻痺についてです。1913年当時、国内での報告は 7-8例であったことがわかります。

定期性四肢麻痺ニ就テ

醫學士 北村 勝藏述

或ハ發作性麻痺トモ云フ Schachnowicz, Westphal等ガ獨立ノ疾患トシテ報告セシ以来西洋ニ於テハ可ナリ多クノ報告出テ日本ニ於テモ既に七八例報告セラル、然レドモ猶ホ未ダ稀有ナル疾患に属スルモノナレバ吾人ガ經驗セシ三例ヲ上グベシ

同じ号で腱反射についての記述がなされているのが、神経内科にとっては興味深いところです。

 反射作用ノ臨牀的意義

第十回日本内科學會総會演説

金澤醫學専門学校  那谷 與一述

反射作用ガ疾病ノ診断ニ對シテ大ナル意味ヲ有スル事ハ論ヲ待タザル所ニシテ、殊ニ神經系統ノ疾病ノ診斷上甚ダ重要ナル價値アルヲ認ム。

この論文には、ヒステリーの話がよく出てきました。 Babinskiが「器質性片麻痺とヒステリー性片麻痺の鑑別診断」という論文を書いたのが 1900年ですから、時代的には非常に近いですね。

一方で、第一号には、びっくりするようなタイトルの論文があるのです。それは「血中ニ注入セラレタル墨汁ノ運命」という論文。本文を読むと、家兎を用いた動物実験の話でした。

1916年は梅毒に関する報告が多く、「「サルワルサン」及免疫血性注射試驗ヲ經タル海〓臟器内ノ黄疸出血性「スピロヘータ」ノ所見 附血清療法ヲ施セル黄疸出血性「スピロヘータ」病患者ノ解剖例ノ病原「スピロヘータ」ノ所見ニ就テ」という論文も書かれていました。

このように古い論文のタイトルをパラパラ眺めていると、歴史を肌で感じることができます。医学史好きの内科学会の会員の先生にはオススメです。

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江戸の病気ランキング

By , 2012年7月19日 7:48 AM

製薬会社のエーザイが作るサイトに、くすりの博物館というのがあります。 

その中に、面白いコラムを見つけました。

江戸の病気ランキング

江戸時代の病気ランキングが、番付表形式で残されています。といっても深刻さは表に出さず、「ひびの判官しミ升」「前頭  眩暈之四郎倉々」「頭痛之助鉢巻」など、思わずクスリと笑ってしまう番付になっています。

神経内科医の目から見て、「頭痛之助鉢巻」で取り上げられている頭痛は片頭痛じゃないかなと思いました。片頭痛はこめかみを抑えると症状が多少和らぐことがあり、一部の患者さんたちは経験的にそうしています。押さえる代わりに鉢巻を巻いて圧迫して症状を和らげるという方法もあり、「頭痛之助鉢巻」はそれを表していたのかもしれません。

「溜飲を下げる」の語源となった「溜飲」もランキングにありました。眺めていると色々と発見のある番付だと思います。

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古代アンデスの謎

By , 2012年6月26日 8:27 AM

「古代アンデスの謎 二〇〇〇年前の脳外科手術 (片山容一著、廣済堂出版)」を読み終えました。丁度 20年前、1992年に書かれた本です。

著者は日大の脳神経外科教授ですが、 UCLAの名誉教授も務めています。そして定位脳手術の世界的権威です。医学生時代にボリビア・アンデス一帯を登山し、博物館で穴を開けられた数々の頭蓋骨を見たのが著者とアンデスの頭蓋骨の出会いでした。以後、著者はこの穴の謎の探求を続けることになります。

どうやらこの穴は、生きている時に開けられたらしいのです。この穴が脳外科手術によって開けられたことに初めて言及したのは、かの有名なブローカでした。というのも、穴の周囲の骨が増殖し、穴が滑らかになっているのが確認されているからです。これは穴を開けてから、その人物が長く生きたことを意味します。

