脳の探求者ラモニ・カハール スペインの輝ける星
「脳の探求者ラモニ・カハール スペインの輝ける星 (萬年甫著、中公新書)」を読み終えました。ラモニ・カハールについては、「神経学の源流 2 ラモニ・カハール」で説明したばかりですね。
本書はカハールについての伝記です。手の付けられない悪童が改心して研究者になり、義憤にかられてキューバ遠征に行くもマラリアにかかり散々な目にあって帰国し、以後研究に没頭してニューロン説を確立するまでの話が豊富な資料を元に書かれています。出版が中公新書ということからわかるように、専門家以外の方でも読める内容になっています。200ページくらいの薄い本なので、あっという間に読めますね。
印象に深かったことは物凄くたくさんありましたが、触れておきたい逸話があります。カハールが突起を発見できず、「第三要素」と呼んだ細胞群がありました。弟子オルテガが、師のカハールに「第三要素に突起がある」と告げた時、カハールは複雑だったようです。明らかに弟子が正しかったのですが、カハールを以ってしても、歳下の学者に自分の学説の間違いをストレートに指摘されると素直になれなかったようです。師弟という点では異なりますが、ゴルジがカハールに間違いを指摘された時の不愉快さも似たようなものであったのではないかと感じました。
以下は、備忘録。
序章:スペインの星ラモニ・カハール
・「ニューロン」という言葉は、元来ギリシャおよびラテン語では「腱、糸またはすじ状のもの」を意味しているが、十九世紀に以上のような考えが生じてからは神経細胞の同義語となり、神経単位と訳されることもある。
第一章:手に負えぬ悪童
・カハールは一八五二年五月一日、ナヴァラ州アラゴン県のペッティラという小さな村で、外科医の長男として生まれた。一般にはカハールと呼んでいるが、正式には名がサンチャゴ (Santiago)、姓がラモニ・カハール (Ramon y Cajal) である。スペインでは、普通 (とはいっても必ずしもではないが) 父方の姓と母方の姓とを “y” すなわち「および」で結ぶので、本来はラモニ・カハールと呼ぶべきである。
・ハカでの過酷な日々によって心身ともにやつれたサンチャゴも、夏休みが来て家に戻ると、母親の心籠もる食事や以前の遊び仲間との再開で、たちまち持ち前のたくましさと明るさを取り戻し、早速悪戯を始めた。サンチャゴは材木をくり抜いて細工を施し、大砲を作った。その効力を試すべく、これに火薬や石や鋲をつめて、隣家の庭の門を目掛けてぶっ放したのである。これがうまく命中し、門は吹きとんだ。かんかんに怒った隣家の主人は町長に訴え、巡査が来て、十一歳の首謀者は数日間牢に入れられることになった。
・こんな厳しい目にあってもサンチャゴは懲りなかった。またもや彼は友達と別の大砲を作ったが、これは実験中に暴発し、かけらが彼の顔にあたり、もう少しで視力を失うところだった。しかし、彼の虹彩には終世その傷跡が残った。
・一八六六年の学年も終わりに近づいた。ギリシャ語の先生と絶えずいざこざを起こしていたサンチャゴは不合格が確実で、彼はその授業に出席もしていなかった。それを聞いた父親フストは激怒し、息子がどんな職業を最も嫌うかを熟考した挙句、学校を止めさせて靴屋にすることに決めた。六月末、サンチャゴは靴屋の徒弟となり、無骨な主人にさんざんいじめられることになった。(略) サンチャゴは結局一年ほど靴屋の徒弟として働いた。その間に彼が十分罰を受けたと判断して、彼を学校に戻すことにした。フストは絵の勉強をしてもいいとまで譲歩したので、息子は疲れも知らずこれに熱中した。
第二章:突然の改心―医学を目指して
・サンチャゴが一七歳に達し、医学部に登録されて間もなく、父親フストがサラゴサの貧民病院の医師に任命され、政府より給与を受けとることになり、さらに医学部の解剖実習の教授に任ぜられた。フストは田舎医者として長い間苦労したことへの報いとしてこの任命に満足し、家族とともに間もなくサラゴサに移ってきた。時を移さず、彼は息子を優れた解剖学者に仕立て上げようと決心する。最初、解剖台を前にしてサンチャゴは、「脳も胃もそれを受けつけなかったが、間もなく慣れた。それからは死体のなかに悲しい思いのこもる死ではなく、生命の驚くべき仕組みが見えてきた」。そして二人は疲れを知らずに、当時の最良のものといわれていたフランスの学者クルヴェイエやサペイの書いた解剖書を傍らに広げて解剖に励んだ。親子の間の長年にわたる紛争の種であったサンチャゴの画才が、ここではきわめて役立ったのは皮肉であった。
