昨夜、マタイ受難曲第1部のDVDを鑑賞し、23時くらいにベッドに入りました。
ベッドに入ってすぐ、強烈な悪寒が襲って来たのです。毛布にくるまれて、「今日は寒いなぁ・・・」などと暢気に構えていましたが、さすがにずっと続くので、体温を測ってみました。
38.2℃だったので、「まぁ、知恵熱か。今日は勉強したしな。」とそのまま眠りました。しかし、腹痛、下痢、嘔吐で断続的に目が覚め、「急性胃腸炎、ノロウイルス?」という結論に達しました。
朝起きて、体温は38℃台だったものの、発熱以外の症状が軽かったため、仕事に行こうと思ったのですが、「○○大学病院でノロウイルス蔓延!主治医が持ち込む。」という見出しが頭に浮かび、上司に電話しました。
休んで良いとの許可を得て、仕事を休みました。研修医の頃は、39.7℃ありながら徹夜で当直していたり、40℃超えていながら仕事を休めなかったりしたのですが、上司が優しくて助かりました。
そんなこんなで、家でゴロゴロしています。ノロウイルスの患者はこれまで100人くらい診察してきたので、自分も感染すると思い、整腸剤、解熱剤、胃薬などをあらかじめ同僚に処方してもらっていました。「備えあれば憂いなし」とは、まさにそのことです。
看病してくれる女性も処方出来れば良いのに・・・。
昨日、仕事を終えて帰宅中、偶然教授と一緒になったのです。話がはずんだので、少しでも教授といられるように、遠回りして帰りました。教授は、新しい片頭痛の薬(抗てんかん薬の一種)の治験の会議に出席される途中でした。
舞い上がってしまっていて、何を話していたかはあまり憶えていません。後から、「あの話もすれば良かった」とか、いろいろ後悔しました。
途中、医師兼音楽家である人物の話になり、ヨーロッパにはオルガニストで医師である人物が何人もいるだとか、日本人にもプロのピアニストである医師がいるとか、そういったことを話しました。人名は詳しくは忘れてしまいましたが。
それから、以前9月9日の日記で紹介した「不思議の国のアリス症候群」の話題になりました。「不思議の国のアリス症候群」は、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」という小説から名付けられました。キャロル自身が「不思議の国のアリス症候群」だったと言われていて、その体験を元に「不思議の国のアリス」という小説を書いたと考えられています。
教授は、「キャロルが『不思議の国のアリス』という小説を書いたのは、彼が『不思議の国のアリス症候群』に罹る前だったという説があるよ。」とおっしゃっていましたが、私が「でも、自分が罹患していないと、あそこまで細かな描写は出来ないでしょう?」と言うと、「そうかもしれないね」とおっしゃっていました。
その他、ブラームスやビルロートの話をしました。
電車の音がうるさくて、時々聞き取れない部分もあったのが残念です。でも、12月12日の忘年会は、教授とモーツァルトのデュオを合わせます。今からとても楽しみにしています。
11月24日は、学生時代所属していた部活の納会でした。親しかった後輩が卒業することとなり、飲み屋→飲み屋→ボウリング→飲み屋→ラーメン→カラオケと、名残を惜しんで朝5時まで遊んでいたわけです。
で、11月25日神経学会関東地方会に突入しました。昼くらいまではハイテンション。しかし、楽しかったのもそれまで。学会場に入場する時、受付で参加料を2000円払わないといけないのですが、前日遊びすぎて、財布の中には1500円。受付嬢に「安くはならないんですよねぇ」と言いながら、先輩に「金貸してください」と懇願。先輩から「恥ずかしい真似すんじゃねぇ」とは言われましたが、貸し渋りされることなく金を借りられました。無事入場。
上司と喫茶店でコーヒーを飲んでからは、猛烈な吐気が襲ってきました。経験したことはありませんが、きっと「悪阻」に匹敵します。
自分の発表する2つ前の演題でトイレに駆け込み吐きました。共同演者が、真っ青になっている中、何とか自分の発表には間に合いました。同僚達は「鬼気迫る発表だった」と述べていましたが、(自分で蒔いた種とはいえ)苦難を乗り越えることが出来、ほっとしました。発表自体に、問題はなかったと思います。
