神経学の源流1 ババンスキーとともに-(2)
さて、第3章が、彼を彼たらしめた、かの有名な足指現象で所謂「Babinski徴候」です。Babinski徴候に似た診察法として Chaddock反射などが知られていますが、Babinski徴候ほど有名なものはありません。著者のガルサン教授にまつわる逸話を紹介します。
第3章 足指現象について
およそ医学を学んだもので、みずから手を下してババンスキー徴候 (足指現象、足指反射ともいい、すべて同じ現象を指す) を試みなかったものはないだろう。どの教科書にもこの反射が錐体路系の器質的病変を示す最も重要な指標とかかれており、人々はこれを鵜呑にして深く疑うこともなしに足の裏をこする。そして指の動きことに母指の伸展の存否を観察して、なかば機械的にカルテにババンスキー (+) とか (-) とか書きこむのが普通である。しかし、何度こすってもめぼしい反応をしてくれない患者の母指をみつめながら、自分の手技が拙いために本当は陽性なものが出ないのか、あるいは真実陰性なのか判定に頭を悩ました経験を誰でも一度や二度はもっているに違いない。そのような場合、本をみるとババンスキー反射のほかに、チャドック Chaddock、オッペンハイム Oppenheim、ゴルドン Gordon、ゴンダ Gonda等々の手技を試みるようにすすめてある。筆者も学生時代神経学診断にはなんと多くの人々の名を覚えねばならぬものかと嘆じつつこれらを棒暗記して事をすませた。
ところが、サルペトリエール病院に留学して意外に思ったのは、ガルサン教授がババンスキー原法一点張りだったことである。白衣の襟にさしてある安全ピンをはずし、その先端で足の裏の外側と内側をこする。陰性か陽性か疑わしい場合ないしはもし陰性と判定しても足が冷えている場合にはその結果はしばしばあてにならぬとして、大きなバケツに温湯をもってこさせ、十分に足を温めた上で最後の判定を下す。
ガルサン教授は Babinski原法一点張りだったと記されていますが、温めて判定を下すなど細心の注意が払われているようです。私が専門医試験を受験したとき、試験官から「Babinski徴候が出ないときはどうしますか?」と聞かれ、「まず温めてみます。後、肢位によって多少違いますので、色々試みます。」と答え、試験官が望んでいた答えだった経験があります。
医学論文の中で最も有名な論文の一つと言える、Babinskiが 1896年 2月 22日に生物学会で初めて報告した論文を引用することとします。BabinskiはBabinski徴候について 3本の論文を著していますが、それぞれ「中枢神経系のある種の器質的疾患における足蹠皮膚反射について (1896年)」、「足指現象とその症候的意義について (1898年)」「足指の外転について (1903年)」です。最初の報告は黙過されましたが、1899年にコリア Collierが、次いでエルプ W. Erbが確認し、ようやく認められたそうです。Collierは Collier徴候で名を残していますし、Erbも Erb点などに名を残している神経学者です。Babinskiの最初の報告は 28行の短い論文で、これ以上何も削れない、全く無駄のない論文とされています。
中枢神経系のある種の器質的疾患における足蹠皮膚反射について
私は中枢神経系の器質的病変によっておこった片麻痺あるいは下肢の単麻痺の若干例を検して、足蹠皮膚反射の変化のおこっているのを観察した。以下これについて述べる。
足蹠を鍼で刺激する (piqure) と、健側では正常人におけると同じように、骨盤に対して大腿が、大腿に対して下腿が、下腿に対して足が、中足 (metatarse) に対して足指 (ortelis) が屈曲する。麻痺では、同じような刺激によって、骨盤に対して大腿が、大腿に対して下腿が、下腿に対して足が屈曲する点では同じであるが、足指は屈曲するかわりに中足に対して伸展運動をおこすのである。
この症状は発作後数日しかたっていない新しい片麻痺や数ヶ月を経た痙性片麻痺の患者でもみられた。私の確かめえたところでは、足指を随意的に動かすことのできない患者でも、それを随意的に動かしうる患者におけると同じように、この現象がおこる。しかし、これが恒常的なものでないことを付記せねばならない。
