祖父・小金井良精の記
「祖父・小金井良精の記(星新一著、河出文庫)」の上巻を読み終えました。星新一の本を紹介するのは、「人民は弱し 官吏は強し」以来ですね。
小金井良精は明治~大正時代を代表する解剖学者で、初期の頃の東大医学部長も務めていました。星新一にとって、母方の祖父にあたります。祖父に対する愛情の漂う本です。
本書の前半は小金井家の先祖たちについて述べられています。それを読むとまず江戸時代の養子の多さに驚きます。星新一が「家とはなんであるか。濃い血液でつながらず、家風だけが伝えられていく」と述べている通りです。以前紹介した宇田川家でも養子が家を継ぐ事例がいくつかあったのを思い出しました。池波正太郎氏は、こうして家の中に血の繋がらない人間がたくさんいることが、江戸時代に礼儀作法がうるさかったことの原因の一つだったのではないかと考えていたようです。
小金井家は長岡藩の出自、それも家老の次男が養子に来たこともあるほどの家柄でした (山本家からの養子小金井良和は、後に本家に戻されて山本勘右衛門と改名して家老になった)。小金井良精の父、小金井儀兵衛良達は小林虎三郎の妹と結婚したのですが、小林虎三郎は「米百俵」の逸話で知られています。司馬遼太郎の「峠」でも、小林虎三郎は有能な人物として描かれていますね。ちなみに司馬遼太郎の「峠」は私が高校生時代最も好きな小説で、この手の話を語ると長くなるのでやめておきます。
江戸幕府は外国事情を調べるため洋学所を作っており、それが後に蕃書調所、洋学調所、開成所と名前を変え、明治時代には大学南校となりました。良精は上京して大学南校に入学しましたが、突然退学となりました。原因は不明ですが、著者は「良精は朝敵の藩ということで、からかわれ、それに反発して、なにかことを起こしたのかもしれない」と推測しています。結局、良精は大学東校に入ることにしました。東京大学医学部の前身です。当時の校長が長谷川泰で、長岡の人だったのが入学を後押ししたようです。校則では、満15歳以上でないと入れなかったのですが、良精は当時 13歳 11ヶ月。サバを読みました。しかし首席で卒業しました。成績優秀につき、ドイツ留学を果たします。
その後彼がどういう人生を歩んだかは、実際に本書を読んで頂くのが良いと思いますが、備忘録代わりにいくつか印象に残った部分を書いておきます。
・良精は「よしきよ」と読む。ローマ字表記でも、本人はそう書いている。しかし、星新一は「りょうせい」と発音していた。家庭内で本人を呼ぶ時は「おじいさん」であった。
・良精がドイツ留学する直前に血尿が出現した。泌尿器系の症状は、その後生涯つきまとうことになった。良精は留学前に小松八千代と婚約し、帰国後結婚したが、八千代は妊娠に伴った疾患で死亡した。小松家の親戚に当たる原桂仙は、北里柴三郎の留学についても色々運動をしていた。
・良精はドイツではワルダイエルに師事することになった。ワルダイエルは神経説を提唱し、ニューロンという語を生み出した学者である。さらにフレミングが発見した物質に対して染色体と名づけたことでも有名である。また、エールリッヒの師でもある。良精はまず鳩の眼球を用いて解剖学の手ほどきを受け、本格的な研究に進んだ。暇な時はオペラ「タンホイザー」や「カルメン」などを鑑賞にも出かけたりしていたらしい。
・良精はドイツ時代、ウィルヒョウと良く面会し、家庭に招かれもした。
・良精は帰国後帝国大学教授に任命された。明治 17年の東京地図では、東大構内のほとんどが空地で、数えるほどの建物しかなかったことがわかる。
・東大精神科初代教授は榊俶。良精とはドイツ以来の親友だった。41歳で死去し、遺言で解剖された。医学部の教授が死後体を解剖に提供し、剖検を受けるという慣習は、榊俶から始まったようである。
・良精は森鴎外の妹の喜美子と結婚した。彼らが東片町で住んでいた家は、後に長岡半太郎が住むことになった。
・良精はアイヌの研究をしていた。そして日本人のルーツはアイヌ民族と南方から来た民族との混合であるとの説を唱えていた。良精はアイヌのことをアイノと記載していたが、アイヌの人達の発音が「アイヌ」と「アイノ」の中間のように感じていたため。
・ウィルヒョウはアイヌ人の人骨を入手し、頭骨の後下方の穴を削って大きくした人工的な跡があることを 1873年のベルリン人類学会誌に報告した。良精が入手したアイヌ人の骨も同様であった。何故このようなものがみられるのかは不明であったが、釧路でその謎が解決した。アイヌ人の人夫が頭骨から脳髄を掻き出して食べるところを見かけたからであった。どうやら、梅毒の治療薬として人の脳を食べていたらしい (明治時代の出来事)。
・良精は、ドイツから森鴎外を慕って来日した女性と森鴎外の交渉役を務めた。ちなみに森鴎外の処女作は「舞姫」で、日本人留学生とドイツ人女性との恋物語である。
・良精は 34歳の頃、囲碁に熱中していた。36歳の頃、東大医学部長となり、雑務が増え囲碁どころではなくなった。衆議院の予算委員会に呼ばれて解剖体の数についての質問に答えることもあった。
・良精は 35歳のとき明治生命で保険に入ろうとしたが断られた。
・41歳のとき、医師の権利をまもる目的で医師会法案が提出されたが、良精は玉石混交の医師の会に法的地位を与えることに反対した。そのための文章を森鴎外に書いてもらった。その法案は衆議院を通過したが、貴族院で否決された。
・43歳のとき、パリでの万国医事会議に委員として参列することになった。それに際して、医学部の建築費を受け取り、医学部改築のための視察をヨーロッパ各地、アメリカに行った。この時野口英世にも会っている。
・原桂仙が亡くなった時、遺児の世話を北里柴三郎とともに行うよう遺言で頼まれた。
・明治 27年、香港でペストが流行した。そこで良精は臨床と病理部門から青山胤通、細菌学の部門から北里柴三郎を派遣することを決めた。北里柴三郎は患者や死者から一種の細菌を検出し、培養及び動物実験を行なってペスト菌と認定した。そしてランセット誌に発表した。青山胤通は感染し、死の一歩手前まで行った。
・北里柴三郎は留学から帰国した頃、伝染病研究所の設立を説いて回った。事態は進展しなかったが、福沢諭吉が土地建物の援助を申し出て、実業家の森村市左衛門が設備と危惧の資金を出したことがきっかけとなり、国家補助が決まった。北里柴三郎が所長で、その下に志賀潔 (赤痢菌を発見)、秦佐八郎が付き、野口英世も一時勤めた。ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所とともに世界三大研究所と呼ばれたが、大隈重信内閣が東大医学部付属にせしめたことから、北里柴三郎と弟子たちは辞表を提出した。北里柴三郎は北里研究所を設立。また慶応義塾大学に医学部をもうける計画が出ると、北里は主催者に推された。
・良精が肺炎になったとき、病院長三浦謹之助が診察し、絆創膏を脇腹にたくさん貼った。しかし同日午後青山胤通が午後診察し、はったばかりの絆創膏をびりびりとみんな剥がしてしまった。
・島峰徹は石原久教授との対立で東大を辞め、東京高等歯科医学校 (後の東京医科歯科大学) を創立した。
青空文庫に良精の作品リストというのがありますが、作業中のようです。気長に待つとします。