Category: 医学と医療

アルツハイマー

By , 2015年5月1日 10:25 PM

アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の奇跡 (コンラート・マウアー/ウルリケ・マウアー共著, 新井公人監訳, 喜多内・オルブリッヒ ゆみ/ 羽田・クノーブラオホ 眞澄訳)」を読み終えました。

この本は、東京時代の医局の学問仲間有志が私の送別会をしてくれたとき、先輩がプレゼントしてくださいました。背表紙には、その送別会の参加者全員が寄せ書きをしてくれて、「先生には色々と教えて頂きました。下ネタも含め、勉強になりました」など、心温まるコメントがたくさんありました。

思えば、神経内科医の多くは外来ではしょっちゅうアルツハイマー病の診断を下しているのに、この疾患の歴史も、そしてアルツハイマーのこともほとんど知りません。ちゃんと知っておく必要があるという、先輩からのメッセージなのでしょう。バタバタしていて、頂いて 1ヶ月ほど経ちましたが、やっとこうして内容を纏める時間が取れました。アルツハイマーの人脈の広さ、研究範囲の広さ (アルツハイマー病で知られていますが、神経梅毒の研究で素晴らしい仕事を残しています) など、初めて知ることが多くて色々と新鮮でした。本書から抜粋して、彼の生涯を簡単に纏めます。

1864年6月14日、アロイス・アルツハイマーはエドゥアルド・アルツハイマーとその妻テレージアの次男として生を受けました。生家はマルクトブライトのヴュルツブルク通り 273番地でした。10歳の時、アルツハイマーは教育上の都合でアシャッフェンブルクに引越しました。1882年、アルツハイマーの高等学校卒業試験の一年前に、母が 42歳で亡くなりました。アルツハイマーはコッホに憧れ、高等学校卒業後の 1883~1884年、ベルリンに旅立ち、フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の職員・学生として登録されました。その際に、ゴッドフリード・フォン・ワルダイエル教授の講義と解剖実習に出席しました。1884年夏からはヴュルツブルク大学で学びました。1886年10月にテュービンゲンのエーベルハルト・カール大学に移りましたが、1887年に再びヴュルツブルク大学に戻り、1888年、医師国家試験に「最優秀」の成績で合格しました。

「アッフェンシュタイン精神病者の城」とも呼ばれたフランクフルト市立精神病・てんかん病院 (フランクフルト精神病院)  の初代院長は、絵本作家としても知られているハインリッヒ・ホフマンでした。ホフマンが 79歳で病院を退いた後、エミール・シオリが就任しました。シオリは 254人の患者を一人で抱え込むほど多忙でした。人手不足ということもあり、アルツハイマーの願書が届いたその日に、シオリは電報で採用通知を送り返しました。アルツハイマーは 1888年12月19日に助手として採用されました。そしてまもなく、1889年3月18日に、フランツ・ニッスルが主任医師として赴任してきました。ニッスルはニッスル小体、ニッスル染色などに名を残しています。ニッスルとアルツハイマーは仲が良い仕事仲間でした。

アルツハイマーは 1894年にヴィルヘルム・エルプ (Erb点などで有名) からの依頼で、ダイヤモンド卸売業者オットー・ガイゼンハイマーの診察をすることになりました。ところが、ガイゼンハイマーは、アルツハイマーがドイツに連れて帰ろうとする途中で息を引き取りました。アルツハイマーが未亡人のセシリー・シモネッテ・ナタリエ・ガイゼンハイマーの世話をしているうちに、二人は結婚することになり、アルツハイマーの親友であるフランツ・ニッスルが立会人の一人となりました。ニッスルはアルツハイマー夫妻の娘ゲルトルーデの洗礼立会人でもあります。しかし、1901年、セシリーは扁桃炎から関節や腎臓の障害をきたし、死亡しました。フリッツ・クリムシュが、後にアルツハイマーも眠ることにもなるフランクフルト中央墓地の墓を制作しました。クリムシュはウィルヒョウの記念碑を委託されたときも、セシリーの墓石とよく似たものを制作したそうです。奇しくもアルツハイマーが、最初のアルツハイマー病患者「アウグスト・D」と出会ったのも、この 1901年でした。

