Category: 医学と医療

デング熱

By , 2014年1月12日 8:05 AM

日本から帰国したドイツ人がデング熱を発症したとニュースになっていました。

ドイツ人女性がデング熱に、日本旅行中に感染の可能性も

TBS系(JNN) 1月10日(金)21時9分配信

60年ぶりに、国内でデング熱ウィルスに感染した可能性です。

熱帯を中心に流行し40度を超える熱などを引き起こす「デング熱」に、日本を旅行で訪れていたドイツ人の女性(51)が感染していたことが分かりました。

女性は、去年8月に山梨県内で蚊に数回刺されたと話していて、厚労省は海外から持ち込まれた「デング熱」のウイルスを日本の蚊が媒介し、感染を引き起こした可能性もあるとしています。

「デング熱」の国内感染は60年以上報告されていません。(10日19:59)

丁度 2013年の Lancet Neurologyに “Neurological complication of dengue virus infection” という総説を見つけて「おぉっ」と思いました。これだけ世界が近くなっている時代ですから、いつか診療する機会があるかもしれませんし、デング熱の神経合併症を勉強したことはなかったので、ざっと読んでみました。

Neurological complications of dengue virus infection

<Introduction>

蚊媒介の感染症で 2番目に多く、毎年 100万人くらいの症候性デングが発生する。重症デングでの死亡率は 0.2~5%である。

<Epidemiology, virus, and vectors>

ネッタイシマカ、ヒトスジシマカが主な媒介生物である。ほとんど熱帯および亜熱帯に特有である。最も発生率が高いのが、アジアと中央・南アメリカだが、アフリカでの報告が増加している。タイやカンボジアでは、小児の症候性デングは、小児 1000人当たり 20人にのぼる。

<Clinical findings>

ほとんどが無症候。症候性の感染は、従来、原因不明の発熱、デング熱、デング出血熱、デングショック症候群に分類されていた。

発熱、前頭および眼球後部の頭痛、筋・骨・関節痛、腹痛、吐き気、嘔吐が一般的な症状である。軽度の一過性の皮疹が見られ、半数の患者では 3~4日後に丘疹や猩紅熱様皮疹がみられる。

デング出血熱は 4つの基準の存在で定義される。①発熱、②出血、③血小板減少症 (10万/uL未満), ④血管透過性亢進による血漿漏出の証拠、である。

デングショック症候群はデング出血熱と同じ特徴に加えて、循環不全、低血圧、ショックを呈する。

しかし、数十年使われたこれらの分類は適応が難しく、重症例がスタディーから漏れることもあったため、2009年分類では「警戒徴候 (腹痛や腹部圧痛、持続する嘔吐・・・) のないもの」「警戒徴候のあるもの」「重症デング」に分類された。

<Neurological complications>

・Dengue encephalopathy

もっとも一般的な神経合併症である。 遷延するショック、低酸素、脳浮腫、代謝異常 (低Na血症など)、全身もしくは脳出血、急性肝不全、腎不全などの複数の要因によって起きうる意識障害を含む。髄液細胞数、蛋白は一般的に正常である。デング熱の数%にデング脳症を認める。症状は意識障害や痙攣である。髄液検査でウイルス特異的 IgM抗体やウイルス RNAは検出されない。予後はばらつきがあり、原因となった要因 (肝不全、電解質異常、ショックなど) による。支持療法が行われなければ、死亡率は高い。

・Encephalitis

髄液細胞数増多がみられ、髄液からウイルス抗体、ウイルスRNAが検出されるが、そうではない症例もあり得る。臨床的にデング脳症との鑑別は難しい。症状は、意識障害、頭痛、浮動性めまい、見当識障害、けいれん、行動異常など。重症例では四肢麻痺を来すこともある。予後は報告によりばらつきがある。

・Post-dengue immune-mediated syndromes

Post-dengue immune-mediated syndromeとして、急性横断性脊髄炎、急性散在性脳脊髄炎 (ADEM), Guillain-Barre症候群などが起こる。稀に、視神経脊髄炎 (NMO), Miller-Fisher症候群や、横隔神経麻痺、長胸神経障害、Bell麻痺、外転神経麻痺、動眼神経麻痺のような単ニューロパチーが報告されている。ポストデング症候群は通常数週間から数ヶ月で改善する。

①急性横断性脊髄炎

ウイルスの直接浸潤は傍感染期に起こるが、感染後脊髄炎は免疫介在性である。傍感染性脊髄炎は感染 1週間以内に起こるが、感染後免疫介在性脊髄炎は初発症状の 1~2週間後に起こる。デング脊髄炎では、ウイルス特異的 IgG抗体が髄液から検出される。MRIでは T2強調像高信号となる。下部頚髄~上部腰髄まで高信号を呈する症例もある。

②急性散在性脳脊髄炎

デング熱やデング出血熱の回復期に発症する。髄液蛋白の軽度上昇と、細胞数増多がみられる。頭部MRIでは、T2強調像高信号で、T1強調像ではガドリニウム造影効果を伴う。(論文に掲載されている写真では、両側レンズ核に対称性の異常信号が確認できる)

③Guillain-Barre症候群

デング発症  1週間後に、四肢の麻痺や腱反射消失がみられる。デングウイルス感染後の急性軸索性運動感覚障害も報告されている。髄液では蛋白細胞解離がみられる。Guillain-Barre症候群は、症状に乏しいデングウイルス感染でも報告されている。

・Cerebrovascular complications

デングの回復期での脳内出血が過去に報告されてきた。デング関連脳血管合併症の頻度はよくわかっていない (どうやら 1%以下で稀らしい) が、梗塞より出血性脳卒中の方が多いようだ。多くは、発熱の 1週間後の脳内出血である。急性脳内出血は、他の出血徴候を伴わないこともある。基底核の脳出血や脳葉の多発脳出血などが報告されている。より頻度の少ない脳内出血として、浮腫を伴った両側小脳出血や、閉塞性水頭症、橋出血、急性硬膜下血腫、多発急性硬膜下血腫、一過性血小板減少症を伴った限局性クモ膜下出血がある。脳梗塞としては、分水嶺梗塞、小皮質梗塞、放線冠と被殻梗塞による dysarthria clumsy-hand 症候群が報告されている。

・Dengue muscle dysfunction

血清学的にデング感染が確認された約 9割で CK上昇が見られたとする報告がある。臨床的には、CK上昇、筋痛、近位筋筋力低下などがみられる。重症例では横紋筋融解を呈したり、呼吸筋麻痺を起こして死因となったりする。従来は筋炎と言われたが、良性で自然治癒することから、最近ではデング関連一過性筋障害と言われる。熱帯地方では、小児の良性の急性ウイルス性筋炎の主な原因の一つとされ、”myalgia cruris epidemica” とも呼ばれる。CKは平均 837 IU/lだが、100000 IU/l以上になることもある。

筋電図では、early recruitmentがみられ、安静時活動電位を欠く (いわゆる non-necrotizing myopathyのパターンといえる)。最大干渉で、polyphasic MUPが観察されることがありうる。

