神経学会総会

By , 2012年5月27日 11:14 AM

以前お伝えしたとおり、5月22~25日に神経学会総会があり、行ってきました。なかなか有意義な数日間が過ごせました。この数日間を簡単にお伝えしようと思います。

5月22日

神経学会生涯教育セミナー Hands-on 6 「高次脳機能」に参加しました。WAIS-IIIは自分で検査したこともされたこともあったので、検査の初歩的説明は私にはあまり面白くなかったです。しかし、次期 WAIS-IVから評価項目の記載が代わると話など、いくつか新しい知識が得られました。聞き終わってからラボに実験に行きました。

5月23日

8時から「ビデオで見る不随意運動の基礎」という講演を聞きました。不随意運動は見る機会があっても、最初は「これが○○だよ」と誰かに教えて貰わないと、なかなか正しく学習出来ません。教科書を読んでも、文字からでは想像しにくいものが多いのが事実です。そういった意味で、得難い勉強の機会でした (とはいえ、10年も神経内科医をやっていれば、ビデオで見た不随意運動のほとんどは既に経験したものですが・・・)。

9時からは絞扼性末梢神経障害の手術についての講演でした。亀田総合病院の整形外科の先生が、講演してくださいました。内容は、carpal tunnel syndrome (手根管症候群), ulnar neuropathy at elbow (昔、肘部管症候群と言われていたもの), Guyon’s canal syndrome, tarsal tunnel syndrome, T.O.S. (胸郭出口症候群), piriphormis syndrome (梨状筋症候群), meralgia parestheticaについてでした。我々は診断をつけたら整形外科に患者さんを紹介することが多い訳ですが、整形外科の先生がどのような基準でどのように治療するかがわかって、非常に勉強になりました。また、手根管症候群の一部で、Palmar cutaneous branchが障害されると非典型的な症状 (母指の障害) を出し、Tinel’s signの部位が通常と異なることは初めて知りました。こんなに面白い話なのに、非常に参加者が少なかったのが残念でした。

10時頃からポスターをみて、ラボに行き、実験をしました。そして、15時の講演に合わせて会場に戻りました。15時からの「小脳症状とは何か」という講演は、期待はずれでした。あまり「小脳症状とは何か」という問に答えていない演者が多かった気がします。

5月24日

8時から「てんかん発作を診て勉強しよう」の講演を聞きました。基本的な話が中心で、新しく勉強になったことは少なかったですが、入院でビデオ+脳波同時期録ができる施設が羨ましいと思いました。なかなかそういう環境でないと、ヒステリー (偽発作) と本当のてんかん発作の鑑別が難しいことがあるからです。

9時からは「感覚情報と大脳基底核」の講演を聞きました。内容としては、「Motor」「Oculomotor」「Prefrontal」「Limbic」の系は (細かいことを別にすれば) 閉じている、一方感覚系は閉鎖ループではなく、一種の open loopとして大脳基底核に関わっている、という話でした (一部閉鎖ループはあるかもしれないが、その影響は小さい)。つまり、運動の実行、プラン時に感覚野は大脳基底核の機能に影響を与え、この障害は基底核で運動症状を作ると言うことです。また、Sensory trickは、大脳基底核障害で回らない基底核ループの感覚情報の修飾、paradoxical gaitは感覚情報を用いた小脳による運動の補正 (大脳基底核:internal triggerな運動を制御、小脳:external triggerな運動を制御) と説明するとわかりやすいのではないかと提案されました。なんとなくわかった気がしたのですが、いつも話がわかりやすい宇川先生を以てしても難しい話でした。

10時からはポスターを見ました。紀伊半島古座川 ALSに 3名の C9ORF72変異が見つかった話、Parkinson disease with dementiaでは MMSEより HDS-Rの方が鋭敏であること、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) のレスパイト入院では年間医療費はほとんど増えないという話などが面白かったです。ポスターを見てからラボに実験に行きました。

5月25日

前日、将棋の橋本八段達と午前 1時過ぎまで飲んでいて朝辛かったですが、何とか遅刻せずに間に合いました。

8時からの「てんかんと運転免許」は今トピックの話でした。てんかんの方に運転免許が与えられるようになってきた経緯、それを規定する法律内容について説明がありましたが、詳しく書くと長くなってしまうので、いくつかに絞って紹介します。

・医師の責任について。てんかん患者が運転免許を取るときに必要な診断書は、虚偽の記載をすれば虚偽公文書作製罪に問われます。しかし、適合と判断したのに非適合あったケースでは、医師の刑事責任は問われません。

