夏休み

By , 2012年8月19日 5:58 PM

8月13~19日の 1週間、夏休みをいただきました。例によって、備忘録的な日記など。

8月13日 (月)

将棋の橋本八段(ハッシー)らと熱海の温泉「大観荘」へ。入り口には、横山大観や谷崎潤一郎の写真が飾ってありました。素晴らしい旅館で、部屋、及び温泉からは熱海の海が一望出来ました。宴会時の日本酒は「磯自慢」が用意してあり、みんなグビグビと飲んでいました。料理は、味は良かったですが、一般的な男性だと量的に物足りなさが残る感じでした。

部屋に戻ってから、持ち込んだ酒「日南娘」「日南娘黒麹」「佐藤(黒)」「北洋 雫の潤い 大吟醸」「残波」などを飲みながら、将棋を指しました (※持ち込みは別途 3000円かかります)。部屋に備え付けてあるマッサージ機が大人気で、将棋を指さずにマッサージばかり受けている人もいました。将棋に飽きて、みんながカードゲームを始めたところで、2日前の当直疲れが出て眠くなった私は、別室に移動して寝ました。

8月14日 (火)

一部の方たちは、早朝 5時の日の出の時刻に温泉に入ったらしいですが、私は朝食を摂ってから、温泉へ。温泉から出て支度を終えると、送迎バスで熱海駅に向かいました。

ところが、駅につくと、大雨の影響で新幹線が運休。ハッシーは「せっかく発売日の朝 5時に並んで乗車券を取ったのに・・・」と落ち込んでいました。駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいるうちに、新幹線が動き始めたとの報を入手し、「こだま」で大阪に向かいました。

大阪には夕方到着し、リーガロイヤルに荷物を預けて関西将棋会館へ。その後、「銀のて」に焼肉を食べに行きました。「銀のて」はハッシー推奨の焼肉屋で、大塚愛の歌「和牛塩タン680円」の舞台になったらしいです。塩焼きも、タレ焼きも、滅茶苦茶旨かったです。「指し過ぎ」との声をチラホラ聞きながら、キタにある饂飩屋「香川」に行きました。ハッシーおすすめのカレーうどんは、別腹にしっかりと収まりました。飲み会の後の締めには最高ですね。

8月15日 (水)

新幹線で帰京。みんな爆睡するかと思いきや、ビールを飲んだり、割と元気でした。

8月16日 (木)

午前中はさいたまで外来をしました。午後は往診のクリニックが休みだったので、ラボにふらりと顔を出して、細胞培養などをしていました。

8月17日 (金)

暇だったので、久々に大学の医局に顔を出しました。午後は上野の東京都美術館を訪れ、絵を鑑賞する綺麗な女性たちマウリッツハイス美術館展で来日したフェルメールの絵「真珠の耳飾りの少女」などを鑑賞しました。ものすごく混んでいたので、機会があればオランダを訪れた時にゆっくりと鑑賞したいと思いました。

絵を見てから、新幹線に乗って郡山へ。福島県で働く医師たちの近況を聞きながら飲みました。福島県立医大はだいぶ平静を取り戻しているみたいでした。雅山流、裏雅山流、愛宕の松、伯楽星といった日本酒がいつの間にか空き、”シャンデリアの君”の家に御邪魔して、さらに「獺祭」「人気一」を飲みました。私が持参した「千両男山 復興弐号 フェニックス」も少し口をつけました。震災復興支援のためファンドに出資した菱屋酒造の酒ということで、感慨ひとしおでした。

8月18日 (土)

午前 7時過ぎに家を出て、秋田の当直に向かいました。あまりに時間があったので、山形経由を選択。山形新幹線で新庄まで行って、奥羽本線で一路北へ。横手駅で途中下車して、食い道楽ゆうとハシゴして横手やきそばを食べました。駅前に温泉「ゆうゆうプラザ」があったので、そこでのんびり。疲れを癒してから当直に入りました。

8月19日 (日)

