クララ・シューマンと慢性疼痛
以前紹介した、ピアニストの慢性疼痛。「Hingtgen CM. The painful perils of pianists: The chronic pain of Clara Schumann and Sergei Rachmaninov. Semin Neurol 19: 29-34, 1999」から、Clara Wieck Schumann について書かれた部分を読んでみましょう。
Clara’s painful life
Clara Wieck Schumann は 1819年ドイツに生まれました。彼女は有名なピアノ教師 Friedrich Wieck の娘でした。彼女が生まれたときから、Friedrich Wieck は長女のクララを偉大なピアニストにすべく努力しようと決めました。事実、1824年、両親が離婚した後、たった4歳のクララは一緒にピアノ練習をするため父親と暮らすことにしました。クララは父親の期待通りに過ごし、4年後の8歳のとき、初めて聴衆の前で演奏を行いました。その年28歳の青年がクララの父の元に勉強に来ました。その青年こそ、クララの父に騙されて数年間離れて過ごした後、1840年にクララの夫となる Robert Schumann でした。クララは興奮や旅がいっぱいの生活を送っていましたが、苦難もたくさんありました。両親の離婚、神童であることの難しさ、大衆の期待、父親の期待通り生きなければいけないことが、クララの精神的肉体的負担となりました。ロベルト・シューマンと恋に落ちた後、クララとロベルトは 3年間離れて過ごしました。クララの父は、二人が互いに会ったり会話するのを我慢させました。彼は二人が互いに手紙を書くことすら妨げようとしましたが、二人は偽名を使って文通しました。シューマンを認めない父への忠誠心と、ロベルトへの愛との間で、クララは悩みました。
ロベルトと離れて暮らした最初の頃、クララは初めて、人生の静養の大部分の間、時々彼女を苦しめることになる疼痛について記載しました。彼女は 1839年に、パリからロベルトに送った手紙で言及しました。その頃、彼女は頭痛に苦しんでいました。「こっちにきてから、私は絶え間ない頭痛に苦しんでいます」。父の意思に反してパリで一人暮らしをし、ロベルトと結婚出来るように父に対して法的な手続きが進行中だったので、クララにとって相当ストレスのある期間でした。
これらの頭痛は片頭痛だったかもしれません。クララはしばしば頭痛のため寝込み、ピアノの練習など普段の生活が送れませんでした。彼女は吐気のためベッドから出られなかったかもしれませんが、この症状に具体的には触れていません。彼女は片頭痛にありふれた視覚症状にもさいなまれたかもしれません。彼女は閃輝暗点 (fortification specta or scintillating scotomas) に言及していませんが、頭痛の間読み書きが出来ませんでした。音過敏 (phonophobia) のため、ピアノの練習や音楽鑑賞がおそらく煩わしかったでしょう。クララの父も頭痛にさいなまれていました。ロベルトからクララに宛てた手紙で、クララの父が頭痛のため温泉に行っていることが報告されています。家族歴は片頭痛に非常にありふれています。
1840年 1月、クララはドイツに戻り、二人の結婚を許可するという裁判所命令をロベルトが追求している間、母親とベルリンで暮らしました。父とロベルトの間で悩んでいたので、これは再びクララに強いストレスの日々でした。彼女は「顔面痛 (face-ache)」をロベルトへの手紙に書きました。「私は、私をおかしくするような顔面痛に悩んでいます。昨日まで、何もせず、演奏や作曲は無理みたいです。概して、私は強い痛みに打ち勝つことができますが、今はしばしば横になって死にたいくらいです。」
1840年 9月 12日、彼らが結婚した後、クララとロベルトは最初の4年間日記をつけていました。彼らが週のイベント、思念、感じたことを交互に記録に留めていた日記です。彼らのいずれも疼痛がなく、病気もまれだった日々が書かれています。ある記載では、1841年2月にクララによって「我々の健康状態は今週良くない。私は絶え間ない頭痛があり、ロベルトは(まるで)植物状態だ。」と書かれています。