アルツハイマーは、1901年にハイデルベルクで員外教授になっていたニッスルの誘いもあり、1903年3月にフランクフルト・アム・マイン市立精神病院の第二医師を辞職。ハイデルベルクのクレペリンの元に移りました。そしてクレペリンがミュンヘンから招聘を受けたので、同年10月にミュンヘンに向かいました。ミュンヘンでは、三人の子どもと、妻の代わりに子供の面倒を見ていた妹のエリザベート「マーヤ」と同居しました。マーヤは、1909年7月1日ツェッペリンの飛行船の乗員のひとりとして、約 12時間の飛行に参加したそうです。アルツハイマーがミュンヘンで教授資格論文に取り組んでいた時代、精神病院に入院する患者の約 3分の 1が梅毒による進行麻痺でした。

1906年4月9日、フランクフルト精神病院の研修医がアルツハイマーに電話をかけ「アウグステ・Dが昨日亡くなった」ことを伝えました。アルツハイマーはかつての上司シオリにカルテ、脳を提供して欲しいと頼み、1906年11年テュービンゲンで開催される第 37回精神科医学会でこの症例を発表することにしました。アルツハイマー、ペルシーニ、ボンフィグリオによる分析の結果、大脳皮質全体に斑状の独特な物質代謝産物の沈着が認められ、血管の増生が確認されました。アルツハイマーはこれを単に plaques “斑” と記載しました (“訳者註:アルツハイマー病の病理学的特徴の一つである老人斑を指している。老人斑は、ブロックとマリネスコにより一八九二年に記載された。本書に見られるようにアルツハイマー自身は単に Plaquesと記載しているので「斑」と記す。また、アルツハイマーはレンドリッヒが一八九八年に老人斑という語を最初に記載したと述べている”)。この学会には、ビンスワンガー病に名を残したビンスワンガーや、クルシュマン―シュタイネルト病 (筋強直性筋ジストロフィー) に名を残したクルシュマン、デーデルライン桿菌に名を残したデーデルライン、その他メルツバッハ―、ユング、ガウプ、ブムケなどが参加していました。アルツハイマーの発表後、質問は一つもなく、会議録には「短い研究報告には適していない」と記されました。しかし、講演の全文は 1907年、「精神医学及び司法精神医学」に “大脳皮質の特異な疾患について” というタイトルで発表されました。アルツハイマーは、1907年に亡くなった B・Aや Sch.L、1908年に亡くなった R・Mにも斑を見つけました。

1912年、アルツハイマーはブレスラウのシレジア・フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の精神科正教授として招かれました。1912年8月にアルツハイマーはミュンヘン中央駅からブレスラウに旅立ちましたが、旅路で病に倒れました。クレペリンは「新しい勤務地に向かう途中、腎炎及び関節炎を伴った感染性扁桃炎にかかり、それ以降立ち直ることはなかった」と述べています。アルツハイマーが赴任した病院の初代院長はハインリッヒ・ノイマン、二代目院長はカール・ウェルニッケ、三代目院長はカール・ボンヘッファーで、アルツハイマーが四代目でした。アルツハイマーの同僚の一人はオットフリード・フェルスターであり、晩年レーニンを治療するためにロシアに派遣され、その主治医となりました。また別の同僚は、後にアルツハイマーの娘婿となるシュテルツでした。シュテルツはノンネ・マリーの下で助手を務めたことがありましたが、ノンネはノンネ―マリー病 (現在のマシャド・ジョセフ病) に名前を残した神経科医でした。

1915年12月19日、アルツハイマーは家族に囲まれて 51歳の生涯を閉じました。

本書は、人物の写真、病理標本のスケッチ、アルツハイマーが使用していた道具の写真など、資料が豊富ですし、文章が読みやすいです。帯に「伝記」と書かれている通り、医学的知識のあまりない一般人でも普通に読むことができます。アルツハイマーに興味を持った方は、是非読んでみて頂きたいと思います。

以下、備忘録として覚えておきたい部分を抜粋しておきます。

・アウグステ・Dや他の多くの不安定な患者の治療に際して、睡眠薬は、しかし、非常に重要であった。医師は患者に二~三グラムの抱水クロラールを与える。それはある程度意識の混濁をもたらすが、より持続的で静かな睡眠を約束するのである。抱水クロラールを受け付けなくなると、精神病院ではパラアルデヒドを用いる (※当時の医療)。 (43ページ)