私は脊髄の器質的病変によっておこった下肢の対麻痺の多くの例でも、足蹠を針で刺激すると足指が伸展運動をおこすのを認めたが、このような場合は左右を比較しえず、現象の実相は、先の場合ほどはっきりしない。
これを要するに、足蹠の刺激によっておこる反射運動は中枢神経系の器質的病変に基づく下肢の麻痺で、その強さ (intensite) が変化するだけでなく、その形 (forme) も変化をこうむるのである。
麻痺側で足指が伸展運動することが麻痺出現早期から観察され、この現象は麻痺の程度に依りません。また、対麻痺では両側足指に出現することがわかります。足指現象は形の変化が大事で、Babinski自身も陽性、陰性という記載はしておらず、その都度形について詳細に記載しています。
2本目の論文では、足指現象について更に詳細に述べています。
足指現象とその症候学的意義について
(略)
しかるに、ある種の病的状態では、足蹠を刺激すると足指、ことに母指に伸展がおこるのである。反射運動の形におこるこのような変化を私は足指現象 (phenomene des orteils) とよぶことにする。
普通、正常反射が病的反射とことなるのは、単に運動の方向だけではない。きわめてしばしば認められるのは伸展が屈曲よりもずっとゆっくり行われるということである。その上、屈曲は通常足蹠の内側を刺激したときの方が、外側を刺激したときより強いのであるが、伸展の場合は逆である。最後に、屈曲はしまいの2本あるいは3本の指に強いのが普通であるが、伸展が顕著におこるのははじめの1本ないし2本の指である。
足指現象には不全型 (formes frustes)、すなわち足蹠反射が一部は病的性状をおび、一部が正常であるというような場合がある。たとえば、足蹠を刺激すると母指ないし母指と第2指に伸展がおこるだけで、あとの指は屈曲するという被検者もおれば、足蹠の外側を刺激したときには足指が伸展するのに、内側を刺激したときには屈曲するという人もいる。さらに足蹠のどの側を刺激したにしても、足蹠反射はある場合には足指を屈曲し、ある場合には足指の伸展をおこす例もある。このような場合、屈曲は最初のうちの刺激 (※複数形で記載されている) でおこるのが普通である。
さて、足指の反射運動を観察するのに必要な手技を紹介しよう。足および下腿の筋が収縮しないようにすることが大切で、このためには、被検者にこれから行おうとする検査について何も知らせないようにし、目を閉じさせるとよい。下腿を大腿に対してわずかに屈曲させ、足の外側縁をベッドにつけるかあるいはどこにもつけずに検者が下腿をもってこれを支える必要がある。下肢をこのような姿勢にすれば、筋肉は刺激を行うに適するよう弛緩するようになる。
足指現象のさまざまな型について記載しています。これを見ると、Babinski陽性、陰性という記載ではなく、見たままを記載するのが適切な気がします。また、Babinski徴候を出現しやすくするにはどのようにすれば良いかもわかります。この後、数例の症例提示があり、麻痺の出現時期、程度に依らず足指現象が起こることと、それが錐体路の障害で出現することの記載があります。
足指現象とその症候学的意義について
足指現象の原因を明らかにするために、私がこれまで列挙した諸事実をひとわたり見渡してみると、ただちに気づくことは、このような足蹠皮膚反射のかたちが逆転するのは脳や脊髄のいろいろな疾患と関係があるということである。ところで、これらの疾患はいろいろな点でそれぞれ非常に異なっているが、共通の性質として、それぞれの種類に応じて必ずあるいはしばしば錐体路の働きに障害をもたらすので、われわれがここで扱っている現象はこの障害によっておこったものと考えざるをえない。今のところ、この関係の必然性を断言しうるとは思わない。しかし、私は、私が足指現象を確認したあらゆる例において、この関係は、あるいは臨床像全体ないしはのちに行われた剖検によって明らかに証明されているし、きわめて確実にあるいは少なくとも可能であると公言することができる。そして、現在までに錐体路系がたしかに無傷である被検者で、この徴候を一度たりともみたことがないと断言することができるのである。