第三章:軍医としてキューバへ
・蚊、ゴキブリ、吸血羽虫、ありとあらゆる昆虫の群れのなかで暮らすうちに、彼もマラリアの犠牲者になった。当時、マラリアが蚊で移るとは誰も考えていなかった。キニーネを大量に使って良くなっても、また直ぐ罹るので効果は知れていた。サンチャゴは最善を尽くしたが、ときには自分自身もマラリアに赤痢を合併して打ちのめされた。そんなときは横になったのを利用して英語の勉強にあてた。彼は彼のまわりで蠅のように死んでいく患者と同じように病んでいたが、自分の若さを信じていたので、一度たりと自分は生き残るということに疑いを持たなかった。
第四章:解剖学者として再出発
・彼は独学の人で、学ぼうにも近くには誰もおらず、頼るのは本だけであった。組織学を学ぶ上で彼が座右の書としたのは、当時ヨーロッパで広く読まれていたコレージュ・ド・フランスの教授ランヴィエの書いた組織学教科書のスペイン語訳書であった。それらを道案内にこつこつと試行錯誤を繰り返しながら、彼が最初に論文を発表したのは一八八〇年、二八歳の時であった。「炎症の発生、ことに白血球の移出に関する実験的研究」と題する五一ページのもので、白血球が毛細管から出ようとする営々たる努力に心を奪われて、連続二四時間顕微鏡を覗き続けて得た成果であった。
第五章:ヴァレンシア大学教授として
・彼は実験動物としては主にマウスなどの小動物を用いた。これは動物が小さければ、脳をはじめとする臓器はすべて小さく、一枚のスライド・ガラスの上に同時に多くの切片を載せられるからで、すべて経費節約のためであった。しかし、このことがかえって彼には幸いした。すなわち、脳が小さいために細胞が互いに接近し、脳の構造がかつてないほど完全に観察できることを可能にしたのである。
・カハール一家がヴァレンシアに移り住んだ翌年 (※一八八五年、三三歳)、この地を襲ったコレラは後にスペイン全土にひろがり、カハールの脳研究は突如中断されることになった。コッホがその前年にコレラ菌を発見していたが、この知識はまだ実際の役には立っていなかった。旧い世代の医者は、コレラの原因は夜霧であるとし、十七世紀のイギリスの医者シデナムの方式に従ってアヘンチンキを処方していた。これに対して若い世代の医者たちは沸かした水を飲むことと十分に料理していない食物は口にしないことを勧めていた。カハール一家の住む界隈でも死人が何人も出て、カハールの家の実験室ではゼラチンとブイヨンでコレラ菌の培養をしていたにもかかわらず一家が無事だったのは、こうしたことに注意を払っていたためであった。
・彼がヴァレンシアに住み、顕微鏡による研究に通じていることから、サラゴサ県庁は彼にコレラの病気そのものとその予防法を研究し、その見解を纏めるように依頼した。一八八五年七月、彼はこれを引き受け、サラゴサに赴いた。この頃流行はスペイン全土に及んでいた。九月末、彼は「コレラの棒状の病原体と予防接種」と題する九〇ページ余りの論文をサラゴサ県庁に提出した。これは当時のこの問題に関する諸情報を総括し、これに慎重な評価と解釈を加えたものであったが、それにもかかわらず彼自身の実験に基づく独自の結論も盛り込んであった。その一つは、コレラ菌の新しい簡単な染色法の開発で、これで染めて顕微鏡でみると菌がきわめてはっきりと見えるようになる。もう一つのきわめて重要な寄与は、培養したコレラ菌を熱で殺したものの少量を皮下注射すると抗体の形成を促し、おそらくは病気に対する免疫が生ずる可能性を示していることであった。一般には、人や動物に死んだ培養菌で予防接種を施すと免疫が生ずるということは、二人のアメリカの細菌学者 D・E・サルモンと T・スミスが一八八六年に最初に記載したということになっているが、これで見るとカハールがその一年前に同じことを書いていたことがわかる。また、カハールは純培養した生きている菌を人の皮下に注射しても、そのことによって消化管を免疫にすることができないのではないかという疑問を述べていた。この疑問は、こうして体内に送りこまれた培養菌は消化管まで移動することはできず、したがって消化管にのみ限局したコレラの症状を起こし得ないという事実に立脚していた。このことはのちにパリのパスツール研究所のメチニコフによって確証されることになった。しかし、カハールのこうした貢献も国外ではまったく知られずに終わった。国内でも大した反応はなく、わずかにサラゴサ県庁が彼に素晴らしいツァイスの顕微鏡を贈ってその労に報い、彼を狂喜させたにとどまった。