・エドゥアルド (※アルツハイマーの父) は一年間喪に服した後、亡くなった妻の妹と結婚した。(51ページ)

・この生家 (※マルクトブライトにあるアルツハイマーの生家) は、アメリカの製薬会社イーライリリー社が購入した後、本書の著者ウルリケ・マウラーの指導の下に改修された。一九九五年一二月一九日、アロイス・アルツハイマーの没後八〇年を記念して一般公開され、現在、記念博物館として、また、医学セミナーなどのセンターとして利用されている。 (51-52ページ)

・アルツハイマーがベルリンにやってくる直前の一八八二年に、コッホは人型結核菌を発見したのである。結核は今日、西側諸国ではあまり見られなくなったが、この時代には重大な病気の一つであり、人々を脅かした。一八八〇年当時、ドイツでは死者の七人に一人は結核で亡くなり、一五歳から四〇歳までに限ると二人に一人がこの病気に罹患して死亡した。 (62ページ)

・(ヴュルツブルク大学時代) アルツハイマーにとって重要だったのは、彼に顕微鏡の魅力的な世界を紹介した組織学者、アルベルト・フォン・ケリカー教授との繋がりを作ることであった。ケリカー研究所には後日ノーベル賞を受賞したアルフォンソ・コルチとフランツ・フォン・ライディッヒ等の有名な研究者が働いていた。彼らは器官と細胞組織に自らの名前を付与した。すなわち、内耳の蝸牛にある感覚器官であるコルチ器と、男性ホルモンを分泌する睾丸にあるライディッヒ間質細胞である。 (66-67ページ)

・彼 (※アルツハイマー) は好きな自然観額を断念することができなかったため、フリードリッヒ・コールラウシュのもとで物理を聴講した。彼 (※コールラウシュ) の名は電気工学のパイオニアとして有名で、コールラウシュの法則と呼ばれる電解質の当量伝導率を定める法則を発見した。 (67ページ)

・(アルツハイマーは) ヴュルツブルク時代には、賭けに負けて冬のマイン川を泳ぎきったことで有名であったが、テュービンゲンでは、夜中に警察署の前でどんちゃん騒ぎをしたため三マルクの罰金を科せられ、大学の会計に支払った。 (69ページ)

・標本作製に当たり、当時フランクフルトに病理学の分野で二人の一流の研究者がいたことはアルツハイマーにとって大きな助けになった。一人はカール・ワイゲルト、もう一人はルードヴィッヒ・エディンガーである。ワイゲルトは一八八五年四月一日よりフランクフルトのゼンケンベルク病理学研究所の所長であった。最新の優れた組織病理学の研究方法を学びたい者は、ワイゲルトがいる病理学研究所を訪れなければならなかった。そこでは最良の「割断と染色」法を学ぶことができた。アニリン核染色法をはじめ、多くの染色方法の発見は彼に負うこと大である。(102ページ)

・一九世紀最後の年のフランクフルト精神病・てんかん病院の発展については次のように報告されている。「ここ数年は院長を除いて四人の医師が常勤していたが、医師一人で八五名の入院患者と二四〇名の外来患者を診察していたことになる」 (130ページ)

・睡眠薬や鎮静剤が必要な場合、トリオナール、パラアルデヒド、クロラールが使用された。てんかん患者には臭素塩、また、アヘンと臭素を混合したフレクシッヒ療法がよく用いられ、うつ病にはアヘンとヒオスチンが頻繁に使われた。ヒオスチンはアヘンアルカロイドの一種で、通常皮下に注射され、特に高度の不穏患者や観念奔逸患者に用いられた。 (144ページ)

・(ニッスルの元上司で、国王ルードヴィッヒ二世とともに湖で溺死した) フォン・グッデンの解剖学質教室では、ニッスルと共に S・J・M・ガンザ―も働いていた。いわゆる仮性痴呆はガンザーの名に因んで、後日ガンザ―症候群と名付けられた。患者は、耐えられない状況に陥ったとき、窮地に陥って間の抜けた話をし、見当外れの態度をとり、無知と見せかけ、まるで精神病患者のような反応を示す。フォン・グッデンの研究室では、エミール・クレペリンも一八八四年から一八八五年まで勤務していた。 (161ページ)

