Category: 医学史

アルコールを愛する友へ

By , 2008年5月14日 10:22 PM

最近、非常に面白い論文を読んだので紹介します。

岩田誠.Alcohol as a good servant. 東京医学 94: 159-162, 1987

“アルコールと医学” というテーマで論ずる場合、アルコールの害が述べられることになるのは当然といえよう。実際、この bad masterに仕えることになった人間の辿った運命の悲惨さは、古今東西誰一人知らぬものはない。若山牧水、種田山頭火、Paul Verlaine、Stephen Foster・・・思いつくままにあげてみても、その限りなく気高い魂と溢れる才能を、永遠の暴君に献上してしまった人を数えることは容易である。

しかし、good servantとしてのアルコールの役割を忘れることはいささか不当といわざるをえまい。ここでは、このような good servantとしての系譜を博物誌的に辿ってみることにしたい。

酒飲みの興味を一気に引きつける冒頭です。心の中で快哉を叫びたくなります。

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Babinskiと下戸

By , 2008年3月9日 11:07 AM

医師が、診察で足の裏を擦っているのを見たことがありますか?あれは Babinski反射という所見を取っているのです。この反射は意識障害があっても、簡単な手技で 錐体路障害を知ることができるので、重宝しています。

先日、脊髄について調べ物をしていて、京都府立医大教授の佐野豊先生の「神経科学-形態学的基礎 Ⅱ. 脊髄・脳幹」という本を読む機会がありました。この本は、内容が非常に充実していて、特筆すべきは発見の歴史から現在の知見まで網羅されていることです。定価 36,750円とやや高いのですが、十分その価値があると思います。

その中のコラム「余滴」に、Babinskiと Marieにまつわる面白い逸話が載っていたので紹介します。Babinskiは上述の反射を見つけたことで名を残していますし、MarieもCharcot-Marie-Tooth病に名を残した、有名な神経内科医です。

余滴 Babinskiと下戸

神経研究史の中に名をとどめた偉大な研究者の中には数かずの逸話を残した人たちも少なくない。しかし酒にかかわる逸話となるとあまり知られたものがない。

神経病学の大家 Joseph Babinskiは兄のHenri Babinskiと共に独身を通し、二人暮らしをつづけた。兄はすぐれたエンジニアであったが、秘書役として弟の仕事を支え、まるで家政婦のように食事をつくり、朝の目覚ましまで行って面倒をみたことは有名である。食通であった Henriは調理の技術にも熟達し、その道に関する著書まで出版した人物で、Ali-Babaの異名をもつ Parisでも屈指の美食家であった。弟が家に招く客人たちは、兄の手によるご馳走にあやかることができたという。

K. Kolleが編集した Grosseの Nervenarzte. Georg Thieme, Stuttgart 1959の 2巻に掲載された Joseph Babinski (pp. 162-171) の項を執筆したTh. Alajouanineは、その中に興味深いエピソードを紹介している。Babinskiはある日、Charcot門下の先輩 Pierre Marie (1853-1940) を招待した。兄は料理に腕をふるい、とっておきの Bordeauxの赤ワインを添えて出した。こともあろうに、Marieは極上のワインの入ったグラスに水を注ぎ、極めて薄めて飲んだのであった。のちに Babinskiは半ば真剣に、半ば冗談めかし、たとえ尊敬する先輩であってもこの行為だけはゆるせないと語ったという。-その日、野武士のような風貌をもつ Marieの行為を、美食家で鳴らした Babinski兄弟が哀れみとさげすみの混じり合った複雑な気持ちで眺めている姿や、客人の帰ったあと二人で交わし合ったであろう会話が、私には手にとるようにうかがえる。

酒は百薬の長といわれてきたのに、多くの医師たちは患者を前にすると誰彼を問わず飲酒を止める。こうした医師たちの集まりで上述の逸話を紹介したとき、酒好きの人たちは大いによろこんで聞いてくれたが、下戸の人たちには逸話のおもしろさが通じなかったのかなんの反応も得られなかった。下戸の人たちには Babinskiの失望と怒りが実感として伝わらないのであった。私は胸の中で苦笑し、二度と公の席でこの逸話は口にするまいと心に決めた。

私は、酒好きなので、この逸話を知ってから、色々な人に紹介してまわりました。私にも、その時の光景が見ているように目に浮かび、ワインを飲む機会がある度にこの逸話を思い出すのでした。

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医学を変えた発見の物語

By , 2008年2月3日 6:04 PM

「新訳・医学を変えた発見の物語 (Julius H Comroe Jr, MD著、諏訪邦夫訳、中外医学社)」を読み終えました。原著のタイトルは「Retrospectroscope -insights into medical discovery-」といいます。

本書は医学史について深く触れた本ですが、貫かれるテーマは、意図されていたもの以外から、優れた研究が生まれることについてです。つまり、当初意味がないと思われた研究が、別の分野で多大な貢献をすることがあるのです。従って、意味のある研究ばかり追究すると、そういった部分がおろそかになると考えられます。ノーベル賞を受賞した小柴さんが、「われわれが研究していることは、意味のあることかどうか、後世にならないとわからない」と言っていたのを思い出します。

第 1章は、「空はなぜ青いのか」と題されています。「空はなぜ青いのか」という疑問にレオナルド・ダ・ヴィンチ、ニュートン、ゲーテが挑み、ティンダルが部屋を暗くして水蒸気に太陽光線を当てて、青い空をガラス管内に作ることに成功しました。この技術は細菌学に応用され、バクテリアを含んでいない空気からバクテリアが生じないというパスツールの考えが証明されました。

ティンダルの凄いのは、フレミングが1929年にみつけた現象を1877年に発見していることです。その記録を引用します。

 ペニシリンカビはとても美しい。カビが厚く集まっているところでは、細菌は死んでいるか死にかかって培地の底に沈殿している。カビは生育も細菌に与える影響も気まぐれである・・・隣り合った2本の試験管で、一本はバクテリアが繁殖してカビをやっつけて、すぐ隣の一本は逆にカビが細菌をやっつけている。

我々は、中学生か高校生の頃に、チンダル現象を学校で習いますが、実はチンダルは他にもこんな業績があったのですね。

第2章の「『空気』という海」では、トリチェリの4つの業績が紹介されています。

1)「われわれは空気という海の底に住んでいる。その空気は重さをもつ」という新しい認識
2)空気の重さを測る道具すなわち気圧計の発明
3)水銀柱より上の部分のいわゆる「トリチェリの真空」の発見
4)空気の研究における定量測定の開始

これだけ見ても、従来の常識を覆す発見であることがわかります。ちなみに、工学者たちは、mmHgという長い音節の単語に変えて、トリチェリの名前から「torr」という単位を作ったそうです。地球上では数値は一致するが、mmHgは重力の影響を受けるのに対し、torrは「地球上の大気圧の平均値を 760 torrとする」と定義しています。この mmHgと torrの違いは、昔麻酔科の授業で習った記憶がありますが、すっかり忘れていて、久しぶりにみて懐かしく思いました。電気の周波数に名前を残したヘルツも、トリチェリの本を読んでいた記録が残っています。

第3章は「物の内部をのぞく話」です。レントゲンについて扱われています。本書の記述を、少し年表のようにしてみましょう。

 1895年11月8日レントゲンがX線を発見。2~3週間研究を進める。最初の被写体は妻の手
1895年12月28日ビュルツブルグ医学協会機関誌に論文掲載
1896年1月5日ウィーン新新聞にレントゲンの発明の記事あり
1896年1月23日口頭発表、同日、ビュルツブルグ医学協会機関誌発表の論文がNatureに英訳される
1896年2月14日ビュルツブルグ医学協会機関誌発表の論文がScienceに転載される
1896年4月血管撮影が行われる
1897年6月レントゲン協会結成

ものすごい勢いで広まっているのがわかります。すぐに様々な生物分野にも応用されました。特記すべきは、1897年に「荷物に爆発物や密輸品がないかの確認、お酒の熟成を進めること」などを適用が考えられる用途として挙げている人物がいることです。テロ対策の草分けですね。お酒の話も興味が持てます。