・その頃、フランスでは催眠術が科学者の間で大流行で、神経病の大家シャルコーがヒステリーの治療に催眠術を用い始めたのもこれに拍車をかけた。(略) カハールとカジノの仲間たちは催眠術によって正常人と異常人の脳の働きについてなにか新しいことが掴めるかもしれないと考えて、「心理学研究会」を組織した。まず研究に適する対象を見つけねばならなかった。彼の家には大勢のヒステリー、巫女、神経衰弱、本当の狂人が連れてこられ、カハール夫人の忍耐苦労は一通りではなかった。これらの患者を調べた結果、カハールや仲間はいろいろ驚くべき症例にぶつかり、フランスで発表された奇妙な報告の多くが本当であることを認めざるを得なかった。(略) カハールはこれらのことから催眠術に治療効果のあることを認めるや、直ちに患者に試してみた。彼は沈鬱状態の患者を即座に快活にさせたり、拒食症患者を正常に食事するようにしたり、ヒステリーで麻痺した患者を再び歩けるようにした。この評判を聞きつけて大勢の患者が彼の家に押し寄せ、今まで平和だった家庭は大混乱に陥った。(略) しかし、カハールは報酬もとらずにできるだけ多くの患者を助け、やがて彼の好奇心も満たされたので治療を打ち切った。
第六章:バルセロナ大学教授として
・ドイツではヒスとワルダイエルがカハールの説を国中に広めた。ことにワルダイエルは当時ドイツだけではなく、ヨーロッパ全体の解剖学を代表する人物だったので、その影響は大きかった。一八九一年、彼は神経系に関する新しい研究ことにカハールのそれを知るや、「神経系は解剖学的にも発生学的にも相互に関連のない多数の神経単位によって構成されている」と唱え、その神経単位を「ニューロン」と呼ぼうと提案した。神経細胞のことを「ニューロン」と呼ぶようになったのはこのときからである。
第七章:マドリッド大学教授として
・一八九四年二月、カハールのもとにケンブリッジの生理学者フォスター博士から手紙が舞い込み、ロンドンの王立協会でクルーニアン・レクチャーを行うように招待された。(略) 神経生理学者シェリントンからは滞在中彼の家に泊まるように勧められた。のちの大学者も当時はまだロンドンの聖トーマス病院医学学校の生理学講師で、カハールよりは九歳若かった。(略) カハールがシェリントンの家に泊まっている間、外出するときには寝室に必ず鍵を掛け、その鍵を持ってでてしまうのが常であった。家人にはそれが何故か分からなかった。人々はスペインの古くからの習わしかも知れないと訝った。メイドとしてはぜひ入って部屋を整頓しなければならない。合鍵を見つけて扉を開けたとき、まず目にしたのはそこが小さな実験室に様変わりしていることだった。窓枠にも椅子にも床にも瓶が置かれていた。彼は寝室のなかでいくつか実験をやっていたのだった。心にかかっていた解決すべき問題がいくつかあり、それがこの思いがけない英国旅行で中断されてしまい、旅の間もなんとか答えを得たいものと待ち切れなかったのであった。
・しかし、何よりこの年 (※一八九六年) を印象づけるのは、カハールがこれまで唯一の頼りにしてきたゴルジ法からエールリッヒの開発したメチレン青法に転換したことであった。この方法は先にも述べたように、叔父のワイゲルト (※髄鞘染色法で有名) のもとでニューロンの染色に専念していた科学者エールリッヒが、叔父の研究対象が死んだニューロンばかりであるのにあきたらず、生きているニューロンを染めようとして苦心の末見出したものである。彼は動物の血管のなかに少量の色素を繰り返し注入した後、脳を取り出して調べると、酸性色素では脳は真っ白のままである。すなわち色素が脳血管の壁を通過し得ず、したがって脳の実質の中へ入って行かないのに対して、塩基性色素のうちで構造式が似ていて、しかも硫黄原子 Sを含む特定のグループは血管壁を容易に通過して脳に侵入し、生きているニューロンを染めるという重要な事実を発見した。脳の血管壁がある物質は通すが他の物質は通さないという一種の関門として作用するわけで、これはのちに「脳血液関門」と呼ばれるようになり、今日でも重要視されている。
第八章:アメリカ合衆国訪問
