私の脳科学講義
「私の脳科学講義 (利根川進著、岩波新書)」を読み終えました。著者は、免疫、特に抗体に関する研究でノーベル生理学医学賞を受賞しました。
私が医学生時代、薬理学の教授が講義で、「利根川先生は、免疫の研究をしていた頃は良い仕事してたけど、脳の方にいってからおかしくなってしまった。」と述べていて、「どうおかしくなっていたのか」それ以来ずっと疑問に思っていました。本書を読んで、おかしくなったなどということはなく、本当に凄い人だなと思いました。
本書では、最初に利根川氏の分子生物学との出会いが紹介されます。そして、彼の師について紹介されています。彼のアメリカでの師はノーベル賞学者レナート・ダルベッコですが、ダルベッコの弟子達は、4人 (ハワード・テミン、デビッド・ボルティモア、利根川進、ポール・ハーグ) ノーベル賞を受賞しています。また、ダルベッコの兄弟子がジェームズ・ワトソンでノーベル賞学者です。ワトソンとダルベッコの師サルバドール・ルリアもノーベル賞を受賞しています。天才というのは、集うものなのですね。
利根川先生は、アメリカに渡った後、分子生物学の手法を用いて、スイスのバーゼルで免疫の研究をすることとなりました。当時、何故一〇万個 (実際には三万個) の遺伝子で一〇〇億種類の抗体を産生できるのかは免疫学上最大のジレンマになっており、「GOD (Generation of Diversity) のミステリー」と呼ばれていました。研究中に彼の任期は終わってしまうのですが、彼は「この研究はひじょうに重要だと思ったのです。しかも、いま得られたデータはひじょうに有望である、これを中断させる所長の決断はまちがっていると勝手に考えて、人事部からの手紙は無視して研究をつづけていました」という態度をとり、最終的には雇用を延長させ、ノーベル賞を受賞するきっかけとなった研究を完成させました。GODのジレンマの答えは、抗原の可変領域の変異、DNA組み替えにあったのです。さらに彼は抗原と反応性の高い抗体が選択的に増殖することで、効果的な免疫応答をしていることを発見しました。
免疫の分野で成功を収めた彼が次に研究の対象としたのは脳でした。彼は脳に分子生物学的手法を持ち込み、研究を始めました。そ研究が本書で紹介されています。
一つは、海馬に関する研究です。Cre-loxPというDNAの部位特異的組み替えシステムです。この手法でマウスの海馬の CA1野及び CA3野の NMDA受容体をノックアウトしました。とても綺麗な実験なので、是非本書を読んでみて頂きたいのですが、部位特異的に受容体をノックアウトしたのが、この実験の醍醐味です。シャーファー線維のテタヌス刺激で、シナプス伝達の増強 (長期増強;LTP) を調べています。更に、多電極解析法という電気生理学的検証を織り込みました。
この実験により、海馬 CA1野の NMDA受容体ノックアウトマウスでは、シナプス伝達の増強、すなわち長期増強 (LTP) が起こらなくなり、更に空間記憶が得られないことがわかりました。海馬 CA3野の NMDA受容体ノックアウトマウスでは、目印物質を減らした後、場所ニューロンの活性化に欠陥があり、パターンコンプリケーションに障害があることがわかりました。
利根川先生は、この実験について、次のように述べています。
記憶というのは、ある出来事があって、そこからいろいろな情報が脳に入ります。ほかのことをしているときは、その出来事のことはとくに思い浮かべていません。たとえば、ある人にはじめて会って、興味深い会話をしたとします。そして一ヶ月後に、その人がたまたま道を歩いているのを、遠くから見たとします。すると、一ヶ月前の会話の記憶の内容がつぎつぎに思い出されます。そのきっかけになったのは、その人が歩いている横顔をちょっと見たというような、ほんの少しの情報です。これを、記憶の再生におけるパターンコンプリケーション (pattern complication) といいます。記憶の再生においては、ほんの一部の情報を使って、以前に蓄えた全情報のパターンを再生するということです。
考えてみると、一連の情報を記憶として脳に入れたときのその全部の情報にまた遭遇して、記憶の再生が行われるというのではありません。パターンコンプリケーションというプロセスが、再生に密接に関与しているわけです。それで、パターンコンプリケーションをするときに、さっき言った CA3野の自己連想型ネットワークにおける、神経のシナプスの可塑性が重要な役割を果たしているというのがマー (注:デイビッド・マー (MITの神経学者)) の仮説だったわけです。
しかし、この仮説はあくまでアイディアで、ほんとうにそうかどうか、実験で確かめる手だてがなく、三〇年間わからずにきたわけです。
わたしたちは、この CA3野においてのみ、NMDA受容体の遺伝子をノックアウトする方法を開発することによって、この重要な問題を検討しました。それでわかったことは、このマウスは記憶を獲得することに関しては、何の支障もないということです。しかも、記憶したときに使った情報全部を与えてやれば、思い出すこともできます。ふつうのマウスは、ほんの一部を与えても、その情報にもとづいて、全記憶を思い出すことができる。つまり、パターンコンプリケーションができるわけです。ところが CA3野で NMDA受容体の遺伝子をノックアウトするとそれができないのです。
これは、記憶の再生に直接関与している遺伝子が、しかも海馬のどこの細胞でその遺伝子が記憶の再生に関係しているかということを含めて、はじめて突きとめられたケースです。さらに同じ遺伝子が、CA1野では記憶の獲得に関係していて、CA3野では記憶の獲得ではなく、再生においてのみ関係している、ということを証明したことになります。
彼が最初に行った、カルモジュリンキナーゼⅡ遺伝子ノックアウトによる長期増強の阻害は「Science」誌に掲載されましたし、一連の研究も有名雑誌に載っていると思いますので、取り寄せれば読むことが出来そうです。是非、論文の方も読んでみたいと、興味を持ちました。