動物の脳採集記
「動物の脳採集記 キリンの首をかつぐ話 (萬年甫著、中公新書)」を読み終えました。萬年先生は神経解剖学の大御所です。教育者としても業績が大きく、弟子から多くの教授を輩出しています。本書は彼が解剖学研究に打ち込んでいたときのこぼれ話を集めた本です。
「動物の脳採集記 キリンの首をかつぐ話 (萬年甫著、中公新書)」を読み終えました。萬年先生は神経解剖学の大御所です。教育者としても業績が大きく、弟子から多くの教授を輩出しています。本書は彼が解剖学研究に打ち込んでいたときのこぼれ話を集めた本です。
「吾輩はビールである (小泉武夫編著、廣済堂出版)」を読み終えました。文字が大きく、イラスト(南伸坊)が豊富で絵本のようでした。さらっと読むだけなら1~2時間くらいで読めます。
この本は、ビールの歴史から始まります。紀元前4000~3000年頃にシュメール人(メソポタミア)が残したと思われる陶板にビール造りの様子が描かれているそうです。
紀元前3000年のエジプトでもビールは飲まれており、ピラミッドの壁画にも描かれているのだとか。さらに、役人の給与や罰金など、通貨の役割をも果たしていた話があります。給料がビールで支払われるなんて、私だったら喜んで受け入れそうです。
以後、ビールの製法は進化し、狂犬病ワクチンで有名なパスツールが1876年に「ビール研究」という論文で、発酵が酵母の作用によることを明らかにし、細菌によるビールの変質を防ぐため、低温殺菌法 (パストリゼーション) を提唱しました。パスツールも研究が幅広いですね。研究で言えば、森鴎外がドイツ留学の際に、ビールの利尿作用について研究し、病気治療に有効であることを医学誌に発表しているそうです。現在では、利尿薬を心不全などの治療に使うことが一般的になっています。森鴎外はデキル男です (^^)
本書では、他にビールの種類、ラベルの見方、原材料について・・・などと盛り沢山です。
麦についての面白い記述は、ビールが昔は小麦から作られていたこと。ただ、小麦はパンの材料であったので、小麦をパンに使うかビールに使うかもめることがあり、13世紀末のニュールンベルクで「ビールは大麦以外から製造してはならない」という法律が布告されたそうです。このおかげで、人類はパンもビールも安心して供給できるようになったのですね。
冗談のような話は、ビールの泡裁判。昭和15年にビアホールで出されたビールの泡が多いと、訴えた客がいたそうです。いつの時代でもトンデモな客はいるものです。結果は、(全体の15~30%までという条件付きで)泡はビールの一部としてビアホールの勝訴。この裁判を通じた検証で、泡の方がビールそのものよりアルコール、蛋白質、苦み成分が多いことがわかったそうです。そういう意味では無駄ではない裁判だったのかもしれません。
訴訟つながりで言うと、ハムラビ法典では、「目には目を、歯には歯を」の精神がビールにも貫かれています。 麦5杯で造られるビールの量は6杯までとされ、それ以上増やすための水の使用が禁じられていました。水増ししたものは、水に投げ込まれ溺死させることになっていたそうです。恐ろしい世の中です。
最後に豆知識。ビールの王冠のギザギザ (スカート) は21個で、これが一番抜けにくい。ビールの語源は諸説あり、一説にはラテン語の「ビベレ (飲む)」、他説には北方ゲルマン民族の「ベオレ (穀物)」というものがあります。ビールの他の呼び方に北方ゲルマン民族の「アル “ale”」があり、イギリスではエールと呼ばれました。ゲルマン民族は、「ベオレ」は神の飲み物で、「アル」は庶民の飲み物として区別していたそうです。ラテン語圏では「セレビシア」が使われることもあり、大地の神「セレス」と力を意味する「ヴィス」の合成からなり、「大地の力」を意味するそうです。
ビールは本当に奥が深いですね。イラストが綺麗な本ですので、是非絵本感覚で読んでみてください。
最終章である第8章は神経症候学的序論です。「故意におこしえない客観的症状について、その法医学における重要性について (1904年)」、「臨床における問診および主観的症状に関する 2, 3 の考察 (1925年)」が収載されています。かの Charcot がヒステリーと器質的疾患の鑑別に四苦八苦していたように、神経学に関わる臨床家達にとって、ヒステリーと器質的疾患の鑑別は悩ましい問題でした。Babinski は過去の知見をまとめ、自分で考え出した診察法と合わせて一つの体系を作りました。今日でもヒステリーと器質的疾患の鑑別は甚だ困難なことがあり、ヒステリーと間違えて器質的疾患を見逃したり、ヒステリーの患者を器質的疾患と誤診して過剰な治療を施してしまったりすることも稀に見かけます。自戒を込めて、Babinski が述べた一つの体系を紹介しておくのは、大切なことなのかもしれません。
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さて、Babinskiの小脳に関する研究は、1899年に「最初の観察例」「小脳性アジネルジー」、1902年に「静止時における意志的平衡と運動時における意志的平衡。これら両者の分類。アジネルジーとカタレプシー」、「アディアコキネジー」と題された一連の論文から始まります。これは Mouninou という名の患者が契機となっており、H.M. というイニシャルで論文に登場します。これらの集大成として、Babinski は 1913年にトゥルネーとともに「小脳疾患の症状とその意義」という論文を著しています。