・カハールは以前からエジソンの蓄音機に大変興味を持っていた。それは一八九六年にはマドリッドでセンセーションを巻き起こし、波紋は全国に広がり、音楽にはほとんど興味のなかったカハールさえ引き込まれて、長い冬の夜を楽しく過ごすまでになった。初期の機械の欠点は音量が小さいことで、「話す兎」と呼ぶ人さえあった。音量を上げようとするとキィキィする雑音が出て不愉快であった。彼は一八九五年と一八九六年の二年をかけて、この欠点の物理的条件をすっかり調べ上げ、音波を録音するためにサファイアで水晶板または金属板に溝を掘るときに、これまで溝の深さを変化させていたのをやめて、波状の線を掘ったほうが具合がよいということに気づいた。彼はこの考えに夢中になって、熟練工がいないのでやむなく不慣れの機械工を雇って機械を組み立てさせ、彼自身はゼラチン、ワックス、セルロイドなどで鋳型を作ることを試みた。この新しい録音法で期待した効果が得られることが確認されたが、出来上がった機械はひどい代物だったので、忙しさにまぎれ、何時の間にか忘れてしまった。
ところがニューヨークのいくつかの店で、カハールが以前に自分の思い付きで組み立てたと同じものが、グラモフォンの名で売られているのを見つけた。これが後に全世界に広まって、アメリカではビクターという大会社に成長していったのである。彼はこのことから、他の領域に足を踏み入れて貴重な時間を潰すより、自分自身の畑を耕す方がよいとの教訓を得た。第九章:数々の栄誉、そしてノーベル賞
・マドリッドに帰り着くや、車中で思いついた方法、すなわち脳の小片を直接硝酸銀に浸し、次いで四日間温めて、その後暗所でピロガロール (焦性没食子酸) で還元したのち、水洗、アルコールで脱水、セロイディンという封埋剤で固めて切片を作る、という操作を行った。結果は最初から大成功で、脊髄、延髄、小脳、大脳などのほとんどすべてのニューロンで、神経原線維が褐色、黒、ないしは煉瓦色に鮮明に染め出され、樹状突起の先端から細胞体を通って軸索の先端まで走っているのが観察された。(略) カハールがこの還元硝酸銀法を発表して間もなく、ドイツ人のビールショウスキーが同じ原理の類似の方法を考案した。カハールの方法は新鮮な材料を用いるので動物の脳を調べるのに適していたが、ビールショウスキーのものはフォルマリンで固定した材料に適しており、人脳の染色に広く用いられた。その後これらの還元銀法には多くの変法が考案されて、いろいろな方面で活用され、梅毒スピロヘータの発見にも一役買うことになった。
・(ノーベル賞) 授賞式はオスカー二世臨席の下に、王立音楽アカデミーで行われ、公開講演は一二月一一日にゴルジ、その翌日にカハールの順であった。彼の演題は「ニューロンの構造と結合」 (Les structures et connexions des neurones) で、いつものように自分の標本を展示し、大きな彩色の壁掛け図を用い、フランス語で話した。彼は厳密に彼が発見した諸々の事実を示し、それから導き出し得た原則を語るに止めた。彼は先覚者たち、殊に共に受賞したゴルジの功に真摯な賞賛を捧げることを忘れなかった。これに対してゴルジの演題は「ニューロン説―理論と事実」(La doctorine du neurone-theorie et faits) で、演説は同じくフランス語で行われたが、カハールに対する好意的な言葉は全くなく、また、最近明らかにされた事実を分析綜合したりすることもなく、一途に彼がかつて唱え、いまやなかば死にかけた網状説を再興させようとするものであった。彼は、彼自身が神経系の微細構造を研究していた頃より後の、イタリアの内外で行われた組織学の多くの成果には一度たりと触れなかった。彼は自分の誤りを新しい知識で訂正しようともしなければ、それらを認めようともしなかったのである。
これに対してカハールはこう述べている。「高潔で慎重なレツィウス氏は狼狽し、スウェーデンの神経学者や組織学者は皆ゴルジを見て仰天していた。演説には質問しないという慣習を守るために、私は多数の誤りや故意の黙殺を訂正するよう申し入れるのを差し控えたので、もどかしくて体がぶるぶる震えた。・・・肩でくっついているシャムの双生児のように、これほど性格の異なる科学上の対立者を一緒にしたとは何たる無慈悲な運命の皮肉であろうか!」第十章:燃え盛る研究欲
