ゴールデンウィーク

By , 2011年5月14日 4:35 PM

ゴールデンウィークが終わりました。といっても、終わってから結構時間経ってますけれど (^^;

今年はなかなか充実したゴールデンウィークでした。

5月2日
昼頃から郡山のビッグパレットふくしまに行きました。ビッグパレットふくしまには、原発周囲(主として富岡町、川内村)からたくさんの方が避難していました。同地区で働いていた医師の方が、避難所でも医師をしており、他にも、多くの方が、もとの職業を生かしてコミュニティーを作っている光景を見ました。

頼まれていた患者さんを診察してから、郡山時代の同僚達と郡山駅前の「寧々屋」に飲みに行きました。福島県立医大の某科の先生から、色々と興味深い話を聞くことが出来ました。

・震災後、放射能の専門機関から原爆事故が起こると聞かされた。教授が「常勤以外は避難しなさい」と言ったが、全員「残る」と答えた。
・最初のうちは気が張っていて、みんな気分が高揚していたが、交通網が復旧して避難できる環境になってくると、脱落者が出てきた。
・電気の復旧した地区、水の復旧した地区などがばらばらに存在していたので、みんな自分の提供できるものを提供していた。
・○○総合病院はほぼ崩壊してしまい、残った部屋で診療を続けた。比較的マシな部屋でさえ壁にはひびが入っていた。余震の中、恐怖があった。
・東京から戻ってきた教授が、医局員全員に買ってきてくれたカツサンドの味が忘れられない。

他に聞いた話もあったけれど、ここには書けません (^^;

寧々屋で東北の美味しい日本酒を頂いた後は、しゃんでりあの君の新居へ。向かう途中、駅前ローソンのドラえもんの人形に書かれた文章に感動しました。しゃんでりあの君は、地震で部屋が水浸しになり、今の家に引っ越したそうです。そして更に、現在は郡山の放射線量が高すぎるので妻子を大阪に避難させ、単身郡山で診療を続けています。

午前2時頃まで日本酒を飲んで、4人で色々語り合いました。最後は私が持ちネタ「シャラポワ風喘ぎ声」を披露し、みんなを寝かせませんでした v(^^)

5月3日
郡山から直接羽田空港へ行き、実家に帰りました。実家では鍋をつつきながら、親と酒を飲み、将棋を指しました。

5月4日
馬券オヤジ氏と鳥取県大山に出掛け乗馬。ゴールデンウィーク中は混むため乗馬レッスンはやっておらず、40分程トレッキングをしました。久々の乗馬だったので、最初は手綱の持ち方も忘れていたのですが、徐々に思い出しました。大山乗馬センターは親子連れの観光客で賑わっていました。

乗馬を終えた後は、島根原発に向かいました。島根原発の近くには、島根原子力館が建てられていて、原発のしくみの展示などをみることができました。実物大の燃料棒は、原子炉のイメージを持つ上でとても参考になりました。

シアタールームでは、島根原発の建設風景や内部の構造などを映画で見ることができました。短時間の映画が終わった後、館員が福島原発の問題についてパワーポイントで 1時間近く講義をしてくださいました。原発の構造、福島原発の現在の状況、島根原発の新たな対策など、とても勉強になりました。10人くらいしかいなかったのが残念でしたが、私ともう一人の客が、結構つっこんで質問しました。館員は「私の立場からは何も言えないんだけど・・・」と言いながら、「政府が情報開示をしないのはけしからん。県庁とか大きな部屋でマスコミ関係、医療関係ほか様々な業種を集めて会見して情報を全部出すべき」「東電のやり方も、もっと色々あると思うんだけど、手際が悪いなぁ・・・」とか、ちくちく本音が出ていました。館員によると、もっと色々な方に原子力館に聞きに来て頂いて、説明したいそうです。

島根原子力館の見学を終えてから、松江に行きました。駅前のホテルに宿泊手続きして、飲みに出掛けました。ホテル近くの 「Dinningなごみ」には、李白、七冠馬、死神、豊ノ秋、やまたのおろち、開春、高正宗、黒牛、月山、扶桑鶴、玉櫻・・・といった島根の地酒があり、いくつか飲みました。

5月5日
日本海に向かい、潜戸で遊覧船に乗りました。ちゃんとした船かと思いきや、小さな漁船のような船。日本海の荒波で凄く揺れました。天然に出来た穴を船で抜ける所があり、その日は高波で中止するとアナウンスがあったのですが、一転トライすることになり、熟練の船長の技術ですれすれで通過しました。通ったあとは拍手喝采でした。途中で船を止めて、有名な賽の河原に案内されました。