・病院内でも、アルツハイマーはどんなに仕事に集中していても、冗談を受け止め、洗練されたユーモアのセンスを持っていた。孫の一人は次のように話している。「それは、ミュンヘンのヌスバウム通りにある病院の謝肉祭でのことでした。突然一人の貧しい行商人が現れました。彼はおもちゃを一杯入れた箱を首から掛けて、中の商品を売ろうとしました。しかし、そこは商売禁止で、病院の従業員は怒って営業禁止を言い渡し、アルツハイマー教授を呼んでくると言ってほどしました。ところが、『その必要はない』と行商人がいたずらっぽく笑うのです。そして仮装を脱ぎ始めると、皆は大笑いせずにはいられませんでした。アルツハイマー教授自身が行商人だったのです。おもちゃは小児患者に配られました。プレゼントすることは彼にとっていつも大きな喜びだったのです」 (192ページ)

・(ミュンヘン時代の) アルツハイマーの生徒の中には、後にその分野で有名になった学者が多くいる。スペイン人の N・アチュカロ、イタリア人のフランシスコ・ボンフィグリオ、そして、アメリカ人のルイズ・カサマジョアなどもその中に入っている。ボンフィグリオは一九〇八年に初老期痴呆の症例を発表しクレペリンの興味を引いた。イタリア人のウーゴ・ツェルレッティは一九三八年 L・ビニとともに、痙攣を誘発する電気ショックで初めて電撃療法の時代を開拓して世界的に有名になった。一九三六年、彼はローマ大学精神神経科教授となった。他にも世界的に有名になった研究者にハンス―ゲルハルト・クロイツェルトとアルフォンス・ヤコブがいる。後にこの二人の名前を取ってクロイツフェルト―ヤコブ病と名付けられた病気は、プリオン病の一種である。この病気はチンパンジーに伝染し、潜伏期間一年を経て症状が現れる。ダニエル・ガイジュセックはこの発見で、一九七六年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。コンスタンティン・フォン・エコノモ・フォン・サン・セルフ男爵の名は、第一次世界大戦後に広がった流行性脳炎に付与された。その後、彼は中脳に “睡眠調節中枢” を発見している。F・ロトマーはスイス出身で化学実験室を指導した。テュービンゲンとブエノス・アイレス研究したルードヴィッヒ・メルツバッハ―はペリツェウス―メルツバッハ―病を発見した。F・H・レビーの名から、パーキンソン病で重要な役割を果たす “レビー小体” の名が付けられた。特に強調しなくてはならない人物はガエタノ・ペルシーニである。彼はアルツハイマーと共同研究をし、共著も出版した。有名なアウグステ・Dの症例は、一九〇九年ペルシーニによって大変詳細に再発表された。彼は “アルツハイマー” の名称が全世界に広まるのに大きな貢献をした。(中略) 偶然にも、彼らは死亡日もほぼ同じという共通点がある。ペルシーにはアルツハイマーが亡くなる一週間前、第一次世界大戦で負傷した兵を助けようとして自分も致命傷を負い、一九一五年十二月八日に三六歳の若さで亡くなった。 (194-196ページ)

・(※クレペリンは自らが主催した生涯教育コースについて) 「コースの中心は私が企画した臨床講義であったが、その他、アルツハイマーが精神病の病理解剖学について、テュービンゲンのブロードマンは大脳皮質の局所解剖について、ベルリンのリープマンとチューリッヒのモナコフは交互に局在問題を、リューディンは遺伝と変性の学説を、プラウトは血清学、アラースは代謝検査を解説した。その間、私自身は臨床実験精神医学の概略を述べた。このコースの参加者は四〇~五〇任に達し、大半は外国人の参加者で占められていた。彼らはこのコースに大変満足した。」 (202ページ)

・アルツハイマーは経験豊かな神経科医であった。穿刺針を用いて脳脊髄液を採取する腰椎穿刺の手技に習熟しており、「形態上の相違を見分けるために、脳脊髄液中の細胞を満足のいくように固定する」ことの難しさを知っていた。彼は一九〇七年、神経精神医学中央雑誌に「脳脊髄液中の細胞成分固定のための方法論」として、研究成果を発表した。彼が存在を予想していた形質細胞がハッキリと確認された。(209ページ)