筋生検では、軽度から中等度の血管周囲の単核球浸潤、筋壊死を伴った間質内出血、脂質の凝集がみられる。

多くの場合、1~2週間で自然に回復が始まる。まれに重症劇症筋炎やステロイド抵抗性筋炎が報告されている。鑑別は細菌性筋炎やレプトスピラ症である。

神経伝導検査が正常であることや、蛋白細胞解離がないことが、Guillain-Barre症候群との鑑別に役立つ。

・Neuro-ophthalmic complications

神経眼科的症状は、典型的には後眼部に起こる。後眼部に異常がない前部ぶどう膜炎はまれであり、進行性視力低下と関係している可能性がある。眼合併症は、デング黄斑症、網膜浮腫、網膜出血、視神経乳頭浮腫、視神経炎、硝子体炎を含む。これらはしばしば過小評価されている。眼合併症は通常回復期に発症し、デング入院患者の 10~40%程度にみられると推測される。多くの患者は特別な治療を要せず、約1~3ヶ月で視力が回復する。

<Pathogenesis of neurological features of dengue>

(略)

<Diagnosis>

多くの症状は非特異的なので、臨床的に疑うことが重要である。最初の数日は、ウイルスは血中にいるので、NS1抗原や RT-PCRやウイルス培養が推奨される。デングウイルス特異的 IgM抗体は、発症 3~10日間血清サンプルに存在する。IgM capture (MAC)-ELISAが最も広く用いられる血清学的検査である。抗体価は、他のフラビウイルス感染所うにより擬陽性を呈しうる。

流行国やそこを旅行してから 14日以内で発熱や神経症状を呈する患者では、デングの除外が必要である。可能であれば髄液検査を行い、髄液の異常やウイルス特異的抗体、NS1抗原、ウイルスRNAの検査がされるべきである。発熱性脳症の鑑別診断は、マラリア、結核、レプトスピラ症、リケッチア症、局所の疫学に応じたその他の細菌やウイルス感染 (日本脳炎、ウエストナイル熱、ヘルペスウイルス) である。

にもかかわらず、血清学的診断の感度は低い。ウイルス特異的 IgMの髄液における感度は 22~33%である。また、血清に比べて髄液での virus RT-PCRの感度は低い。また、デング脳炎の約半数で髄液が正常であったとする報告もある。したがって、髄液が正常でもデング脳炎は否定できない。

脳波で異常がみられることもあるが、特異性には乏しい。

<Management>

有効な抗ウイルス薬は存在しない。軽症例では、解熱剤や水分摂取が有用である。アセチルサリチル酸や他の NSAIDsは避けるべきである。出血性合併症に対しては、初期には保存的に対応すべきである。正確な輸液管理が必要であり、輸血や血小板輸血は重症出血例でのみ必要とされる。

重症デングで、血漿漏出の徴候がある場合、輸液過多にならないようにヘマトクリット値の緊密なモニタリングを行うとともに、急速輸液が必須である。輸液は、等張晶質液を用いるべきである。そして、深刻なショックや、初期の等張晶質液に反応がないショックに対して等張膠質液を用意するべきである。急性期のステロイド経口投与による、ショックや他の合併症の減少効果は示されていない。

症候性の痙攣は、肝毒性のない抗てんかん薬で治療するべきである。

デングの免疫介在性中枢神経障害に対してステロイドパルス療法を提唱する医師もいるが、脊髄炎や急性散在性脳脊髄炎で有効性を示した RCTは存在しない。ポストデング Guillain-Barre症候群に対する IVIgは有効である。筋障害に対しては、輸液や鎮痛剤が用いられる。コルチコステロイドの有効性は示されていない。

神経眼科的症状に対して確立した治療法はない。過去にステロイドは用いられてきたが、RCTは行われていない。前部ぶどう膜炎に対して局所ステロイドが用いられてきた。一方、ステロイドパルスやステロイド経口投与は、進展する網膜の血管炎に適応があるかもしれない。

デング予防に対する有効なワクチンはないが、現在いくつかのワクチン候補が開発中である。

当初想像していたより、多彩な神経症状が報告されていて、びっくりしました。筋障害も興味深い症状ですね。

深刻なショックに対しての記載で一点疑問。Surviving Sepsis Campaign 2012では、「重症の敗血症および敗血症性ショックの患者に HESを用いない (Against the use of hydroxyethyl starches for fluid resuscitation of severe sepsis and septic shock (grade 1B), 596ページ)」となっていますが、デングショックの重症例では晶質液も検討することになっています。敗血症性ショックとは別の扱いなんでしょうか?ショックに対する晶質液の使用については議論があるところで、この辺は集中治療医と相談しながらになりそうです。

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ウェクスラー家の選択

By , 2014年1月11日 3:06 PM

ウェクスラー家の選択 (アリス・ウェクスラー著, 武藤香織・額賀淑郎訳, 新潮社)」を読み終えました。アリス・ウェクスラーはハンチントン舞踏病の家系に生まれました。母親の疾患が進行した時に、初めてその事実を知りました。その時から、ウェクスラー家とハンチントン舞踏病の闘いが始まりました。父は患者家族や研究者らによる団体を作り、資金を集めるとともに研究を支援しました。また、妹のナンシー・ウェクスラーは、患者が密集するヴェネズエラの集落で DNAサンプルを集めるとともに、家系図を作成しました。最終的に、これらの努力は実を結び、遺伝子同定までこぎつけます。そして、高い精度で発症を予測できることが出来るようになりました。本書には家族の奮闘と、ハンチントン舞踏病研究の歴史が描かれています。検査法が開発された後、患者家系の中には、検査を受けた人も、受けなかった人もいます。発症リスクとどう向き合うか、検査を受けるか受けないかをどう決めるか、内面的な描写が素晴らしく、遺伝性疾患を診療する医療関係者は、読むべき本だと思いました。検査を受けるかどうかについては、著者自身の選択も示されています。

本書のあらすじを詳しくまとめたサイトがあるので、紹介しておきます。

アリス・ウェクスラー 『ウェクスラー家の選択 遺伝子診断と向き合った家族』 新潮社

後半は連鎖解析の話が大きなウエイトを占めますので、予めそれが何かくらいは知っておいた方が読みやすいと思います。知らない方には、Wikipediaの「遺伝的連鎖」の項などでの予習を御薦めします。

一点残念だったのは、科学用語の翻訳です。例えば、”Demyelinating, Atrophic and Dementing Disorders” は「末梢神経脱髄性・萎縮性・痴呆疾患」と訳されています (p231) が、単に “Demyelinating” だと、中枢の脱髄も、末梢の脱髄も両方ありえるし、”Demyelinating”  自体に「末梢神経」というニュアンスはありません。このように読んでいて引っかかる点がいくつかありました (翻訳者らは、科学者による校正を受けるべきだったと思います)。

以下、本筋に関係ないところで、2点ほど。

①以前紹介したハロルド・クローアンズの本で、ハンチントン舞踏病の患者に L-ドパを大量服薬させ発症リスクを推測したことが誇らしげに登場するのですが、本書で倫理的な問題が指摘されていました (p204)。「一時的な舞踏様症状を経験した人々はいつか苦しむかもしれないし、苦しまないかもしれない、といった症状の恐ろしい記憶を消せないまま、ただ時間の経過のなかに取り残されてしまうのだ。それに、実験的に投与された L-ドパそのものが病気の引き金になってしまうかどうかも、誰もわかっていなかった」のが理由のようです。

②「その先生は、ハンチントン病のリスクが、鎌状赤血球症、筋ジストロフィー、インスリン依存性糖尿病、そしてエイズのように、保険会社が無条件に医療保険での支払いを拒否できる病気の一つだということを知らなかったのだろうか? (p308)」という記載があり、アメリカの保険会社の闇の部分を見た気がしました。