当直を終えて東京へ。そのままラボに直行し、翌日以降の実験の仕込みなどをしました。長かった夏休みが終わりました。

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描画の神経学

By , 2012年8月18日 8:53 AM

尊敬する岩田誠先生による「描画の神経科学」という講演を聴きに行って来ました。

日時:
2012年07月06日(金曜) 18:00
会場:
日仏会館ホール – 渋谷区恵比寿3丁目

物の進化史上、自然発生的に絵を描くことを始めたのは、われわれHomo sapiensのみです。既にある程度の話し言葉の能力を持っていたと考えられ、我々に最も近い存在であったとされる旧人(Homo neanderthalensis)でさえ、絵を描くことはしなかったようです。その意味で,ヒトはHomo pictorと呼んでも良い存在であると言えます。それでは、ヒトは何故絵を描くのでしょうか。また、どうしてヒトだけが絵を描く能力を持っているのでしょうか。それらの諸問題を、認知考古学、動物行動学、神経心理学、発達神経心理学などの多方面からのアプローチで探ってみましょう。また、様々な病気が、画家の描く作品に与える影響についても、考えてみたいと思います。

ネット上に講演の内容をまとめた pdfを見つけました。非常に面白い内容ですので、興味のある方は読んでみてください。

 描画の発達と進化

 

余談です。上記リンクの pdfでも触れられていますが、Rhoda Kellog氏が膨大な数の小児の絵を体系化して、どのように発達していくか纏めているらしいです。子供ができたら Kellog氏が纏めた発達の表と、自分の子供の描く絵を比べてみたいと思っています。問題は、私に画才がないのが遺伝するかもしれないのと、そもそも相手がいないので子供が出来るアテがないことですね (^^;

 

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南相馬市のクリニックより

By , 2012年8月17日 9:32 AM

南相馬市医師会長の先生のサイトを最近知りました。

原町中央婦人科医院

サイトの右側に震災以降の状況が、不定期に綴られています。

2012年7月12日に、かなり深刻な文章が掲載されました。

停滞する復興
平成24年7月12日
原町中央産婦人科医院院長
高 橋 亨 平
東日本大震災及び原発事故後、1年4カ月になるが、除染も、復興らしき事
も、何も進展はしていない。前に進むべき法律が微妙に邪魔して、役人の権限、
解釈を複雑化し、前に進めない仕組になっている。予算が決まっても、縛りが
強く、何も出来ない地方自治体、結局、国に再度、まる投げ、待ってましたと
ばかりに、国と自治体は自信を持って、原発を作る企業側に又、 まる投げす
る。こんな事を繰り返しながら、いつの間にか、大きな予算が動き、検証しな
いまま消えていっている。地域住民は全く、相手にはされていないし、相変わ
らず、仕事もない。

現地での閉塞感は如何許と思っていたら、さらに深刻な文章が、8月12日に掲載されました。

私の体の現状と医師募集のお願い
平成24年8月12日
医療法人誠愛会
原町中央産婦人科医院
理事長 高橋 亨平
外なる敵と戦っている間にも、癌という内部の敵は決して手加減はしてくれ
なかった。そして又、抗がん剤の副作用に耐えられなく、もう治療はやめよう
と思い、やめてしまった人もたくさんいると聴いた。確かにその理由も分かっ
た。自分でも、何のためにこんな苦しみに耐える必要があるのかと、ふと思う
時がある。しかし、この地域に生まれてくる子供達は、賢く生きるならば絶対
に安全であり、危険だと大騒ぎしている馬鹿者どもから守ってやらなければな
らない。そんな事を思いながら、もう少しと思い、原発巣付近の痛み、出血、
の緩和のため、7月25日から、毎日放射線治療を開始、通院している。午前
9時から12時まで自医院の外来診療、その後、直ちに車に乗り1時間20分
かけて、福島医科大学放射線治療科へ、そこでリニアック照射を受け、直ちに
帰り、3時から再び自医院の外来診療を6時まで、しかし、遅れる事が多かっ
たので、最近は3時から4時に変更した。そんな私の我侭に対しても、患者さ
ん達は何も言わずに、ちゃんと待っていてくれた。それでも、多い日は100
人以上、少ない日でも70人は下らない。(略)