・マドリッド出身の組織病理学者で、当時ワシントンの国立精神病院の研究室で客員医師として働いていたゴンザロ・R・ラフォラ博士は、米国人のアルツハイマー病初報告を記載している。 (310ページ)

・一年後 (※1926年) にグリュンタールは「老年痴呆に関する臨床病理学的比較研究」と題する別の発表を行った。七〇歳以下を対象に入れなかったが、それは真のアルツハイマー病患者が含まれないということである (※アルツハイマー自身は、アルツハイマー病を若年性痴呆として報告していたため)。またもやグリュンタールは殆ど予言的な結論に達している。「アルツハイマー病に対する鑑別診断に関しては組織学的な相違はほとんどないと言える。臨床的にも老年痴呆のある例では、年齢的な違いを除いて、軽度および中等度のアルツハイマー病と全く区別することができない。しかし、アルツハイマー病では言語障害―特に喚語困難―がしばしば初期症状となるが、老年痴呆では重度の場合でも稀にしか出現しないという本質的な相違はあるように思える」 (315ページ)

・「アルツハイマー病」の病名が世界的に容認された一九八〇年半ばになっても、アウグステ・Dの診断を疑問視する声があった。その多くは、動脈硬化症か、または稀な神経疾患ではないかと推測するものであった。しかし一九九八年四月のフルクフルター・アルゲマイネ紙の学術欄の中で、アロイス・アルツハイマーの正当性が立証された。「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断に誤りはなかった。彼が診断したアウグステ・Dは、実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた。マルティンスリードの研究者は、ずっと行方不明になっていた脳標本を最近偶然発見した。その標本には特徴的な神経原線維変化とアミロイド斑が見られた。血管性痴呆の徴候はなかった。」 (334ページ)

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Breast cancer drug may help men with prostate cancer

By , 2015年4月30日 6:57 PM

ある癌に対する分子標的治療薬が、別の癌に対して効果を示すというのはたまにあることで、EGFR, VEGF, HER2などがそうですね

発熱のため、仕事を休んでゴロゴロしながら Science Newsを見ていたら、興味深い記事がありました。

Breast cancer drug may help men with prostate cancer

Poly (adenosine diphosphate [ADP]-ribose) polymerase (PARP) は、DNAへの damageを修復する酵素です。乳癌・卵巣癌で BRCA1 or BRCA2に変異がある患者では、PARP阻害薬での治療が試みられることがあります。

DNA修復酵素に変異を多く持つ前立腺癌で更に PARPを阻害すれば、DNA修復が出来なくなるのでダメージが与えられるんじゃないか・・・と考えた学者たちがいました。実際に患者に使ってみると、DNA修復酵素に多く変異がある前立腺癌患者では、大部分が 6ヶ月以上治療に反応しましたが、そうした変異がない場合だと 3ヶ月以内に悪化しました。

癌細胞への分子標的治療薬は、リン酸化酵素をターゲットにしたものが多いですが、DNA修復酵素に着目した治療戦略というのも出てきているのだなぁと思いました。まだ治療効果は限定的かもしれませんが、色々と治療選択肢が増えると良いですね。

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甲状腺機能低下と手根管症候群

By , 2015年4月29日 6:44 AM

甲状腺機能低下症は手根管症候群のリスクであると言われています。2014年6月13日のNHKの番組「ドクターG」で神経内科医マッシー池田先生が症例提示されていたのが、甲状腺機能低下症に合併した手根管症候群/足根管症候群でした。

リスクの程度を meta-analysisした論文が 2014年12月の Muscle Nerveに掲載されていたのを先輩から教えて頂きました。

Hypothyroidism and carpal tunnel syndrome: a meta-analysis.