クララの頭痛とロベルトの感情障害にも関わらず、二人は生産的で幸せそうに見える生活を送っていました。彼らは 8人の子をもうけ、作曲とクララの演奏で成功しました。1854年の冬に、クララの生活はがらっと変わりました。ロベルトは非常に鬱的になり、自殺を企て、保護施設への入所を必要としました。クララは 2年間ロベルトに会いませんでした。なぜなら、ロベルトの主治医に面会の制限を課せられたからです。ロベルト・シューマンは 1856年 7月に死亡し、クララはその二日後、彼が収容されて以来初めての面会を許されました。クララは 8人の子供達の世話とともに残されていたので、末子はロベルトが保護施設に出発して 3ヶ月後に生まれました。クララは彼女が最善と考えたピアノに頼ることにしました。翌年、クララは家族を養うため、大変なスケジュールで演奏旅行をしました。
クララの初期の痛みは主として頭痛の形態をとっていましたが、後にもっと拡散した不快感を訴えるようになりました。彼女は 1857年、38歳の時に友人にあてて、「左腕がとても痛くなってしまったので、ひどい夜の後、翌朝のコンサートをキャンセルしないといけません。医学的な検査で、幾ばくかの過労や風邪によるリウマチ性の炎症だとわかりました。それは一週間続いていますが、今日は人生で経験したことがないくらい辛いです」。彼女はこの疼痛の増悪を記載し続けました。「突然、死ぬかと思うような激しい神経痛の発作がありました。6時間もの間、私は痛みに声をあげており、それはまるで真っ赤に焼けた鉄で骨が両腕、クビ、胸から引きちぎられるようでした」。クララはこの激しい痛みとの戦いの理由を述べてさえいました。「確実なのは、私が重篤な損害を被っていて、私の心の痛みは体の痛みほどに高度です」。
クララの腕の痛みは続いていましたが、彼女は演奏を続けました。1878年、彼女の親しい友人、ヨハネス・ブラームスとの手紙に、彼女は説明しました。「私はほとんど麻痺してるような状態です・・・私は腕にひどい神経痛があり、指も動かせません・・・これは 3週間も続き、最後はただただモルヒネが安静を与えてくれます」。しかしながら、これはクララがその時堪えていた唯一の痛みではありませんでした。「この身体の苦悩に、母というものが被る最もひどい心の痛みが加わっていた」。クララの末子 Felix が死亡したのです。彼女はすでに 5年前に娘の一人を埋葬し、息子の一人を残りの人生を過ごすことになる精神病院に入れていました。クララにとって、しばしば「肉体の痛み」に「心の痛み」が手を携えているようなものでした。クララは更なる悲劇を経験したのでした。息子の一人が死に、彼女は6人の子供の面倒をみることになりました。彼女の「肉体的痛み」は見たところ、もっとあちこちに広がって続きました。彼女は日記に「全体の神経痛 (neuralgia all over)」と書きました。1896年に、76歳の時、脳卒中からの合併症で死亡し、Clara Wieck Schumann の疼痛は終わりました。
クララ・シューマンが何らかの慢性疼痛を持っていたことは明白です。最初に、彼女の疼痛は主として片頭痛様の頭痛という形態をとっていました。後の彼女の疼痛の記載は、腕、胸部を含むか、もっと広範です。確かに、彼女の疼痛はストレスが増したときに最も悪いように見えます。30歳代から 40歳代の頭痛の既往がある女性が、生活に支障があるくらいの間欠的な腕の痛み、胸痛、全身痛を訴えています。もしクララが今日このような訴えで内科医を受診したら、線維筋痛症という診断がなされるのではないでしょうか?「全体の痛み」の訴えは、線維筋痛症に患者にはありふれたものです。倦怠感や不眠もクララや線維筋痛症の患者に共通する訴えです。彼女の腕の疼痛性の「リウマチ性炎症」は、線維筋痛症で時々経験される浮腫に合致します。線維筋痛症は今でも臨床家にとって謎ですが、クララの訴えとこの慢性疼痛症候群 (chronic pain syndrome) の患者の類似性をあれこれ考えるのは、興味深いものがあります。
他の診断は、それらしくないようです。彼女には「リウマチ性炎症」がありましたが、彼女が関節リウマチに罹患していたとは考えにくいでしょう。その疾患の大部分では、様々な箇所の疼痛がありますが、クララはピアニストで、ピアノを演奏し、長い手紙を書き、まさに死ぬ数ヶ月前まで長い散歩をしていました。関節リウマチでは、特に手に特徴的な変形が起こり、このような活動は不可能でしょう。30歳の女性が巨細胞性動脈炎に伴ったり伴わなかったりするリウマチ性多発筋痛症に罹患したということも普通ないでしょう。彼女の人生の最後の 3ヶ月、クララは徐々に進行する失語を呈する一連の脳卒中を起こし、最後には死亡しました。脳血管炎は脳梗塞の機序としてあり得ますが、脳血管の問題なしに 76歳まで生きたことを考えると、それもなさそうです。