発表後、タクシーで駅まで戻った後、数度立て続けに吐きました。夜、家に帰ってからもはき続け、飲み会はキャンセル。酒の恐ろしさを改めて感じました。
今週は連日飲み会でした。
まず月曜日、電車の中でたまたま同僚と会いました。彼は冗談で痴漢の真似をして私を触ってきたのですが、ひとしきり笑った後、2人で新宿で飲みました。もちろん、最初痴漢が同僚だとわかるまでは、とてもびっくりしました。
火曜日は、アルテリーベという店で、プロの音楽家がオペラの有名な部分を歌っているのを聴きながら飲むことが出来ました。すごく盛り上がって、最後は全員で踊っていました。私は最後に舞台の上で一気のみをさせられてしまいました。たまに客が演奏出来る日があるらしいので、今度是非演奏してみたいと思います。
水曜日は病棟の先生と2人で飲みに行きましたが、途中で郡山時代一緒に働いた女医さんと、その夫と合流しました。女医さんも夫も神経内科医ですが、夫の方が5分おきに「うちのかみさん可愛いだろ?」と惚気ていて、非常に腹が立ちました。二次会は、ジパングという高級バー。70万円もするワインなども置いてありました(我々が飲んだのは、安いワインでした)。全員、時期はずれていても、郡山の同じ病院で働いたことがあり、思い出話に華が咲きました。
木曜日は、病棟の送別会。若いDrだけで集まって、1時過ぎまで飲んでいました。
こんなに連日飲んだのは、久しぶりです。この1週間は偶然当直がなく、明後日は、今月唯一の完全な休日です。でも、来週火曜日は症例検討会で発表しなければならず、準備に費やすことになりそうです。何かと忙しい日々が続きます。
朝は大分冷え込むようになってきました。
昨日埼玉の病院に外来をしに行ったとき、タイムカードに後輩の名前を見つけたのです。しばらく連絡をとっていなかったため、本当に後輩かどうかわからなかりませんでした。同姓同名かもしれないと思っていたところ、看護婦さんから、相手も私の名前を見て何か言っていたと聞いて、本人と確信しました。国家試験前後には相談の電話を貰った後輩で、懐かしく感じました。
似たような経験もあって、郡山で患者を搬送したら、搬送先の医師が同級生だったことがあります。
新しい研修医制度では、研修医は皮膚科、麻酔科、外科など、我々過去の内科医が持たない知識を広く持つ一方、内科を半年しかまわりません。内科の中では2科しかまわらないこととなります(例えば膠原病と循環器科だけとか)。そのため、研修を終えた時点では、以前の研修過程を終えた内科医と比べて、内科一般の知識は不足していると思います(その後の経験で、その差はなくなっていきますが・・・)。
問題があることだと思い、勝手に研修医を集めて一般的な講義を始めたのですが、研修医からは評判が良いので、続けていこうかと思っています。糖尿病とか、頭痛とか、感染症の治療など内科一般としての知識をテーマに講義していますが、今後分野を拡大していかないとと思っています。
話は変わりますが、前の病院で働いていたとき、後輩から「何故論文を書こうという気になるのですか?」と、論文を書くモチベーションについて質問され、「俺が死んでも残るから」と答え、理解を得られなかったのですが、先日紹介した羽生さんの本を読み終えて、CVA(コーポレート・バリュー・アソシエイツ)という企業の創始者が、同じように考えているという記述を見つけました。何か自分の考えを代弁してもらっているかのようでした。下記は今北純一氏というビジネスマンが、その創始者と話したときのエピソードです。今北氏は「エア・リキード」という世界最大手の工業用・医療用ガスのグループに入り、エア・リキード・パシフィックの代表取締となった人物ですが、その会社を辞め、CVAに就職したそうです。
『あなたのモチベーションは何なのですか?』と聞いたら、「レガシィー(遺産)」という答えが返ってきたのです。財産としてのレガシィーかと思ったら、違うのです。『自分がこの世に生を受けて何を残せるか、という思いが自分のモチベーションになっている』と。つまり、人間は必ず死ぬ訳ですが、死んだ後にその人がいなくても機能する何かを残すことが彼の言うレガシィーであり、モチベーションだったのです。