で、X線の副作用についてはほとんど知られていなくて、自分の手で実験した人が居たみたいです。トンプソンと言います。トンプソン効果を見つけた人物と同一人物かはわかりませんでした。ただ、現代の知識を持った我々からは、びっくりするような実験なので紹介します。

 X線の組織障害作用には前から興味をもっていた。X線でやけどしたという話を何回か聞いたが、私にはとても信じられなかった。そこで実験した。X線の出てくる透明ガラスの所に指を一本置き、ほかの指は青ガラスでしっかり防御した。ホルツ型の機械でちょうど30分間当てた。管球に充分くっつけて30分後、多分まだ時間が足りないとは考えたが、くたびれたのでそこで止めた。遠くから何時間も当てるのと同じくらいの量が当たったと考えてやめにした。5日、7日、8日と待って何事も起こらず、放射線の作用など何もない、障害の話は嘘だと考え始めたところであった。ところが9日目になって、指先に発赤が始った。12日目には水疱もできて、とても痛くなった。13日目、14日目には水疱が皮膚全体に拡がりX線を当てなかったところまで水疱になり、全周にわたった。表皮は縁の所にほんのちょっと残っただけで全部はげ落ちて大きな潰瘍となり、治癒のきざしはみえなかった。やがて、周囲から表皮が生えて次第にとじたが、完成はほんの3日前で、皮膚はさわると痛く、指を覆うしっかりとした皮膚はできそうにない。皮膚はさわるとまだ痛く、指を覆うしっかりとした皮膚はできそうにない。皮膚と皮下組織との接着が弱く、ブヨブヨしてさわると痛くさわらなくても燃えるようなピリピリ痛む感じである。とにかく治ったからいいようなものの、実に6週間半もかかっている。

想像するだにおぞましい実験です。

第4章は「大発見の人と背景 第1部」、第5章は同第2部となっています。発明のきっかけと、その後発展したものが全然別だというものが、これでもかと紹介されています。その最たる例が第6章「足は地面を離れるのか」に載っています。

みなさんは、映画のルーツは何だと思いますか?実は、「馬が走る時に、足が全部離れるか?」の調査から発展したものなのです。本書から、当該の部分を引用します。ちなみに、本書にはその連続写真も掲載しています。

 1872年の春に・・・サンフランシスコで、動物の運動に関する議論が再燃した。・・・テーマは、馬が歩いたり走ったりするときに、四つ足がすべて同時に地面を離れることがあるかである。

マイブリッジは、この論争に決着をつけようと決断した。短い間隔で何枚もの写真を撮れば解決できると考えた。1872年当時、映画はもちろん存在しない。写真もフィルムではなくて、ガラス乾板に撮影していた。マイブリッジは、12台から 24台のステレオカメラを競馬場のトラックに平行に並べ、馬が第1の位置にきたときにボタンを押して、以後のカメラが電気モーターで次々とシャッターが落ちていく仕掛けを作った。結果の一部は、6枚の連続写真として図1にあげてある。

次にこのガラス乾板を円板にはめ込んで回転し、馬の走る様子を再生することに成功した。カメラはステレオであったから、乾板を2枚の円板に対応してはめ込み、それを回転することで立体像も撮った。これこそ世界最初の映画、それも立体映画である。ハリウッドの映画が現代文明の進歩に有用かどうかの議論はさておき、映画が医学や医療の役に立っていることは間違いない。

1872年に、マイブリッジがNSFに研究費を申請したら、「下らない研究」として、国会議員は否認しただろう。ところがマイブリッジは幸運だった。スタンフォード大学の創始者スタンフォードが、その屋外研究所をマイブリッジに提供した。人・動物・鳥で研究を続けて成果を発表できるよう、ペンシルバニア大学の副学長ペッパーが大学の委員会や友人と協力して、マイブリッジに研究費を与えた。1882年になると、フランスの生理学者マーレイが、マイブリッジのようにカメラを何台も用いるのではなく、1台のカメラで帯状フィルムを用いて、現在の映画撮影に成功した。1893年になると、エジソンがこんどは映写機を発明して特許をとり、映画の発明者になった。

何と、馬の話が映画の話になってしまいました。同様の話が本書ではいくらでも紹介されていて、「マダガスカル産のハリネズミが、何故じっと動かなくなるか」の疑問の研究から、「熱帯の動物も体温が少し下がると冬眠状態になるとわかり、心臓手術中の低体温麻酔法の開発につながった」などという話もあります。

第9章は「赤ちゃんの泣き声が歌になる」と題されていて、学生による大いなる発見に焦点を当てています。著者は研究の必要性を説いています。現在の日本では、研究は評価されているとは言い難いのが現状でしょう。

 学生が臨床面に優れるか教育面に優れるか研究面に優れるかをみつけ、優れた方向へ進むよう指導するのは、教官の重要な任務である。

領域の一つは研究である。学生が研究に優れるか見分けるには、学生時代に研究に参加する機会が必要である。そこで、私の立場を一応はっきりさせておこう。最近、私は患者として入院する機会があった。その経験も踏まえて、医師やナースの役割、患者を世話し患者のために活動する役割に充分な信頼を寄せてはいる。しかし、研究が進んで入院が必要なくなれば、どんなによかろう。

学生が研究を経験することには二重の利益がある。優れた能力のある学生を選び出す他、研究の医師のない学生でも研究経験があった方が優秀な医師になる。効果はいろいろと幅広い。

例えば、論文を批判的に読めるようになる。雑誌に発表されたデータを、客観的に見られるようになる。医科大学には「データ評価」のコースはない。けれども、学生が卒業後40年間も独立して活動し、いいものと悪いものと見分け、必要なものを採用し不要なものを捨てられるように、教官は教育せねばならない。

研究の経験があれば、対照実験の重要性もわかる。新しい評価法の評価には特に大切な問題である。

研究の経験があれば、問題解決に系統的に当たるにはどこから攻めたらよいかもわかる。患者を一人一人治療していくのは「問題解決」である。研究のおかげで、診断・予後・治療の評価の際、漠然と推測するより数字を取り扱う方が優れていることもわかる。

本書に取り上げられている学生のした研究を列挙してみましょう。

デイヴィ-笑気の麻酔作用発見
モートン-エーテルの麻酔作用発見
ポアズイユ-血圧測定
ピーターソン-動脈圧連続測定
ランディス-小血管の血圧測定
ランゲルハンス-膵臓ランゲルハンス島の発見
バンティングとベスト-インシュリンの発見
マクリーン-ヘパリンの発見
ブロイエル-ヘーリング・ブロイエル反射の発見
ザントストレーム-副甲状腺の発見
テベシウス-テベシウス静脈の発見
ブラック-炭酸ガスの発見
ベリーニ-腎組織の構造の記載 (そのまま20歳で教授へ)
ヤング-眼球内の毛様筋の収縮により焦点距離を調節していることの発見 (彼はヤングの干渉実験でも有名)
フラック-キース・フラックの結節を発見
スワンメルダム-毛細管の中の血球を発見
イーヴリン-比色計を発見
フォーグル-梅毒治療にサルチル酸 (駆梅薬)を使用した際、強力な利尿効果があることを発見 (心不全の治療に応用)

枚挙にいとまがありません。著者のこのような考え方に、謝意を述べた弟子の手紙が紹介されています。

あなたのもとでリサーチフェロウをやった医師の中には、私のように開業した人もおり、教育のむだと見えるかもしれません。でもそれは違います。科学的に物事を考えるだけで診療が行えるとは主張しませんが、毎日の医療に科学的考え方を適用するのでなくては、そもそも進歩はありません。

第11章は、偶然起こったことから非常な利益を得る話で、「豚の丸焼きと科学の発見」と名付けられています。これは、たまたま豚小屋が火事になり、焼けた豚を食べた人が、豚を焼いて食べるとおいしいと気づいた逸話からとられています。いくつか紹介しましょう。

