完全な真空
ポーランドといえば・・・高名な神経学者 Babinskiの出身地ですが、スタニスワフ・レムという作家も輩出しています。レムはルブフ医科大学に入学しましたが、ドイツ軍侵攻により学業を中断。自動車工、溶接工として働きました。その後、ルブフからクラクフに移住。ヤギェヴォ大学で学業を修め、SF作家としてデビューしました。クラクフは、私が目指す国際学会がある都市ですね。
私は19歳の時、物書きであった叔父から、「完全な真空 (スタニスワフ・レム著、沼野充義・工藤幸雄・長谷見一雄訳、国書刊行会)」という本を紹介され、読みました。この本は実在しない書物に対する書評を纏めたものです。
本のカバーに書かれた紹介を記します。
無人島に漂流したセルジュ・Nは、空想の中から召使いや侍女を呼び出し、
孤島生活を楽しもうとするが、状況は次第に混乱し、
島は想像上の群衆でいっぱいになってしまう・・・『ロビンソン物語』
化学物質NOSEXによって世界中の人々から性欲が失われ人類絶滅の危機が訪れる近未来SF『性爆発』
南米のジャングル奥地に18世紀フランス王国を再建した
元ナチス親衛隊少将の奇怪な宮廷生活をえがく『親衛隊少将ルイ16世』
「列車は着かなかった。彼は来なかった・・・」否定に否定を積み重ね、無限に後退を続ける語り手。
アンチ・ロマンの辛辣なパロディ『とどのつまりは何も無し』
世に埋もれた<第一級の天才>を見出さんと<精神の金羊毛を求める探検隊>を組織し、
探索を続ける青年の奇妙な冒険譚『イサカのオデュッセウス』
コンピュータ・ネットによって人生のあらゆる局面を演出する<ビーイング社>の企業戦略と、
その結果実現したすべてがあらかじめ設定された世界・・・『ビーイング株式会社』
著者の生誕の可能性を算出するため、両親のロマンスから紀元前250万年の造山活動までさかのぼってしまう
抱腹絶倒の確率論『生の不可能性について』コスモスを創造者たちのゲームの産物としてみて、
<ゲームの理論>によって宇宙の発生と成長を論じるサイバネティック宇宙論『新しい宇宙創造説』
純文学、ヌーヴォー・ロマン、SF、文化論、宇宙論など、16冊の<実在しない書物>を、
大まじめにときにユーモラスに論じ、フィクションの新たな可能性を切り拓いた架空書評集。
「ポスト・ボルヘス的書物」としてアンソニー・バージェス、カート・ヴォネガットらの絶賛を浴びたレムの最高傑作
さて、どの書評も面白かったのですが、当時印象に残ったのは、「誤謬としての文化」でした。大学1年生の時、この小説をテーマにレポートを 1本書いたくらいです。
改めて読み直してみると、当時と今では、受ける印象が全然違います。でも、変わらない部分もあって、「人間は義手義足の体系としての文化を投げ捨てて、科学的知識の庇護に身を委ねなければならない。」とか「科学革命に狼狽した伝統的な人文学者がジレンマに頭を悩ませるのは、犬がとりはずしてもらった首輪を懐かしむようなものだ。」という、架空の著者クロッパーの意見には無条件に賛成出来ないのですが、その前段階で語られる思想「文化とは適応の道具である」には、今でも影響を受けています。一部引用します。
動物は-と、クロッパーは注意を喚起する-糞と死体を区別しない。どちらも生命の排泄物として避けて通るだけである。首尾一貫した唯物論者にとって、死体と排泄物を同一視することは同様に当然のことだろう。しかし、通常われわれは、後者(つまり排泄物)を密かに処理するのに対して、前者(つまり死体)の処理は豪華に、おごそかに行い、亡骸を数多くの高価で複雑な包装でくるんでやる。こうするようにと要求しているのが文化、すなわちいやしむべき事実を人間が受け入れることを容易にしてくれる数々の「見せかけ」の体系なのである。厳粛な埋葬の儀式は、死ななければならないというこの屈辱的な事実によって当然引き起こされる、人間の抗議や反抗をなだめる手段にほかならない。事実、これが屈辱でなくて何だろうか-人間の知性は一生かかって知識をたくわえ、その幅を広げていくのに、結局は、腐った水たまりの中に消え去る運命なのだから。
それゆえ、文化というものは鎮静剤のようなものである。つまり、自然の進化や、偶然生じてきて、偶然どうしようもなく悪いものになってしまった数々の肉体的特性(この肉体的特性とは、目前の環境に対する応急の適応が何億年にもわたって続けられてきた結果が受け継がれたものであって、人間はそれに関して相談を受けたこともなければ、承諾を求められたこともない)-こういったものに対して、人間が向けるかも知れない疑義や、憤慨、不満などを一切合財なだめてしまうこと、これが文化の役目なのだ。このような不快きわまりない遺産、すなわち、細胞のなかに放り込まれ、骨によってよじられ、腱や筋肉によって結び合わされ、まるで市場の雑踏のような様相を呈している数々の病気や欠陥の絡み合い-これらすべてを甘んじて受け入れるように、と文化はわれわれを説得する。それはいわば、絵のように美しいガウンを着た公認の職業弁護人のようなもので、説得にあたっては、無数のインチキを駆使しながら、内的に互いに矛盾している論拠に頼り、時に感覚に、時に理性に訴えかけるのである。その目的とは要するに、マイナスの記号をプラスに書き変えること、われわれの貧困や不具、欠陥などを美徳、完璧さ、明白な必然性に変換してしまうことである。
こうした文章を読むと、「文化」とは何なのか、それを無批判に受け入れて良いのか、考えさせられます。一方で、文化の「適応の道具」としての力にも気づかされるのです。
私の拙い紹介を読んで、興味を持った方は実際に読んで頂けると面白いと思います。短編集ですから、読みやすいですしね。小説というものは、要旨だけ知るのではなくて、実際に読んでみることで、初めて感じるものがあります。