今朝当直が終わって、家に着いてから、昼まで将棋の番組を見て、それから葉加瀬太郎と古澤巌がバッハのドッペルをジャズ風にアレンジしたCD(Time has come, HUCD-10021)を聴いていました。そうしたら、宅配便業者がベルを鳴らし、ドアを開けると大きな荷物を抱えて立っていました。
待ちに待ったベッド。今まで床で寝てたし、当直の日はベッドがあるからむしろ心待ちでしたが、やっと我が家にもベッドが入ります。寝心地確認したい女性は是非連絡くださーい(爆)。
今日の失敗談ですが、ベッドのシーツを買いに行って、掛け布団のカバーも勧められて購入(シーツとおそろいの方がかっこいいし)。セットで枕カバーも勧められて買って帰ったのですが、シーツにカバーを掛けていて、枕を持っていないことに気付きました。
郡山時代はピアノが部屋に置けなかったため、貸倉庫に預けていたのですが、やっと今日戻ってきました。少し弾いてみましたが、チューニングが必要なようです。
昨日は学会発表でした。発表終了一分前のベルと、発表終了のブザーを同時に鳴らされるというアクシデントはありましたが、何とか無事に終了しました。
ニューヨーク多発テロ。その時、友達と電話していて、受話器の向こう側から「うわ、テレビ見て!」と言われた気がします。
確かに被害者の方には残念なことだと思いますが、チョムスキーの本を読めば、起こっても不思議ではなかった気がします。これまでアメリカはテロリストに莫大な資金を投入して育ててきました。国連がアメリカにニカラグアのテロリストに対する協力をやめるように決議したとき、アメリカは2度拒否権を発動したそうです。
その後、アフガニスタン、イラク戦争へと発展していきましたが、イラク戦争に対するチョムスキー流の皮肉は、「イラクがアメリカ同様に拒否権を持っていたら、国連決議には何一つ違反していなかっただろう(気に入らない決議には、アメリカ並みに拒否権を乱発すれば、決議違反にならないから)」ということです。
自分の日常の罪悪感を浄化するためか、痛みを被ることなく、また現実を知らず平和を感情的に叫ぶ人もいますが、チョムスキーの論理には説得力があります。偶然、最近読んだ本にチョムスキーに対する評論が載っていたので記しておきます。
チョムスキーは、若くして言語学で新しい文法論理を開発したのと並行して、かつてベトナム反戦運動のため研究費の支給を止められてもひるまなかったし、その後も今日まで活発な平和運動を続けてきました。同じ一個の脳の中でこの二つの活動が並行して活発に営まれてきた事実は、彼の言語学と反戦運動は根底で結びついていることを思わせますし、また人間の言語機能と他の知的機能との間に、遺伝的にも深い関係があることを示唆しているようにも思われます。(臨床医が語る脳とコトバのはなし(岩田誠著)
いよいよドイツに向かいます。
8月24日は郡山の病院で最後の外来を行いました。研修医時代の指導医が理想としていた、「患者さんが『今日来て良かったな』と思えるような外来」を目指してきましたが、2年間やってみて、なかなか難しいものでした。「医者が目を見て話してくれない」、という苦情が多いことを学生時代授業で習っていたので、出来るだけ、相手と目を合わせるようにというのは意識していましたが・・・。最後の外来に対する患者の反応で最も多かったのが、「せっかく何でも話せるようになったのに、もう変わってしまうの?」というもので、半数以上の人がそう答えていました。残念ですが、システムの問題であり、一介の医師にはどうしようもありません。
8月25日は診療を終えて、猪苗代湖を見に行ってから、19時に郡山を出発しました。夜通し高速を走ったのですが、北陸道から名神に入ろうとして、米原手前で力尽き1時間仮眠をとりました。後はそのまま名神→中国自動車道と抜けて、朝6時に実家に着きました。実家では、2時間くらい寝てから友人と米子に馬券を買いに行きました。その夜は親と飲んで、それから友人と2時半まで麻雀。27日朝は7時前に起きて、免許の更新を行ってから東京に戻りました。
ハードスケジュールでしたが、普段なかなか会えない人たちと会えて懐かしかったです。
最近で一番驚いたこと。ボスから「君のホームページ見ているよ」と言われたこと。エロ本が親に見つかったときのような衝撃でした。