・事故件数について。日本での運転免許保持者は 8101万人、総人身事故は 72.6万件/年、うちてんかん発作によると思われる事故は 71件 (そのうち免許取得/更新時に申請していたのは 5名) と、有病率を考えれば決して多くありません。

・ヨーロッパでは欧州連合指令による規定があります。自家用運転での発作抑制期間 (この期間発作がなければ免許がとれる) は、てんかん 1年、初回発作 6ヶ月、薬物調整時 6ヶ月、てんかん手術後 1年、職業運転での発作抑制期間は、てんかんの場合内服なしで 10年、初回発作 5年です。今後これが global standardになっていくのではないかと考えられています。ちなみに、発作抑制期間の長さにより、あまり事故率は変わらないというデータがあるそうです。

・運転適性 がない (発作の恐れがある) のに運転していた人のうち、35%が仕事や生活の必要性のため免許がどうしても必要なので申告していなかったそうです。

講演後、フロアから、いくつか良い質問がありました。

①初回発作のときどうするか?

てんかんは、 2回以上の発作があって初めて確定診断されることが多いです (初回発作があっても、半分の患者さんはその後発作を起こさない)。なので、初回発作のみでは診断できない場合があります。このとき運転免許をどうするかに関しては、明確な決まりはないそうです。

②仕事がなくなるのが怖いから、患者さんは申請できないのでは?

現行ルールを守って貰うため、世間を巻き込んだ議論をする必要があります。現行ルールで良いのかは学会で方針を出したい、とのことでした。

③減薬をどうプランニングするか?

成人に成る前にトライすべきで、成人になってからは極めて慎重であるべき、とのことでした。

(2012年 10月11日16:00-18:00に日本てんかん学会のワークショップ「てんかんと運転」があり、そこで様々な事が決まる見込みなのだそうです)

9時からは、「実地に役立つ神経遺伝学」の講義でした。家族性 ALSと診断されていた MJD, MERFF, Friedrich ataxia with retained reflexes, Posterior column ataxia, hereditary spastic palarysisが症例としてあげられました。遺伝形式などにより使う手法が違うので臨床診断がしっかりしていないと無駄が多くなってしまう、という話でした。どのような場合にどのような解析法を使うかなど、勉強になりました。参加者が少なかったのが残念でした。

10時からポスターを見に行きました。京都からの報告で、 ALS/Paget病の患者さんで VCP変異が見つかった話などが興味深かったです。日本ではその変異はないかと思っていたのですが、実際にはあったのですね。

13時 30分から、「東日本大震災:あれから一年」というシンポジウムに参加しました。まず岩手医大、東北大学の先生が、震災により生じる健康被害についてどう研究をするか、どうデザインを組むかを話されました。私は「そういう話は学会誌の読み物にまとめて、こういう場じゃないと聞けない話をすればよいのに」と思いました。

3人目の演者、福島県立医大の宇川教授は「調査する側とされる側の思いは違う」とチクリと言って、講演を始めました。福島県は、浜通り、中通り、会津と 3地域にわけられますが、それぞれの震災後の状況、現状を話されました。放射能汚染についても触れました。現在、福島市の放射線量はローマと同じくらいですが、雨樋など一部高い場所もあるようです。どの程度怖がるかは、科学じゃなくて価値観の問題なので難しいようです。考えさせられました。

4人目の演者は斎藤病院の斎藤先生でした。石巻の民間病院の院長です。周囲が全て津波に飲まれ、1個のおにぎりを半分にして、それを 1日 2回にして飢えを凌いだとおっしゃっていました。斎藤病院では、震災後救急患者が 2-3倍になりすぐに満床になりました。DMATは石巻赤十字病院には来ましたが、斎藤病院には来ず、その後東北大学が様々な支援をしたそうです。支援物資の分配も上手くいっていなかったそうで、民間病院や在宅の方へは届くのが遅れました。石巻では 3ヶ月で 70%, 6ヶ月で 86.8%の病院が再開しました。民間病院には、建物に半分の補助がでましたが、医療機器は補償されず、官民格差を感じたとのことでした。最後のまとめで斎藤先生がおっしゃっていたのは、①震災時に拠点病院以外の病院をどうするのか?②卸売り業者が被災して薬が手に入らなくなった場合、メーカーから直接買えるようにならないか?③支援物資をどう届けるのか?④予算案が国会を通るのに何故 8ヶ月も空白が生じたのか?ということでした。

