医学の小景
「医学の小景 (小川鼎三、勝木保次、本川弘一著、学生出版)」を読み終えました。科学随筆文庫の一冊です。
最初の随筆は小川鼎三先生です。「オスミウムの話」では、戦後研究に使うオスミウム酸が手に入らず、確保に奔走した挙げ句、その製作所が家のすぐ隣にあることを知った話など、小説より奇な出来事を興味深く読みました。「ヒマラヤでの経験」は、彼らが雪男を捜しに行った話ですが、現地の人々が病とどう向き合っているか、死者を埋葬する風習などが書かれていて面白かったです。「ユダの国イスラエルをみて」は、小川先生が昭和35年にイスラエルを訪れた時の話です。驚いたのは、小川先生がイスラエル人から、「イスラエルの医者の待遇は悪い、しかしそれよりひどいのは日本の医者だそうではないか」と聞いたことです。日本の医者の待遇は、当時から世界に知られていたのだなぁと思いました。小川先生の随筆としては、この他に、過去に紹介した本「鯨の話」の一部も再掲されていました。
次は勝木保次先生です。勝木先生は石川県小松市から京都大学教養学部 (三高理科乙類) に進学しましたが、何と朝永振一郎氏がクラスメイトだったそうです。そして京都から東大医学部に進み、耳鼻科、生理学教室で学びました。第二次大戦に軍医として付き添った後は、東京医科歯科大学教授となり、脳内聴覚伝導路を研究しました。最終的には東京医科歯科大学学長、生物科学総合研究機構の機構長まで務めています。
「聴覚生理学への道」という随筆は、いくつかの項にわかれていて、彼の研究史などを読むことが出来るのですが、びっくりしたのは戦争に従軍したときの話。該当部分を引用します。
聴覚生理学への道 -終戦 (手続きずみの博士論文)-
ビルマのシャン高原で、戦勝のデマが飛ぶくらい周囲と隔絶された状態にあったわれわれの隊にも、無条件降伏のしらせがきた。その後の不安におびえながらも、国境を越えてタイ国の北部の都市チェンマイに移動、その間、マラリアで多数の仲間が死んでいった。チェンマイからバンコック付近へ冬の間に移動して帰国を待ったが、この間に終戦から約十ヶ月たった。少し落ち着いてから、私自身の血液を調べてみると、マラリア原虫が見られるし、いつも下痢に傾いていたのがアメーバ赤痢のためであったのをつきとめることができた。しかし、戦時中と違って、十ヶ月の捕虜生活は直接英軍の監督があるわけでなく、日本軍の自治下にあったから、薬物も少しは入手でき、病気も特に悪くなるということもなく、いよいよ昭和二十一年六月には航空母艦にのって浦賀に帰ってきた。
この時になっても、まだわれわれには家族の様子はまったくわからず、昭和十九年夏、東京をはなれてから連絡が絶えたままになっていた。何度か出した便りのうち、どのあたりまで内地に届いたか知る由もなかったが、実は一度も届いていなかったのだ。多くの人たちが、何か家族や友人にしらせたつもりでいたのに、内地に残った人たちはどんな思いであったろう。教室ではまだ博士論文も書いてない私を気の毒に思い、残留組の人たちと橋田先生の後をつがれた坂本嶋嶺先生とで母音解析について論文を書き上げ、審査にかける手続きをとってあったことを後になって知った。死んでしまえば博士号を与えるわけにはゆかないので、死亡の広報が出る前日の日付で論文通過をはかる手段が、その当時何人もの例にとられていたのだと聞かされた。
こんなわけで私の博士論文は、内容は私自身の実験結果であるが、文章は他の人たちの好意によって書かれたもので、私が帰国後原稿に眼を通したかと思うが、今となっては確かな記憶がない。
専門が違うにも関わらず、自身のマラリアやアメーバ感染を自分で突き止めたのは流石だと思いました。最近だと、検査技師や血液内科あるいは感染症科の医師ではないと、顕微鏡覗いて診断するのは難しいでしょう。論文の話は、絆を感じますね。
ラストは本川弘一氏です。石川県加賀市に生まれ、東京帝国大学医学部医学科を卒業後、東大生理学教室の助手となりました。東京帝国大学講師となった後は東北帝国大学教授、東北大学長となりました。
本川先生は、脳波の研究をされていたそうで、脳波について色々語っているのですが、脳科学が進歩した現代の眼から見れば、「それは少し言い過ぎじゃないかなぁ・・・」と感じる部分が幾つかありました。でも、これは学術論文ではなくて随筆だからということなのでしょう。
彼の文章で感銘を受けたのは、科学者としての姿勢です。まずはディスカッションについての話。
研究室雑話-専門にたてこもらぬこと-
国際学会へ出席しても、日本の学者は余りディスカッションをいたしません。語学が不自由だというせいもあるかと存じますが、私はただそれだけではないと思うのです。日本国内の学会ですらディスカッションが少ないのですから、語学の不自由さがこれに拍車をかけているわけです。