①殺鼠剤フェニールチオ尿素の研究中に、同薬剤で甲状腺ホルモン生成阻害が起こることが発見され、抗甲状腺薬が発見された(※記載はありませんが、PTU(プロピルチオウラシルでしょうか))。
②糖尿病患者ではインシュリン破壊酵素インシュリナーゼの作用が強すぎるのではないかと仮説が立てられ、それを実証する実験をしたところ、逆に糖尿病患者ではインシュリン消失が遅かった。その原因を確かめるためインシュリンをアイソトープでラベリングして患者に投与した実験で、インシュリン量の測定が可能になった(ラジオイミュノアッセイ法)。
③抗ヒスタミン薬ドラマミンの治験中に偶然、抗ヒスタミン薬が乗り物酔いに効くことがわかり、乗り物酔いに悩む米軍は研究に乗り出した。
④冠動脈造影は元々、重篤な不整脈が起こりそうなため、施行されていなかった。ただ、医療事故で間違えて冠動脈に造影剤が流入してしまい、その時にRCAが末梢まで鮮やかに造影された。また、患者に合併症はなかった。このことから冠状動脈カテーテルが行われることになっった。
⑤昔はペニシリンが高価で手に入らなかった。というか、大量生産が不可能だった。そこで、血中濃度を保つためペニシリンが排出されにくい薬を開発されることにした。パラアミノ馬尿酸は効果があったが、不十分だった。そこで、プロベネシドが開発されたが、開発されたころにはペニシリンは大量合成できるようになっていた。しかし、尿酸排泄促進剤として痛風に効果があることが発見された。
⑥研究室の動物飼育担当者が残飯を使って飼育していた頃は、鶏の脚気は発生しなかったが、担当者が交代して白米を与えるようになってから鶏に脚気が発生した。また残飯を投与するようになってから脚気は発生しなくなった。このことから何か大切な物質「ビタミン」の存在が示唆され、特に脚気を防ぐ物質は「サイアミミン」と名付けられた。

このように、この類の話もいくらでもあります。研究というのは、偶然が作用する場合があるのだなとつくづく思います。でも、それを見逃さない観察眼や、見つけたら発表する姿勢は大切と言えるのかもしれません。

第17章は「実のところのおはなし」という、発見の舞台裏についてです。

例えば、リンガー (リンゲル) 液は、ちょっとしたミスから見つかりました。リンガーは、実験に蒸留水ではなくて、水道水を使ってしまったのです。結果的に実験が成功しました。でも、蒸留水から生理的食塩水を作ると上手くいかなかったのです。こうして、水道水に含まれるカルシウムの重要性に目がいきました。ちなみに、リンガーの弟は貿易商で、グラバー邸を中心とする長崎の史跡に邸宅を残しているそうです。

この章は引き続きヘパリンなどの抗凝固薬の話が扱われるのですが、その中に、信じられないような記述があったので、一部引用しておきます。

現時点では信じがたいことだが、1900~1915年ころは輸血には供血者の動脈と患者の静脈を直接つないでいた。血液凝固を防ぐ方法としては、刷毛で激しくかきまぜて血中フィブリンを取り除く位しか手立てがなく、血液を刷毛でかき混ぜると強い生体反応が起こった。1914年、ベルギーの医師ハスティン博士がクエン酸ソーダを血液に加えると凝固しなくなり、現在の手順の輸血の可能性を証明したのである。

供血者の動脈と患者の静脈を手術でつないで輸血させるなんて、想像しただけで鳥肌が立ちます。

第23章は「世界史上の人名録」です。多くの人の命を救ったであろうペニシリンの発見者をあなたは言えますか?この発見に対して、世間の関心は一過性のものだったのでしょうか?日本においてもペニシリンは未だに肺炎治療の基本であったりして、ないがしろにされるべき薬剤ではありません。

さて、ペニシリンの件についての解答です。引用を持ってかえさせて頂きます。

 こんな問題がなぜわからないのか、とても不思議である。ペニシリンはおそらく史上最多の人命を救った薬物のはずで、当然大事件である。そこで百科事典のFの項を引いて、フレミングの名前が載っているか調べた。なるほど一応載ってはいる。「アレクサンダー フレミング卿、スコットランド生まれの細菌学者及び医師、ペニシリンの共同発見者、1929年」となっていた。次に同じ辞書の附録についている「世界史上で重要な日付」に当たってみた。21ページ、1770項目にわたる記事である。一番古い項目は、紀元前 3200年のことでエジプト王朝であり、最後の項目は 1965年バチカンにおける法王パウロ 6世の全体協会開催となっていた。

フレミングがペニシリンを発見した 1929年も載っていた。この年の事件は 4つで、アルバニア王ゾグの統治、ヤングの賠償案をドイツと同盟国の双方が受け入れたこと、ニューヨークウォール街の株の暴落、フーバー大統領辞任の4つである。ペニシリン発見は載っていない。次に 1895年のレントゲンの発見が載っているかしらべたが、これも載っていない。1895年として載っていたのは、日清戦争・ドレフュス事件・帝政ロシアのニコラス 2世の統治、極東での争いであった。さらに少し考えて、ハーヴェイの血液循環が載っているか試した。1628年は辞書に載っているが、その内容はスペインのフィリップ 4世の統治、イギリスのチャーチル1世の統治、権利章典の署名、マサチューセッツ港湾会社の免許といった項目で、血液循環は掲載されていない。

私も知らないことは多いのですが、こうした歴史を知ることは有意義なことだと思います。先人達の業績については、我々はもっと勉強しなければいけませんね。

第24章は、「失敗を恐れない勇気」です。ここでは、勇気を第1~第4級に分けています。

第1級の勇気は、自分の命をかけて人類に寄与した勇気です。自分の右心にカテーテルを挿入したフォルスマンが例として挙げられています。

第2級の勇気は、自分の家族を実験台にして研究を行ったものです。ジェンナーが牛痘を用いて予防接種するより昔に、天然痘患者のうみを自分の子供に打ったモンタギュー夫人などです。

第3級の勇気は、第1級のように自分の命を賭けるものの、動機が富や名声であるものです。

第4級の勇気は、自分が非常に重い病気にかかっていて、未知の治療を受けた患者です。面白い例があるので紹介しましょう。

別の例としてギルモア博士をあげよう。ギルモア博士は、1933年に肺切除を一期的に行う手術を初めてうけた患者である。当時48歳であったが、左肺上葉で気管分岐部に非常に近いところに扁平上皮癌が見つかった。主治医の外科医グラハム博士は気管支鏡と試験切除で確認できたので、患者のギルモア博士に対して手術の計画を正確に説明した。ギルモア博士は一度病院から退院して、いろいろと準備をし、当然その間に墓も予約した。最もグラハム博士が喜んだことに、ギルモア博士は歯医者に通って歯の治療もうけたという。ずっと後の1957年になって、グラハム博士は「ギルモア博士が歯医者へ行ったと聞いて、わたしは大変うれしく自信もついた」と言っている。世界最初の一期的肺切除術は大成功に終わり、その後患者は健康に過ごして結局 1963年に心臓と腎の病気により78歳で死亡した。実は手術した外科医よりも、患者の方が 6年も長生きしている。グラハム博士の方は、1957年に自分も肺癌にかかり手術不能で死亡している。

その後に、「外科医の勇気」というのが述べられています。それは、失敗が続いてもトライを続けるものです。しかし、それを勇気と呼べるか、筆者は懐疑的です。

ここで述べた話は心臓外科手術と勇気であるが、だれの勇気だろう。外科医が自分の医師としての生命をかけて危険な手術を試みたというのだろうか。それとも 5人目の患者クレア ウォードが前の 4人が死んだこと、少なくとも前の 3人は死んだことを知りながら、あえて自分の命をかけたその勇気だろうか。「第4級の勇気」の栄誉は外科医ではなくて患者に与えるべきである。

外科医の方は勇気があったとは言えないか。勇気と言わない理由は、1例の成功までに、何例も失敗するのはきわめて当たり前だっったからである。この点は、今となっては覚えている人も少ない。こういう失敗を重ねても、外科医としての生命を危うくするとか、不名誉として人から責められたり、貧困に陥ったという例はない。そうした事例があれば、医師を第 4級の勇気か第 2級の勇気として称賛してもよい。しかし、いろいろな論文や出版された文章、伝記を読んでみても、失敗によって汚名を着せられた例はない。

トレンデレンブルグといえば有名なドイツの外科医であるが、1912年に「われわれは肺血栓除去術を 12例試みて 12例失敗した。しかし続ける」と述べている。実際宣言のとおりこの手術を続け、失敗を続け、しかもなお周囲から敬服を受けつづけた。