5人目の演者はいわき病院の先生でした。いわきは揺れ、津波、原発事故のトリプルパンチをくらいました。原発事故後、1週間は外を車が走っていなかったと証言されていました。いわき病院では、津波時に寝たきりの患者さんを院内の高いところに避難させ、その後全ての患者さんを他院に搬送し、そして戻ってきて診療を再開しました。講演では、被災後の ALSの患者さんの動向などについて話されました。現在のいわきでは、流出した人はいるものの相双地区から流入した人がいて、若干人が増えたそうです。転勤してくる方の住む家がないほどだとおっしゃっていました。

まだシンポジウムは続いていたのですが、被災地の先生の話が終わったため、別のシンポジウムに出るため、途中で抜けました。このシンポジウムで残念だったのは、参加者が非常に少なかったことです。他に勉強しなきゃいけないことがたくさんあるのはわかりますが、1年経つと人の関心は移ろうものだなぁ・・・と。まだ引きずっている私の方がおかしいのでしょうか?

さて、15時 15分からは「神経学と精神」というシンポジウムに出ました。まずは神経疾患で見られる精神症状について。急性自律性感覚性ニューロパチーでは半数以上に精神症状が見られる、片頭痛で遁走が見られることがある、post stroke depressionでは中前頭回の血流が低下している、CADASILではアパシーが見られる、パーキンソン病では性欲亢進が見られることがある、抗 NMDA受容体抗体脳炎では意識・自我の障害がみられる、拒食症では insulaとの関係が指摘されている、視床梗塞では personality障害が出る・・・という話でした。その後、精神科の先生からの話を聴き、神経内科とは違った立場からの見方に新鮮さを感じました。

これで私が聴講した全ての講演が終わりました。参加できた講演はこれでもごく一部で、神経学の幅広さを実感しました。

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医学者の手帖

By , 2012年5月24日 6:36 AM

「医学者の手帖 (緒方富雄、森於菟著、学生社版)」を読み終えました。科学随筆文庫の一冊です。

緒方富雄氏は、緒方洪庵の曾孫にあたります。クラシック音楽が好きだったようです。「ないようで」という随筆には、次のように演奏の話が出てきます。

書いてあることだけが、われわれのいとなみを規定するのではない。書いてないものも大いにわれわれを規定する。

ある楽譜を、書かれたまま演奏すればいいのなら、仕事は簡単である。実は、譜に書かれていないものを演奏し出すところに、むずかしさがある。つきつめていえば、それを「書かれてないもの」と見るかどうかに問題の中心がある。

どこをあるいてもよさそうな道にも、ひとがつくったもうひとつの「みち」があるように、どうふるまってもよさそうにみえるところにも、おのずから「なにか」があるところに、人のいとなみの「みち」がある。

これは一例ですが、「ある日」という随筆で、カーネギーホールでの切符の買い方を教えてくれた人物に触れていますから、アメリカ時代は良くコンサートを聴きに行っていたのではないかと思います。

森於菟 (もりおと) 氏は森鴎外の長男です。台湾大学医学部長を務めました。さらにその長男は皮膚科医で、社会保険埼玉中央病院で皮膚科部長になられたそうです。

さて、森於菟氏の随筆には、森鴎外のことが多く登場します。「観潮楼始末日記」は、森鴎外が住んでいた家の処分に奔走した話で、鴎外との想い出が、多くの文人との逸話と共に彩られています。下記に記すワンシーンは、明治時代の文学史がそのままそこにあります。

つぎは明治四十三年の春某日の夕、観潮楼階上で月例の歌会(父は短詩会と呼んでいた)が催されていた。父のほかには竹柏園主人佐佐木信綱、いつも紋附羽織袴お公卿様のような端麗な風采で悠然と柱に背を寄せておられる。わざと縁側に座蒲団を持って来て、あぐらをかき腕を組む肥大漢は根岸派の伊藤左千夫。新詩社のおん大与謝野寛はすべてに滑らかなとりなしで起居も丁寧である。皆その日の出題によった短歌の想を練っているのであった。若い人たちはもとの「明星」派が圧倒的に多い。伯爵の若殿吉井勇は大柄な立派な体躯でゆったりと控える。おでこの石川啄木は故郷の山河に別れて間のないころであったろう、頭に浮かんだ歌を特有のキンキン声で口ずさむと父が大声で笑う。北原白秋は既にキリシタンの詩で知られており、平井修は幸徳秋水を弁護することで父に相談にきた弁護士である。木下杢太郎は東大医科の学生太田正雄で私より数年の先輩。大久保栄さんが生きていたらこの中にいるだろうにと私は思う。平野万里は工学士で私の幼なじみ、私が里子に言った大学前森川町の煙草店の長男で当時私の「兄ちゃん」とよんだ人。このほかに「アララギ」派では伊藤左千夫のほか時々斎藤茂吉、小泉千樫など。