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ADA2014 糖尿病ガイドライン

By , 2014年1月8日 6:43 PM

ADA2014 糖尿病ガイドラインについて、2013年12月28日のブログで紹介しました。その際、私はガイドラインへのリンクを貼るだけでしたが、ADA2013に引き続き知り合いの南郷先生がサイトに内容を纏めてくださっていますので、紹介しておきます。

米国糖尿病学会ADAの糖尿病診療指針

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間葉系幹細胞治療と ALS

By , 2014年1月8日 6:37 PM

Muscle & Nerve誌に、Hadassah Hebrew Universityから “Rare combination of myasthenia and ALS, responsive to MSC-NTF stem cell therapy” という論文が受理されており、すでにオンラインで公開されています。

内容をごく簡単に纏めると下記のようになります。

・重症筋無力症 (抗 AChR抗体陽性, PSL 10 mg + pyridostigmine 60 mg + azathioprine 125 mgにて治療) の既往のある 75歳の男性が筋萎縮性側索硬化症 (ALS)  及び前頭側頭型認知症 ( FTD) を発症した。

・autologous enahanced mesenchymal stem cells (MSC-NTF, Brainstorm®, Petach Tikva) を用いた ALSに対する Hadassah clinical trial (NCT01051882) の inclusion criteriaを満たさなかったが、倫理委員会の承認を経て、特別に MSC-NTF療法を行うことにした。MSC-NTFは髄腔内投与され、右上腕 24ヶ所に筋肉注射された。治療前後には、azathioprineは中止した。副作用は、微熱、頭痛、錯乱がみられたが、一過性であった。1ヶ月後には、認知機能、構音障害、筋力低下が改善し、車椅子生活だったのが独力で 20 m歩けるようになった。ALSFRS-Rは 36点から 44点に改善し呼吸機能の改善もみられた。

・6ヶ月後、筋力低下及び認知機能低下が進行したため、MSC-NTFの再治療が行われた。症状は治療 3日後には改善し、2ヶ月後には全神経機能は有意に改善していた。ALSFRS-Rは 30点から 43点に改善し, 重症筋無力症に対する QMG-scoreは19から 14点に改善した。下垂足も部分的に改善した。

・ALSと重症筋無力症の合併は稀である。本症例は、抗サイログロブリン抗体や抗核抗体も陽性であり、自己免疫が背景にあるといえる。また、髄液蛋白の軽度上昇もあったこと (糖尿病や過去の免疫グロブリン治療の影響を受けているのかもしれない ) や抗 AChR抗体の存在から、傍腫瘍症候群などの免疫介在性の要素の存在も考える必要がある (一応、悪性腫瘍の検索はしてあり、見つからなかった)。

・胚性幹細胞 (embryonic stem cell, ES細胞) と間葉系幹細胞 (mesenchymal stem cell; MSC) は、両者とも免疫調整作用、神経栄養/神経保護作用を持つが、ES細胞より MSCの方が悪性化しにくい。MSCはいくつかの小さなパイロット研究が行われており、ALSの神経安定化および進行性多発性硬化症の視神経再生、多系統萎縮症での有望な結果が示唆されている。

・神経疾患における幹細胞治療の臨床的な効果を維持するためには、反復した治療が必要なのかもしれない。

・早期に現れた効果は、神経再生よりも免疫介在性もしくは神経栄養性機序によるものと推測される。

ALSに対してここまで効果が見られたのであれば、期待したくなりますね。髄腔内投与や筋肉注射であれば、手技的には簡単に出来そうです。

この患者さんが自己免疫疾患を合併していたことで、色々と疑問が湧いてきます。ALSにおいて、免疫学的異常の背景があるかないかで治療効果が変わってきたりするのでしょうか。抗 VGKC抗体陽性の ALS患者さんを治療したことがありますが、そういう場合は、どうなのでしょう。また、ALSを起こす遺伝子異常はいくつも報告されますが、変異のある遺伝子によって効果の違いはあるのでしょうか。

論文を読むと、期待が高まるのですが、あくまで 1例報告です。Hadassah clinical trial (NCT01051882, A Phase I/II, Open Label Study to Evaluate Safety, Tolerability and Therapeutic Effects of Transplantation of Autologous Cultured Mesenchymal Bone Marrow Stromal Cells Secreting Neurotrophic Factors (MSC-NTF), in ALS Patients.) は、2013年3月に終了しており、結果の公開を首を長くして待ちたいです。

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Alemtuzumab

By , 2013年12月30日 7:42 PM

多発性硬化症治療薬の Alemtuzumabについて、何度かお伝えしてきました (ブログ記事1, ブログ記事2) が、どうやら今回米国では承認されなかったようです。そして、FDAはさらに別の試験デザインで臨床試験を行うことを要求したようです。どうなっていくのでしょうか・・・。

Sanofi says U.S. regulators reject MS treatment Lemtrada

PARIS Mon Dec 30, 2013 2:21pm IST

(Reuters) – Sanofi SA’s Lemtrada multiple sclerosis treatment has failed to win approval from regulators in the United States, dealing a setback to a drug which was at the heart of the French drugmaker’s $20 billion takeover of U.S. biotech firm Genzyme.

The U.S. Food & Drug Administration (FDA) rejected Lemtrada for launch in the world’s biggest drug market on the grounds that Genzyme had not shown its benefits outweighed its “serious adverse effects”, Sanofi said on Monday.

The FDA also demanded Sanofi carry out further clinical trials using different designs and methods prior to approval, Sanofi said. The company responded by saying it strongly disagreed with the decision and planned to appeal. (以下略)

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シャルコーの世紀

By , 2013年12月30日 7:18 PM

シャルコーの世紀 臨床神経学の父 ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念講演会 (ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念会・編, メディカルレビュー社)」を読み終えました。1993年7月16日に行われた、「 ジャン―マルタン―シャルコー没後百年記念講演会」の講演会の記録です。神経学の歴史に興味がある方にとっては、他では読めない話がたくさん収載されていて、御薦めですね。(なかなか手に入らなかったので、amazonの古本で買ったら、水谷ってハンコが押してあったのですが、まさかあの???(謎))

とても勉強になったので、簡単に内容を紹介ておこうと思います。

開会の辞 萬年徹

短い開会の辞が述べられる中で、フランソワ・ラブレーの研究家、渡辺一夫東京大学名誉教授の「研究が精緻となり、また、非常に最先端の新しいことを求めて常に進んで行く。確かに、そのような研究に興味と命を懸けるというのは大変なことであろう。また、研究の進展にとってはそういう態度が必要なことであろう。しかしながら、そこで得られた知識が何のために用いられるかを忘れてしまったら、いかなる優れた科学者の論議といえども、中世の神学者の “針の先に何人天使が乗れるか” という途方もない論議と何ら変わることはないのではないか。その時、それは人間たることと何の関係があるのか」という言葉が引用され、時として、行われる研究の立ち位置が問い直されることの重要性が述べられます。

シャルコーと力動精神医学 江口重幸

以前、「精神科医からのメッセージ シャルコー 力動精神医学と神経病学の歴史を遡る」という本を紹介したことがありましたが、その著者である江口重幸先生による講演です。シャルコーの大催眠理論をまず紹介し、精神医学への影響について触れています。

