シリコンバレーから将棋を観る
「シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代将棋 (梅田望夫著、中央公論新社)」を読み終えました。
「ウェブ進化論」などで知られる梅田望夫氏による「将棋論」です。望田氏は羽生善治名人と知り合いらしく、随所に彼らの接点が出てきます。
望田氏が考える、「知のオープン化」という問題には考えさせられました。
例えば、望田氏が専門とする IT業界では、Googleが「世界中の情報を整理し尽くす」ことで、情報の量を質に転化させました。
奇しくも羽生名人が行っていたのもその作業で、1992年から「羽生の頭脳」シリーズを刊行しました。「羽生の頭脳」は羽生名人 20歳代前半にしてかかれた全 10巻の大作で、恐るべきことは、彼がタイトル 7冠争いをしながら書いていることです (しかもタイトル戦でも勝ちを積み重ねました)。昔は、こうした知識は秘伝のようなものとされていましたが、羽生名人は知っている知識を全て公開し、将棋界の発展に寄与しました。羽生名人の望んだように、現在では知識を共有しあう風潮が棋士達の中にあるように思います。
私の所属する医学の世界で考えてみても、Medlineや Pubmedといった論文検索ツールが充実するようになってから、「知のオープン化」は急速に進行したように思います。
こうした現在では、「創造性以外のものはすべて手に入る時代」と言われ、情報を得た先での大渋滞が起こっているとも言われています。
望田氏が本書で述べたもう一つ大事なことは、将棋好きにとって将棋が強くなければ「将棋が好き」と言いにくい風潮があり、これを打破したいという気持ちです。私もこの本を読んで、「将棋が好き」と胸を張って言えるようになりました。渡辺竜王の本から引用している部分を、紹介します。
第二章 佐藤康光の孤高の頭脳-棋聖戦観戦記
将棋の場合「難しいんでしょ」「専門的な知識がないと見てもわからないんでしょ」とスポーツに比べて敷居が高いと感じている方が多いように思います。確かに、将棋は難しいゲームです。しかし、それを楽しむのはちっとも難しくないのです。 (中略)
将棋を指すのは弱くとも、「観て楽しむ」ことは十分できます。例えばプロ野球を見る時。「今のは振っちゃダメなんだよー」とか、「それくらい捕れよ!」。サッカーを見る時。「そこじゃないよ!今、右サイドが空いていたじゃんか!」 (中略) 言いながら見ますよね。それと同じことを将棋でもやってもらいたいのです。「それくらい捕れよ!」と言いはしますが、実際に自分がやれと言われたら絶対できません。「しっかり決めろよ!」も同じで、自分では決められません。将棋もそんなふうに無責任に楽しんでほしい。 (『頭脳勝負』ちくま新書)
現在では、主要な棋戦の多くはインターネットで解説付きで見ることができます。将棋連盟のサイトからもリンクされてますので、是非色々な方に楽しんで欲しいです。
最後に、棋士の方達の素顔について触れてあるので、紹介することとします。私は以前「将棋バー」で楽しいひとときを過ごさせて頂きましたが、私が感じた印象も、まったく同じでした。
第四章 棋士の魅力-深浦康一の社会性
そんな世界で生きる棋士たちの素顔は、私の目にどんなふうにうつったか。
とにかくまず、おそろしく頭がいい。地頭の良さが抜群で、頭の回転が速く、記憶力もいいから、話が面白い。自信に満ちている。会話の中で、相手の真意を察する能力にも、びっくりするほど長けている。だから会話がスムーズに進んで心地よい。そして組織人とはまったく違う、そして技術者、芸術家、学者とも違う、不思議で素敵な日本文化を身体にまとっている。ときおり無頼の匂いがする。宵越しの金は持たぬという職人気質も見える。しかし礼儀正しく、若くても老成した雰囲気がふっと漂う瞬間がある。物事にたいしてすごくまじめで、何事も個がすべてだという感覚が当然のごとく人格にしみこんでいて、自分で物事をさっと決めてその責任を引き受ける潔さが、何気ない言葉の端々からうかがえる。時間的な制約にとらわれない生活をしているせいか、酒飲みが多く、遊ぶことにも貪欲だ。凝り性なのだろう、趣味や遊びに対しても、持ち前の記憶力で細部にこだわる風がある。そして、将棋や将棋界を愛する人たちを大切にする気持ちを彼らは心から持ち、将棋を通して人々と深くつながっていくことができる。棋士たちから私は、そんな印象を受けた。