論文の最後には、ラフマニノフとクララ・シューマンの疼痛のまとめがあり、そこを読むと「Did Clara Schumann have migraines or fibromyalgia? It seems likely that she suffered from both disorders.」とありますので、著者は、クララが片頭痛と線維筋痛症両方に罹患していたと考えているようです。
片頭痛については、私も同様の印象を持ちます。一次性頭痛(機能性頭痛)である片頭痛の特徴は
・若年発症が多い (遅くとも30歳までくらいに発症する)
・拍動性の頭痛である
・しばしば吐き気を伴う
・横にならなければいけないくらいひどく、体動で増悪する
・光過敏・音過敏・匂い過敏を伴う
・前兆を伴うことがある
・家族歴があることが多い
・「発作」と表現できる頭痛である
といったものがあり、クララはそれらのいくつかを満たしますし、他の頭痛を疑わせる病歴もありません。一応、二次性頭痛(器質性頭痛)を除外する必要がありますが、頭痛以外の症状もなかったようですし、器質性頭痛は否定的と思います。片頭痛の診断は間違いなさそうです。
その後に引き続いた上腕、胸部、全身の疼痛は、片頭痛では起こりえないので、別の疾患でしょう。著者らは線維筋痛症と診断しています。確かに、麻薬を使うほど痛がる割には、疼痛以外の症状がなく、死亡原因にもなっていません。クララ・シューマンの診断として線維筋痛症を否定する根拠は何もないように思います。線維筋痛症は原因不明の難病で、全身を痛がる特徴があります。なかなか薬が効きません。私も鎮痛剤、ステロイド、抗うつ薬、漢方薬、抗てんかん薬などを使用しても改善しない症例を外来で抱えています。この病気は、結局プラセボが一番効いたり、一切の検査で異常がなかったりして、多分に心因性の要素はありそうです。
著者の意見のみ紹介という訳にもいきませんので、私から見た鑑別診断を考えます。まず、疼痛の原因としての局在を考えてみましょう。脳の疾患はほぼ考えられません。なぜなら、両腕と胸部に限局した感覚分布を示す脳の局所病変がほとんどあり得ないからです。100歩譲ってそのような局所病変が存在したとしても、原因を指摘することができません。脳卒中であったとすれば、短期間に症状が完成する筈なのですが、彼女の疼痛は長い年月をかけて悪化しています。炎症性疾患や変性疾患では、このように限局した病巣にはなりません。
頚椎症は100%は否定できません。長い目でみると良いときと悪いときがあっても良いからです。しばしば自発痛を伴う点が合致するとは思うのですが、感覚線維を圧迫した頚椎症だとすると指先のしびれや感覚鈍麻などが無いのが合いませんし、運動線維を圧迫して筋痛を呈したのだとすれば、麻痺が無くてピアノが不自由なく弾けていたのが合いません。こう考えると、かなり否定的として良いと思います。
最後に残るのは末梢神経障害です。しかし、疼痛しか症状がないのは末梢神経障害としてはかなり稀です。通常、しびれ感や多少なりとも運動障害は訴えるからです。painful neuropathy は small fiber が傷害され、疼痛のみを呈することがありますが、painful neuropathy を含む末梢神経障害は通常遠位優位に起こります。腕が中心の痛みで、更に胸痛もあるとすればまず否定して良いでしょう。一方で、「腕神経叢ニューロパチー」、「胸郭出口症候群」は末梢神経でも近位部に障害を起こします。ただ、腕神経叢ニューロパチーは筋萎縮を伴ってきますし、長い年月かけて進行するものでもありません。また、「胸郭出口症候群」は胸郭から上腕に神経が出ていくところで圧迫を受ける疾患ですが、麻薬でなければ効かないような強い痛みに四六時中悩まされることはまずないでしょう。
その他、病態は良くわかっていないのですが、自律神経系の異常として反射性交感神経ジストロフィー (Reflex Sympathetic Dystrophy; RSD) も挙げておきます。これらも全身の疼痛を起こすことがあるからです。しかし、誘因となる外傷などのエピソードがなく、後年、骨萎縮などを伴ってきたとの記載もなく、やや否定的な印象を持ちます。
こう考えると、著者らの線維筋痛症は非常に説得力を持ってくるように思います。他の鑑別があれば、コメント頂ければ参考にさせて頂きます。