学会もメインの部分を終え、夜の Gala Dinnerまで時間がある。ホテルが駅のすぐ近くということを生かして、ワルシャワまで日帰り旅行をすることにした。ワルシャワには見残した博物館がたくさんあるのだ。
午前 8時に駅に行って、切符を購入。9時 55分発の電車の切符を購入。ワルシャワには 12時 50分頃に着いた。
駅からまずショパン博物館を目指す。少し迷って到着したところ、なんと工事中で閉館。外から雰囲気だけを楽しんだ。なかなか来る機会が無い街であるため、非常に残念だった。
少し迷いながら新世界通りを経て、クラクフ郊外通りに出た。この通り沿いに進むと、右手にワルシャワ大学、次いで大統領官邸がある。小雨のぱらつく通りではのどかにバザーが行われていた一方で、大統領官邸周辺ではものものしい警備が行われていた。
大統領官邸の近くには、アダム・ミツキエヴィッチ像があった。ちなみに、アダム・ミツキエヴィッチはポーランドを代表する詩人で、ショパンは彼の詩集「コンラト・ヴァレントロ」に触発されて「バラード 作品 23」を作曲したとされている。
左手に国立オペラ劇場を見ながら、旧王宮に到着し、城壁沿いに 1キロばかり歩くと、目的とするキュリー夫人博物館があった。キュリー夫人の生家を博物館として公開しているのだ。数部屋の空間だが、館員達の「見せるテクニック」が素晴らしかった。キュリー夫人の使っていた本にガイガーカウンターを当てると、けたたましい音を立てた。キュリー夫人は 1867年生まれ、1934年没なので、彼女が実験していた頃から 100年近く経っているにもかかわらず、残留放射線が凄いのだ。
帰りに、入口付近にあったポスターを数枚購入した。第一回ソルベー会議のものだ。第一回の議長はローレンツだったらしい。キュリー夫人は、中央の机に肘を着いて、額に手を当てている。何のポーズだろうか?
帰りは道を変え、国立オペラ劇場の脇を抜けてワルシャワ駅を目指した。15時に駅に着き、16時5分の電車に乗った。
駅前にあるホテルに戻ると、それに面した広場で花火をしていた。何ともロマンチックだった。素晴らしい。
夜はガラ・ディナーだ。学会場からバスが出ている。バスはクラクフの市街を抜け、どんどん山の方に走っていく。随分長く田舎町を走り、坂を登ったところにレストランはあった。
ワインを飲み、美味しい料理に舌鼓を打ち、演奏に耳を傾けた。そして、日本から来ていた放射線科医たちと色々話をした。帰りもバス。ほろ酔い加減で帰った。
翌朝は、午前 7時 35分クラクフ発の飛行機。5時くらいにチェックアウトした。受付の女性に、かねてから疑問だったことをやってみた。紙に「Babinski」と書いて、「発音してくれ」と頼んだのだ。すると彼女は「お前の友人か?」と聞きかえしてから、「バビンスキー」と発音した。期待はずれの答えだった。
何故こんなことをやったかというと理由がある。神経症候学に多大な業績を残した神経内科の歴史的人物 Babinskiはパリで仕事をしていたので、神経内科の歴史にうるさい人達は「ババンスキー」と発音する。しかし、どうも Babinski自身はどちらでも良かった節があるのだ。岩田誠先生の公演、論文によると、Babinskiはサインする際、ポーランド語の記号を "n" の上辺りにつけていたらしい。つまり彼はポーランド人であることに誇りがあり、「バビンスキー」でも「ババンスキー」でもなく、本来はポーランド語で発音すべきことを主張していたようなのだ。
残念ながら、私が書いた文字には、ポーランド語の記号がついておらず、ホテルの受付嬢は「バビンスキー」と発音したというオチだった。次にポーランドに行く事があったら、しっかりとポーランド語で文字を書いて、発音してもらえるようにしよう。
クラクフを飛び立った飛行機は、8時 45分にウィーンに着いた。そこで私は酒をあおり、14時 5分成田空港行きの飛行機に乗り込んだのだった。