著者は、そう述べながら、手術に失敗して心に大きな痛手を受ける外科医の話も紹介して、「私の分析には何か至らない点があるのかもしれない」と結んでいます。

この話から感じるのは、「初めて」の治療を受けることの恐怖と、それを乗り越えることの勇気です。その成功により、医学は発展してきました。でも、ある意味綺麗事も含まれており、上手くいかなくて命を落とした人たちが数え切れないほどいることも事実です。

第25章は、「フランケンシュタインとピックウィックとオンディーヌと-引用の誤りについて」です。小説から名前を借りたピックウィック症候群とか、オンディーヌの呪いという病気があるのですが、実は小説を読んでみると、不適切なネーミングであったというものです。このことは以前「好きになる睡眠医学」という本の紹介で触れたので、流します。

私が初めて知ったのはフランケンシュタインの由来です。もともと、1816年にシェリー夫妻らが休暇中に、退屈を紛らわせるために、みんなで幽霊の話を書こうということになりました。実際に書いたのはシェリー夫人だけで、「フランケンシュタイン-現代のプロメトイス」という題名の本でした。ヴィクトール フランケンシュタインはインゴルスタット大学の「自然哲学(医学)」の学生でした。彼はおとなしく、賢い紳士であって、人から愛されることを願っている創造物を作りました。部品は病院の解剖室や屠殺場から集めました。創造物は人のために尽くしますが、逆に迫害され、痛めつけられ、人類に復習を誓います。こんな悲しい物語があったとは知りませんでした。お化け屋敷で会ったら、「ごめんなさい」と謝らないといけませんね。ちなみに、フランケンシュタインは創造物を作った学生のことで、創造物をフランケンシュタインと読ぶのは、厳密には誤りなのだそうです。

さて、最後の3章は肺の「サーファクタント」発見の物語です。新生児が生まれてすぐ呼吸出来るようになるのは、この表面活性物質の影響が大きいのです。しかし、それが同定され、治療に応用されるようになるには、大変な物語がありました。

最初は、表面張力に関わるラプラスの法則から始まります。このラプラスの法則を訳して英語圏に広めたのがバウディッチで、原典と同じ長さの注釈を付けて、発表しました。でも、彼は10歳までしか学校に通わず、以後は船乗りをしていたのです。天才としか言いようがないですね。このラプラスの法則が、サーファクタント探求への理論的な基礎となります。ちなみに、ラプラスの法則は盗用とも考えられ、最初に報告したのはヤングで、当のヤングはラプラスに「フランスで新しい重要な理論として発表されたことが、実は1年前に本学会で堂々と発表されていたことは知っておいて欲しい」と苦言を呈しています。

後に紆余曲折を経てサーファクタントが発見されるのですが、是非本書を読んでみて欲しいと思います。途中、結核なのにそのまま小児科のインターンを始め、多大な貢献をした医師の話なんかも出てきます(ガフキーのことは書いてないけれど、患者に伝染ったらどうするんだっての)。

現在、未熟児が生まれても、助けられるのはこのサーファクタントの発見によるところも大きいと考えられます。サーファクタントの不足は新生児呼吸窮迫症候群を招くからです。

こうした本を読むたびに、人類が積み上げてきた医学史の重みを感じます。特に本書を通じて、発見には予想外の事象から導かれたものも多く、医学は必ずしも直線的に進んできた訳ではなかったのがよくわかりました。

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お産の歴史

By , 2008年1月25日 7:20 AM

「お産の歴史-縄文時代から現代まで(杉立義一、集英社新書)」を読み終えました。

人類が始まったところから、お産はあったのに違いないのですが、我々は縄文時代の遺跡から、昔のお産文化をうかがい知ることが出来ます。土偶などです。縄文時代の遺跡を見ると、胎児から生後一年までの乳幼児の墓が、成人の墓の六倍存在するなどといった事実が本書に記されています。

次に、古事記の記載です。

伊耶那岐命 (イザナキノミコト) がその妻の伊耶那美命 (イザナミノミコト) に尋ねて「お前の身体はどのようにできているか」と言うと、答えて、「私の身体は成り整ってまだ合わないところが一か所あります」と申した。さらに伊耶那岐命が「私の身体は成り整って余ったところが一か所ある。だから、この私の身体の余分なところでお前の身体の足りないところをさし塞いで国を生もうと思う。生むことはどうか」と仰せになると、伊耶那美命は「はい、それでよい」と答えて言った。そして、伊耶那岐命は「それならば、私とお前でこの天の御柱のまわりをめぐって出会い、寝所で交わりをしよう」と仰せになった。こう約束して、すぐに「お前は右からめぐって私と出会え。私は左からめぐってお前と出会おう」と仰せになった。約束しおわって柱をめぐり出会った時に、まず伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言い、あとから伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女であろう」と言った。それぞれ言いおわったあとで、伊耶那岐命が妻に仰せになって「まず女の方から言ったのは良くなかった」と言った。そうは言いながらも、婚姻の場所でことを始めて、生んだ子は、水蛭子 (ひるこ) だった。この子は葦の船に乗せて流しやった。次に淡島を生んだ。これもまた、子の数には入れない。

そこで二柱の神は相談して「今私たちが生んだ子はよろしくない。やはり天つ神のもとに参上してこのことを申し上げよう」と言って、ただちに一緒に高天原に参上し、天つ神の指示を求めた。そこで、天つ神はふとまにで占い、「女が先に言葉を言ったのでよくないのだ。まだ降って帰り、言いなおしなさい」と仰せになった。こうして、二神は淤能碁呂島 (おのごろしま) へ帰り降って、ふたたびその天の御柱を前のようにめぐった。

そこで、まず伊耶那岐命が「ああ、なんといとしい乙女だろう」と言い、あとから妻の伊耶那美命が「ああ、なんといとしい殿御でしょう」と言った。こう言いおわって結婚され、生んだ子は、淡路之穂之狭別島 (あわじのほのさわけのしま)

古事記には、編纂された頃の思想が反映されていると思うのですが、男性から求婚することが、強く求められています。現代でも、男性からプロポーズすることが多いのは、何か植え付けられた意識があるのか、それとも別に要素があるからでしょうか?

本書では、古事記のその後の記載から、お産を考察しています。

時代が下って、奈良時代には「女医 (にょい)」という官職があり、主として助産婦のような仕事をしていたことがわかります。ただ、今の「女医 (じょい)」とは全く別のものだったようです。

平安時代のお産については、栄花物語での出産シーンを研究したものがあるそうです。

 産科史的にみて重要なことは、妊産婦の産後の死亡が多いことで、この点に関しては、佐藤千春の詳細な研究 (「栄花物語のお産」『日本医事新報』一九八九年八月) がある。それにもとづいて計算すると、四十七人の妊産婦のうち十一人の死亡例 (二三.四%) があり、出産回数でいえば、六十四回の出産に対し十七・二%の母体死亡となる。

びっくりするほどの数字ですね。当時は近親婚も多かったし、色々出産にマイナスとなる習慣もあったのでしょうが、何故縁起を担ぐ行事がそこまで発展したかわかるような気がします。

江戸時代の産婆は酒を飲んで仕事していた人がいたそうで、香月牛山著の『婦人寿草』の「産婆を選ぶ基準」に次のように書いてあると紹介されていて、笑ってしまいました。

産婆の多くはよく酒を飲み、性格も剛胆である。ただし、あまり多くの酒を飲ませるべきではない。気力の助けとなるくらいのわずかな量で充分であり、多いと眠気をさそい、酒臭い息が産婦にかかり、その息を嫌う産婦も多い。

仕事中に酒を飲むのはダメですよね。

江戸時代以前にも、変な風習は多かったのですが、江戸時代には徐々にそれらが正されていきます。近代産科学の創始者加賀玄悦は「産論」を著しました。

 当時上は后妃から下は庶民の妻にいたるまで、産後七日間は産椅という椅子に正坐させて、昼夜看視する人がついて眠らせず、横臥させないという風習があった。

「産論」などを通じて、こうした風習を加賀玄悦は正していくのですが、7日間寝かせないというのは、拷問にも等しいですね。加賀玄悦には、他にも多大な業績があり、例えば回生術といって死胎児を取り出す(胎児の頭蓋を砕いたり、手足を切断したりする)方法を広め、多くの母体を救いました。