森於菟が書いた「鴎外の健康と死」という随筆で初めて知ったのが、森鴎外の死因となった病気について。一般的には萎縮腎(腎不全)とされているらしいのですが、これは誤りらしいです。その経緯について、非常に面白いことが書かれていましたので、長いですが引用します。

父の事績を忠実に記録したのは父の末弟なる森潤三郎であるが彼も真実を知らなかったのでその後の伝記の誤りはすべてこれに端を発しているといってよい。私にこれを語ったのは父の死床における主治医額田晉博士である。私が終戦による台湾からの帰国後勤務した東邦大学の医学部長(現在は学長)であった同君は、父の終世の親友で遺書を托した故賀古鶴所翁の愛姪を婦人とする人である。賀古さんは重態に陥りながら誰にも見せない父を説き落とした結果、それなら額田にだけ見せようとその診察を受けることを父が承知したただ一人の医師が額田君で、私と独協中学からの同窓、東大を出て十年に満たない少壮の内科医、賀古氏と同じく父の親友青山胤通博士門下の俊秀であった。父の最終の日記「委蛇録」中、大正十一年壬戊日記六月の条に「二十九日。木。(在家)第十五日。額田晉診予。」とあるのがそれで、その翌日からは吉田増蔵代筆で七月五日まで記録がつづき、九日終焉となったのである。

私が東邦大学の教授となった年、夏休暇前と思うが「いつか君にいって置こうと思っていたのだが」と前置きして額田君は話し出した。「鴎外さんはすべての医師に自分の身体も体液も見せなかった。ぼくにだけ許したので、その尿には相当に進んだ萎縮腎の徴候が歴然とあったが、それよりも驚いたのは喀痰で、顕微鏡で調べると結核菌が一ぱい、まるで純培養を見るようであった。鴎外さんはそのとき、これで君に皆わかったと思うがこのことだけは人に言ってくれるな、子供もまだ小さいからと頼まれた。それで二つある病気の中で腎臓の方を主として診断書を書いたので、真実を知ったのは僕と賀古翁、それに鴎外さんの妹婿小金井良精博士だけと思う。もっとも奥さんに平常のことをきいたとき、よほど前から痰を吐いた紙を集めて、鴎外さんが自分の庭の隅っこへ行って焼いていたと言われたから、奥さんは察していられたかも知れない。」

Wikipediaには、鴎外の死因に腎不全と結核を挙げています。極めてシンプルな記載です。

1922年(大正11年)7月9日午前7時すぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮、肺結核のために死去。満60歳没。

さて、鴎外の健康を論じる以上、家族歴は極めて重要です。森家の家族歴についても詳しく書いてあります。全部は紹介しきれないのですが、本文中に簡単な要約があります。

女性は概して長命であり、男性は晩年に動脈硬化が著しく、ことに腎臓を侵して萎縮腎になりやすい。

家族性の腎不全だと、多発性嚢胞腎などが挙げられるかと思いますが、動脈硬化が著しいという記載をみると高血圧+腎硬化症も鑑別になるのでしょうか。

森鴎外の最初の妻であり、森於菟の母であった森登志子は離婚後結核で亡くなっているそうです。森鴎外が結核であったことを考えると、夫婦はどちらかが移したものである可能性が高いでしょうね。

最後に、余談ですが、森家と順天堂の接点が書かれていました。

さてここで父の最初の妻すなわち私の実母の病歴をみよう。登志子の父赤松則良は幕臣で西周、津田真道と共に西欧に派遣された赤松大三郎である。その妻貞子は林洞海の女、佐藤尚中や松本順の姪に当り順天堂はその一族で、また、その姉は子爵榎本武揚の室である。

この本、こうした裏話が満載で、かなりお勧めです。

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第53回神経学会総会

By , 2012年5月22日 8:52 AM

本日から日本神経学会総会です。今のところ、下記の演題を聴きに行くつもりでいます。しかし早朝の演題は、起きられない可能性があるので微妙なところです (^^;

 

第53回日本神経学会 (2012年)

東京国際フォーラム 有楽町線有楽町駅徒歩1分

 

5月22日(火)