私の所見の示すところによれば、足指現象は錐体路系の障害によって惹きおこされうるものであり、その障害の持続時間、強さならびにひろがりはどのようでもかまわないのである。事実、私はこの現象を非常に古い片麻痺の例でもまたきわめて真新しい片麻痺の場合にも確かめたし、錐体束の神経線維が破壊された例や変化が表在性にすぎず、この束の軸索が保存されているような他の例 (たとえば多発性硬化症) でも認めたし、はたまた錐体束の病変がきわめて広範にわたっているに相違ない例や、病変が非常に限局しているような他の例でも観察することができるのである。
それゆえに注意せねばならぬことは、この現象は錐体路系に障害のあることを示すにしても、その重篤さを示すものではないということである。きわめて軽微な麻痺や治癒しうるような麻痺を呈する症例にも存在し、治癒後消失してしまうこともある。
(略)
この講義のはじめに、ここでは成人における足蹠皮膚反射だけを問題にすると申し上げた。しかしながら、終わりにのぞみ、新生児におけるこの反射について一言申しそえたい。足蹠をくすぐると普通には足指の伸展がおこる。ところで、誕生のさいには錐体路系はまだ発達していないことを考えるならば、このような事実は、足指現象が錐体路の働きに支障があっておこるとする考え方に確証をもたらすであろう。
Babinski徴候が、錐体路障害により出現すること、錐体路障害の程度に相関しないこと、新生児では普通に出現することなどの所見がすでに記載されています。
また、Babinskiは 1903年にも足蹠の現象に関する論文を出しています。母指の背屈だけではなく、他の指にも言及したものです。Babinski徴候の診察をしているときに、母指以外の指が開き、開扇現象と呼ばれたりもしますが、既に Babinskiが記載しています。教科書によっては、開扇現象は、母指が背屈し更に他の指が開く (外転する) と書いてあったと記憶していますが、Babinskiは母指以外の指の外転のみで有意としています。
足蹠の外転について
足蹠を刺激すると、他の反射性運動の間に、しばしば足指のうちの1本ないしは数本のものに多かれ少なかれ目につく外転がおこる。このことについては、たまたまいくたりかの人々によりすでに記載されてはいるが、これになんらかの症候学的価値をむすびつけた人はいなかったのである。
私もかなり以前から、正常状態でも病的状態でも認められるこの現象に注意はしていた。しかし、健康人ではまれであり、存在しているような場合でもそれほど顕著ではないが、錐体路系に障害のある患者では、母指の伸展ほどではないにしても健康人の場合よりずっと普通に認められ、しばしばきわめて顕著なことがある。私のみるところではアテトーゼをともなう先天性痙性麻痺では特にきわめて発達しているようであり、それにアテトーゼの一部は足指の外転から成っているのである。そのほかに錐体路系がまだよくでき上がっていない新生児では、足蹠をくすぐると、母指が伸展すると同時に足指の外転が起こるのが普通であることをつけ加えよう。
この現象が正常な状態でもみられるというだけで、私は錐体路系の障害に特有なものとして母指の伸展に付せられているような本質的な重要さをこれに付することをさしひかえるものである。けれども、これが非常にはっきりしているときには、ある意味をもつように思う。最近、外傷にひきつづいておこった下肢の対麻痺の1例が、法医学的鑑定にまわされたが、神経系の器質的疾患としてひろく認められている客観的徴候 (signe objectif classique) がひとつも存在していないということで、検査にあたった医師たちはこれをヒステリーか仮病であるという意見を表明したのであった。私はこの患者で足指の外転がきわめてはっきりでているのを認めたので、これと反対の見解を表明したのであるが、私が最初に診察してから3週間後にふたたび診察したさい、それまで欠いていた足指の伸展を確認し、私の見方をたしかめたのである。
それゆえに、私は、私が今限定したような条件のもとでは、足指の外転は錐体路系に障害のあることを示す確率をそなえた徴候であると考えるものであり、疑わしい例では貴重な場合もありうると思う。
足蹠の外転は神経内科医の間でもあまり触れられることはないのですが、Babinskiが足指現象について記した 3本の論文の最後に書かれたものとして、記憶される必要があるでしょう。
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