癌との闘いながら、頑張ってきたが、あまくは無いなと感じることが多くなっ
てきた。何時まで生かられるか分からない・・神の思し召すままに・・と覚悟
は決めていても、苦しみが増すたびに、もし、後継者がいてくれればと願って
やみません。私の最後のお願い、どうか宜しくお願い致します。

胸が張り裂けそうになる文章です。言葉がありません。

(追記)

8月17日夜、このことが CBニュースで報道されたようです。また、8月21日、読売新聞でも報道されたという情報を知りました。

勇気ある医師よ 南相馬の開業医が後継募集-原町中央産婦人科の高橋氏

医療介護CBニュース 8月17日(金)20時34分配信

東京電力福島第1原子力発電所の事故が起きた直後から、がんと闘いながら浜通り地域の産婦人科医療を支えてきた開業医が、後継者を募集している。現在では、午前と午後の診療をこなしながら、自身も放射線治療を受けているといい、「もし後継者がいてくれればと願ってやみません」と、全国のドクターに呼び掛けている。

後継者を募集しているのは、南相馬市で「原町中央産婦人科医院」を運営する医療法人誠愛会の高橋亨平理事長。
原発から近い県浜通り地域では事故の後、一時はお産のための場所がなくなったが、高橋氏はすぐに現場に戻り、診療を再開。地域の産婦人科医療を支えてきた。ところが昨年6月、高橋氏に大腸がんが見つかり、現在では、がん治療のため遠方の大学病院に通いながら診療を続けている。多い日には100人以上の患者を診療するという。
東日本大震災の発生から1年を機に、キャリアブレインが3月に行った取材では、診療に追われる合間に地域の現状を語ってくれた。

現在では、地域の複数の医療機関がお産の受け入れを再開しているが、高橋氏は今月12日付のブログの中で、「私の役割は終わったと思ったが、どうしてもという患者さんは断れない。もういいかなと、ふと頭をよぎる誘惑に、頑張っている20名の職員の笑顔がよぎる」と綴り、「全国のドクターにお願いがしたい。こんな診療所ですが、勤務していただける勇気あるドクターを募集します」と呼び掛けている。

専門の診療科は問わず、「広く学ぼうとする意思と実践があれば充分」としている。【兼松昭夫】

 

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トーク認知症

By , 2012年8月13日 9:56 AM

「トーク 認知症 (小阪憲司、田邉敬貴、医学書院)」を読み終えました。シリーズ「神経心理学コレクション」の一冊です。小阪憲司先生は、Lewy小体病の提唱者としても有名ですね。序文に本書のコンセプトが書かれています。

単なる臨床の症例集、あるいは神経病理の教科書でもなく、臨床をじっくり見た上で剖検脳を調べるという、Charcot以来の神経精神医学の基本に立ち返り、加えて近年の画像診断法の粋をも取り入れた、類を見ない試みである。

エキスパートがどのような点に着目して診療をしているかがわかり、それが画像、病理所見とどのようにリンクしているのか非常に勉強になりました。アルツハイマー病や前頭側頭型認知症など比較的 commonな疾患が大部分でしたが、diffuse neurofibrillary tangle with calcification (DNTC) や limbic neurofibrillary tangle dementia (LNTD) といったマイナーな疾患は、本書で初めて詳しく知りました。近年、画像検査でわかることがどんどん多くなり、それとともに「わかった気になって」剖検を行わずに済ませることが多くなっていますが、剖検してみないとわからないことも多いというのが印象的でした。そして、剖検所見を活かすには、生前の詳細な観察が必要なのですね。

もう一冊、神経心理学コレクションから「痴呆の症候学 (田邉敬貴、医学書院)」も読み終えましたが、こちらは初学者向け。よく纏まっていると思いました。

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南相馬にて

By , 2012年8月12日 12:15 PM

大学病院の職を辞して南相馬市立総合病院での勤務を始めた神経内科医小鷹先生の近況が、医療ガバナンス学会に寄稿されていました。考えさせられた言葉、心を動かされる言葉が多くありました。一部引用しますが、是非リンク先を読んでいただきたいと思います。