玄悦の後を次いだのが、出羽国横堀出身の玄迪です。彼は「正常胎位を図示したわが国初めての妊娠図」を書いたのだそうです。そうこうして、加賀流産科術は日本で広まっていきました。会津にも山内謙瑞という医師が会津若松町で開業した記録が残っているそうです。玄悦の弟子の奥劣斎は、日本で初めて尿道カテーテルを行った医師なのだそうです。

ただ、加賀流は、鈎を用いるので、胎児に傷が付きやすかったそうで、陸奥国白川郡渡瀬出身の蛭田克明は、加賀流に対抗する蛭田流を作ったそうです。

会津若松で開業した山内謙瑞や、白川出身の蛭田克明など、福島県には産科史的に重要な役割を果たした医師の名前が見られる一方で、最近、大野病院事件のように産科医療崩壊の引き金になった事件も起こり、不思議な感覚がしました。

さて、興味深いのは帝王切開についてです。いつくらいからこのような方法が行われているのか興味があります。俗説では、カエサル・シーザーが帝王切開で生まれたというのがありますが、誤りのようです。Wikipediaからの引用です。

帝王切開

日本語訳の「帝王切開」はドイツ語の「Kaiserschnitt」の翻訳が最初と言われ、ドイツ語の「Kaiser=皇帝」、「Schnitt=手術」よりの訳語である。 語源として現在もっとも有力な説は、古代ローマにおいて妊婦を埋葬する際に胎児をとり出す事を定めた Lex Caesareaにあるとされている。

さらに「Kaiserschnitt」の語源であるラテン語の「sectio caesarea」は「切る」と言う意味の単語二つが、重複している。これが各言語に翻訳されるにあたり、「caesarea」を本来の「切る」という意味ではなく、カエサルと勘違いしたのが誤訳の原因であるという説もある。

そのほかの現在は誤っているとされる語源の説として

ガイウス・ユリウス・カエサルがこの方法によって誕生したということから。

中国の皇帝は占星術によって、母子の状態に関係なく誕生日を決められていたため、誕生日を守るために切開で出産していたとされることから。

シェークスピアの戯曲「マクベス」の主人公の帝王が、「女の股から生まれた男には帝王の座は奪われない」との占いを聞き、大いに喜び自分がこの世の帝王だと信じていたが、あまりの圧制に反乱を企てた反乱軍のリーダーとの決闘の際この占いの話をしたところ、「俺は母親の腹を割かれて生まれてきた」と返された上で殺され、その反乱軍のリーダーが新たな帝王になった。という話から。

本書で、帝王切開の歴史に触れていますので紹介しておきましょう。

 生きている産婦に対する世界ではじめての帝王切開は、ザクセン地方の外科医トラウトマンが一六一〇年四月二十一日におこなったのが最初といわれる。このとき、母親は二十五日間生きた。つぎの二世紀におこなわれた帝王切開は、直接の大量出血と感染によりすべて一週間以内に死亡した。そのためフランスでは一七九七年、反帝王切開協会が組織されるにいたったほど、当時の帝王切開術は危険を伴うものだった。アメリカ合衆国では、一七九四年にはじめて成功、以降、一八七八年まで八十例の帝王切開がおこなわれたが、ここでも母の死亡率は五三%と高かった。

わが国における伝承としては、一六四一 (寛永一八) 年、肥後 (現・熊本県) 人吉藩で、藩主相良頼喬の誕生の際に、生母周光院殿 (十九歳) に帝王切開をおこなった。母は死亡したが、胎児は救われた。ただし明確な証拠はない。

文献上、日本で最初に帝王切開が紹介されたのは、一七六二 (宝暦十二) 年に、長崎でオランダ外科を教えていた吉雄耕牛の講義を、門人の合田求吾が書き残した『紅毛医談』である。(略)

そうした状況のなかで、実際にこの手術をおこなった医師があらわれた。伊古田純道 (一八〇二~八六年) と岡部均平 (一八一五~九五年) の二人の医師で、一八五二 (嘉永五) 年四月二十五日 (陽暦六月十二日)、武州秩父郡我野村正丸 (現・埼玉県飯能市)、本橋常七の妻み登の出産の際に、帝王切開の手術をおこなった。(略)

純道は右側に立って、左下腹部を縦に切開し、ついで子宮を約一〇センチ切開して、胎児および付属物と汚物をすっかり取り除いて (子宮の切開創はそのままにして)、腹壁を縫合して無事手術を終えた。その間半刻 (一時間) ばかりであった。(略)

その後、み登は九十二歳の天寿をまっとうした。

日本は、欧米に遅れて成功していますが、長崎から学問が入って来たことが、大きな役割を果たしています。学問に関しては、情報の伝達が非常に大切であることが痛感されます。それにしても、初めて帝王切開受けた女性はどんな思いだったでしょう。それを受けないと死ぬという状況でしたし、ものを考えられる状況にはなかったかもしれませんが。

最後に、「産経」というのは、中国最古の産科専門書といいます。産経新聞とは関係がないようです。

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神経内科病棟

By , 2008年1月4日 4:00 PM

「神経内科病棟(小長谷正明著、ゆみる出版)」を読み終えました。

小長谷先生の本は、これまでに「ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足」や「神経内科-頭痛からパーキンソン病まで- 」を紹介したことがあります。文章が上手ですし、内容がしっかりしていて読みやすいです。

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高血圧研究の偉人達

By , 2007年12月16日 6:06 PM

「高血圧研究の偉人達 (荒川規矩男編集、先端医学社)」を読み終えました。

この本は、文字通り高血圧研究の先駆者たちを紹介した本です。

目次

chapter 1 Richard Bright-腎疾患が硬脈 (=今日の高血圧) を伴うことを初めて指摘した腎臓病学者
chapter 2 Robert Tigerstedt-レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系の出発物質レニンの発見者
chapter 3 高峰譲吉-最初のホルモン (アドレナリン) 結晶化の先駆者
chapter 4 Scipione Riva-Rocci/Nicolai Sergeivich Korotkov-間接的血圧測定法の生みの親
chapter 5 Harry Goldblatt-高血圧モデル動物として腎動脈狭窄による持続性高血圧の作製に成功した病理学者
chapter 6 Eduardo Braun-Menendez-レニン・アンジオテンシン系の真の発見者
chapter 7 Irvine H. Page-アンジオテンシンの活性を発見し、高血圧学会を創始した医政家
chapter 8 Leonard T. Skeggs-自動分析器を発明し、レニン-ACE-アンジオテンシン系の全経路を解明した生化学者
chapter 9 Jerome W. Conn-原発性アルドステロン症を発見・命名した内分泌学者
chapter 10 Franz Gross-レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系の確立に寄与した臨床薬理学の草分けの一人
chapter 11 F. Merlin Bumpus-Pageグループのアンジオテンシン研究陣の補強に加わり、最初のARBに到達した生化学者
chapter 12 George W. Pickering-本態性高血圧の原因として疫学的に環境説を確立した臨床家
chapter 13 Arthur Clifton Guyton-血行動態のコンピュータ解析から高血圧の原因や機序に迫った異色の生理学者
chapter 14 岡本耕造-本態性高血圧の研究モデル,SHRの贈り主
chapter 15 Lewis Kitchener Dahl-食塩と高血圧の関係究明に生涯を捧げた研究者
chapter 16 Harvey Williams Cushing-内分泌脳外科学の創立者
chapter 17 Grant Winder Liddle-内分泌高血圧の臨床研究先駆者
chapter 18 Walter Krempner-無塩米飯食での降圧効果を重症高血圧患者500人で初めて実証した臨床高血圧学者
chapter 19 Edward D. Freis-利尿薬の降圧作用を発見し、VA studyにも応用した臨床介入試験創始者
chapter 20 Lennart Hansson-臨床現場における幾多の疑問に各種臨床試験で解答を提供してきた介入試験の大家