ディスカッションというものは、学問を進める上に欠くべからざるものであって、ディスカッションを生まないような研究は発表価値が少ないわけであります。したがって外国ではディスカッションが無かったことを非常に恥じる傾向があり、また一方では演者に恥をかかせないために、儀礼的にディスカッションをするという風習がございます。ところが、日本では昔からディスカッションのことを討論といって、相手をやりこめるという風な考え方があります。そして、演者も討論がなければ、やれやれと肩の荷物をおろしたような気持ちになるといった傾向があったように思います。こんな風習が少しでもある日本では、西洋流にディスカッションをしようとしてもどうも抵抗があり、また実際ディスカッションがもとで勘定問題にもまで発展するといった例もめずらしくないので、日本にはディスカッションが発達しないのだと考えられます。
確かに国際学会は質疑応答が非常に活発ですね。ジェノヴァの European society of Neuroradiology (ESNR) に参加したとき、議論が凄く盛り上がっていたことに驚きました (ただしつまらない発表の時は質問が来ないし、開催期間中であっても日曜日は外国人参加者の多くは欠席していた。日曜日を休むことは徹底している様子)。しかも、イタリア人は全然語学にコンプレックスを持っていなくて、デタラメな英語で平然と質問しているのです。MRIの撮像法に ADC mapというのがあるのですが、「ADC」を「アデーセー」と発音している人はいたし、先輩の話では「Headache」を「ヘダチェ」って発音しているイタリア人もいたそうです。日本人も、デタラメな語学で良いから、もっと積極的になった方が良いのでしょうね。
最後に、若い科学者にとって、とても教訓的な話が書かれているので、それを引用して締めたいと思います。
研究室雑話 -科学に失敗はない-
実験する人にとっては実験の成功は喜びであり、失敗は苦痛であります。しかし、あまり失敗を苦にするようでは実験にだんだん親しめなくなり、よい科学者にはなれないと思います。私ももとは失敗すると人一倍にがっかりする方でございまして、夜遅く実験に失敗して家に帰ると、まことに不機嫌で家族にも迷惑をかけたことだろうと思います。恩師の橋田邦彦先生は、科学することは「物事をあるがままに見ること」であると説かれ、「流れに従って去る」という心境にならなければよい科学者だとはいえないともいわれました。また、「唯従自然」と書いた額を私に書いて下さいましたので、ずっと座右にかかげております。成功とか失敗とか申すのは価値判断でありまして、科学以外の要素であります。科学的には成功も失敗もともにあるがままにあり、あるべきようにあったわけでありまして、いずれも自然にしたがって起こるのであります。科学そのものには成功も失敗もないわけであります。しかし、このように達観することは、われわれ凡人にはなかなかできにくいことでございまして、私は今でも実験に成功すれば嬉しく、失敗すれば不愉快なのであります。そして世間では研究業績を高く評価してくれればうれしく、無視されれば不満であります。しかし、成功と失敗の意味をよく考えるだけの余裕ができましたことは、年の効でございましょうか。
教室の若い研究者達が、よく実験に失敗したといって浮かぬ顔をしていることがありますが、そんなときに記録を見せてもらうと、ちゃんと出るべき結果が出ていることが、しばしばあるのでございます。そこで、何故に失敗だというのかを聞きただして見ると、自分の予想に反した結果が出たから失敗したといっているのであります。これは恐るべき思いあがりでありまして、経験の浅い研究者が立てた予想が、そう易々と当たったりしてはたまったものではないのであります。もし、そんなに当たるものであったら、実験に値しないことかも知れません。予想を裏切るようなことが出るから面白くて止められないのが実験だともいえるのであります。
パブロフが始めて条件反射の実験に成功して、それが評判となり、公会堂で一般公開実験をしたときのことであります。イヌにロルの音を聞かすと唾液が出るという実験でありますが、いざ公開にあたって実験は不成功におわり、パブロフは公衆の面前で苦杯をなめさせられたのであります。日頃馴れない環境におかれたイヌには大きな変化がおこり、そのために条件反射が抑えられたのであることが後の実験で明らかにされ、そのような抑制を彼は外制止と名づけたことは周知の通りであります。彼は失敗を基にして外制止の法則を確立することに成功したのであります。禍を転じて福となすことこそ研究室における、もっとも大切なことといえましょう。