11:00 神経学会生涯教育セミナー Hands-on 6 「高次脳機能」第13会場 (ガラス棟7階)

5月23日(水)

8:00 教育講演 E(1)-1 ビデオでみる不随意運動の基礎 第3会場 (ホール棟B 7階)

9:00 教育講演E (1)-4 絞扼性末梢神経障害の手術 第4会場 (ホール棟B 7階)

10:00 ポスター発表 第16会場 (展示ホール地下2階)

パーキンソン病①画像、パーキンソン病④姿勢異常、筋疾患③筋ジストロフィー

16:00 教育講演E(1)-5 ALSの遺伝学 第3会場 (ホール棟B 7階)

or シンポジウムS(1)-9 小脳症状とは何か 第6会場 (ホール棟5階)

5月24日 (木)

8:00 教育講演 E(2)-1 てんかん発作を診て勉強しよう 第3会場 (ホール棟B 7階)

9:00教育講演 E(2)-3 感覚情報と大脳基底核 第3会場 (ホール棟B 7階)

10:00 ポスター発表第16会場 (展示ホール地下2階)

認知症⑧検査、パーキンソン病⑫ DBS、運動ニューロン疾患⑨社会医学、HIV, HTLV1、その他の機能性疾患②RLSなど

5月25日 (金)

8:00 ホットトピックス H(3)-1 てんかんと運転免許 第2会場 (ホール棟C 4階)

9:00 教育講演 E(3)-3 実地に役立つ神経遺伝学 (脊髄小脳変性症を中心に) (ホール棟B 4階)

10:00 ポスター発表第16会場 (展示ホール地下2階)

パーキンソン病⑭病態生理、パーキンソン病⑮基礎研究、パーキンソン病⑯病理・遺伝、脊髄小脳変性症④分子病態、脊髄小脳変性症⑤遺伝子異常、運動ニューロン疾患⑩神経病理、運動ニューロン疾患⑪遺伝、運動ニューロン疾患⑫分子病態、てんかん③画像検査・治療など、末梢神経疾患⑤CMTなど、筋疾患⑥ポンペ病その他

13:30 シンポジウムS(3)-12 東日本大震災:あれから一年 第8会場 (ホール棟D 5階)

15:15 シンポジウム S(3)-16 神経学と精神 医学の境界を再度考える 第3会場 (ホール棟B 7階)

今回の総会で面白いのは、「てんかんと運転免許」「東日本大震災:あれから一年」といった、時事的問題を扱った演題が多いことですね。神経内科医が社会で果たす役割を考えましょうということでしょう。楽しみです。

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大町病院から

By , 2012年5月20日 5:27 PM

以前、「南相馬市立総合病院の記録」という記事をお伝えしました。

同じく医療ガバナンス学会で、大町病院からいくつかの報告がなされています。記事へのリンクを貼っておきます。現場の人たちの思いが伝わってきます。

Vol.323 わだかまりを越えて 2011年11月23日
Vol.347 福島県南相馬市・大町病院から(2) 2011年12月23日
Vol.366 福島県南相馬市・大町病院から(3) 2012年1月15日
Vol.411 福島県南相馬市・大町病院から(4) 2012年2月22日
Vol.446 福島県南相馬市・大町病院から(5) 2012年3月29日
Vol.489 福島県南相馬市・大町病院から(6) 2012年5月16日

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描画の神経科学

By , 2012年5月19日 10:17 AM

日仏学会で、岩田誠先生の講演が行われます。

(科学講演会) 描画の神経科学

日時: 2012年07月06日(金曜) 18:00
会場: 日仏会館ホール – 渋谷区恵比寿3丁目
入場無料

● 岩田誠 (日仏医学会会長、東京女子医科大学名誉教授)

主催: 公益財団法人日仏会館、日仏医学会、日仏海洋学会、日仏工業技術会、日仏生物学会、日仏獣医学会、日仏農学会、日仏薬学会、日仏理工科会
後援: ABSIF (科学部門フランス政府給ひ留学生の会)

生物の進化史上、自然発生的に絵を描くことを始めたのは、われわれHomo sapiensのみです。既にある程度の話し言葉の能力を持っていたと考えられ、我々に最も近い存在であったとされる旧人(Homo neanderthalensis)でさえ、絵を描くことはしなかったようです。その意味で,ヒトはHomo pictorと呼んでも良い存在であると言えます。それでは、ヒトは何故絵を描くのでしょうか。また、どうしてヒトだけが絵を描く能力を持っているのでしょうか。それらの諸問題を、認知考古学、動物行動学、神経心理学、発達神経心理学などの多方面からのアプローチで探ってみましょう。また、様々な病気が、画家の描く作品に与える影響についても、考えてみたいと思います。