【Material and methods】
Search Strategy and Selection of the Studies
この研究では、cross-sectional study, case-control study, cohort studyをメタ・アナリシスに組み入れることにした。コントロール群がない研究とか、甲状腺機能低下症しかない研究など、使えない研究の除外基準を定義した。
Quality Assessment
今回は、5つのドメインを持つ評価ツールを用いて、バイアスの検出を行った (※こうした評価ツールには、例えば診断精度研究では QUADAS-2などがある)。
Meta-analysis
まず、メタ解析する対象の一次研究からどのような情報を抽出するかを決めた。オッズ比を推定するため、Woolf confidence intervalsを計算した。メタ・アナリシスは random-effect modelを用いて行った。異質性 (※一次研究のバラつきの大きさ) の推測のため、I2 を計算した (※一般には、I0-40%で異質性は “might not important”, 30-60%%で “may represent moderate heterogeneity”, 50-90%で “may represent”, 75~100%で “considerable heterogeneity” と解釈する (Higgins 2002))。出版バイアスの評価は funnel plotを用いて行った。統計解析のソフトウェアには Stata version 13を用いた。
【Results】
Search, Selection, and Quality of Studies
Methodsで定義した通りに文献検索をして、1566個の一次研究がヒットした。Inclusion criteriaを満たした一次研究は 35個だった。また、除外基準に該当する論文を排除し、18個の一次研究が解析対象に残った。
Thyroid Disease
10個の一次研究 (sample sizeの合計 9573人) で、甲状腺疾患 (hypo-, or hyper- thyroidism) と手根管症候群の関係を交絡因子未補正で評価していた。10個の一次研究から推計される効果量 (effect size) は、1.32 (95%信頼区間 1.04-1.68, I2=0%) だった。3個の一次研究 (sample sizeの合計 4799人) では、甲状腺疾患 (hypo-, or hyper- thyroidism) と手根管症候群の関係を、交絡因子 (性差や年齢など) を補正して評価していた。3個の一次論文から推計される効果量は、1.17 (95%信頼区間 0.71-1.92, I2=0%) だった。異質性はほぼなく 、甲状腺機能異常があっても、手根管症候群の発症頻度は変わらなかった (※信頼区間が 1をまたぐので、有意ではない)。
Hypothyroidism
6個の一次研究 (sample sizeの合計 64531人) で、甲状腺機能低下症と手根管症候群の関係を交絡因子未補正で評価していた。6個の一次論文から推計される効果量は、2.15 (95%信頼区間 1.64-2.83, I2=51.6%) だった。4個の一次研究 (sample sizeの合計 71133人) では、甲状腺低下症と手根管症候群の関係を、交絡因子を補正して評価していた。4個の一次論文から推計される効果量は、1.44 (95%信頼区間 1.27-1.63, I2=0%) だった。次に、性差や年齢などを調整した群を用いて、サブグループ解析を行った。その結果、甲状腺機能低下は、手根管症候群 (効果量 1.39, 95%信頼区間 1.21-1.59, I2=0%) と手根管症候群による手術 (効果量 1.75, 95%信頼区間 1.29-2.37, I2=0%) と関連があることがわかった。
Publication Bias
甲状腺機能低下症と、手根管もしくは手根管症候群による手術との関係は、funnel plotで左右非対称であった。有意に Publication biasが存在する (p=0.018)。おそらく、関連が示せなかったため 3個くらい報告されていない研究がありそうだ。交絡因子を補正した研究においても、同様に publication biasが存在した (p=0.035)。おそらく、関連が示せなかったため 2個くらい報告されていない研究がありそうだ。
【Discussion】
今回のメタアナリシスの結果、甲状腺機能低下症と手根管症候群に、軽度の相関が示された。甲状腺機能低下は、手根管症候群のリスクとなりえる (evidence level C)。①多くの一次研究で交絡因子の補正がされていなかったこと、②publication bias (出版バイアス) が存在することが、この研究の限界となっている。甲状腺機能低下は、手根管症候群よりも、手根管症候群による手術により相関がある。甲状腺機能低下があると、保存的治療がうまくいきにくいということなのかもしれない。
結論として、「甲状腺機能低下は手根管症候群と関係があるかもしれないけれど、これまでに思われていたよりは相関は弱い」ということです。多くの一次研究で交絡因子の補正をしていないこと、両者の関連が示せなくて出版に至らなかった研究が複数ありそう・・・ということで、これまで強い相関があるように見えていたのかもしれません。今回のメタアナリシスのおかげで、出版バイアスの存在や、多くの一次研究の不備が明らかになっています。そういう意味で意義深い研究だと思います。

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症例から学ぶ 輸入感染症 A to Z

By , 2015年4月28日 9:44 PM

症例から学ぶ 輸入感染症 A to Z (忽那賢志著、中外医学社)」を読み終えました。普段見かけることの稀な輸入感染症は私の苦手な分野ですが、どのように診療を進めていけばよいのかがとてもわかりやすく解説されていました。本書は、指導医と弟子の会話形式を取っており、あちこちに散りばめられたギャグが秀逸で、勉強している感覚なく気が付いたら読み終えていました。初学者でも楽しめて、かつレベルが高い、お薦めの本です。