ブローカ以後、有名な脳外科医がこの問題に取り組みます。世界で最初に脊髄腫瘍の手術をしたホースレイはてんかんの治療だと考え、ルカ・シャンピオニエールは減圧開頭術ではないかと推測しました。その後も、バランス、シェリントン、ウォーカーなど、錚々たる学者、脳外科医がこの問題に言及しました。

著者は現代の脳外科医の眼から見て、当時の手術がどのように行われていたかを推測します。そして、最終的に、この穴が急性硬膜外血腫の手術痕だったのではないかという結論に達しました。しかし、当時は CTのなかった時代です。診断技術に乏しく、危険な手術に踏み切るかどうかアンデスの医師たちは悩んだことでしょう。この悩みを著者は現代の医師たちに重ねあわせています。

迷いの内容は違うが、手術をしたほうがいいのかどうかわからないのは、古代アンデスの外科医とまったく同じである。そして決断の核心には、まったく医学的治療や科学的な因果関係などといったことばで語られるような確信はないのである。これも古代アンデスの外科医とまったく同じである。

こういうとき、なにか無条件に従わなければならない原則が決まっていたとしたら、医師の仕事は大変やりやすいものになる。原則に従うということで、自分は正しいことをしているのだと思い込むことができるからである。

古代アンデスの頭蓋骨の謎から、時代を超えて現代まで通じる考察ができるのが、著者の見識の高さではないかと思います。そして、あとがきでは現代の医療問題について触れられていました。このあとがきが、医療崩壊が叫ばれるより前に書かれていたことに驚きました。

こういう意味では、彼らの置かれた立場は想像を絶するほど難しいものであったに違いない。そんな彼らが少しでも気を楽にする方法は、彼らも持っていたと思われる体系と原則に沿い、頭蓋穿孔について社会が自然に形作ってきた合意と要請に従って、仕事を進めることであっただろう。

医療技術というものは、よほどはっきりした根拠がない限り、それぞれの医師の確信のみにもとづいて行われるわけではない。一部の例外を除いて、全体的には社会的な合意と要請に従うように行われる傾向がある。

医療の問題を語るとき、誰かが作り出した常套句がよく使われる。薬漬け、検査漬け、などはすぐ頭に浮かぶものである。こういった常套句はわかりやすいだけに、容易に使われることが多く、しかもそれですべてがわかったつもりになってしまう。だから問題の本質を考える上では、かえって妨げになっていることが多いようである。

医療費の高騰は、現代の社会の持つ大きな問題のひとつである。その原因探しは行政の大切な役目になっている。この問題を語るときに必ず出てくる、薬漬け、検査漬け、といった常套句の与える印象どおり、医師たちが自分の利益のために不必要な検査や投薬を行なっているのなら、医師を責めれば問題は解決するだろう。しかしそれだけでは到底解決できないことは、もうだんだんと誰の目にもはっきりしてきている。

医師に対する不信というのも常套句のひとつである。しかしこれはなにも今に始まったものではない。医師に対する不信という問題は、古今東西の著作をあたってみればいくらでもみつけることができる。多少の知識のある人なら誰でも知っていることだろう。そこには、もっと本質的な問題がもともとあるのである。医師に信頼回復を叫ぶだけでは、問題は絶対に解決しないようにわたしには思える。そろそろ医療技術というものの本質的な性質を、社会との関係から考えてみることのできる時期にきているのではないだろうか。

この解説まで読むと、単に頭蓋骨の穴の謎を解くだけではなく、古代アンデス、現代に共通する、医療問題の普遍性を見ぬくことが、本書のもう一つの目的であることに気付かされます。

最後に、現代の実際の手術風景の描写から、著者を指導した教授の含蓄ある言葉を記しておきます。著者たちは、こういうことを思いながら手術を進めているのですね。

傷んでいる脳ほどほんの少しでも大切にしなければいけないのだ。このひとには、この傷んでいる脳しかないのだから。

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椿忠雄

By , 2012年3月28日 8:32 AM

新潟大学初代神経内科教授、椿忠雄先生について Brain medicalに書かれた文章をネット上で読むことが出来ます。日本の神経学の成り立ち、慢性水銀中毒、SMON, 筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の話題が中心です。東京都立神経病院の林秀明先生が書かれた文章です。