Vol.507 福島の医療現場から見えてきたもの

離職する看護師の夫は末期癌であった。そして、多発性硬化症の患者の母親は、震災後に自ら命を絶っていた。現状を目の当たりして、私は考えを是正せざるを得なかった。「何かを始めたい」と意気込んでは来たものの、”医療復興”というのは、システムを創造したり、パラダイムを変換したりすることではなかった。

むしろ丁寧に修繕するとか、再度緻密化するとか、改めて体系化するとか、有機的に規模を拡大するとか、人を集めてそれらを繋ぐとか、そういうことが医療の復興であった。

 

Vol.517 福島での意味

そういうことを考えると、世の中というものも「偶然その場に遭遇し、意外にも手を差し伸べることになり、行きがかり上そうなった」という行為の集まりで成 り立って欲しいと願う。「たまたまそこに出くわしてしまったが故に、巻き込まれて、なんだか知らないけどいろいろやってしまった」という、言ってみれば、 そういう合理的でないものに人は動かされるし、意味付けは後からなされるものである。

“意味”とは、ある価値に則った合理性のことだが、意味があることの方が正しくて、そうした価値観でしか物事が動かない世の中よりも、偶然居合わせてしまった状況で、意味を度外視して行動できる世の中の方が、ずっと暮らしやすいような気がする。(略)

医師の私が言うのも気が引けるが、人助けや人命救助なんてものに、さしたる意味など考えない方がいいのかもしれない。意味を超えた行為だから、人はどんな現場でも、それを実行することができるし、理由など考えずに仕事に没頭できるのである。

 

Vol.541 福島で足りないもの

離職する看護師の夫は末期癌であった。そして、多発性硬化症の患者の母親は、震災後に自ら命を絶っていた。
私の想像を遙かに凌駕する凄まじい、あまりにも壮絶な現実があった。苦悩を表に出さない態度の一方で、自暴自棄や抑うつ状態を理解して余りある圧倒的惨劇が、この地には横たわっていた。
私は想いを修正せざるを得なかった。不運に直面する人たちを前に、他人任せで悠長なことを言っていられるのか。この地で起こり得る心身の衰弱に対して、どう反応していけばいいのか。

 

Vol.556 福島での暮らし

勝手な言い方をすれば、福島に限らず社会というものは、そもそも劣悪である。しかし、どれほど劣悪であれ、私たちはその中で生き延びていかなくてはなら ず、その中で社会を再生・構築していくしかない。できることなら誠実に、前向きに、着実に。重要な真実や意義は、むしろそこにある。

 

Vol.565 福島の病院が、初めての研修医を迎えて

私たちの医療には解答がない。だから、正解を学ぶことはできないし、規範を教える術もない。
ここで学ぶことは、もちろん、医療技術を向上させるとか、医学的知識を増幅させるとか、そういうことを目指すことに異論はないが、それよりも”自分は何が できないか”を理解し、自分にできないことは、誰にどのように支援されればそれが達成できるのか。「そういう人に支持されなければ、有効に自分の学びが活 かされることはない」ということを体感することなのである。
一手先、二手先を見据えて「自分にできないこと」と、「自分にできること」とを、きちんとリンケージすることなのである。

 

(関連記事)

被災地の病院へ

 

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娘よ

By , 2012年8月11日 8:34 AM

さる知り合いの先生から教えて頂いた歌、結構ツボでした。

・娘よ

歌詞:http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND45151/index.html

ホント、救いようのない歌ですね (^^;