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続・抗NT5C1A抗体

By , 2015年4月27日 4:36 AM

Journal of Neurology, Neurosurgery, Psychiatry誌 (JNNP) の新着論文をチェックしていたら、偶然 2015年4月26日のブログで紹介した抗 NT5C1A抗体に関する論文が報告されているのを見つけました (2015年4月9日 online published)。

Seropositivity for NT5c1A antibody in sporadic inclusion body myositis predicts more severe motor, bulbar and respiratory involvement

・封入体筋炎患者 25人中 18名 (72%) で抗 NT5C1A抗体陽性だった。

・女性の方が抗体陽性率が高かった (OR=2.30)。

・抗体陽性の方が立ち上がるのに時間を要し、歩行器や車椅子を必要としやすかった。

・抗体陽性の方が嚥下障害が多く、努力性肺活量が減少していた。

・顔面筋力低下は抗体陽性の方が頻度が高かった (50% v.s. 14%)

余談ですが、JNNPも勤務先で契約していないため JAMA neurologyに引き続いて個人契約が必要になったんですよね・・・。引越し費用、家具代、電化製品代 (洗濯機、エアコン)、ピアノ搬送代等々で、4月分のカード請求額が 967,889円だった私にとって、痛い出費です。クイーンサイズのベッドが余計な出費だったか・・・。

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抗NT5C1A抗体

By , 2015年4月26日 6:18 AM

2015年2月5日のブログで、多発筋炎と皮膚筋炎の総説を紹介しました。

多発筋炎と皮膚筋炎

その総説の supplementary dataには筋炎で陽性となる自己抗体の一覧表があり、孤発性封入体筋炎の約 70%で抗NT5C1A抗体が陽性になると書いてありました。この抗体、どこで測定してもらえるのだろうと思って調べると、熊本大学が検査を受け付けていました。

封入体筋炎患者に対する新規血清診断検査

封入体を欠く封入体筋炎などで、筋生検をしても確定診断を得られないことがあるので、診断の一助に使えそうです。お世話になる機会がありそうです。

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Cell-based assayによる抗AChR抗体の検出

By , 2015年4月24日 5:58 AM

JAMA neurologyに興味深い論文が載っていました (2015年4月20日 online published)。

Clinical Features and Diagnostic Usefulness of Antibodies to Clustered Acetylcholine Receptors in the Diagnosis of Seronegative Myasthenia Gravis

抗AChR抗体陰性 (と抗MuSK抗体) が Radioimmunoprecipitation assay (RIPA) で陰性だった重症筋無力症患者 42名に対して、HEK細胞の表面に AChRを発現させる Cell Based Assayで検査したところ、16名 (38.1%) で抗 AChR抗体が検出できたという報告です。検査法によってここまで抗体の検出率が違うのかと驚きました。この研究の結果を見ると、これまではかなりの患者で抗 AChR抗体が見逃されてきたことになります。もちろん、重症筋無力症の診断は抗体のみでなされる訳ではありませんが。

日本では通常 SRLなどの検査機関で抗 AChR抗体を調べると思います。SRLでの検査法がどうなっているのか調べた所 RIA法でした。この論文のように Cell based assayでも検査できるようになれば、検査の精度が改善するかもしれません。

MG cell based assay

MG cell based assay

なお、この研究では抗 LRP4抗体も調べています。日本では、以前お伝えしたとおり抗 LRP4抗体は川棚医療センターで測定頂けます。

神経疾患における自己抗体等の測定

(参考)

神経内科のトレンド2011

autoimmune autonomic ganglionopathy

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JAMA

By , 2015年4月24日 5:27 AM

新しい勤務先では、以前ほど文献が自由に閲覧出来ません。私はお気に入りの医学雑誌を 10誌くらい頻繁にチェックしていて、それらにアクセスできないのはかなりのストレスになります。例えば、JAMA neurologyは現在の勤務先では取り寄せないと読めません。そこで必要な医学雑誌を個人契約し、定期購読することにしました。

JAMA neurology

JAMA neurology

手続きがてら JAMAのサイトをチェックしていたら、次の一文を見つけました。

The online version is made freely available to institutions in developing countries.

