カラヤンはなぜ目を閉じるのか
「カラヤンはなぜ目を閉じるのか-精神科医から診た”自己愛”-中広全延著、新潮社」を読み終えました。著者は精神科医です。この本は、カラヤンに残された多くの逸話が”精神疾患の分類に使われる ”DSM分類-Ⅳ” での「自己愛性人格障害」に相当するのではないかという観点から述べられています。加えて、DSM分類の問題点、賛否についても論じられています。
DSM分類-Ⅳでの診断基準は次の通りです。本書より該当する部分を引用します。
誇大性 (空想または行動における)、賞賛されたいという欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ (またはそれ以上) によって示される。
診断基準 301.81
(1)自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
(2)限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
(3)自分が”特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
(4)過剰な賞賛を求める。
(5)特権意識、つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
(6)対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
(7)共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
(8)しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思いこむ。
(9)尊大で傲慢な行動、または態度。
このように、自己愛性人格障害では9つの診断基準項目があげられており、そのうち5つ以上を満たせば自己愛性人格障害と診断するとされている。他の疾患も、同様の方式で診断する。まさしく DSM (Diagnostic and Statistical Manual) の名前のとおり、「診断と統計の≪マニュアル≫」である。
カラヤンにとって、業績がないというのは全く該当しませんが、自分が特別な存在であるように振る舞い、後にも先にもありえないほどの権威をふるったことは、自分しか使用できない控え室、他の指揮者とのギャラの差別化 (指揮者が定額制であったにも関わらず自分だけが高額)、自分が指揮する時だけ他の指揮者よりオーケストラの人数が多いなどという逸話から分かります。
また、カラヤンはとことんまで美にこだわりました。カラヤンがこだわった美は、音楽の美とは別のものです。
具体的には映像撮影に際して、「正規の収録の前に指揮者の代役があらゆる可能性を試し、カラヤン自身がテレビカメラの調節にあたっていた」。
「どのようなステージでも、どのような場面でも彼はまず前もって一度、代役に座らせてみる。それはその効果をカメラを通して自分の目に追い、詳しく吟味するためである」
ときには、ベルリン・フィルの代役までも学生オーケストラなどを雇い入れて調節し、万全を期した。さらに、「最初の頃は、頭の禿げた音楽家みんなにかつらまでかぶらせたのである」。
カラヤンは写真家に自然体の写真を決して撮らせず、撮られた写真も極めて厳しく検閲しました。木下晃氏は数百枚の写真を撮ったものの 17枚しか許可されなかったそうです。著者は以下のように考察しています。
前に、カラヤンが「自己の弱さを見抜かれるのを恐れて威嚇的な鎧をつけた」ことを指摘した。ポーズをとらない自然体では「自己の弱さを見抜かれる」危険があると、彼は感じたのではないか。弱いカラヤンの暴露だけは、絶対に避けねばならない。彼が「必ずポーズをとった」のは、鎧をつけて自己の弱さを隠すためではなかったか。ただし、それが美しいカラヤンという鎧なのであれば、右の推測と対立はしない。
音楽においては、彼は編集をしつくして完璧な録音を目指しました。これは音楽の流れを喪失させる行為で、フルトヴェングラーが求めたものとは対極に位置します。
いくつもの逸話は、カラヤンのナルシシズムを示すものです。著者は、カラヤンが自己愛性人格障害であるとの検討を進め、続いて目を閉じることについて検討していきます。
カラヤン自身は、目を閉じることについて、「うまく説明できませんが、見ることをやめて、まったく別の世界に入っていくのです」と述べました。しかし、著者の分析は次の通りです。その根底にあるのは自己愛です。
オーケストラとともに音楽を最高に演奏しようとすれば、利用できる手段はすべて利用すべきであるはずにもかかわらず、カラヤンは目を閉じて「視線によるコミュニケーションの手段」を放棄した。これでは、オーケストラとコミュニケーションする意志がなかった、と思われても致し方ないところではないか。そして、コミュニケーションの意志がなかったのは、自己の思い描く理想のイメージに浸るという自己愛的な戦略を採用していたから、と説明できる。
カラヤンの閉じた目は、コミュニケーションの不在をあらわし、指揮における自己愛的な在り方を象徴している。
(略)
ただし、目を閉じて指揮をしたのはカラヤンだけであり、他の指揮者たちにそれは真似できなかった。なぜなら、彼らは目を開けてオーケストラとコミュニケーションする必要があったから。
さらに自己愛的人格障害をもつ人は、アルコール依存症や薬物依存、さらには仕事中毒に陥ることがあります。カラヤンは仕事中毒に陥り、そのため高い生産性を持つことが出来たと著者は推測しています。
さて、著者は教養ある方で、音楽史にも造詣があります。演奏会における席についての部分を引用します。
西洋の劇場は、過去においておおよそ一定のパターン化された建築的構造をもっていた。まず前面に舞台があり、観客席は伝統的に、ボックス (個室)、バルコニー、平戸間、天井桟敷などに区分される。ボックス席は18世紀においては王侯貴族、時代が下がると劇場への投資額と執心度の高い上流人士のものであり、天井桟敷の人々は貧しいが芸術的な連中、平戸間にいるのは中流の人たちと相場が決まっていた。
ただし時代や地域により、若干の相違はある。例えばバロック時代においては、平戸間は庶民と兵士旅行者のための席であって、しかも多くの劇場でそこには椅子がなかった。平戸間の地位は19世紀に入ってもなお低く、イタリアなどでは兵隊慰問のために使われることが多かった。また劇場での貴族の支配権が強かった18世紀までは、最上階の天井桟敷はほとんどの劇場で貴族の召使いに無料で開放されていた。
いずれにせよ、自分が座りたい座席の代金さえ支払えば自由に任意の席に座れるようになるのは、歴史的に最近のことである。過去においては、劇場でどこに座るかは社会的地位や身分により決められていた。つまり、観客の座席は社会階層によって規定され、劇場の構造はその社会の階層構造を反映していた。
また、音楽を奏でるにせよ、劇を演じるにせよ、舞台の上で何らかの芸をする者より、ボックス席に陣取る王侯貴族や上流階級の人々の方が上位の存在であることは自明であった。ウィーン・フィルの楽団長であったオットー・シュトラッサーによると、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは聴衆を密かに軽蔑していたという。それは20世紀の大芸術家トスカニーニにして初めて可能なのであり、それでも「密かな」行為であった。
著者によると、演奏会場における座席の配置まで、カラヤンの自己愛的性格は影響を与えています。カラヤンは、ベルリン・フィルの本拠地となるホールの建築でシャウロンの案を強く推奨し、採用されました。チクルス・カラヤニは指揮者が中心に位置する構造で、ここにもカラヤンのこだわりをみることができます。
こうして見てみると、著者の下した診断は非常に説得力を持ちます。もっと詳しい分析を知りたい方は、本書を読むことをお薦めします。