このシリーズ、いくつかバリエーションがあるようです。

息子よ:http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND45149/index.html

妻よ:http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND44715/index.html

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猿橋勝子という生き方

By , 2012年8月10日 8:55 AM

猿橋勝子という生き方 (米沢富美子著、岩波書店)」を読み終えました。猿橋勝子氏は日本の女性科学者の草分けで、「猿橋賞」の創設者としても名を残しています。

猿橋氏の時代は女性のアカデミックへの道は限りなく狭いものだったそうです。

 猿橋が第六高等女学校を卒業した一九三七年には、高女卒業後に正規の高等教育機関に進学した女性は、同年代の女性の約0.6%に過ぎなかった。

そのような時代に、猿橋氏は、当初医師になることを志し、東京女子医専 (現・東京女子医科大学) を受験しました。1941年、21歳であった猿橋氏は東京女子医専の創始者、 70歳の吉岡彌生の面接を受けました。その時の様子を彼女は後に繰り返し人に語っています。

面接試験は二つの部屋で行なわれた。私は当時校長であった吉岡彌生先生のいらっしゃる部屋に入る順番となった。吉岡にお会いするのは、はじめてであった。かねて尊敬する先生とお会いすることに、私はうれしくもあったが、面接試験ということに、多少の不安もあった。

先生の前の椅子に腰をおろした私に、先生は「どうしてこの学校を受験しましたか」とおっしゃるので、私は「一生懸命勉強して、先生のような立派な女医になりたいと思います」とお答えした。すると先生は、天井の方を見上げながら、カラカラと笑われた。そして、「私のようになりたいですって。とんでもない。私のようになりたいといったって、そうたやすくなれるもんじゃありませんよ」とおっしゃったのである。私は、びっくりして、先生の顔を見つめていた。そして先生への尊敬の念がしだいに後退し、女子医専に入学することへの期待は、大きな失望に変わっていった。

このようなことがあり、彼女は合格した東京女子医専を辞退し、開校したばかりの帝国女子理学専門学校 (現・東邦大学理学部) に一期生として入学しました。そして戦争に協力していった吉岡彌生とは対照的に反戦の姿勢を貫きました。

大学在学中、猿橋氏は生涯の付き合いとなる三宅泰雄氏の研究室を訪れ、ポロニウムの研究を行いました。卒業後は「戦争に協力するのは嫌」という理由で、中央気象台に就職しました。中央気象台では当初オゾン層について研究していたそうですが、1950年頃からは水中に溶解した炭酸物質の研究を始めました。彼女は「微量拡散分析装置」を開発し、塩素量・水温・pHに対する炭酸物質の存在比を表にしました。この「サルハシの表」は国際的に高く評価され、数十年に渡って使われたそうです。

1954年3月1日、ビキニ環礁でのアメリカの核実験で第五福竜丸が被曝したことで、彼女に転機が訪れます。

炭酸物質の研究に加えて、第五福竜丸の死の灰被災事件を機に、私は死の灰の地球化学研究にもたずさわることになった。核兵器爆発によって大気中に放出された死の灰が、大気、海洋の中をどのように行動するかを追跡する仕事である。アメリカのネバダで核爆発すると、その影響は、日本に約三週間で達し、また中国の核爆発の影響は二、三日で日本に到達することが明らかになったのは、私たちの研究室の成果の一つである。

「海洋上に落ちた死の灰が、表面から深海に拡散していく速さが予想以上に速く、わずかの五、六年で六千メートルの深海に到達することも、私たちの研究からわかった」

彼女達は海水や雨水中のストロンチウム九〇やセシウム一三七を測定しました。ところが、これらの結果 (例えば、1960年の日本近海のセシウム一三七の濃度は、海水 1Lあたり、 0.8~4.8×1012キュリーだった) を発表して核実験による大気汚染の深刻さを警鐘を鳴らしたところ、アメリカの研究者から「日本側の分析の不備」を指摘され、データは信用されませんでした。この問題に決着をつけるため、猿橋氏は単身アメリカに乗り込みました。

1962年、猿橋氏はサンディエゴにあるカリフォルニア大学スクリップス海洋研究所で、フォルサム博士らとセシウム一三四の回収実験で雌雄を決することになります。そして、より難度の高い方のサンプルを用いた上で、より高い回収率を上げ、分析競争に勝利しました。この分析競争の結果により、アメリカの原子力委員会も日本のデータを認めざるを得なくなり、「核実験は安全」だというアメリカの主張の根拠が崩れました。地上核実験廃止にも影響を与えたそうです。

この本は、歴史に影響を与えた日本人科学者「猿橋勝子」のことを知ることのできる素晴らしい本ですので、興味のある方は読んでみてください。

(追記)

日本近海のセシウム 137について、1959年の Natureにこのような論文を見つけましたが、私が所属する研究所からだと有料でした。どこか無料でアクセスできる研究所に行く事があれば読んでみたいと思います。

Concentration of Cæsium-137 in the Coastal Waters of Japan (1959)

NOBORU YAMAGATA

Institute of Public Health, Tokyo. Aug. 14.