シャルコーのヒステリー 松下正明

シャルコーとヒステリーについて概説されます。それには、まずシャルコーがいたサル・ペトリエール病院について理解する必要があります。

よく知られているように、シャルコーが終生自らの臨床と研究の場としたサルペトリエール病院は、女性の患者だけを収容する病院でした。患者といっても、精神病や神経疾患、あるいは奇形に病む女性だけでなく、老女、浮浪者や乞食、犯罪者など、社会にあぶれ、社会に適応出来なかった女性をも収容していました。十九世紀当初、五千人から八千人の女性が入院していたと言われます。当時、パリの人口は五十万人であったとされており、その数字から言えば、精神病者や神経病者だけが入院していたのではなかったことは明らかで、その巨大さとともに、その異常さに驚かざるを得ません。そのような環境で、シャルコーがなぜ、ヒステリーの現象に注目するようになったのでしょうか。

一つには、実際に、サルペトリエール病院に収容されていた女性にヒステリーの患者が多かったという事実があります。当時のフランスはまさに産業革命が進行中であり、(略) 多くの労働者は昼も夜も低賃金で働かされ、都市の人口の大部分は貧困層で占められることになります。(略) そのような惨憺たる状況のなかでは、人は狂気になり、あるいはヒステリー発作を呈する他、なすすべがなかったとも言えます。

シャルコーがヒステリー患者に注目する第二の理由として、病院に収容された女性の数が多い一方、医者の数は少なく、一人の医師はおよそ五百人の患者を担当していたと言われていますが、そのような状況では、医師の興味を引くには、ヒステリー発作のはなばなしさが必要であったという説もあります。

ヒステリー研究におけるシャルコーの業績の第一は、「そのような狂気、中毒、老い、貧困、売春、犯罪などのレッテルを貼られた女性の大集団のなかから、それと紛らわしい神経疾患やあるいは詐病とは異なるものとして、ヒステリーを一つの独立した心の病期として確立した」ことです。また、女性のみならず、男性ヒステリーと子供のヒステリーの存在を強調しました。さらに、外傷ヒステリー、外傷性麻痺の概念を確立しました。シャルコーのヒステリー研究には、多くの批判があることは事実ですが、この講演は次のように纏められています。

しかし、後世からの批判としてはいくつかの問題点が指摘されるとしても、シャルコーによって、ヒステリーが医学の世界に持ち込まれ、科学の対象として、また男女ともに侵される疾患単位として明確に位置づけられたことは、精神医学史上、忘れられることではありません。フロイトもまた、そのことを強調し、シャルコーを高く評価しています。また、シャルコーによるヒステリーの詳細な記述があって、初めてその後のヒステリー研究が成り立ったことを考えれば、内村 (※演者の数代前の教授で「精神医学の基本問題」という本を著し、現代精神医学の出発点にある人物としてグリージンガーとシャルコーを挙げた) ならずとも、現代精神医学の源流の一つにシャルコーを見ることは正当と言わざるを得ません。未だなお、ヒステリーの病態が十分には解明されていない現代にあって、シャルコーのヒステリーを取り上げてみることに現代的意義があると考えられる次第であります。

シャルコーと日本の神経学 岩田誠

日本における臨床神経学の夜明けを開いた先達として、三浦謹之助、佐藤恒丸、川原汎の三人の名前が挙げられます。三浦謹之助先生はシャルコーの下で学び、東京帝國大学内科教授となり、1902年に精神科の呉秀三教授とともに日本神経学会を設立しました。日本神経学会の機関誌「神経学雑誌」の一巻一号の冒頭論文は、三浦謹之助先生の書かれた筋萎縮性側索硬化症の論文となっています。佐藤恒丸先生は、1906~1911年にかけて、シャルコーの火曜講義 (※1887~1888年度半ばまでになされた講義) の日本語訳を出版しました。川原汎先生は、三浦謹之助先生より 4年先輩として、東京大学医学部を卒業し、名古屋大学医学部の前身である愛知医学校で内科学を講じ、1897年に日本最初の臨床神経学の教科書「内科彙講 第一巻 神経係統編」を出版しました。

岩田誠先生は、一橋大学の野中教授が Harvard Buisiness Reviewに発表した The Knowledge Creating Companyという論文を元に、知について考察します。知は明示的な知 (explicit knowledge) と暗黙の知 (tacit knowledge) の部分に分けられるといいます。Medicineに当てはめると、それぞれ Scienceと Artに対応します。近代医学は、如何にして tacitな部分から explicitな知を引き出してくるかを使命としてきました。知の伝播過程では、暗黙知を社会化 (Socializaton) し、明示的な知に変える分節化 (Articulation) が行われます。一方で、明示的な知は容易に伝播しますが、これが結合 (Combination) の過程です。明示的な知として獲得されたものは、それを受け取った人の暗黙知に取り込まれる内面化 (Internalization) がなされます。新しい知の体系が形成されていくためには、これらによる暗黙知と明示知の間での螺旋、「知の螺旋」を形成する必要があります。この螺旋は、シャルコーが臨床神経学という新しい知の体系を築きあげていった過程をよく説明します。シャルコーは、神経病に関する多くの経験を積み、暗黙知として蓄えていきました。そしてそれを、臨床症状の観察と剖検の対比という方法論や、顕微鏡による観察などで、明示的な知に変えていく作業を行いました。暗黙知の部分を明示知として世に示すためには、臨床講義が効果的でした。一方で、彼は沢山の文献を読み、明示的な知の結合を行いました。こうして得た新たな明示知を、自らの経験の中に生かし、自らの暗黙知をより大きくしていく努力、すなわち明示知の内面化に努めました。しかし、これと同時に、暗黙知の部分をそのまま暗黙知として伝える社会化の作業も怠りませんでした。

このような考察をした上で、何故、当時シャルコーの神経学が日本に根をおろさなかったか、次のように述べています。

 ここでもう一度ベルツの警告に戻りましょう。ベルツの指摘 (※「日本人は科学を学ぶということを果実をもぎ取ることのように考えていて、その科学の果実を実らせる科学の樹を育てるに至る過程を学ぼうとしない」) は、決して某国立大学総長が述べられたような医学における基礎研究の重要性を強調したものではありません。彼が学者の精神の仕事場を覗き込まねばならないと言ったのは、まさに Medicineにおけるこの暗黙知の部分を学ばねばならない、という意味だったと思います。当時の日本の Medicineは、すでにこの暗黙知の部分を忘れて明示知のみを重視する、すなわち明示的な知のやりとりだけを科学的であると信じるに至っていたのでしょう。不幸なことながら、その当時、臨床神経学においては明示的な知の部分はあまりにも少なく、神経疾患においては分節化困難な暗黙知の部分のみが目についたであろうと思われます。さらに、臨床病理対応研究という方法論は、実践するには極めて時間のかかるものであったがために、せっかちな日本人の好みには合わなかったのではないでしょうか。それに加え、神経系の構造の複雑さ、そしてヒトの神経系に対するアプローチの困難さのために、臨床神経学は明示的な知の世界からほど遠く、科学的ではないと誤解されてしまったのでしょう。三浦、川原、佐藤という立派な先達がおられながら、日本に臨床神経学が根を下ろせなかったのは、このような理由によるのではないでしょうか。