最初に紹介されるのは Brightです。Brightは腎疾患に伴って左室肥大が起こることを指摘しましたが、それを発展させ研究したのは、Traubeと Gullだったそうです。Traubeは動脈圧の上昇が心拡大と心肥大を来すことを提唱しました。

chapter2では、レニンを発見した Tigerstedtが紹介されます。しかし、Tigerstedtにレニン発見に至る直接的影響を与えたのは Brown-Sequardだったそうです。Brown-Sequardは、モルモットの睾丸エキスを自分に注射して精力が回復したと発表し、内分泌物質の存在を示唆した人物です。ブラウン・セカールと発音します。ちなみに、Brown-Sequard症候群として彼は名前を遺していますが、「彼がやった仕事は、動物の脊髄の片側に切開を加えて対側の下肢を炙ると熱がらないということで、その概念をきちんと突き止めたのはデュシェンヌである」ということを聞いたことがあります。

Brown-Sequardはモルモットの精巣を自分に打ちましたが、Tigerstedtはウサギの腎臓をウサギに注射し、血圧を上昇させました。そして、活性物質は皮質に多いことを突き止めました。また、その物質が水溶性で、非透析性で、熱、アルコールで不活化されることも見いだし、レニンと名付けました。

chapter3では、高峰譲吉が取り上げられています。私は中学生の頃、学校で社会を高峰譲吉先生の孫に習っていました。授業中「この譲吉ってのは、俺のじいちゃんなんだ」と先生は言っていましたが、具体的な挿話を聞く機会がなかったのは残念に思います。高峰譲吉は牛の副腎から抽出し、結晶化した物質を「アドレナリン」と命名しました。アメリカでは「エピネフリン」と呼びますが、本来はアドレナリンと呼ぶべきであることを本書は指摘しています。

アドレナリン、ノルアドレナリンとドパミンを合わせてカテコールアミンと総称されている。アドレナリンとノルアドレナリンは、おもに欧州で用いられ、エピネフリンとノルエピネフリンはおもに米国と日本で用いられてきている。米国のエーベル(Abel)が1897年に発見・命名したエピネフリン(epinephrine)は、その精製過程が不完全なために不純物が多すぎるにもかかわらず、国際的に非・専売薬名として採用される趨勢にある。英国オックスフォード大学のAronsonは、この趨勢を見据えたうえでアドレナリンの正当性を主張しているが、わが国からもアドレナリンの正当性を支持する意見を表明すべきではなかろうか。

私が学生の頃、薬理学の授業で教授が高峰譲吉の名を出し、「日本人はアドレナリンと呼ぶべきなんだよ」と主張していたのを思い出しました。

chapter4は Kortokovについてです。我々は血圧を聴診で測定するときには、Kortokov音というのを聞いて血圧を知ります。それを発見した人物が Kortokovです。彼はモスクワ出身ですが、1900年の義和団事件の時に極東に派遣され、帰国の際に日本を経由しているそうです。また、日露戦争の際に、数名の日本兵が Kortokovの手術を受けた記録が残っているそうです。

Riva-Rocciらの平均血圧測定法を知った Cushingが、1903年に「手術室およびクリニックにおけるルーチンな血圧測定」という論文を発表しているそうですが、少なくともその数年前までは臨床的に血圧を測定するのは一般的でなかったようです。また、Kortokovによって拡張期血圧測定法が発表されたのは 1905年だったそうですが、今からたった100年くらいまえの話なのですね。この100年の間の医学の進歩は凄いと思いますが、血圧は vital signとして、現在でも臨床現場で最も重要視されています。

chapter6, 7で紹介される Braun-Menendezらと Pageらはほぼ同時に Angiotensinを発見し、Braun-Menendezらは Hypertensin、Pageらは Angiotoninと呼びました。これらの研究の多くは、Menendezらが進め、Pageらの報告は誤りが多かったことから、多くの研究者は Hypertensinと呼んでいましたが、Menendezの死後、後任者の Taquiniは紳士的立場に立ち、Angiotensinという名称に統一するように勧告したそうです。ちなみに、Angitotensin Ⅰを初めて精製単離したのが、本書の著者なのだそうです。

chapter8で紹介される Skeggsはレニン・アンジオテンシン系を生化学レベルで確立した人物ですが、多方面に才能を発揮した人物だったそうです。少し引用してみます。

Skeggsは Leonardo da Vinciにも似て天才的に万能で器用な人であった。たとえば、①アンジオテンシンの精製過程で Koffの人工腎臓を大改良して広く米国内で人工腎臓として実用に供した (そのときの弟子の Paul Bergは後に recombinant DNAの技術開発で1980年にノーベル賞を受賞した)。

②また、同じくアンジオテンシン系の生化学分析の過程で、無数の試験管の行列 (train of test tubes) を使うかわりに、血液や試薬を連続して機械的に運んで反応させ、分析する自動分析器を考案して、自宅地下室の工作室で試作を重ねた後、研究室で実用化した (その実際を筆者は見せられて度肝を抜かれるほど驚いた)。これを後に Technicon社が買収して1954年に ”Autoanalyzer” という商品名で売り出し、これが今日世界中の病院などで活躍している自動分析器の原型となっていった。

③定年退職後は死の数ヶ月前に 30フィートのモーターボートを手製で完成したばかりであった。彼は飛行機でも作りかねなかった、と周りの人々はいう。

非常に多才な人物だったことがわかります。彼によって複雑なレニン-アンジオテンシン系が同定されましたが、経路として明らかになったことで、研究が大きく進み、ACE阻害薬、アンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬 (ARB) が生まれました。また、これらの知見の上に、本書の著者らは研究を進め、アンジオテンシンⅡ合成に ACEばかりでなく Trypsinや Kallikreinなどのバイパス経路があることを発見しています。そのほか、アンジオテンシンⅡ合成については、セリンプロテアーゼとしてキマーゼも同定され、循環器領域に新たなテーマを与えているそうです。

chapter12の Pickeringは、消化器性潰瘍、頭痛、体温調節など様々なことに興味を持っていたそうですが、Goldbatt高血圧 (腎動脈狭窄による高血圧) の慢性期に該腎を摘出しても降圧できないことから、長期の経過のうちにレニンの役割がおわり、抵抗血管の二次的な器質的変化によって高血圧が維持されることを提唱したそうです。そして、年齢とともに人の血圧が上昇していくことも同様の機序によるものとしたそうです。もし彼の考えが正しいとすれば、若いうちから血圧の薬を飲んでおいた方が、抵抗血管の二次的な器質的変化が予防できるのでしょうかね。彼に関する面白い逸話が紹介されています。

 減塩は学問的に大切としながらも、実生活では必ずしも実践していかなかったらしい。死亡数週間前にパリでRobertson (第三代国際高血圧学会会長) と食事をともにしたとき、”ニンニクと塩が足りない!”と怒鳴った、という。服装にも頓着なかった。こういう彼の愛すべき性格は直接の弟子達のみならず、高血圧学者仲間でも愛嬌者にされていた。

chapter14は岡本耕造先生です。本態性高血圧の動物モデルを作りました。彼の開発した高血圧自然発症ラット (SHR) は、1996年にスペースシャトルに乗せられ、宇宙旅行をしたそうです。研究を進めるには、その疾患の動物モデルは極めて重要ですから、高血圧の分野における役割は言うまでもありません。

chapter15は、Dahlについてです。彼は、食塩摂取量と高血圧の間に正の相関があることを見いだしました。家庭でも減塩を徹底し、「食卓塩」を「毒薬 (poison)」と呼んでいたそうです。しかし、何とも言えない経緯で病気を発症しました。

 1972年、Dahlが同研究所付属病院の院長に就任して間もなく、新たに購入した血清蛋白分析装置の試運転のため自分の血液検体を提供したところ、M蛋白が発見され、多発性骨髄腫に罹患したことが判明した。闘病生活に入っても、研究への意欲は衰えず、死の直前まで精力的に研究を指揮したとのことである。

chapter16はCushing (1869-1939) です。彼はHarvard大学医学部を卒業して、Massachusetts General Hospital (MGH) での外科研修を経て、1896年にJohns Hopkins大学外科レジデントとなりました。そこで外科を Halstedに学び、友人に Oslerがいたそうです。彼はヨーロッパ旅行中に、Londonで Hunters、Bernで Kocher、Liverpoolで Sherringtonに会うなど、得難い経験をしています。カナダでの弟子に、Penfieldなどがいるといいます。

chapter17はLiddleです。内科医にとって Liddle症候群は有名ですが、メトピロン試験、デキサメサゾン抑制試験が Liddleに由来することは知りませんでした。