日本の脳研究者たち 椿忠雄 (pdf)

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細胞夜話

By , 2011年11月23日 12:13 PM

「細胞夜話 (藤元宏和著、mag2libro)」を読み終えました。培養細胞の開発秘話、名前の由来、研究のこぼれ話など、非常に興味深かったです。

この本は、GEヘルスケアジャパンのバイオダイレクトメールに記されていた内容をまとめたものです。私は本の方が読みやすいので本で読みましたが、同じ内容が webでも公開されています。

細胞夜話 バックナンバー

専門的な知識をそれほど必要としない読み物です。興味のあるかたは上記リンクからどうぞ。

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不死細胞ヒーラ

By , 2011年11月8日 9:55 PM

「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックス」の永遠なる人生 (レベッカ・スクルート著、中里京子訳、講談社)」を読み終えました。

Continue reading '不死細胞ヒーラ'»

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最終講義

By , 2011年9月21日 10:13 AM

「最終講義 (坪内祐三解説、実業之日本社)」は高名な学者達の最終講義をまとめたものです。そこに収録されている講義のうち、沖中重雄教授による「内科臨床と剖検による批判」の章を読みました。

講義は剖検の重要性についてから始まります。そして、どのようなときに剖検を受諾されやすく、どのようなときに断られやすいかが述べられます。例えば剖検を承諾した理由として、欧米では死因を知りたい、病気の知見を他人に役立たせたいというのがほとんどで、医師への謝意と答えた人は 3%しかいないそうですが、日本では医師に対する謝意が重要な役割を果たしていることが示されます。実際、入院期間が長く医師との人間関係が構築される方が剖検率は高くなるそうです。

各論では、それぞれ領域における誤診率と、いくつかの例が示されています。ただしこれらの誤診率はかなり厳しい基準によるものです。第一の基準は臓器の診断を誤ったもの、第二の基準は臓器の診断は正しいけれども病変の性質の誤診、第三は悪性腫瘍に関するもので原発巣の診断を誤った場合、とされています。以下、簡単に要約してみます。

1. 神経疾患
82例のうち 15例の誤診例があり、18%の誤診率である。脳腫瘍を血管障害、炎症性病変と誤診したものが多かった。

2. 循環器疾患
55例中 7例で 12.7%の誤診率。動脈瘤に関する誤診が多かった。

3. 腎臓疾患
60例中 7例で、11.6%の誤診率。腎盂腎炎、腎癌に関するものが多かった。

4. 肺疾患
77例中 13例で 16.8%の誤診率。肺癌の見落としが多かった。

5. 血液疾患
118例中 12例で 10.1%の誤診率。悪性リンパ腫と白血病の誤診が多かった。

6. 消化器疾患
126例中 15例で 11.8%の誤診率。胃癌の見落としが多かった。

7. 肝・胆道疾患
106例中 20例で 18.8%の誤診率。肝硬変に合併した小肝癌の見落とし、転移性肝癌と診断したものが原発性肝癌であったもの、肝癌と診断したものが胆道癌であったものなど。

8. 膵臓疾患
17例中 7例で 41.1%の誤診率。膵頭部癌がほとんどだった。

9. 感染症・膠原病
60例中 10例で 10%の誤診率。放線状菌性髄膜炎→多発性根神経炎、クリプトコッカス髄膜炎→結核性髄膜炎、全身性結核性病変・内分泌器官の病変→非定型エリテマトーデス、全身性汎血管炎→Hodgkin病疑いなどの誤診があった。

10. その他
49例中 5例で 10.2%の誤診率。Sheehan症候群など。

これらをみると、画像診断を始めとする診断技術の未発達な時代に、すごく低い誤診率であると思います。病歴、診察所見、限られた検査所見でここまで診断をつけていたことに敬服します。逆に我々は画像診断学の発達した社会にいますが、それによって生まれた疾患概念も多くありますので、ピタリと診断を当てるのはいつの世も難しいことに変わりはありません。内科医がずっと追求していかないといけないことです。