Medicineを明示的な知だけから成るものと思い込んでしまったところに、日本における Medicineの最初のつまずきがありました。そして残念ながら、そのつまずきは今日に至ってもなお、続いているようです。このままでは、わが国の Medicineは世界の孤児になってしまうのではないでしょうか。シャルコーと日本の神経学を考えるこの機会に、私はMedicineにおける暗黙知 (tacit knowledge) の重要性を再認識し、今こそ本気で科学者の精神の仕事場を覗き込むべきであるということを強調したいと思うのです。

シャルコー教授と三浦謹之助 三浦義彰

三浦義彰先生は、三浦謹之助先生が 50歳の時に生まれた、次男です。家族でなければ知らないような逸話が紹介されています。

 さて、三浦謹之助ですが、一八六四年、元治元年の生まれで、一九五〇年、八十六歳で亡くなりました。福島の郊外、高成田の生まれです。父親、道生は眼科医で、その家には白内障の手術のため、沢山の入院患者がいました。眼の悪い患者さんのために、トイレや風呂場にやたらと大きな字で男とか女とか書いてあります。謹之助は、小学校六年くらいから福島の小学校に出たわけです。その頃、叔父になる三浦有恒が東京に出ていて、福沢諭吉の『学問のすすめ』を送ってくれたのですが、そのなかに “人は八時間働き、八時間眠り、あとの八時間は身の回りの用を足すこと” と書いてあったそうで、謹之助はそれを死ぬまでよく守っていて、決して徹夜などしない人でした。

また、その頃、明治天皇の東北ご巡幸がありまして、それを小学生として初めて洋服というものを作ってお迎え申し上げたそうです。ところが、このお二方、福沢諭吉は、後に父の患者さんになりましたし、明治天皇もお亡くなりになる時は父が拝診しておりまして、父は深い因縁を感じたと申しております。

一八七七年、西南の役の直後ですが、人力車で二週間の旅をして、叔父三浦有恒を頼って東京に出て参りまして、東京で生活を始めました。父の十二、三歳頃と思われます。

一八七八年に、東京大学医学部予科に入り、一八七七年に医学部本科を卒業するまで、叔父の所や寄宿舎におりました。その頃、月七円の費用がかかったそうですが、祖父道生は早く亡くなりまして、その見よう見まねで母の里子が白内障の手術を無免許でいたしました。今だったらたちまち捕まっていたわけです。そのアルバイトの費用とドイツ語の翻訳をして、どうやら卒業いたしました。

その他にも、色々と三浦謹之助先生の知られざる逸話が出てきます。シャルコーについても、「シャルコー達が病院で賑やかな飲み会をして婦長から大目玉を食らった話」だとか、「松方コレクション (※西洋美術館のコレクションに多く含まれます) の松方氏が万国博に参加したときにシャルコーやゴンクールらが参加していたこと」、「シャルコーがポルトガル王・ブラジル皇帝から贈られた尾長猿を飼っていて、どんなイタズラをしても決して怒らなかった逸話」「飼っていたインコに『ハラキリ』と名付けていたこと」などが述べられています。

三浦謹之助先生には、侍医にならないという話があったようですが、「自分はサルペトリエールでシャルコーが大変大勢の患者さんを診ていたのを見た。しかも、それはどちらかというと下層階級の患者さんが多かったのですが、そういうのを見て非常にためになった。侍医になると、あまり多くの患者さんを診ることができなくなる。そうすると勘が鈍る」と断っていたそうです。

名前は良くけれど、どのような人物だったかよく知らない三浦謹之助先生の人となりが伝わってくる講演でした。

シャルコーの業績に見る運動から失語症までの大脳機能局在 ジャック・ガッセル

まず、大脳局在説が唱えられてから確立するまで、生理学、解剖学、臨床のそれぞれの視点から概説します。シャルコーは、当初ヒトの感覚あるいは運動の現象は、皮質下の構造のみが問題であると考えていたようです。1875年になってから、大脳皮質の役割に気付き始め、その二年後に「私は、いつの日にか、大脳半球皮質の特定の領域に限局した病変によって生じた麻痺を見るだろうと信じています」と記すようになりました。

シャルコーは動物実験から得られた結果では、ヒトについては結論が出せないと考えていました。1883年には「ヒトの脳の機能に関しては、臨床病理対応研究、すなわち患者の生前に観察された症状と剖検で明らかになった病変との対比以外の方法では、決定的な研究が出来ないことは明々白々です。動物でなされた実験結果は研究の指針とはなりますが、いかなる場合にもヒトの生理学にそのまま当てはめてはなりません」と述べています。彼にとって、解剖学は臨床との関係においてのみ興味の対象であったと推測されます。

シャルコーは、虚血性血管障害の病理学的検討から、血管支配に基づいて、いくつかの臨床解剖学的成果をあげました。また、二次変性の研究を行いました。彼は、大脳皮質の局在について多くの講義を行いましたが、なぜかほとんどが出版されませんでした。

余談ですが、「ジャクソンてんかん」は、シャルコーが命名したというのは、初めて知りました。1883年の論文に登場するそうです。

失語症については、シャルコーは「語盲」「運動失語」「失書」「語聾」の四大臨床型を定義しました。ここにも、臨床像と解剖所見の対比が見られるそうです。

シャルコーの症候学 ドミニク・ラプラヌ

「シャルコーが神経学に専念するようになった頃、彼の神経症候学がいかに未熟なものであったか」「神経症候学を築き上げていく過程におけるシャルコー自身の寄与」「神経症候学を築き上げていくに当たり、様々な伝説的な考えや誤解を取り除くために、彼がいかなる努力を払ったか」をテーマに詳しく語られます。結びの部分では、問診の重要性が強調されています。

私は、問診によって診断ができなければ、後のことをしても診断がつくはずがない、というスローガンを半ば強制的に叩き込まれて教育されました。このスローガンの出所がシャルコーにあったかどうかについては知りませんが、サルペトリエール病院の伝統として伝えられてきたことですから、その可能性はあると思います。近年の画像技術の進歩により、このスローガンは万能ではなくなりましたが、まだ多くの場合に通用するものであります。

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fasciculationの起源

By , 2013年12月29日 7:07 PM

やや古い話になりますが、2007年に仲の良い先輩たちと抄読会をしていて、fasciculation  (線維束性収縮) の起源についての話題になりました。Fasciculationは、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) などでしばしばみられますが、他の疾患でもみられます。

第2回抄読会

電気生理検査専門の I先生は、Fasciculationの Originについて調べてきました。以前は前角細胞由来とされていましたが、FasciculationもF波を持つことがわかり、末梢由来だと考えられるようになり、Cancelationを利用した実験で、8割は末梢由来だとする報告も出てきました (Rothら)。一方で、中枢由来とする報告 (幸原ら)も存在し、諸説あるようです。

それ以来、なんとなく意識はしていた問題なのですが、2013年12月号の JAMA Neurology誌 (旧 “Archives of Neurology”) に ALSと “Benign Fasciculation Syndrome” における fasiculation (FPs) の起源についての論文が掲載されていたので、興味深く読みました。

Origin of Fasciculations in Amyotrophic Lateral Sclerosis and Benign Fasciculation Syndrome

Importance Fasciculation potentials (FPs) may arise proximally or distally within the peripheral nervous system. We recorded FPs in the tibialis anterior using 2 concentric needle electrodes, ensuring by slight voluntary contraction and electrical nerve stimulation that each electrode recorded motor unit potentials innervated by different axons.