岩田先生の講演は、いつ聴いても感動を覚えます。早速申し込みました。

似たような内容の講演をされたことがあるようで、日本子ども学会のサイトに文章が載っていました。講演を聴きに行けない方は、こちらで雰囲気を味わってみて下さい。

描画の発達と進化」 (pdfファイル)

ちなみに、ジェラール・プーレ氏のコンサートが別の日に行われるようで、こちらも申し込みました。ジェラール・プーレ氏の父、ガストン・プーレはドビュッシーと親交があり、以前ブログで紹介したことがあります。非常に優れた音楽家ですので、クラシック音楽好きの方は是非申し込まれることをお勧めします。

(フランス音楽の夕べ) フランス音楽の夕べ

日時:2012年07月11日(水曜) 19:00 (18:30開場)
会場:日仏会館ホール – 渋谷区恵比寿3丁目
演奏 櫻木枝里子(p)、夜船彩奈(p)、白山 智丈 (p)、金澤希伊子(p)、ジェラール・プーレ(Vn) Soirée de musique française – SAKURAGI Eriko (p), YOFUNE Ayana (p), Gérard POULET (vn), KANAZAWA Keiko (p),/
参加費:
● 日仏会館会員 3.000 円
● 一般 2.000 円、学生 1.500 円
・ピアノ
櫻木枝里子
ラモー  新クラヴサン組曲より
ラヴェル 夜のガスパール

・ピアノ
夜船 彩奈

白山 智丈
前奏曲【初演】

幻想曲【再演】

・ヴァイオリン
ジェラール・プーレ
・ピアノ
金澤 希伊子

ラヴェル
フォーレの名による 子守唄
ハバネラの形式による小品
バイオリンとピアノのためのソナタ

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医学のともしび

By , 2012年5月9日 9:03 AM

「医学のともしび (遠城寺宗徳、前川孫一郎、松田道雄著、学生社版)」を読み終えました。科学随筆文庫の一冊です。

遠城寺先生は、九州大学小児科教授だった方です。先生が小児科医として過ごしたのがどういう時代であったかを象徴するような記載があるので、一部紹介します。

小児科四十年。その間に、小児科は大いに変わった。私が小児科医になったころ、わが国の乳児の死亡率は出生千人に対し百四十二.四(一九二五年)で、世界の大関位であった。当時、世界の楽園をほこる世界のニュージーランドが四〇で、早くニュージーランド並みにというのが私たちの合言葉であった。

今やそのついに実現するどころか昨年(一九六六年)になっては、ついに一八.五と、先進国を凌駕した。全国各地では「乳児死亡減少を祝う会」という名のほがらかな催しが開かれて、私もその記念講演によばれたのである。これは、小児科学の進歩と努力ばかりではない。一般社会生活の向上と相まって、乳幼児の栄養がよくなったのと、抗生物質や予防接種の発達出現によって感染症が激減したからであるが、ともかく隔世の感である。

これまで助からなかった命がどんどん助かるようになっていた時代で、本当にやったことが報われる機会が多かったのだろうなと思います。

遠城寺先生の留学中の話が面白くて、ベルリンでは何と湯川秀樹博士と同宿だったそうです。

一九三九年八月、ドイツ軍は、突如、ポーランドに侵入した。われわれベルリンにいた日本人には大島大使から引き揚げ命令がでた。「明日、ハンブルグ港出帆の靖国丸に乗船せよ」という急な通知であった。同宿には湯川秀樹博士もいた。ほんとうに、そうこうして、ハンブルグへかけつけ、婦女子をふくめた日本人三〇〇余人が、靖国丸に乗り込んで、まずノルウェーのベルゲンに向った。

(略)

ベルゲンには、一週間くらい停舶したが、毎日散歩に上陸した。道々の話題はドイツに引き返すことへの幻想ばかりであった。湯川さんが「遠城寺さん、ここにしばらく残ってドイツに帰れる時期を、待とうではないか あなたは医師をやれば食えるでしょう。私は数学の先生でもやりますよ」など、たわいのないこともなかば本気であった。湯川博士は、たしかスイスで開かれるはずの世界物理学会に出席のため、ベルリンに待機していたところを、引き揚げ船に乗せられたのである。このとき戦争が起こらなかったら、彼のノーベル賞も、もっと早くもらえたであろうと、いまに思っている。