この講義のまとめの部分「書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者のなかに明日の医学の教科書がある」は重い言葉です。胸に抱いて日々の臨床、研究を行いたいと思います。

 そういうふうないろいろなことを考えますと、診断というものがいかにむずかしいものであるか、こういうことを自分としては経験するほど、そのむずかしさを感じます。簡単にみえる症状の病気を診る場合でも、かえって診断に対して非常な恐怖心をいだき、むずかしいなにかがそこに潜んでいるかという心配をいたしますので、臨床というもののむずかしさをますます感じているというのが現状であります。

それにしても平凡なことですが、いつも正確な既往歴 Anamneseをとる、これをなんべんも読み返すことが大切です。それから、これは学生諸君にとくに申しあげるのでありますが、精細な臨床検査、ことに bed sideでの緻密な観察、検討というものをたえず怠ってはならないと思います。同一の患者を診る場合にも、毎日新しい患者を診る気持ちで観察していかなければなりません。

なにもむずかしい検査をいつもする必要はないのですが、少なくともそれに頼る前に、頭と目と手で簡単な検査道具を使って、よく患者を診ることがいつも大切です。

病理でやってもらえばわかるんだ、外科であけてもらえばわかるんだ、そういう安易な気持ちは、われわれ内科医としては夢にももってはいけないとわたくしは思います。あくまでも自分で考えて、それで診断をしていく。学生諸君に先輩として、わたくしはそういうことを申しあげるのであります。よく考える医師になっていただきたいのです。

時間もそろそろまいりましたので、この非常に平凡な結論になりまして、先輩・同僚の各位にとりましては誠に申しわけのない話しになりました。しかし学生諸君にとりましては、なにがしかの教訓になったことと、わたくしは教師として、また先輩としてそう信じております。

自分は、なお元気でございますので、将来とも自分の経験知識をできるだけ活かして進んでいきたいと思いますが、どうか次の時代をになわれる学生諸君、若い方々に、こんごの勉強をお願いし、大成を祈ってやまない次第でございます。

ここで、わたくしはこの「最終講義」を終わりにしたいと思いますが、最後に一言、学生諸君に申しあげておきたい言葉がございます。これはわたくし自身がつくったものではありませんが、わたくしがこれは非常にいい言葉だと思って、なにかのときにメモしておった先覚者のいわれた言葉だと思いますが、その言葉を、学生諸君にお伝えして、わたくしのこの最後の講義を終わりたいと思います。

それは”書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者のなかに明日の医学の教科書の中身がある“というのです。もう一度申しますが、”書かれた医学は過去の医学であり、目前に悩む患者のなかに明日の医学の教科書がある“-少しオーバーな言い方かもしれませんが、しかし、わたくしはそういうことを諸君に述べまして、このわたくしの最後の、八百二十回目の講義を終わりたいと思います。

長らくご静聴ありがとうございました。(鳴りやまぬ拍手)

この講義で、長崎大学の病理学の松岡教授を「りっぱな数字をだしておられます」として好意的に扱っています。私の叔母、旧姓が松岡で、親が長崎大学の病理の教授だったと聞いています。こんな有名な講義で登場するなんてびっくりしました。

(参考)

私の履歴書 沖中重雄

医学の進歩と医の倫理

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豊倉康夫

By , 2011年7月21日 11:02 PM

Brain Medical 2011年 3月号の連載「日本の脳研究者たち」に、豊倉康夫先生のことが書かれていました。非常に面白い論文だったので一部紹介しますが、是非原著を読んで頂きたいです。

「豊倉康夫 1923-2003 (岩田誠著, Brain Medical Vol. 23 No.1 2011)」

豊倉先生は親の反対を押し切って東京帝國大學医学部に進んだのですが、九州から上京するとき、1000語ほどのドイツ語単語カードを用意し、覚える毎に汽車の窓から捨てていったといいます。「関門トンネルの中にも、須磨の海岸にも、大阪の街の雑踏の中にも、水車小屋の上にも、白い紙片は少しづつ散って行った。最後のカードは大井川の鉄橋を渡る頃、投げた。それは河の流れに消え、汽車は轟々と音を立てて東京へ急いだ。その先は覚えていない。私は深い眠りに落ちた」