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第6章は小脳症状についてです。特にオリーブ橋小脳萎縮症 (OPCA) について扱われます。OPCA という疾患概念を提唱したのは、デジェリーヌとその弟子のアンドレ・トーマです。デジェリーヌは Babinski の8歳年上で、シャルコーの僚友 Vulpian の弟子です。デジェリーヌは脳梗塞に伴う舌下神経麻痺で「デジェリーヌ症候群」として、またDejerine-Sottas 症候群に名前を残しています。有名なのは彼の妻 Augusta Klumpke (1859-1927) が女医では初めてのアンテルヌとなり、女性の医学分野への進出を象徴する人物であったことです。
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Babinskiは、Charcotが課題として残した、器質的疾患とヒステリーの鑑別についても精力的に取り組みます。元々、神経内科の発展の歴史はヒステリーと密接に関連しています。梅毒患者が大きな社会問題となっていた時代、男性患者を収容するためにビセートル病院、女性患者を収容するためにサルペトリエール病院がパリに作られました。これらの病院には精神病患者も多数収容されました。Charcotがサルペトリエール病院に赴任したとき、ヒステリー患者なのか器質的疾患があるか鑑別するのは大きな問題でした。Charcotは多発性硬化症や筋萎縮性側索硬化症を記載したり、Parkinsonが報告した Parkinson病を再評価し、再び光を当てたり、偉大な業績を残しましたが、ヒステリーの診断においては汚点を残しました。Charcotは催眠術により鑑別を試みたのですが、自分では催眠術を行わず、弟子に行わせ、弟子達は師匠の意向に添うように患者を訓練しました。公開講義などでは、患者は金を受け取って、催眠術にかかったふりを演技したと言います。しかし、精神医学の分野で、Charcotの弟子であったフロイトがヒステリーをテーマに業績を残します。Babinskiも負けてはおらず、1900年に「器質性片麻痺とヒステリー性片麻痺の鑑別診断」という論文を発表し、本書の第 4章で取り上げています。そこに掲載されている鑑別表が、現在でも通用する程素晴らしいので紹介します。
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さて、第3章が、彼を彼たらしめた、かの有名な足指現象で所謂「Babinski徴候」です。Babinski徴候に似た診察法として Chaddock反射などが知られていますが、Babinski徴候ほど有名なものはありません。著者のガルサン教授にまつわる逸話を紹介します。
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「神経学の源流1 ババンスキーとともに-(萬年甫訳編、東京大学出版会)」を読み終えました。
本書の第一章は「ババンスキーとシャルコー」と題されています。冒頭部分を紹介します。
第1章 ババンスキーとシャルコー
「ババンスキーの研究がなかっったなら今日の神経症候学はどうなっているだろう。」ギラン・バレ・ストロール症候群で知られるジョルジュ・ギラン G. Guillainはババンスキーに対する追悼の辞の中でふかい感慨をこめてこう語っている。神経学史上それほど大きな存在であったその人がどのような生涯を過ごしたかをまずふりかえって見よう。
ジョゼフ・フランソワ・フェリックス・ババンスキー Joseph Francois Felix Babinskiは、1857年 11月 2日パリに生まれた。そこに生まれ、そこで死んだので生粋のフランス人と思う人もあるかもしれないが、実はポーランド系である。ポーランド系で、フランスで不滅の業績をあげたものに、音楽家のショパン F. Chopin、物理学者のマリー・キュリー Marie Curie、哲学者のベルグソン H. Bergson等があるが、このババンスキーも当然これらの人々と同列に加えられるべき巨匠である。
彼の父アレクサンダー Aleksanderは科学的素養をゆたかに積んだ技師であったが、1848年ロシアの圧政に対するポーランド人の反乱の際にこれに加わった。利あらずして戦に敗れ、シベリアに流されるのを避けてパリに亡命した。1855年にはアンリ Henriが、2年後の 1857年には弟のジョゼフ Josephが生まれた。しかし、ポーランドで新たな反乱がおこったときくや、愛国者アレクサンダーは家族を残してポーランドに向かった。1864年決定的に敗北し、ほうほうの態で家族のもとに戻ったが、落ち着く間もなく翌年彼はペルーに職を求めて海を渡っている。そこでも運悪く内乱が渦をまいていた。任務を終えてパリに帰ると、またもや戦乱が彼をまっていた。その後彼は鉱山学校の図書司の地位を得たが、後年パルキンソン病にかかり、1899年に世を去っている。
Babinskiの父が Parkinson病だったというのは、何か奇遇な気がします。Babinskiが神経学を志すのに、何か影響はあったのでしょうか?
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