医師のこうした随筆集で、こんな歴史の裏話が読めるとは思っていなかったのでびっくりしました。

前川孫二郎先生は変わった経歴の持ち主です。京都大学卒業後、一時期小説を書いていたそうです。結局医学の道に戻ってきたそうですが、巻末の著者略年譜にその経緯が書いてあります。

免許証をもらい、真下内科に入局したが、当時わたしは医者になる気持は毛頭なかった。医学部の全課程をおえて、医学の幼稚さ加減にすっかり失望、このような貧弱な知識と技術で、わたしは到底医者としての職責を全うする自信がなかったし、それに私は非常に感じ易いので、手の施しようもない患者の枕頭に無為で侍するなど、とても出来そうにもなかった。それで兄の紹介で第九次?の「新新潮」の同人になり、盛んに小説を書いた。野晒紀行の芭蕉と捨子を題材に劇や自伝風の「京都の夫婦」など評判がよかったようである。それが何時しか創作を忘れ、次第に医学の道に深入りするようになったのは、全く真下先生の感化による。先生もまたあやまって医者になられた一人であった。勝れた機械に対するセンスをもち、機械を愛し、機械に明け暮れした。我が国における医学工学の先駆者である。

孫川先生の随筆は、医学的な内容が多い一方で、現代の医師目線から見ると首をかしげるような部分が目に付いたりして、あまり私の好みではありませんでした。

松田道雄先生は、結核などを専門とし、最終的には小児科で開業されました。祖先は徳川家の侍医であったそうです。

昭和 28年に書かれた、松田先生の「三等教授」という随筆は、就職難の話から始まり、この問題はいつの時代も人々を悩ませていたのだなぁと思いました。松田先生の考えでは、大学が増えたから失業が増えたというのは逆で、失業が増えて就職を有利にするために大学の需要が増えたのだとしています。そうなると、設備や機能が不備な大学が増えます。教授あるいは学部長は老人であるし、学問以外はよくわからないので、大学の運営も事務長の独占となってしまいます。大学は学問としてより役所として機能することに重点がおかれます。以下、教授達の恨み節溢れる記載が長々と記載されています。

残念なことに医学部は病院だけではやっていけない。解剖、生理、医化学などの基礎医学を教えるところがなくてはならない。新しい建物をつくるゆとりはないと、よく目をつけられるのは、昔の連隊あとである。兵舎は講堂だ。馬小屋は解剖教室だ。炊事場は医化学実験室だ。兵器庫は教授室だ。

基礎医学のほうはなるべく世帯を小さくする。教授一人に助手一人というところが珍しくない。

臨床の教室は連隊あとからは半時間も電車にのっていく市民病院であったり、県立病院であったりとする。もともと学生を教えるようになっていないから、とてもせまい。建てましということになるとまず病室だ。研究室などという収入がなくて支出ばかりのあるところは、なるべくあとまわしにされる。病舎についている検尿室でも、ガスがあるんだから、実験はできるでしょうなどと言われる。

教授は毎日、病院へ来る病人をみなければならない。昔からの官立の大学病院では教授は一週に二回、午前中に特にえらばれた病人を五、六人みればよかったのに、ここでは一日四十人みなければならない。その間に見学に来ている学生に臨床を教えなければならない。その上、毎週二時間の講義の準備もしなければならない。病舎に県会議員の身うちでもはいっていると、事務室からの催促で、何のかわりもないのに一日に二度も三度もみなければならない。それでいて教授だから学会には報告をもっていかなければならない。学問はきらいでないにしても、こう追いつかわれていては、なかなか、まとまった研究にとりかかれない。研究はただではできない。研究費として使えるのは一つの講座で一年十万円もあればいいほうで、五万円以下のところもある。外国から雑誌を二種類、教科書を二冊も買うと、そのあとの実験は自分のポケットから出してやらなければならない。

著者はこうした境遇を三等教授とさげすむ教授達に、「君たちは一等教授だ。君たちがいるからこそ、日本の大学は多すぎはしないといえるのだ」と激励しています。戦後の地方大学置かれた環境を知ることができ、ためになる随筆でした。

忘れてはいけないのが「晩年の平井毓太郎先生」という随筆。平井先生は京都大学小児科教授でしたが、素晴らしい人物であったそうです。退官後、有名医学雑誌をいくつも自ら購読し、医師達に講義、抄読していました。開業している医師が診断のつかない病人にぶつかると、よく平井先生の往診を頼みましたが、頼んだ医者の顔を立てて往診は拒みませんでした。一方で、報酬は拒み、無理においていくと、ほんの一部をとってあとは結核予防協会に寄附しました。寄付額は、京都の富豪達の寄付額と比べても、上の方だったといいます。医師として格好良すぎます!