卒業後、豊倉先生は沖中重雄第三内科教授に弟子入りし、沖中内科の第一期生の一人となりました。そして、1964年東京大学神経内科の初代教授に選ばれました。豊倉先生は 41歳で引き受けることに悩み、同級生の萬年甫先生に相談した逸話が残っています。

ちなみに、東京大学神経内科は 1894年に衆議院議員長谷川泰氏による趣意書が出され、かの Charcotの弟子である三浦謹之助を教授として設立する動きがあったものの、その時は実現しなかったのです。

豊倉先生の功績は筋萎縮性側索硬化症 (ALS) の陰性徴候を見出したとか、「神経内科」誌を創刊したとか、SMONを命名し原因を解明したとか、Babinski徴候についての研究成果纏めてを歴史的に残る講演として発表したとか、Parkinsonが Parkinson病を報告した原著を翻訳して出版したとか、枚挙に暇はありません。また、古典的な原典論文を収集し、論文にリストに載せた話はこのブログでも以前触れました。教育者としても優れ、豊倉先生の元からは、30名以上の内科教授、他科を含めると 40名以上の教授が誕生したといいます。

こうした優れた医師の功績を後進の医師達は忘れる訳にはいきませんね。そういった意味でも、この論文は優れた価値があると思います。

最後に、自分の備忘録として、気に入ったいくつかの箇所を引用しておきます。

・豊倉は臨床の場における観察の重要性について「臨床の場では、同じ性質の現象が繰り返し現れてくるが、それを見逃さないように」と教え、さらに次のように付け加えた。「一度見たことにあまり意味をつけるな。ただ良く覚えておけ。二度見たら何かあると思え。それは残念ながら、大体 99.9%は本に書いてあることが多いが、稀には誰も気付いていないこともある!三度見たら只事ではない。それは、常に何物かである!」

・豊倉はラテン語を能くし、しばしばラテン語の成句を引いて、弟子たちを導いたが、臨床観察の重要性についてよく引用したのは、veritas nunquam latet (真理は決して隠れはしない) という言葉であった。豊倉は、恩師沖中重雄が書いた、「書かれた医学は過去のものである。目前に悩む患者の中に明日の医学の教科書の中身がある」をしばしば引用して臨床の大切さは繰り返し説き、沖中が「教科書がある」ではなく、「中身がある」と述べたことの重要性を指摘した。

・1956年の夏、急性扁桃炎で熱を出した豊倉は、ペニシリンの注射を受けた直後、ペニシリンショックのため人事不省に陥ったが、東京大学病院内の出来事であったため、迅速な処置と人工呼吸によって一命を取り留めた。この時の、ショックに陥ってから意識を失うまでの状況と、蘇生が成功して意識が戻り始めた時の状況を、豊倉は詳細に記載、分析し、意識回復期には、しばしば周囲の人からまだ意識が無いと思われていたのに、自らの意識が戻っていて言葉も理解できていることを伝えようにも全くそれができなかったことなど、実際の体験者でなければ解らないことを、明白に示したのである。この体験から、豊倉は、医師や看護師は、「昏睡状態で意識が無いと思われる患者に対しても、大きな声で励ましの声をかけ、手を握り締め、安心感を与えることがいかに大切か」ということを、覚えておかねばならないと繰り返し教えた。

・筆者に教室の主宰者としての心構えを示した。「教室員になにか優れたところ、いいところがあったら、直ちにそれをプラス評価しなさい。しかし、教室に何か欠けるところ、悪いところがあっても、直ぐにあれは駄目な人間だと思ってはいけない。マイナス評価するには 10年待ってからにしなさい」

