「華岡青洲と麻沸散 麻沸散をめぐる謎 (松木明知著, 真興交易医書出版部)」を読み終えました。華岡青洲が麻酔薬を用いて乳癌の手術を行ったことは有名ですが、詳しい話を知らなかったのでとても勉強になりました。麻沸散は、曼陀羅華と烏頭の絶妙な組み合わせによる部分が大きいのですね。また、呉秀三先生が、学問上のミスをいくつか犯していたことにびっくりしました。
本書を読むと、華岡青洲は、一過性の下肢の麻痺を患ったことがあるようです。1年弱で改善し、その後は症状の出現がなかったようなので、急性散在性脳脊髄炎 (ADEM) や Guillain-Barre症候群などの可能性を考えてみたいです。華岡青洲と会って診察ができれば診断できると思うのですが。
華岡青洲は最も知名度の高い日本の偉人の一人です。彼についてここまで詳細に調べた報告を私は知りません。一方で、とても読みやすい本です。興味のある方は是非読んでみてください。
以下、備忘録です。
・呉秀三は、華岡青洲が初めて全身麻酔を用いて乳癌を治療した日を 1年間違えて著書に記載した。これが世に広まってしまった。さらに、呉秀三は「乳癌治験録」原文の 18字を欠落して活字化したばかりでなく、注釈なく原文の誤りの一部を訂正するという、好ましくない行為を行った。また、呉秀三が用いた「乳癌治験録」の写真は、実際と異なる合成写真が含まれていたという。(p.12)
・鎖肛、鎖陰は華岡青洲による命名である。(p.32, p.180)
・矢数道明は、華岡青洲の妻加恵の失明について、曼陀羅華の他に附子による眼内圧の上昇が原因になっていることを動物実験の結果から推察した。(p.42) (※ただし、華岡青洲が麻沸散を妻に用いたという信頼できる証拠は残されていないらしい (p.109~110))
・18世紀半ば頃から、西欧では気体の研究が盛んになった。1757年ジョセフ・ブラックによる二酸化炭素の分離、1771年ジョセフ・プリーストリーやカール・シェーレによる酸素の発見、1777年アントワーヌ・ラヴォアジェによる酸素の命名。この頃から新発見の気体を病気の治療に応用しようとする動きが出てきた。1799年にハンフリー・デービーは亜酸化窒素の鎮痛効果を発見し、翌年出版。1824年にヘンリー・ヒックマンは二酸化炭素吸入させて動物に手術を行い、吸入麻酔法の原理を確立した (CO2ナルコーゼ)。西欧で最初に全身麻酔法の概念が示された。(p.90~91) (※亜酸化窒素による麻酔が行なわれるようになったのは 1840年代)
・華岡青洲の「麻沸散」の命名は、中国の三国志時代の名医華佗による「麻沸散」からの仮借である。(p.97)
・華岡青洲の麻沸散の処方は、京都の花井仙蔵、大西晴信の処方を改変したものであり、中国の元時代の「世医得效方」まで遡ることができるという。(p.101)
・華岡青洲の麻沸散には、曼陀羅華、烏頭などが含まれる (p.102に成分表あり)。主な作用は曼陀羅華に含まれるスコポラミンの中枢作用である。烏頭に含まれるアコチニンの徐脈作用は、曼陀羅華による頻脈に拮抗するばかりでなく、それ自体強い鎮痛効果を持つ (p.113)。
・著者は動物実験で麻沸散の効果を確認したが期待した効果は確認できなかった。ボランティアに用いたところ、40分~1時間で効果が発現して意識を失った。ICU管理し、胃内の麻沸散を吸引して輸液するなどの処置をしたところ、約8時間で麻酔はとけた。(p.114)
・1803年、43~44歳にかけて華岡青洲は両下肢の麻痺で歩行困難になった。(p.127)
・華岡青洲は麻酔のことを「終身」と呼んでいたようだ。1810年に各務文献は「整骨新書」のなかで「麻睡散」という名称を用いた。「ますい」と発音する言葉の初見である。1813年杉田立卿の手術録には「麻睡之剤」という表現が登場する。1857年の緒方洪庵が翻訳した本の中に、「麻痺薬」「麻薬」「麻睡薬」「麻酔薬」などの語があり、「麻酔薬」は鎮痛薬の意味で用いられている。1849年、杉田立卿の子杉田成卿はエーテルによってもたらされる状態を「麻酔」と表現した。明治時代に催眠術が日本に紹介されたとき、「魔睡術」「麻睡術」と訳された。これらは麻酔と発音がややこしかったので、これらは催眠術という語に置き換わった。しかし、「魔睡をかける」「麻睡術をかける」と混同されて、「麻酔をかける」という語が広まった。本来、麻酔はかけるものでなく行うものである。(p.129~132)
・著者による調査では、華岡青洲が手術した乳癌患者 33名の平均術後生存期間は 47ヶ月であった。(p.165)
・華岡青洲の弟子たちは各地で「麻沸散」を用いた手術を行った。高名な福井藩士橋本左内は 1852年に陰茎切断術や乳癌手術を行っている。(p.194)
・杉田玄白は華岡青洲に手紙を書き、偉業を褒め称えたが、書簡の後半は技術を教えて欲しいという依頼であったようだ。華岡青洲は杉田一門であった宮川順達に秘法を伝授した。
・華岡青洲は臨機応変な医療を行っていた。男児が釣り針を喉の奥に引っ掛けた時、どの医者も釣り針についた針を引っ張るだけで抜くことはできなかった。華岡青洲は弟子にそろばんを割らせて、そろばんの玉をいくつも糸に通した。それが竿状になったところで糸の端を掴み玉を押しこむようにすると、力が針に伝わり抜くことができた。(p.226)