・新しい染色法が発見されると、組織学はおろか医学全体に新しい視野が開ける。しかし、それを見出すまでは試行錯誤、悪戦苦闘の連続で、成果を上げずに一生を終えてしまうことも稀ではない。その点、カハールは恵まれた人だった。一八九二年、カハールは幼若な兎の脳の小片を重クロム酸カリと塩化金の混合液で処理したとき、錐体細胞のなかに当時は未知の構造を発見した。彼は喜んでもう一度染めだそうとして、繰り返し繰り返し試みたが、どうしてもうまく行かなかった。彼はそのまま沈黙し、なにも発表しなかった。ところが一八九八年、正体のあまりはっきりしない方法で同じ構造をゴルジが発見し、今やゴルジ網状装置と呼ばれるようになっていた。カハールはその後非常な努力のすえ、一九一二年、硝酸ウラニウムを固定剤に用いて、この網状装置を黄色の背景のなかに黒褐色に鮮やかに染め出す方法を見出した。
・さらに一九一三年には弟子のアチュカロの協力で、塩化金を用いて神経グリア細胞を選択的に赤褐色に染め出す方法を発見した。これによって人の脳梅毒や老人性痴呆における神経グリア細胞の病的変化を調べることが可能になった。この染色法は金昇汞法の名で今日においても神経グリア細胞を染める最も確実な方法として用いられている。
第十一章:晩年
・(グリア研究に対する) その成果の一つが先にも述べた一九一三年のカハールによる金昇汞法の発見であった。この方法で染色すると、神経グリア細胞はニューロンよりはずっと小さいが、同じようにたくさんの突起を持ち、その突起で神経線維を束ねたり、ニューロンや血管に付着して結合組織の役をしていることが実証された。そして細胞体から突起が四方に出ており、細胞体も比較的大きいことから、星状膠細胞あるいは大膠細胞 (アストログリアあるいはマクログリア) と命名され、さらに突起の性状の違いによって、線維性アストログリアと原形質アストログリアが区別された。ところが神経組織のなかには、このほかに、この方法で染めても突起を持たない小さな細胞が多数あることが分かり、カハールはこれらを神経組織の第三要素と呼んだ。第一がニューロン、第二がアストログリア、第三がこれらの細胞というわけである。
ところが一九一八年に、カハールの門下で、彼より三〇歳下のピオ・デル・リオ・オルテガがアンモニア炭酸銀法を見出して、この方法で染めると突起がないとされていた第三要素にも立派な突起があり、しかも突起の性質や数の多寡によって二種類の細胞が区別されることが分かった。一つは、突起がきわめて細くて数の少ない乏突起膠細胞 (オリゴデンドログリア)、もう一つは、突起が特有の屈曲を示す小膠細胞 (ミクログリア) である。その結果、脳内の神経グリア細胞は以上の四種に分類されることになった。現在、世界中で用いられている神経グリア細胞の分類はこれをそのまま踏襲しており、その成果のすべてがカハールおよびその門下の努力に帰するといってよい。・これ (※一九三三年「ニューロン説か網状説か?」) を執筆中の頃の彼をマドリッドの自宅へオルテガとともに訪れたアメリカの神経学者ペンフィールドによれば、カハールは風邪をひいて寝室にいたが、うしろに枕をいくつも置いて身を支え、忙しくペンを動かしていた。
・この本 (※「八〇歳より見た世界― 一動脈硬化症患者の印象」) の副題にもあるように、彼は大学引退前後に門下生から動脈硬化があると指摘され、それ以来自分の病状を注意深く観察記録していた。最初のうちは正常活動には大した支障はなかったが、そのうち頭痛がひどくなり、血圧も上がり、医者から仕事の軽減ないしは放棄を勧められた。(略) 一九三四年一〇月一七日午後一一時、カハールは静かに亡くなり、彼が望んだように質素な葬儀の後、彼の遺体はマドリッドの共同墓地のシルヴェリア (※妻) の傍らに埋葬された。
終章:カハール研究所を訪れて
・私 (※著者) は深い共感を覚え、この人 (※カハールの弟子、ロレント・ド・ノー) とぜひ会いたいと念じた。
幸いに一九七四年の晩夏にその機会に恵まれた。(略) 机の引き出しから両手にあまる文献を取り出して私の前に置いた。何だろうと訝っていると、そのなかから一冊の本を手にして、これはカハール先生が署名入りで私にくれたものだが、私より君が持っているほうがふさわしい。残りもカハール先生の初期の論文の別刷だが、これも君に進呈しようと言う。署名入りの本は一九二三年発行の『脊椎動物における神経発生の研究』であり、別刷類は例のコレラの研究を含む二十余部であった。異国からきた初対面の研究者に対して示されたこのような破格の好意に、最初は戸惑ったが、やがてもそれは身も震えるような感動に変わり、これで私はカハールの孫弟子の一員になったような気がした。