Observations Time-locked FPs recorded from both electrodes, suggesting a spinal origin, were most frequent in benign fasciculation syndrome (44%) (P < .001) and amyotrophic lateral sclerosis without reinnervation (27%). Fewer time-locked FPs were found (14%) in the reinnervated tibialis anterior in amyotrophic lateral sclerosis (P < .001).

Conclusions and Relevance We conclude that in chronic partial denervation FPs are more likely to arise distally and that FPs in benign fasciculation syndrome more frequently arise proximally.

【過去の研究】

①前角由来とする報告

Fasciculations: what do we know of their significance? (Desai J, 1997)

Fibrillation and fasciculation in voluntary muscle. (Denny-Brown DB, 1938)

②末梢神経由来とする報告

Effects of denervation on fasciculations in human muscle: relation of fibrillations to fasciculations. (Forster FM, 1946) : 神経ブロックをしても残存することが根拠

Fasciculations and their F-response. Localisation of their axonal origin. (Roth G, 1982) : F波を用いて評価

(※ Rothは、約 80%が末梢の軸索由来で、約 20%が末梢神経系のより中枢側由来であると推測)

The origin of fasciculations. (Roth G, 1982) : collision法 (衝突法) を用いて評価

Firing pattern of fasciculations in ALS: evidence for axonal and neuronal origin. (Kleine BU, Neurology) : 発火パターンを解析

③皮質由来

Neurophysiological features of fasciculation potentials evoked by transcranial magnetic stimulation in amyotrophic lateral sclerosis. (de Carvalho M, 2000)

④脊髄由来

Complex fasciculations and their origin in amyotrophic lateral sclerosis and Kennedy’s disease. (Hirota, 2000) : “complex fasciculation” が上脊髄由来だと推測

Synchronous fasciculation in motor neuron disease. (Norris FH Jr, 1965) : 体の両側で同時に起こる fasciculationを記録して検討。中枢での興奮性が関与し、脊髄起源が示唆される。

今回、著者らは単一の筋肉 (前脛骨筋) の 2ヶ所に 1 cm以上離して記録電極 (concentric needle electrodes) を置いて、time-locked FPsを調べることで、fasciculationの起源を検討しました。2ヶ所の記録電極が、それぞれ別々の神経支配の筋肉を記録していることを、支配神経の電気刺激や、随意的な筋肉の弱収縮など、いくつかの方法で確認しました。

【対象患者】

・ALS

52例 (男性 29例, 女性 23例), 年齢 36~75歳 (平均 59.6歳), 初発症状からの平均期間 11.1ヶ月。bulbar 16例, axial 5例, upper limb 20例, lower limb 11例。

・Benign fasciculation

11例, 年齢 38~70歳 (平均 58歳)。筋力低下がなく、筋電図で normal MUPを呈した。また、 2年間の観察期間で進行がなかった。筋痙攣を有する者はいた。代謝性疾患や薬剤性障害はなかった。

【結果】

・ALS (前脛骨筋に神経原性変化があった患者)

1096個の fasciculationを記録した。同時記録の 2ヶ所のうち、1ヶ所のみで fasciculationが観察されたのが 941個 (85.7%), 2箇所で観察されたのが 155個 (14.3%) であった。

・ALS (前脛骨筋に神経原性変化がなかった患者)

544個の fasciculationを記録した。同時記録の 2ヶ所のうち、1箇所のみで fasciculationが観察されたのが 394個 (72.7%), 2ヶ所で観察されたのが 150 (27.3%) であった。

・Benign fasciculation

234個の fasciculationを記録した。同時記録の 2ヶ所のうち、1箇所のみで fasciculationが観察されたのが 129個 (55.1%), 2ヶ所で観察されたのが 105個 (44.9%) であった。

【考察】

 神経原性変化がない ALSの前脛骨筋や benign fasciculationでは、異なる神経に支配された 2ヶ所の筋肉で同時に発火する頻度がより高く、これは中枢 (おそらく 脊髄の motor neuron pool) に由来すると推測される。一方で、神経原性変化がある ALSの前脛骨筋では、異なる神経に支配された 2ヶ所の筋肉で別々に発火する頻度が高く、(それぞれ別の末梢神経系が同期することなく発火していることから) より遠位由来と考えられる。隣接した運動神経に混線して刺激が伝わってしまうエファプス伝達により、2ヶ所の筋肉で同時に発火してしまう可能性については、(神経損傷を伴わない) benign fasciculationでも 2ヶ所同時に発火する頻度が高いので、可能性は低い。

Fasciculationの起源って、奥が深いのですね。大部分が末梢神経由来で、一部中枢性の要素もあるというのは理解していましたが、ALSの病期によって異なるというのは面白いと思いました。Benign fasciculationを検査して、エファプス伝達を除外しているのも上手いやり方だと感じました。

電気生理検査を専門にしている人たちから話を聞くと、針筋電図で見られる安静時活動の起源というのは、結構アツい問題です。fasciculation以外にも議論はあり、例えば “fibrillation potential” や “positive sharp wave” といった脱神経電位は、一般的には末梢神経障害や炎症性筋疾患で見られることで知られていますが、脳血管障害でも見られることもあるなんていうのが、ちょっとしたネタになったりします。

知り合いの電気生理ヲタクの医師と酒を酌み交わすときは、こういうマニアックな話題がいつも肴になります。

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ADA2014 糖尿病ガイドライン

By , 2013年12月28日 5:32 PM

2013年1月13日に米国糖尿病学会 (ADA) の 2013年ガイドラインについてお伝えしました。すでに 2014年版が公開されているようです。。

Standards of Medical Care in Diabetesd2014 (PDF)

Executive Summary: Standards of Medical Care in Diabetesd2014 (PDF)

ちなみに、改訂された点のまとめは、”Summary of Revisions to the 2014 Clinical Practice Recommendations” で見ることが出来ます。全部目を通したわけではありませんが、2013年と比べてそれほど大きくは変わっていない印象です。

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受精卵の DNAを調べる方法

By , 2013年12月28日 6:06 AM

2013年12月19日の Nature Newsに、”Non-invasive method devised to sequence DNA of human eggs” という記事がありました。

2013年12月19日に Cell誌に掲載された、”Genome Analyses of Single Human Oocytes” という論文を紹介したものです。全くの専門外なので、論文の内容は良く理解できませんでしたが、どうやら一次極体 (PB1) と二次極体 (PB2) のゲノムを読むことで、雌性前核の遺伝子が推測できるというものらしいです。そして、必要とされる極微量のゲノムを読むことを可能にしているのが、MALBAC (multiple annealing and looping-based amplification cycles) という技術のようです。ヒト受精卵を用いるといった、NIHの研究費を使うことができない実験であったため、北京大学で研究したと記載されていました。

北京大学の Jie Qiaoらは、遺伝性疾患を持っていたり、流産を繰り返すなどの女性を対象とした臨床試験を開始しました。

Figure 1

Cell論文, Figure 1

倫理的な問題は残ると思いますが、受精卵を壊すことなく、母親由来の遺伝病がないかどうかを調べることが可能になる技術で、遺伝性疾患を持つ家系の方にとっては、朗報でしょうね。