こうして医学史に関する本を読むと、脈々と続く医学の伝統を感じます。

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デスマスク

By , 2007年11月10日 8:10 AM

ボンでベートーヴェンハウスを見学したとき、彼のデスマスクを長いこと眺めていたものでした。

ベルリンの森鴎外記念館では、鴎外のデスマスクがあり、その解説文に「デスマスクを残した科学者たち (原田馨)」という論文から引用された文章が使われていました。

帰国して、その論文が気になっていたのでネットで検索したところ、化学史研究という雑誌であることがわかりました。

早速論文 (原田馨. デスマスクを残した科学者たち. 化学史研究 24: 226-231, 1997) を取り寄せて読んでみました。

そもそもデスマスクの起源は、13世紀頃から王侯の死像が彼らの石棺の上につくられていたことに由来し、そのために写実的な死面を得るのに 16世紀に粘土を使ったデスマスクをつくるようになったようです。その後、美しい像に仕上げられた墓碑芸術という文化になった一方、故人を直接写した分身としてのデスマスクも生み出され、後者がベートーヴェンであったり、森鴎外だったりする訳です。

この論文で紹介されているのは、筆者が実際に写真に収めた 7名で、5例は本来のデスマスクなのに対し、1例は大理石像、1例は油絵です。

・ウィリアム・カレン
スコットランドの化学者であり医師でした。神経組織の重要性を認識し、neurosisという言葉は彼の造語であるそうです。また、化学史について書いた最初の人だとも言われています。

・ユストゥス・リービッヒ
ドイツの化学者で、「化学理論」、「応用化学」「化学技術」などの発展に貢献したそうですが、私は聞いたことのない化学者です。

・ロベルト・ブンゼン
ドイツの化学者で、ブンゼンバーナーやブンゼン電池、水流ポンプ、熱量計などを開発し、キルヒホッフとともにスペクトル分析法を創始したそうです。

・ルドルフ・ウィルヒョウ
医師にとってはおなじみの病理学者です。「すべての細胞は細胞から」という言葉はどこかで聞いたことがある人もいるでしょう。彼の業績です。ウィルヒョウの師はシュワン (シュワン細胞などで有名) で、その師がミュラーです。
私が訪れたベルリンのシャリテ (旧大学病院) でも、ウィルヒョウは神の如く祭られ、彫像があったり、通りに名前が付けられたりしていました。
彼について面白いエピソードがあるので紹介します。「彼は医学者であると共に、政治的には自由主義者であり、プロイセンのビスマルクの政治に激しく抵抗した。怒ったビスマルクは何度もフィルヒョウに決闘を申し込んだが、フィルヒョウは遂に武器を取らなかった。」

・エルンスト・ヘッケル
動物学者で、「個体発生は系統発生を繰り返す」との命題を繰り返したそうです。

・エルヴィン・シュレーディンガー
物理学者として非常に有名です。私も以前彼の「生命とは何か」を読み、感銘を受けたものです。シュレディンガー方程式の名前も、物理学を勉強したことがあれば聞いたことがあるでしょう。

・森林太郎
森鴎外です。日本人には説明はいらないかもしれません。私はベルリンでこのデスマスクに触れることが出来ました。

以上、論文を紹介してきましたが、原田馨先生には同じ雑誌に「絵を残した科学者たち」という論文もあり、取り寄せたのですがパストゥールが 15歳の時に両親をスケッチした絵などが収録されており、こちらも楽しめました。

化学史研究という雑誌には、「宇田川榕菴と生化学」という論文もあり、こちらも取り寄せて、これから読むところです。この雑誌に多数収録されている魅力ある文献についても、今後機会があれば読んでみたいと思います。

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医学の古典を読む

By , 2007年10月20日 9:38 AM

「医学の古典を読む(諏訪邦夫著、中外医学社)」を読み終えました。

麻酔科の教授が、関連分野の古典的論文を紹介した本です。「肺と血液ガス」「循環」「脳・神経・筋肉」「薬物と薬理学」「統計学」といった内容が扱われています。

第 1部「肺と血液ガス」の第2話は「血液酸素解離曲線とボーア効果」です。血液酸素解離曲線の右方移動、左方移動を見つけたのがクリスチャン・ボーアですが、原子模型を 26歳で作り上げたニールス・ボーアの父であることを初めて知りました。それを報告した論文の共著者は他に 2名おり、一人は「Henderson-Hasselbalchの式」で有名なハッセルバルフ、もう一人は「クローの円柱モデル」や COを用いる肺拡散法を考案したクローだということです。

第 1部第 7話は「PCO2電極なしに PCO2を決める」ですが、ここでアストラップの論文を紹介しています。時々病院で先輩医師に「先生アストラップは?」と言われることがあります。意味不明で問い返すと、血液ガス分析のことなのだとか。何故そういう表現をするかがこれを読んでわかりました。アストラップ法の原理は、採取した血液を 3つに分け、そのうち 2つを既存の濃度の CO2ガスで平衡させ、pH-CO2直線を書きます。残ったサンプルの pHを測定すると、CO2濃度が計算出来るのだとか。アストラップが 1960年に開発し、10年くらい使われたそうですが、現在では CO2を直接測定出来る電極が開発され、用いられなくなりました。慣用的に表現が残っているのですね。

第 2部「循環」第 10話は「細動脈の力の平衡-臨界閉鎖圧の概念」です。この論文を書いたのは Burtonですが、彼は他に Handbook of Physiologyの巻頭に「生理学者にとって目的論は情婦みたいなもので、もたずにはいられないくせ、人前には出したがらない。(Teleology is like mistress. One cannot live without, but would be ashamed to be seen in the public.)」と書かれているそうです。含蓄のある言葉だと感じました。

第 2部の第 11話「スワン・ガンスカテーテルはなぜ 1970年か」では、スワン・ガンスカテーテルの開発秘話が紹介されていました。臨床では、よく「ガンツ入れる?」という会話をしますが、英語では「put a Swan in」などと表現します。スワンは心臓病学者で、ガンスはそれに協力したエンジニアなので、アメリカ人はスワンの方を呼ぶらしいのです。日本人が「ガンツ」というのはその方が呼びやすいからでしょうが、実際には「ガンス」「ガンズ」と発音するのが正しいことが、根拠を持って本書に記されていました。

第 3部「脳・神経・筋肉」の第 18話「クラーレは脳に作用しない」では、論文著者が被験者となり、体を張った実験であることが記されていました。クラーレは神経筋接合部に作用する筋弛緩薬ですが、意識を消失させる作用があるかを調べた実験です。意識下で筋弛緩をかけているので、非常に苦しかった筈です。実験開始後 34分で最大の麻痺となり気管挿管されています。その後投与をやめましたが、57分の時点では、「分泌多量に苦しむ (周囲は気づかない)」と記され、非常に辛い実験であったのではないかなと思います。実験中に「I felt I would give anything to be able to take one deep breath.」と述べています。実験中、被験者の意識は保たれたままでした。

第 3部「脳・神経・筋肉」の第 19話は「エーテルは飲んでも酔える」という笑える話です。これには裏話があって、北アイルランドでは、当時アルコール飲料密造が厳しかったことと、宗教的理由 (聖書がアルコール飲料を禁じている) ことがあり、エーテルが代用品として考えられたのだそうです。エーテルは、昔用いられた吸入麻酔薬です。論文では飲み方なども書いてあり、「エーテルを飲むときには鼻をつまんで飲む。水をなるべく飲まないのが”通”!」とされています。急性作用の項が面白いので、引用します。