発展途上国の研究機関では無料で JAMAにアクセスできるそうです。素晴らしい配慮だなと思いました。

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OPA1変異とパーキンソニズム

By , 2015年4月21日 8:19 AM

Annals of Neurologyの “accepted article” の欄に、興味深い論文が掲載されていました。

Syndromic parkinsonism and dementia associated with OPA1 missense mutations

OPA1や Mfn2はミトコンドリア外膜に存在しミトコンドリアの融合に関係する蛋白質で、これが分解されると膜電位の維持できない不良なミトコンドリアが健常なミトコンドリアと融合しなくてすむメリットがあります。ミトコンドリアの膜電位が低下すると、これらの蛋白質は parkinによってユビキチン化を受け、プロテアソームやオートファジーによって分解されます。parkinを活性型にするのが PINK1という蛋白質です。

PINK1→(リン酸化) →parkin→ (ユビキチン化) →OPA1, Mfn2・・・・

この中で、PINK1, parkinはパーキンソン病の原因蛋白質として知られていますが、OPA1変異では常染色体優性視神経萎縮となり、Mfn2変異では視神経萎縮を合併した Charcot-Marie-Tooth 病 (CMT2A) となります。OPA1の GTPase domain 変異は視神経萎縮に加えて重度の感音性難聴、小脳失調、軸索性運動感覚ニューロパチー、慢性進行性外眼筋麻痺、ミトコンドリア筋症を含む DOA-plus 症候群を合併することは過去に報告されていましたが、何故 parkinの下流にある蛋白質の変異でパーキンソン病にならないのだろう・・・とこれまで疑問に思っていました。

ところが、OPA1変異でパーキンソニズムを呈した 2家系が、ボローニャとメッシーナから報告されました。両家系の発症した患者は、20 ~ 30 歳代で若年性高血圧、パニック発作を伴う不安症、30 ~40 歳代で緩徐進行性の眼瞼下垂と眼筋麻痺、ミトコンドリア筋症、末梢神経障害、小脳萎縮、失調、感音性難聴を来しました。そして、高齢になるとパーキンソニズムや認知症を合併した患者が 6 人おり、MRI でびまん性皮質萎縮 、DAT scan での異常を伴っていました。いずれの家系でも、著明な視力低下や視神経萎縮を来したのは 1 名ずつに過ぎませんでした。

このように、通常 OPA1変異でみられるはずの常染色体優性視神経萎縮がほとんどみられず、パーキンソニズムが高率に見られたというのは、非常に興味深いことと思います。患者由来の線維芽細胞の解析では、オートファジー (mitophagyを含む) の亢進が示されていましたが、これが発症にどう影響を与えているのかはこれからの問題だと思います。ひょっとすると、GTPase domain近傍の変異という部位も意味を持っているのかもしれませんね。なお、今回の症例では、parkin, PINK1遺伝子に変異がないことは確認されています。また、その他のミトコンドリア遺伝子に変異がないことも確認されています。

ということで、私にとってこの論文のツボは下記の点でした。

・ミトコンドリア異常症が多彩な表現型を示すこと
・parkin-PINK1 の下流に存在する OPA1 の変異でパーキンソニズムが出現したこと
・ミトコンドリア異常と変性疾患の関連が示唆されること

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補体 C8欠損と Neisseria感染

By , 2015年4月10日 6:16 AM

2015年4月9日の New England Journal of Medicine (NEJM) の MGH case recordsが、Neisseria meningitidisによる髄膜炎でした。補体 C8欠損があると、Neisseria属による感染を起こしやすいんですね。以前、ほぼ同じ症例を経験したので、その時のことを思い出しながら読みました。

Case 11-2015 — A 28-Year-Old Woman with Headache, Fever, and a Rash

細菌性髄膜炎について勉強する方には、少し古いですが下記の論文が御勧めです。700例近い細菌性髄膜炎を解析し、それぞれの症状の出現する割合 (例えば、頭痛 87%, 38℃以上の発熱 77%, 皮疹 26%など) や、予後の良い群と悪い群の比較 (例えば、予後の悪い群では髄液細胞数が少ないなど) の記載があり、勉強になります。

Clinical features and prognostic factors in adults with bacterial meningitis.

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