脳梗塞と音楽能力
音楽能力が脳のどこに局在するかは、様々な学者が研究している興味深いテーマです。 Functional MRIなどの画像検査で脳のどこが賦活化されるか調べるのもひとつの方法ですが、脳の病気で失われた部分と音楽能力を比較するのも昔から行われている有力な方法です。
ある高名な指揮者が左中大脳動脈領域の広範な脳梗塞となり、その経過が 1985年の Journal of Neurology, Neurosurgery, and Psychiatry誌に掲載されました。患者さんは匿名化されて “NS” と記されています (ただし論文での記載があまりに詳細であるため、私の師匠は経過を読んで、誰だかわかってしまったそうです)。最近その論文を読んだので簡単に内容を紹介します。
Spared musical abilities in conductor with global aphasia and ideomotor apraxia.
(Basso A, et al. J Neurol Neurosurg Psychiatry, 1985; 48: 407-12)
SUMMARY: A conductor suddenly developed global aphasia and severe ideomotor apraxia as a result of an infarct in the territory of the left middle cerebral artery. Although aphasia and apraxia remained unchanged during the following six years, his musical capacities were largely spared and he was still able to conduct. This case provides some evidence in favour of right hemisphere dominance for music.
ヴァイオリンとピアノを嗜み、ヴェニスの Feniceやミラノの La Scalaなどで長年指揮者を務めた NS氏は、1977年11月27日に脳梗塞を発症しました。アメリカのツアー中での出来事でした。症状は、軽度の右片麻痺、右同名半盲、全失語でした。また、高次脳機能評価では、観念運動失行などを指摘されました。論文に頭部CTが掲載されていますが、左中大脳動脈後枝領域を中心に広範に障害されています。
ところが、音楽能力はほぼ保たれました。ピアノ演奏は行うことが出来ましたし、初見演奏も可能でした。他人の演奏の小さな間違いをも指摘することができました。そればかりか 1982年2月から 6月までの間、指揮者としての活動を続け、音楽評論家から絶賛されました。オペラも指揮しています。ただし、言葉は完全に失われたままで、音名を述べたりすることは出来ませんでした。彼は 1983年4月21日に左片麻痺で 2度目の脳血管障害を発症しました。そして、5月4日に肺水腫を伴った心不全で死亡しました。
彼の音楽能力と、音楽以外の能力には多くの解離があります。観念運動失行はあるけれど指揮はできる、文章は読めないけれど楽譜は読める、言葉は失われたけれど演奏はできる・・・。右半球の脳梗塞で音楽能力を失った過去の報告と併せ、著者らは音楽能力の多くが脳の右半球にあるのではないかと推測しています。