作用は基本的にアルコールに類似するが、作用がずっと速い。
1) 興奮, 2) 混迷 (confusion), 3) 運動障害, 4)  意識障害

たいていの人は 1) の興奮レベル特に “高揚 (exhilaration)” のレベルで満足する。

表現は “叫ぶ, 歌う, 踊る” など。自覚的には”体が軽くなった感じ, 高く跳べそうな感じ, 空を飛べる感じ”といった異常認識も伴う。

副作用としては、作用時は唾液の分泌と嘔吐。さめてからは”調子が悪い, 脱力感, 虚脱感, うつ状態”など。上腹部痛も出現する。つまり、エーテルでも二日酔いする。

なお、レストランなどでアルコールを一杯おごる習慣と同様に、「エーテルを一杯おごる」習慣もあり、エーテルを飲む人達自身は「酒より楽しく、気持ちがよい」と述べているが、周囲の人達の評価は、「酒と比較すると “口喧嘩が多くなる  quarrelsome”」と描写している。またアルコールとエーテルをチャンポンすると、暴れたり他人に危害を加える頻度が高くなるとも。

実際にエーテルを飲むだとか、興奮するだとかいう話を読むと、昔遊んだ Final Fantasyというゲームで、エーテルというアイテムがあったことを思い出しました。

第 4話「薬物と薬理学」の第23話「ホタルの光で吸入麻酔を分析する」という論文は、日本人の上田一作氏が国立がんセンターで行った研究とのことです。論文のポイントは「吸入麻酔薬は、ATPによるルシフェリン発光を量依存的、可逆的に阻害する」というもので、吸入麻酔薬の作用機序の研究などに貢献したようです。確かに、反応が光でわかるのであれば、観察しやすいと思います。

第 4話第 24話「吸入麻酔薬の力価の表現」に興味深いトレビアが載っています。

 高地や飛行機の中でアルコールがよく効いて酔いやすいことはよく知られていますが、こちらはアルコールの代謝が酸素分圧に影響を受けるのが大きな要素であることが判明しています。

第 4部第 28話「モルフィン麻酔の創始」では、医療ミスが医学の進歩に大きく貢献した話が記されていました。転んでもただでは起きないとはこのことです。モルフィン (モルヒネ) は現在フェンタニルに取って代わられましたが、モルフィン麻酔開発段階で、その安全性を示しました。

モルフィン麻酔開発の途次に、”Give ten” という有名な逸話があります。1A 10 mgのモルフィンを 10 ml (100mg) 注射器に準備して、論文の第一著者ローウェンシュティン氏が研修医に “Give ten” と命じました。「10 mg 注射しろ」というつもりだったのですが、研修医は 10 mlつまり 100 mgを一度に注射しました。意外にも状態が良好だったのが、モルフィン麻酔の研究を進める要素になったというお話です。

第4話の第29話「大気汚染が妊娠異常を招く?」は痛ましい話です。昔は麻酔をした余剰ガスは手術室内に流れていました (今でもそういう病院はあるようです)。その結果、流産の率が手術室の看護婦と麻酔女医で高く、また流産が発生した場合の週齢が 2週間ほど低いことがこの論文で示されました。医療現場での危機意識も低く、「患者が吸っているエーテルの濃度を推測するのに、回路のガスを麻酔科医が吸ってみて『濃い』とか『うすい』とか議論していたくらいなのです」という記載が本書にあります。

医療従事者の健康被害の話は他にも類挙にいとまがありません。針刺し事故による感染症への罹患、昼夜を問わない勤務体系による睡眠障害などはある程度知られた話ですが、放射線被害も実は多いのではないかと思っています。例えば、心臓カテーテル検査などでは、医師がレントゲン照射野に手を置くため、手に放射線による皮膚障害や神経障害が多発し、痛みに悩む人が多くいます。それを防ぐために放射線被曝量を測定するバッジを付け、被曝量が一定量を超えるとその業務に関われないように管理します。しかし、そうすると医師不足で代わりにカテーテルをやる人がいなくなるので、バッジを外してカテーテルをしたりするのです (意味がない!)。また CT被爆による癌の危険性なども言われますが、患者が暴れるときは医療従事者が抑えて撮りますので、(いくら防護服を着ているといっても) 連日 CTによる被爆を受けることも起こります。過労死も問題となっていますし、それに準じる話も聞きます。ある若い心臓外科医は週 3-4日の当直をコンスタントにこなしていて、ストレスのため手術中に自分が致死性不整脈を起こしてしまい、目が覚めると CCUで、自分が手術中であった患者と隣のベッドで寝ていたそうです。医者の不養生では済まされない話のように思います。

第 5部「統計学」の第 30話「t-検定と “Student”」は、Student検定についてです。Studentはペンネームで、それが論文で用いることが許されたのが興味深いところです。Studentの本名は William S Gossetというそうです。Gossetはビールのギネス社で働いていたそうです。統計学には全く知識がないのですが、面白い逸話だなと思いました。

本書は麻酔科に関わる論文が主体ですが、他の科で働く医師にとっても興味深い本でした。

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神経学講義

By , 2007年8月13日 9:46 PM

「シャルコー 神経学講義 (Christopher G. Goetz編著, 加我牧子・鈴木文晴監訳、白揚舎)」を読み終えました。

シャルコーの業績はこちらをご覧ください。
神経学の歴史2-40. シャルコーがサルペトリエール病院にやってきた。-
神経学の歴史2-41. シャルコーの業績その1。多発性硬化症の発見-
神経学の歴史2-42. シャルコーの業績その2。筋萎縮性側索硬化症の発見-

シャルコーは、シャルコー・マリー・トゥース病に名を残し、また筋萎縮性側索硬化症はシャルコー病と呼ばれます。彼は多発性硬化症を発見し、パーキンソン病を再評価しました。彼は臨床と病理を対比し、いくつもの病気の本態を明らかにしました。また、喘息患者の痰の中に見られる「シャルコー・ライデン結晶」にも名を残しています。

シャルコーは、デジェリーヌ、ババンスキー、フロイトらの師でもあります。教育に情熱をかけていたことも知られています。

彼は金曜日に講義を行い、これは「金曜講義」として有名です。一方、臨床教育としては、火曜日に実際の診察を公開し、「火曜講義」としました。

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神経学の原著

By , 2007年7月3日 10:04 PM

神経学の原著

 神経学は、その歴史を通じて積み上げられた一つの体系です。原著に触れることで、歴史上の神経学者の思想に触れることができますし、その観察眼に驚かされます。ところが、膨大な原著は、どれもあまりに古いため、医学論文の検索システムで、掲載誌などの情報を得ることができません。そこで、こうした論文の著者、論文タイトル、掲載誌、発行年などの情報をリストとして記した論文を豊倉先生が発表されました。

Toyokura Y. A List of original and classical descriptions of neurological diseases, signs and syndromes with their historical notes (1). 神経進歩 14: 868-896, 1971

はじめに

神経学の領域では、疾患の種類がはなはだ多く、徴候、症候群の数もおびただしい数にのぼる。そして、これらの記載は神経学の確立と発展を着実に基礎づけてきた重要な記念碑である。著者は約20年前から、これらの原著または古典的な論文のコピーを、折にふれ少しづつ蒐集してきたが、このたび研究者の便宜のために、不完全なことは覚悟の上、そのリストを掲載してゆくことにした。

下記の論文にそのリストが掲載されています。

①Toyokura Y. A List of original and classical descriptions of neurological diseases, signs and syndromes with their historical notes (1). 神経進歩 14: 868-896, 1971

②Toyokura Y. A List of original and classical descriptions of neurological diseases, signs and syndromes with their historical notes (2). 神経進歩 15: 1051-1070, 1971

③Toyokura Y. A List of original and classical descriptions of neurological diseases, signs and syndromes with their historical notes (3). 神経進歩 16: 745-770, 1972

④Toyokura Y. A List of original and classical descriptions of neurological diseases, signs and syndromes with their historical notes (4). 神経進歩 16: 1121-1136, 1972

⑤Toyokura Y. A List of original and classical descriptions of neurological diseases, signs and syndromes with their historical notes (5). 神経進歩 17: 765-785, 1973

⑥Toyokura Y. A List of original and classical descriptions of neurological diseases, signs and syndromes with their historical notes (6). 神経進歩 18: 417-435, 1974

また、それ以外にも、原著を紹介しながら、解説を記した名著として、「ヤヌスの顔」「続ヤヌスの顔」「続々ヤヌスの顔」「ヤヌスの顔第4集」「ヤヌスの顔第5集」があります。私も手元に置きつつ、まだ通読はしていませんが、少し時間ができたら読みたいと思っています。

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