勝ち続ける力

By , 2009年6月15日 7:53 AM

「勝ち続ける力(羽生善治+柳瀬尚紀、新潮社)」を読み終えました。羽生善治と柳瀬尚紀氏の対談をまとめた本です。柳瀬氏は難解で知られるジョイスの翻訳で有名です。

最初の対談は「勝つために忘れる」という記憶についての対談です。羽生名人は、100人同時相手に対局し、相手がわざと 2手指したのを指摘するなど、将棋に関する記憶力には凄いものがあります。これまで対局した将棋の多くは暗記しているそうです。若い頃は、対局場の隣席で指している人の棋譜を覚えたこともあるのだとか。

こうした内容を読んで思い出したのは、天才といわれる人は作業記憶がとてつもなく発達していうのではないかと先代の教授と議論したことです。教授は「モーツァルトが教会で聴いた曲を家に帰って譜面に起こしたのは、作業記憶が如何に発達したかを示したものだ」とおっしゃいました。一方で、これまで作業記憶は short term memory (短期記憶) であると考えられてきましたが、モーツァルトの例などを見ると、必ずしも短いとは言えないことが最近議論されているようです。私が、羽生名人を例に挙げて「将棋指しが一回指した棋譜を覚えているのもそうですよね」なんていうと、教授も同意してくださいました。

一方で、羽生名人は、電話番号の何桁かが覚えられないときがあるといいます。将棋に関する記憶と、そうでない記憶は一概に同じとは言えないのだと実感しました。

次の対談は「将棋の手はマイナスばかり」でした。将棋の指し手は、開始からあるところまでプラスですが、どこかで飽和点に達します。そこから差す手はマイナスばかりです。どの手もマイナスだと、指し手を決断するのは非常に難しいことになります。その手が大きなマイナスかもしれないからです。その状況を打開していくことについて、後の対談で、羽生名人は「ですから、戦争がいいとは絶対に思えませんが、膠着した状況を著しく流動的に変えるために一番手っ取り早い方法として出てくるのは、感覚としてはよくわかります」と述べています。

この対談では、一語の重さ、一手の重さ、こだわりについても語られます。柳瀬氏はジョイスの「ユリシーズ」の中で、「quaker librarian」の新たな解釈を見つけました。これまではクエーカー教徒だとされていたのが、実際にはアルコール依存で「quake」している図書館長だったのです。そうすると quaker librarian の描写もしっくりきます。これは柳瀬氏が初めて気付いたことです。一語の訳を行うのも大変なことです。

最後の対談は、「紙一重を見切る方法」です。幅広い話題が語られるのですが、面白い逸話がありました。貿易摩擦の頃の話です。

 同年、ジョイスが生誕百年で、『ユリシーズ』のさまざまな原稿や文章を比較検討して収めているガブラー版がアメリカで出たばかり、平岩さん(※経団連会長の平岩外四)は原書を買っておられたんです。会議の席上で、アメリカの政財界人がいろいろ文句をつけるんですが、平岩さんがとうとう口を開いて「おたくの国は『ユリシーズ』のようないい本を出版しているのに、手に入れるのが困難です。アメリカは万事そういうふうに売ろうとする努力をしていないじゃないか」と指摘しました。すると、向こうの代表がみな黙ってしまったそうなんです。

このように、色々な逸話が出てきます。柳瀬氏はジョイスを通じて世の中を見ていますし、羽生名人は将棋を通じて見ています。両者とも、どれほどの内容が凝縮された一行/一手を追求できるかにこだわりを見せます。それが第一人者たる所以なのでしょう。

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