第一次ボランティア at 本吉 補足
4月 7日のブログで、本吉に行ってきた話を書きました。補足として、現地の状況を項目別に記しておきたいと思います。
-生活編-
<交通>
仙台から本吉までの道は特に問題なく走行できました (約 2~3時間)。また、本吉から気仙沼までの道も、一部片側通行でしたが、ほぼ問題なく走行出来ました。3月 30日頃には本吉~気仙沼の道は、徐々に交通量が増えていました。
一方、気仙沼線の復旧の見通しは不明でした。線路はあらぬ位置に流され、元々線路のあった場所は更地になっていました。また、線路が残っている部分でも、レールが途中でちぎれてジェットコースターみたいに巻きあがったりしていました。
<ガソリン>
本吉~気仙沼の間のガソリンスタンドでは多少並べば給油可能でした。東北自動車道は、SAによってはほとんど並ばずに給油可能でした。
<宿泊>
本吉郡の清涼院に 20名ほどの被災者とともに泊まりました。1階の 1室を診療所にして、そこにスタッフ数名雑魚寝でした。畳に絨毯を敷いてその上に寝袋を置き、上に毛布を被せました。寒い日は耳が痛くて目覚めましたが、温かくなってきてからは問題ありませんでした。
<ライフライン>
3月 30日の時点で、電気、ガス、水道はいずれもありませんでした。電気は 18~21時に自家発電、水は自衛隊が 1トンの水を一日に 2回持ってきました。車で 10分くらいの仙扇寺には、電気が復旧してきているようでした。
<食事>
1日に 3度、被災者達が薪と竈を使って炊き出しをしていました。米と味噌汁とおかず一品のメニューのことが多かったです。従って保存食はほとんど食べませんでした。ただ、昼食がカップラーメンとおにぎりといった日がありました。
<通信>
清涼院ではドコモがかろうじて入りました。ソフトバンク、auは入りませんでした。仙扇寺周辺ではソフトバンクが入るようでした。
<風呂>
避難していた被災者達は、ドラム缶に湯を沸かせて入っていました(スタッフは遠慮して入らず)。
<余震>
1日に 1~2回震度 3~4くらいの余震がありました。震源地が近いためか、下から突き上げるような感覚の、持続時間の短い地震でした。
-医療編-
<周囲との連携>
気仙沼市にある「すこやか」という施設で、毎日朝と夕にミーティングが開かれ、どの避難所にどの隊が行くかなど割り振りを決めると共に、情報の交換を行っていました。我々が行った地域は、徳洲会、江別市民病院、ジャパンハートを中心に割り振っていました。割り振りは上手くいっていて、混乱はなかったように思います。
<医薬品>
ジャパンハートとしては、東京→仙台支部→スタッフが滞在する避難所に医薬品を届けていました。不足する物資があった場合、連絡すればだいたい 1~2日で届きました。
その他、上記「すこやか」に支援物資がたくさん積んであり、自由に持って帰ることが出来ました。「オーグメンチン」「ビオフェルミン」など助かりました。
一方、古釘を踏み抜いた患者さんなどへの破傷風予防の物資は当初ありませんでした。「トキソイド」は取り寄せて何とか入手しましたが、トキソイド、テタノブリンなどをもっと流通させても良いのかもしれません。ただ、テタノブリンは保存が 10℃以下の上、凍結禁ですので、電気のない地域では管理が難しいかもしれません。
<診療>
清涼院には 1日 20人くらい訪れました。自由に入って貰って、入ってきたらそのまま診察していました。その他、周辺避難所に介入して診療可能の旨を伝えると、一カ所につき 20人くらいを診療することになりました。最も多かったのが高血圧で、普段 sBP160 mmHgくらいの方で 180~200 mmHg前後となっているのが一般的で、BP 250/110 mmHgという方もいました。血圧が普段通りという方はあまりいませんでした。
次に多かったのが花粉症でした。幸い内服や点眼用の抗ヒスタミン薬は豊富にありました。
意外とみかけたのが凍瘡(しもやけ)です。寒いのに湯がない環境で水仕事をしていたからでしょう。ビタミンE製剤は入手が困難でした。
その他、口唇ヘルペスが 2名ほどいました。免疫力低下によるものでしょうか。
他の避難所ではそれほどでもなかったのですが、仙扇寺では狭いスペースに 200名の避難者がおり、至る所で咳の音が聞こえました。発熱患者数名インフルエンザ検査を行いましたが全員陰性でした。
-その他-
<避難所の構成>
寺や学校といった一次避難所の他に、二次避難所がいくつもあり、高台の大きな家などがその役割を果たしていました。あまり把握されていない二次避難所については、今後介入して健康状態をチェックする必要があると感じました。
我々が泊まっていた清涼寺は避難所としては 20名くらいの小さな規模でしたが、物資の分配の拠点になっていて、200~300名が物資を受け取りに現れていました。避難所をなくすとき、物資の流通ルートにも留意する必要があるかもしれません。
<精神面>
避難所によって異なるとは聞いていますが、我々が訪れた避難所はいずれも整然としており、人間関係はスムーズでした。精神面での訴えを主訴として受診した方は一人もいなくて、不安で動悸がするという方が一人いただけでした。
でも、往診で食事を頂いた際などに、「炊き出しとかの手伝いでずっと避難所にいるから、家の片づけが出来なくて地震のときのままなんですよ」「一人になると寂しいからもう少し避難所にいようと思います」「命があっただけでとはいうけれど、それでもねぇ・・・」「私たちは皆さんに助けて貰って生きられているのだから。今日着ている下着ですら貰ったものだから」などの本音がポロッ聞かれました。まだ感覚が麻痺していて、これから問題になってくるのかもしれません。
<周辺の病院>
本吉病院など周辺の病院は再開していました。しかし、車が流されているなど交通手段がない方も多く、通院出来るまでもう少し避難所の医療を支援する必要はありそうです。
<避難所から施設への橋渡し>
病気のため避難所から帰宅困難な方々をピックアップする計画が始まりました。寝たきりや廃用症候群の方の情報を記録した紙を気仙沼のボランティアセンターに集め、今後の方針を検討するものです。もう少ししたら具体的な話が出てくると思います。
<周辺の今後の医療ニーズ>
規模はいずれ縮小していくことになりますが、通院が困難な方や、病院から目が届かない避難所の方へのニーズはまだありそうです。周辺の「大島」で医師が不足しているとの声が聞かれましたが、マンパワー的にまだ介入できませんでした。もう少しして余裕が出たら介入していけるかもしれません。その際交通手段の確保が必要です。
<マスコミ>
毎日放送の方が取材で一緒でした。「何か手伝えることはありますか?」と非常に好印象でした。私は慣れない外傷処置をしていたのを撮られ、放送は勘弁して欲しいと内心思っています。