今年は、ミトコンドリア置換に始まり、遺伝性疾患の遺伝を防ぐための画期的な技術が登場した一年と言えるのかもしれません。

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神経学の源流 3 ブロカ

By , 2013年12月27日 1:50 PM

神経学の源流 3 ブロカ (萬年甫・岩田誠編訳, 東京大学出版会)」を読み終えました。「神経学の源流1 ババンスキーとともに-」、「神経学の源流 2 ラモニ・カハール」に続く三作目です。

ガル Franz Joseph Gall (1758.3.9~1828.8.22) による「骨相学」からブームとなった脳の局在論が、ブイヨ Jean-Baptiste Bouillaudらの主張を経て、Broca,  Edouard Hitzig らによって確立していくまでの流れが生き生きと伝わってきて楽しめました。また、古典的な失語症研究の流れを知ることができました。

何よりも、Brocaらの重要論文の全訳を読むことが出来たのが、本書から一番恩恵を感じた点です。

とても内容の深い本であり、「哺乳類による辺縁大葉と辺縁溝」という論文以外は解剖学的知識もあまり要求されないので、失語症に関わる多くの方に読んで欲しいです。

以下、備忘録。

・ピエール・ポール・ブロカ Pierre Paul Broca (1824.6.29~1880.7.7) はボルドーの東 60 km、ドルドーニュ川沿いの小さな町「サント・フォワ・ラ・グランド Sainte-Foy-la-Grande」 で生まれた。父親は開業医、母親は牧師の娘であった。一家はカルヴァン派の信徒だった。

・サント・フォワ・ラ・グランド出身の著名人に、高名な解剖学者ピエール・グラチオレ Pierre Gratiolet (1815~1865) がいる (脳の局在説には反対の立場であった)。

・ブロカはギリシャ語をきわめて得意とし、英語と独語をフランス語の如くこなし、デッサンに秀で、ホルンの優れた奏者であった。

・ブロカは 33歳の時に、アデール・オーギュスティーヌ・ルゴール Adele Augustine Lugol (1835~1914) と結婚した。オーギュスティーヌの父は、ルゴール液を作ったルゴール博士だった。ルゴール博士は、結核性リンパ腺炎や甲状腺疾患のヨード療法などで有名な医者だった。

・ブロカは、1880年2月に終身上院議員に選出された。1880年7月7日、右肩に疼痛を覚え、上院を途中退場して帰宅し、同日深夜ただ 1回の狭心症発作で死亡した (と書いてあるけれど、亡くなっているから心筋梗塞なんでしょうね)。享年 57歳だった。

・ブロカは、大脳皮質運動性言語中枢を発見したのみならず、ドゥシェンヌ・ド・ブローニュ Duchenne de Boulogne (1806~1875) より以前に筋萎縮症を筋肉の原発性疾患として記載しフィルヒョウ Rudolph Virchow (1821~1875) より以前に佝僂病を栄養性疾患と認定し、ロキタンスキー Karl von Rokitansky (1804~1878) より以前に癌の静脈性転移を報告した人としても評価されている。

・1868年、サント・フォワ・ラ・グランドから東に 40マイルほどに位置するクロマニヨン (Cro-Magnon) 洞窟から、鉄道敷設工事中に人骨が発見された。ブロかはこの人骨を調査し、人類学会に報告した (クロマニヨン人最初の報告)。

・ブロカの生まれた 19世紀の始め頃には、脳には “シルヴィウス溝” と “島” しか命名されていなかった。シルヴィウス溝は 1641年にバルトリン父子がシルヴィウスに因んで命名し、島は 1809年にドイツのヨハン・クリスチアン・ライルが「シルヴィウス窩」と題する小論文で最初に記載したと言われている。次に命名されたのがローランド溝で、1839年にブロカの師の一人であるルーレが、この脳回の存在を指摘したローランド (1773~1831) の名前を付した。前頭・頭頂・側頭・後頭葉の脳葉区分は、1838年にハイデルベルクの解剖生理学教授アーノルド (1803~1890) に拠る。

・Broca失語として最初に報告された患者 Leborgne (ルボルニュ) は「失語症 (Aphémie) の 1例にもとづく構音言語機能の座に関する考察」という 1861年の論文に登場する。その論文の第一部で、Brocaは構音言語の障害に対して “aphémie (αは否定接頭語、φημは私は話すの意)”  という言葉を与え、言語中枢が存在する回転 (=脳回) を論じている。第二部では、相手の言うことはわかるが、”tan” としか発語しない男性 Leborgneの症例が記載されている。Brocaは剖検脳を調べ、左第 2, 3前頭回を中心とした限局性の強い損傷を指摘した。また、この論文では、「内部のことについては、私は検索することをあきらめた。私はこの脳をこわすことなしに博物館に保存しておくことが大切であると考えたためである」という有名な記載が確認できる。

・続いて、Brocaは 1861年に 2例目の患者を「第 3前頭回の病変によって起こった失語症 (aphémie) の新しい症例」として報告している。症例は Lelongという 84歳の脳卒中の土工。次の 5つの臨床的特徴がみられた。すなわち、①彼は人が彼に言うことはすべて理解していた、②彼は彼の語彙 (vocablaire) である 4つの言葉を明瞭に使い分けていた、③精神的に健全であった、④彼は数の勘定 (numeration ecrite) を少なくとも 2桁までは知っていた、⑤彼は言語の一般的機能 (faculte general du langage) も、発声 (phonation) や発音 (articulation) のための筋の随意運動性も失ったわけではなく、したがって彼が失ったのは構音言語 (faculte de langage articule) だけであった。剖検では、左第 2, 3前頭回に病変が見られ、後者の損傷が強かった。

・Brocaは “aphémie” の語を用いたが、Armand Trousseau (1801~1867) は、この語がギリシャのプラトンの対話篇の中にある “infamie” (汚辱、不名誉) の意味に通ずるという点から退け、代わって “aphasie” の語を用いることを提案した。Brocaは Trousseau宛の公開書簡を発表して自己の立場を主張するとともに、生涯 “aphasie” の語を用いなかった。

・1863年1月1日、ブロカはビセートル病院を去って、シャルコーやヴュルピアンのいるサルペトリエール病院外科に移った。

・Brocaは、1863年4月2日に人類学会で、自験例 2例、シャルコーの 4例、ギュブラーの 1例、トゥルーソーの 8例を検討して、すべての症例で損傷が左側にあったことを発表した。

・Gustave Daxは、1863年3月26日に、「思考の記号の忘却に伴って生ずる左大脳半球の病変」と題する論文を医学アカデミーに提出した。第 1部は父 Marc Dax (1770~1837) の手によるもので、剖検を伴わない 40例を根拠に、”左半球に損傷があると、必ずというのではないが、言葉の記憶に変化が起こる。しかし、この記憶が脳のなんらかの病変で変化するとすれば、その原因は左半球に求めなければならず、両半球がやられた場合もそうするべきである” と結論した。この第 1部の内容は、1836年7月の南フランス医学会で Marc Dax発表したという。第 2部には、ギュスターブ自身の症例と、ブイヨの文献 140例を加えて補足したものだった (※本書には、Dax父子の論文の全訳が収載されている)。ギュスターブは、亡父マルクが「失語症は左半球に損傷がある」ことの最初の発見者、自分を第二の発見者と主張した。ブロカの論文は引用されていなかった。Dax父子の論文の要約は、1865年6月25日発行の医科学週間新聞に掲載され、全文は1877年のモンペリエ医学誌に掲載された。