・豊倉の人柄をよく示すものは、彼が教室員に対して好んで語ったいくつかの言葉である。中でも豊倉が最も好んだ言葉、「百年後のために あせらず 背伸びせず」を自らの手で大書し、東京大学神経内科の医局に掲げた。彼の好んだもうひとつの言葉は、ラテン語の成句「non sibi sed omnibus (自らのためにではなく、すべての人々のために)」であったが、これこそは、豊倉の人生全体を貫いた大きな思想である。

・彼は、自らの死期の近いことを悟った 2003年の初め、自らの手で色紙に、「飲みたまえ 飲みたまえ、 われも飲みたし語りたし」と書き、自分亡き後にはこの色紙を掲げて皆で飲んでほしいと、妻に告げた。その言葉どおり、豊倉を偲んでその葬儀に集まった親族、友人、そして弟子たちは、その色紙の前で、在りし日の豊倉の思い出話に、時間の経つのも忘れるほど語りあった。

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アスピリン

By , 2011年6月25日 9:47 AM

アスピリンは父親のリウマチの痛みを軽減させるために、Felix Hoffmannが見つけたそうです。父親のために開発したというのは初めて知りました。

 How Was Aspirin Invented?

In 1894,a German chemist named Felix Hoffman was looking for a way to treat his father’s arthritis pain. Along with a researcher named Arthur Eichengrün, he came across Gerhardt’s experiments, and replicated them, creating acetylsalicylic acid, or aspirin. This was the first drug that was not an exact copy of something found in nature, but synthesized in a laboratory. This synthetic drug was the start of the pharmaceutical industry.

Hoffman gave some of the as-yet unnamed aspirin to his arthritic father, who experienced a reduction in pain. Bayer decided to patent and market aspirin, along with another drug that Hoffman had synthesized, heroin.

一方で、彼がヘロインも合成していたことにびっくり。まぁ、コカ・コーラの起源もコカイン入りの薬用酒だったみたいようですし、麻薬の害が知られるまでは、色々試行錯誤の歴史があったんですね。

 ザ コカ・コーラ カンパニー

19世紀末期のアメリカでは、医者不足から代替医療・殊に自然療法や万能薬が広く庶民に多く受け入れられ、自然療法医や薬剤師は自らの治療法や薬剤の売り込みに躍起になっていた。

その一方で、1867年に人工的な炭酸水の製造法が発明されると、当時は何らかの効能があると思われていた炭酸水を客の注文に応じて調合して飲ませるソーダ・ファウンテンが薬局に併設されるようになった。こうして売り出された炭酸水には、当然薬効を謳うものも多く万能薬同様に売り込み競争が激しかった。

そんな自然療法家の一人に、ジョージア州アトランタを拠点に活動するジョン・S・ペンバートン (John S. Pemberton) がいた。南北戦争で負傷したペンバートンはモルヒネ中毒になっており、中毒を治すものとして当初注目され始めたコカインを使った薬用酒の開発を思いついた。この種の薬用酒には既に類似品が多く出回っていたので、ペンバートンは、ワインにコカインとコーラのエキスを調合したフレンチ・ワイン・コカを精力増強や頭痛の緩和に効果のある薬用酒として1885年から売り出した[1]。

フレンチ・ワイン・コカは「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博したが、やがてコカインの中毒が問題となるとともに、禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきた。そこでワインに代えて炭酸水の風味付けのシロップとして売り出すことにして、ペンバートンのビジネスに参加した印刷業者のフランク・M・ロビンソンによってコカ・コーラと名づけられた。このコーラは1886年5月8日に発売されている[2]。


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神経学はいかにして作られたか

By , 2011年2月20日 11:08 PM

医学書院の鼎談で、「神経学はいかにして作られたか 」が掲載されたことがあります。もう 10年以上も前の鼎談なのですが、これが凄く面白いです。

神経学はいかにして作られたか 「臨床神経学辞典」発刊を機に

前半の神経学の歴史は、好きな人にとってはたまらない話ですが、神経内科医以外に読んで欲しいのは、最後の「デジタル化できないもの」~「『曖昧さ』をサイエンスに取り込む」の部分です。EBM全盛期の医療という環境に置かれた我々が、意識しないといけないことが書いてあります。この記事は必読です。

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