この随筆は次のように締めくくられています。

治療では過剰治療にたいする嫌悪をかくされなかった。今まで注射しなければ無効とされていた治療が、それ以外の方法でも治しうるという種類の報告は見のがされることがなかった。治療としてなされている行為で有害であるということが判明したものは、どんな小さな記事でも紹介された。病人を不必要に苦しめることは、非道徳的であり、それによって利益を求めようとするのは、犯罪であるという信念を先生は、かつてゆるがされることがなかった。

けれども先生は雑誌会の講義でも、倫理を倫理として説かれたことはなかった。人を指導してやっているのだという意識は先生には絶えてなかった。本を読むことが好きな老人が、読んだことを繰り返して記憶をつようめることをたのしんでいるという風であった。八十歳に近い老人が、十五、六人の医者が座席の前のほうにばらばらに並んでいる、粗末な教室で、汗を拭いながら、ドイツの雑誌をよみ、フランスの教科書を示し、軍医団雑誌をひらいて語り、ああもう時間が来てしまったとつぶやく姿は、むしろ崇高であった。これほど倫理的な教育が他のどこにあったか。

先生は学問に酩酊していられたのである。私たちは、その酔いのかおりをかいで、すこしばかり興奮した。人をしてこれほどまで酔わしめる学問にたいして熱心でなかったことに慚愧し、それでいて、生ける古典の弟子であることに誇りを覚えるのだった。

それは、もろもろの雑草が夕やみのなかに没し去ったあとに、ただ一つ喬木が落日に鞘をかがやかせている風景に似ていた。

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南相馬市立総合病院の記録

By , 2012年5月8日 8:30 AM

医療ガバナンス学会に、「東日本大震災以後の当院」と題された文章が寄せられました。南相馬市立病院からです。震災後の貴重な記録ですので、様々な方に読んで頂きたいと思います。

Vol.463 東日本大震災以後の当院

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ゴールデンウィーク

By , 2012年5月7日 8:55 AM

ゴールデンウィークは、長々と休みを取らせて頂き、非常に充実した日を過ごすことが出来ました。

 

4月30日 (月)

妹の夫 methyl先生とボーイング 787で岡山空港~私の実家へ。手巻き寿司をして、methyl先生が送ってくれた地酒を堪能しました。食卓を飾った酒は、愛宕の松メモリアル、日高見純米大吟醸、写楽 (備前雄町)、飛露喜特製純吟、伯楽星、弥右衛門酒星眼回・・・。贅沢でした。

5月1日 (火)

妹、methyl先生と 3人で大山乗馬センターに行き、妹夫婦がトレッキング、私は駈歩の練習をしました。それから境港で食事、蟹を購入しました。時間が余ったので、島根原子力館へ。1年ぶりでした。夜は鍋をつつきながら、日本酒の続きを飲みました。

5月2日 (水)

小学生時代からの親友、馬券オヤジ氏と四国旅行に出かけました。瀬戸大橋を渡って、うどん県でうどんを食べようとしたのですが、目的のうどん屋に渋滞が出来ていたので、郊外へしばらく走り、手打ちうどん渡辺に行きました。コシがあって美味しかったです。

そこから高速道路に乗って、みかん県坊ちゃん市へ。道後温泉につかり、隣にある道後麦酒館で地ビール全種類制覇しました。つまみの多くは四国の素材でした。温泉→ビールは鉄板ですね。このコースは楽しかったので、また来ようと思います。

5月3日 (木)

みかん県からうどん県を経由し、かつお県に行きました。かつお県のはりまや市では、とさ市場でかつおを楽しみました。そこから桂浜に行った後、噂の高知医療センターを経由して、一般道で北に向かいました。途中の大歩危 (おおぼけ) で乗った観光船は、船頭の解説が詳しく、なかなか楽しいものでした。

5月4日 (金)

帰京。ボーイング 787の予定が、機体トラブルでボーイング 737になったのは、残念でした。夜は将棋 Barへ。

5月5日 (土)

秋田で乗馬をしてから当直へ。乗馬は鞍を付けたり、蹄鉄の裏を掃除するところから始め、駈歩を楽しみました。終了後は林檎をあげると、凄い喜んでいました。馬とのコミュニケーションがとれるようになると、乗馬の楽しみが倍増します。

 

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