・1865年4月4日の医学アカデミーで、左半球優位についての優先権が、Broca, Daxいずれに帰するか、議論となった。Brocaは、1836年に Marc Daxが発表したとする痕跡が、あらゆる文献に存在しないことを指摘した (1836年7月1~10日に第 3回南フランス医学会が開催されたが、議事録は残っていない。ラ・ルヴュ・ド・モンペリエという雑誌には、学会で行われた論議の大要が載ったが、言語問題については何も記載されていない)。さらに、1877年5月15日にある論文を審査した際の報告後、質問を受けて、Brocaは Marc Daxと Gustave Daxの 2つの原稿のスタイルが異なることを指摘し、「Marc Daxの原稿が 1836年の学会のために用意されたが、学会には提出されなかったし、公表されなかった」ことを述べた。

・これに対して、 Gustave Daxは、1836年の発表後に、その論文は Dax父子によって写され、多数の同僚、同級生、友人、モンペリエの医学部教授などに配布されたとした。1879年にケゼルギュ R.Caizerguesの調べたところによれば、モンペリエの医学部長であった彼の祖父の残した書類整理中に、マルク・ダックスの論文の写しを発見したという。

・著者らは、「”失語症は左大脳半球に損傷” があるという命題についての優先権は、年月の上から見てマルク・ダックスにあるといえようが、現在残されている資料を見るかぎり、ブロカがマルク・ダックスの論文を “公表されなかった” と判定するまでの過程は、公正で妥当であったと思われる。いずれにせよ優先権をめぐる問題には、あらゆる場合に胡散臭さがつきまとうのが世の常で、この場合ダックス側にその匂いが強いように思われる」としている。

・1870年、大脳皮質機能局在説は、フリッチュとヒッチッヒによる「大脳の電気的興奮について」と題する論文により強力な支持を受けることとなった。ヒッチッヒ Edouard Hitzig (1838~1907) は、1875年にチューリッヒの精神科教授、精神病院 Burgholzli Asylumの院長となった。その翌年、Von Monakowが彼の門を叩いている。ヒッチッヒは、神経学はロンベルグ Rombergから、病理学はトラウベ Traubeとフイルヒョウ Virchowから、生理学はデュ・ボワ・レイモン du Bois-Reymondから、精神科はグライジンガー Griesingerとカール・ウエストファール Carl Westphalから大きな影響を受けたと言われている。ヒッチッヒは様々な人や組織と諍いを起こし、1879年にフォレル August Henri Forel (1848~1931) が後任としてやってきた時、病院はまさに混乱状態であったという。フリッチュ Gustav T. Fritsch (1838~1891) は、ヒッチッヒと同年の生まれでさるが、熟練者としてヒッチッヒに協力した。「大脳の電気的興奮について」は、ヒッチッヒが 32歳のときに書かれたもので、当時ベルリンの生理学教室に研究設備がなかったときに、最初自宅の婦人の裁縫台の上で実験していたという逸話が残っている。

・本書には、「大脳の電気的興奮性について (Ueber die elektrische Erregbarkeit des Grosshirns)」と題された論文の全訳が掲載されている。「一般的にいって、運動性の部分は前よりの方に、非運動性の部分は後ろよりの方にある。-運動性の部分を電気的に刺激するとそれと反対側の半身にいろいろの組合わせの筋収縮 (Muskelocontractionen) が起こる」「きわめて弱い電流を用いると、一定の限られた筋群に筋収縮が起こる。同じ場所ないしはそれにきわめて隣接した場所を、もっと強い電流で刺激すると、他の筋群さらには同側の筋群にも直ちに反応が表れる。しかし,限られた筋群を単独に興奮させるには、非常に小さな場所をきわめて弱い電流で刺激した場合に限られる。われわれはこのような場所を簡略に中枢 (Centra) とよぶことにしたい」「生理学的に非常に興味のある刺激因子について、是非とも一言ふれておきたい。それは陽極が必ず優勢であるということである」「われわれの実験動物の中の 2例では、こうした後続運動に続いて典型的な痙攣発作が起こった」「最後に、不思議に思うことは、非常に有名な学者を含む過去の多くの研究者たちが、なぜ反対の結果に到達したかということである。これに対してはわれわれの答えは唯ひとつ、”方法が結果をつくり出す” (“Die Methode schafft die Resultate”) ということである」などといった記載など。

・フリッチュとヒッチッヒの論文は、フェリア D.Ferrier (1843~1928) によるイヌやサルを用いた詳しい刺激実験によって裏付けられた。その後、マイネルト Th. Meynert (1833~1892) のもとに学んだ精神科医ヴェルニッケ (1843~1905) が重要な役割を担った。ヴェルニッケは、師マイネルトによる精神活動が連合線維に拠るとする考えを言語機能に応用した。1874年、ヴェルニッケは「失語症症候群 (Der aphasische Symptomcomplex)」という処女論文を書いた。ヴェルニッケは、そのなかで、感覚刺激が外界から脳に送られてそこで受容されると、大脳皮質にはその刺激の “記憶心像 (Erinnerungsbilder)” が残り、これは外界からの刺激がなくても想起されるようになると延べ、このような “記憶心像” は大脳皮質のなかで側頭-後頭葉領域に形成されると考えた。ヴェルニッケは、”音響心像” の生じる場は、師のマイネルトが聴覚線維の投射部位として “音響領野 (Klangfeld)” と名づけた場所すなわち側頭葉上部に相違いない、そしてそこから発した連合線維が前頭葉に至り、”心的反射現象 (psychishe Refleaction)” として発語現象が起こると考えた。そして、ヴェルニッケはこの “音響心像” の生ずる場が損傷を受けると、話された語の復唱が不能となり、語を理解することができなくなることを指摘し、今までに報告されたことのない 2例の自験例を記載した。第 1例は 59歳の女性で、人が彼女に話しかける言葉を全く理解できないにもかかわらず正しく話すことができた。また話し言葉の中に言い間違いすなわち錯誤がみられ、復唱も障害され、読み書きができないことも観察された。第 2例は 75歳の女性で、同様の症状を呈して死亡し、剖検で左上側頭回に軟化のあったことが確認された。

・本書 (p148~149ページ) には、ブロカによる Broca失語の一例目の患者の CT写真が掲載されている。その写真の分析は、ブロカが残した病巣の広がりに関する記載を再確認するとともに、一方ではヴェルニッケ領域が侵されないで残っていること、他方で大脳基底核ことにレンズ核が大きな損傷を受けていることを示した。

・Brocaは、1878年、死の 2年前に「哺乳類による辺縁大葉と辺縁溝 (※本書に全訳収載)」と題した大部の論文を著した。この論文は、1950年にフォン・ボーニン von Boninによって再発見されるまで、72年間休眠を続け、この長い間にこの論文に言及したのはわずかにスーリー J. Souryとラモニ・カハールの 2人のみであったという。ボーニンが、”Essay on the cerebral cortex” のなかで、ペイペッツ Papezの有名な回路が不思議にもブロカの辺縁大葉を思い起こさせると指摘して、やっとブロカの名が返り咲いた。それ以後、”辺縁大葉” の名は “辺縁系 (limbic system)” と置換えられて、随所で用いられるようになり、今日に至っている。

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