遊覧船を下りてから、境港に行き、昼食を食べて、蟹などを購入して帰宅しました。

自宅に戻ると、methyl先生から東北の日本酒が届いていて、日高見を美味しく頂きました。日本酒のラベルには「絶対負けない石巻」と書かれ、裏には下記の文章が書かれていました。

 日高見 震災復興酒 希望の光

このお酒は、平成23年3月11日(金)の東日本大震災によって被災したお酒です。純米酒を中心に大吟醸や純米吟醸など、発酵中のお酒が被害に遭いました。震災直後、仕込み蔵は地震の揺れの激しさから、発酵中の醪(お酒)がタンクから流れ、床一面、白い絨毯を敷き詰めたのかと、錯覚するような情景でした。溢れ出た醪は震災になり辺り一面に立ち込め、蔵の奥が良く見通せない状況で、目の前の光景を疑いました。そして、溢れ出た醪が発生している音なのか、今までに聞いた事の無いような音が蔵内にこだまし、まるで醪の悲鳴のようにも聞こえ、何とも言えない恐怖感を覚えました。建物のいたるところが壊れ、立ち入る事が困難になり、同時にライフラインが寸断し、発酵中のお酒の管理が出来なくなってしまいました。何の手立ても出来ず、ただ、呆然と指をくわえて見守る日々が続きました。一週間が過ぎても復旧の目処が立たず、発酵中の醪の全廃を覚悟しました。しかし、震災から二週間目、電気など一部ライフラインの復旧などが重なり、詰め掛けていた醪を、遂にお酒として甦えさせる日がやって参りました。ただ、放置している時間が余りにも長く、垂れ口から搾り出されるお酒の品質がとても心配でした。しかし、我々の心配をよそに、そのお酒はとても力強く生命力に溢れ、我々に勇気と希望を与えてくれました。

本来の酒造りでは、如何に良い酒を造ろうかと凌ぎを削りますが、このお酒からは普段の酒造りでは味わえない感動を貰いました。蔵の有る宮城県石巻市はこの度の震災で、壊滅的な被害を受けました。勿論、弊社も甚大な被害を受けました。しかし、被災した石巻市の惨状を見た時に、弊社は本当に生かされたのだと、強く感じるほか有りませんでした。

普段の生活では感じ得ない、感謝の気持ちを強く痛感させられ、造り酒屋として何か地域に貢献することは出来ないか、自然と、その様な気持ちが芽生えて参りました。そして、この気持ちを大事にしたいと考えるようになり、この被災したお酒を震災復興酒として販売し、少ない金額になりますが、売上金の一部を義援金として、私達の住む石巻市に献金したいと考えております。また、我々が励まされた、このお酒を通じて、御愛飲頂く全ての方々に希望の光をお送りする事が出来れば幸いに思います。

            (株)平孝酒造 亭主謹白

さっぱりとした飲みやすい出来映えでした。少し飲んで酔っぱらってから、日本酒片手に将棋。オヤジ相手に7連勝しました。「駒落ちはしない」「手は抜くな」と言われていたので、わからないように弛めようと思ったのですが、無理でした。さりげなく弛めるのにはテクニックが必要なんですね。

結局、親とその日のうちに 1升空けてしまいました (^^;

5月6日
昼前の飛行機で羽田空港に戻り、自宅に寄ってから、新幹線で仙台に向かいました。国分町で被災地で金を使うプロジェクト的な・・・一人飲みでした。東北の日本酒と海の幸を堪能しました。

5月7日
秋田で当直でした。時間があったので、朝から東北本線に乗って、鈍行で盛岡に向かいました。東北本線は、ボタンを押して電車のドアを開けるようになっていて、ヨーロッパの鉄道を思い出しました。ちなみに、私の地元岡山の電車は、手で開けるドアです (^^;

盛岡に着いてぴょんぴょん舎で焼肉や冷麺を食べて、秋田の当直先に向かいました。

当直では、「頭に虫がいる」という主訴の方がいらして、診察時は刺し口しか確認できなかったのですが、虫の写メを見せて貰うとツツガムシ!ミノサイクリンを処方して帰宅としましたが、貴重な経験をさせて頂きました。

5月8日
朝4時半くらいから CPAの対応。30分以上の Asystoleから何とか ROSC得られたのですが、遅れて駆けつけた遠い親戚から延命の希望がないと知らされ、治療を中断。8時頃にお看取りとなりました。

当直の帰りに、盛岡で下車して、「わんこ蕎麦」の店に入りました。2時間前に病院で検食していたことや、日本酒を頼んで出来上がっていたことなどが災いして、 102杯しか食べられませんでした。本当は「101匹わんちゃん」ならぬ「101杯わんこ」を狙っていたのですが、蓋を閉めるタイミングを逸しました。