I HAVE analysed bittern and carnallite of industrial origin and deduced the concentration of cæsium-137 in the coastal waters in early 1958 of Japan as 70–150 µµc. kgm./l.1 Recently, by application of a low-level β-counting equipment, cæsium-137 has been successfully determined by direct treatment of 6–20 litres of sea-water.

 

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英語の勉強

By , 2012年8月5日 8:12 AM

巷には英語の教材があふれています。センセーショナルなタイトルの本が繰り返し売れながらうまくいかない人が多いのは、ダイエットと似た感がありますね。

電通大学の先生が説得力のあるスライドを公開しています。これを読むと、結局は勉強量なのだと思いました。コツコツ英語に触れるのが面倒くさい人にとっては、学習時間を稼ぐには、留学が一番手っ取り早いのかもしれません。

電通大1年生に1日1時間の英語学習を勧める根拠

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プロ野球

By , 2012年8月4日 10:58 AM

チケットを頂いたので、8月1日に研修医を連れてプロ野球を見に行って来ました。プロ野球を実際に観戦するのは小学生の時以来です。

着くのが若干遅かったため、外野立見席は満席で、1塁側内野立見席での観戦でした。最初は空調が寒いくらいと思ったのですが、観客が増えて熱気が増してくると気にならなくなりました。ビールが美味しく、ビールの売り子さんも綺麗でした。

医局で草野球チームをやっているので、守備位置など参考にならないかと思ってみていたのですが、守備範囲など条件が違いすぎて、そのまま参考になるかは不明ですね (^^;

8月1日(水) 巨人 vs. 中日

1 2 3 4 5 6 7 8 9
中日 1 0 0 0 1 0 0 0 0 2 10 1
巨人 0 0 0 0 0 1 0 0 1 2 11 0
中日バッテリー 吉見 、ソーサ 、田島 、岩瀬  –  谷繁
巨人バッテリー ゴンザレス 、福田 、高木京 、田原 、高木康  –  阿部

試合は引き締まった好ゲーム。ファインプレーがいくつもあり、結果は巨人が終盤追いついて引き分けでした。9回裏の攻防では、一球毎、観客の盛り上がりが凄かったです。

終了後、研修医を連れて飲みに行きました。進路相談に乗ったり、医学ネタで語り合ったりして、0時頃帰りました。

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河北新報のいちばん長い日

By , 2012年8月2日 9:21 PM

「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 (河北新報社、文藝春秋刊)」を読み終えました。新聞社の出した本だけあって、さすがに文章は上手でした。

被災直後の社内の状況が手に取るようにわかりましたし、極限の状況の中、皆が必死に新聞を発行している様子が目に浮かぶようでした。何よりも心に響いたのは、生々しい記者たちの本音が伝わってきたことです。例えば、ある記者は原発事故の時福島にいましたが、一時的に新潟に避難した後、福島に戻って取材を続けました。しかし、結局記者を辞めることにしたそうです。心境が綴られています。

今回福島を離れた私の姿は、自分がこれまで追い求めた理想の記者像とあまりに懸け離れ、その落差に言いようのない絶望感を覚えました。自分の中の弱さ、報道の使命、会社の立場・・・それらいろいろな因子の折り合いをつけて前に進むのが記者なのかもしれません。

でも、一度福島を去った私にはそう割り切ることができなかった。震災後をどう生きていけばいいのか、記者の立場を離れた一人の人間として考えようと思いました。

被災した新聞社に印税を支援する意味でも、”買い” の一冊ですね。

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