ちなみに、15杯がそば1人前に相当し、店の記録は女性で 570杯くらいらしいです。後日、私のラボの痩せた女性は 120杯だったと教えてくれました。今度は空腹でリベンジしに行こうと思います。

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将棋Bar 最終日

By , 2011年5月1日 9:26 AM

4月30日、将棋Barの営業最終日に遊びに行って来ました。

思い起こせば、初めて将棋 Barに行ったのは、2009年 12月 23日でした。私の人生でそれまで有段者と指したのは、小学生の時に近所のおじさんと 6枚落ちで 2回、大学生の時に免許合宿で元奨励会員と 1回。それがいきなりプロとの対局で緊張したのを覚えています。

足繁く Barに通い、常連達と仲良くなり、4月 28日には Barの営業後に橋本七段達と焼肉を食べに行ったりもしました。

さて、最終日、とある理由で最後に Barから将棋の駒を頂きました。彫り駒ですが、表が一文字なのに裏は二文字 (成香など) となっている珍しいものです。Twitterで私の呟きをみて Barの閉店を知ったと門倉四段が駆けつけてくださり、その駒で記念すべき初対局をしました。

対局は、私が先手で、相懸かりから棒銀で繰り出した銀を中央に引く構想。プロの実戦にある進行から膠着状態になり、マイナスの手しか見えない局面で私が暴発してあっさり負け。でも、途中まで格調高い将棋が指せて満足でした。

将棋 Barは移転して再開の方針です。今回の移転は、震災で多くのボトルが割れてしまったりして、今の店舗ではもし大きな地震が次に来た時に客や従業員の安全が保証できないからみたいです。橋本七段は B1に昇級したり竜王戦決勝トーナメントに出場することになったり忙しいようなので、次の開店は少し先になるかもしれませんが、楽しみに待ちたいと思います。

(追記)
・最終日は Barが満員になり、盤駒が足りなくなったので、AKB将棋が登場。門倉四段と常連さんの対局を爆笑しながら見ました。互いに対局中の呟きが「前田は守らないと♪」とか「あぁ、篠田が取られた~!」とかwww

・常連さんが素晴らしい駒を持ってきてくださいました。100万円する逸品らしいです。聞くところによると、羽生善治四冠-佐藤康光棋聖の第55期王将戦第1局で、二人の丁度 100戦目にあたる記念すべき対局で使われた駒なのだそうです。それでヘボ将棋を指させて頂き、良い記念になりました。

第55期王将戦棋譜

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第三次ボランティア at 郡山

By , 2011年5月1日 8:14 AM

切ないニュースですね。

人目避け車内で寝泊まり パーキンソン病の双子

福島県郡山市の避難所で、ともにパーキンソン病の男性の双子が駐車場に止めた車内で、1カ月近く寝泊まりしていることが25日、分かった。2人は避難所で「歩き方が変」などと言われ、人目を避けるようになったと話す。

難病患者を支援するNPO法人「SORD」の小泉二郎代表は24日に2人を確認。「行政側はプライバシーに配慮し、避難所とは別の施設などで個室を用意すべき事案だ」としている。

パーキンソン病は、脳内の神経伝達物質ドーパミンが減少することで、手足が震えたり歩行が困難になったりする厚生労働省指定難病。

2人は同県富岡町に住む40歳の兄弟で、ともに20代半ばで発症したという。震災後、3月15日に郡山市のイベント施設「ビッグパレットふくしま」に両親とともに避難し、同月下旬までの10日余りを施設内で過ごした。

入所後、「あの人、歩き方が変だよね」と言う若い人の声が耳に入った。人目が気になり、睡眠不足も重なって兄の症状が悪化。このため3月20日、救護所で医師の診察を受けた。医師からは「1週間でも2週間でも入院した方がいい。郡山市内の病院の紹介状を書く」と言われたが、兄は「知り合いがいるこの避難所がいい」と断った。

弟はその後、救護所で「施設内でプライバシーなどに配慮した場所はないか」と相談したが「個別対応はできない」と言われたという。

結局2人は3月下旬、富岡町の自宅に軽ワゴン車を取りに戻り、その日以来、ビッグパレットの駐車場に車を止め、支給された毛布を持ち込んで寝泊まりを続けている。

救護所で兄を診察した医師は「『プライバシーに配慮した場所を』と言われた記憶も記録もない。保健師が言われたかもしれないが分からない」と話す。富岡町は「当時は大混乱しており、ご迷惑を掛けたかもしれない」としている。

(2011年4月25日)

切ないニュースですね。

さて、5月 2日、SORDからの依頼で、郡山の避難所に診察に出掛けることになりました。神経疾患で困っている方など診てきます。

出来れば、診察後、郡山で奮闘する先生達と飲みに行けたらなぁ・・・と思っています。

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