死者の護民官1
「死者の護民官 (マイケル・ローズ著、難波紘二訳、西村書店)」を読み終えました。ホジキン病に名を残したトーマス・ホジキンの話です。原著のタイトルは「CURATOR OF THE DEAD」です。長いので、2回に分けます。
本書の序文によると、19世紀前半のイギリスは、グレーヴス (Robert James Graves, 1796~1853), ブライト (Richard Bright, 1789~1858), アジソン (Thomas Addison, 1793~1860), パーキンソン (James Parkionson, 1755~1824) など優れた医学者達を輩出しました。ブライト、アジソン、そして本書の主人公であるトーマス・ホジキン (Thomas Hodgkin, 1798~1866) はイギリスのガイ病院 (※世界で最初の民間総合病院としても知られます) を代表する医師達でした。しかし、トーマス・ホジキンの生涯は決して恵まれたものではありませんでした。
ホジキンは 1798年8月17日にジョン・ホジキンとエリザベス・ホジキンの間に生まれました。ジョンとエリザベスの間の最初の子供は 4歳で死に、二番目の子供は 6ヶ月で死にました。トーマス・ホジキンと弟のジョン・ホジキンは無事育ちました。父のジョン・ホジキンは習字と古典と数学の個人教授で、ロンドンの裕福な家庭の子女を教えていました。バークレー家で家庭教師をしていたこともあり、驚くことに、同じ頃「ヤングの干渉実験」で有名なトーマス・ヤングもここに滞在していたそうです。母のエリザベス・ホジキンも教養ある女性で、子供達にラテン語やフランス語を教えていました。ホジキン家はクエーカー教徒でした。
ホジキンを理解する上ではまず彼の博愛主義を避けて通る訳にはいきません。そして皮肉なことに、これがホジキンの不幸に繋がります。ホジキンの博愛主義には、彼が敬虔なクエーカー教徒であったことが影響していたようです。彼は若い頃からインディアン解放運動に加わり、多くの論文を書きました。そしてそれを有名な学者に送りつけたりもしていたのです。インディアンを通じて貿易で多大な利害を得ていた者達と折り合いが悪いのは当然でした。このことは後に彼のキャリアの終わりに関わってきます。
トーマス・ホジキンはエジンバラ大学の医学生として登録しましたが、その 5年後にエジンバラ大学に入学したのがチャールズ・ダーウィンでした。ダーウィンはエジンバラでの講義をかなり辛辣に批判していましたが、ホジキンも決して満足していた訳ではなく、23歳のときにパリに出向き、シャリテ病院とネッカー病院での講義に出席しました。そこで聴診器の発明者ルネ・レンネック (Rene T.H. Laennec) 教授の講義に感銘を受けました。ホジキンは後に英国医学にいち早くこの器具を導入しましたが、終生の友人となるストラウド (William Stroud) 医師は曲げられるフレキシブル聴診器を発明しました。
1825年12月22日にトーマス・ホジキンは王立内科医協会の有資格者になり、ロンドン市施療院の内科医の地位に応募し、受かりました。施療院は医者にかかれない貧しい病人を援助するものであり、往診もしていました。これらの施療院は任意の出資金に支えられていましたが、医師は名誉職であり、無給でした。ホジキンはこの現状に「だからして、この無償以上の、この高価なサービスを医師に期待するのは、羊肉が全部売れるという期待を持たせておいて、肉屋から毎日一塊の羊肉をただでもらおうとする様なもので、もはや無理なのである」と記しています。さらにこの制度には問題があり、医師の技術保証はなく、1826年までは医師免許がない候補者でも応募が出来たそうです。とはいえ、当時の医療水準ですから、院外患者への治療はしばしば黒ビール、ジン、モリソン丸薬に限られていたそうです。
ロンドン市施療院を辞職後、ホジキンはリチャード・ブライトらの推薦により、「アサイラム生命保険会社」の内科医になりました。これと平行して、ガイ病院医学校の病理解剖学講師および博物館館長となりました。
トーマス・ホジキンがガイ病院に転任してまもなく、トーマス・ウェイクリーが絡んだ奇妙な事件が起こりました。ウェイクリーは 1823年にランセット誌を創刊した人物です。ランセット誌の目的は、医学情報を大病院の独占から解放することと、大病院の人事におけるネポチズムを打破することでした。ウェイクリーはネポチズム溢れるガイ病院を攻撃し、ある策略を思いつきました。クーパー筋膜やクーパーヘルニアなどに名前を残したアストレー・クーパー卿がガイ病院を引退の際、甥のブランスビーに引き継がせようとしたとき、ブランスビー・クーパーの手術にスパイを送り込みました。結石除去の手術が失敗し患者が死亡した後、ホジキンが解剖を行いました。たまたまホジキンが席を外しているうちに、このスパイは立会人を呼び、膀胱から直腸に空いている孔を示しました。ブランスビーを失脚させようとした訳です。戻ったホジキンはスパイに「先生、自分で孔を開けましたね」と言い放ちました。ブランスビー・クーパーがウェイクリーを名誉毀損で告発し、勝利したときに、ホジキンは証人となっています。この事件の真相は闇ですが、ランセット誌創始者を巡る騒動にホジキンが絡んでいるという点で、非常に興味を引きます。
1837年に研究職を退くまでが、ホジキンの黄金期です。彼は 1821年、医学生時代に脾臓の機能について論文を書き、1823年の卒論は吸収の生理現象について書きました。1827年頃、ホジキンはロンドンのワイン商でクエーカー教徒のジョセフ・ジャクソン・リスター (Joseph Jackson Lister, 1786~1869) と共に著作を出版しました。リスターは色消し顕微鏡を開発し、通過白色光のスペクトル分解を最小限に留めることが出来たので、二人はこれを用いて色々な組織を調べたのです。ちなみに、クレゾールによる殺菌法を発明したかの有名な外科医ジョゼフ・リスター (Joseph Lister, 1827~1912) はこの息子です。更にホジキンは、1828年に子宮癌の中年女性の剖検例をランセット誌に報告し、外科手術により根治させる可能性を考察しました。ホジキンは、1829年には急性虫垂炎に伴う穿孔をランセット誌に報告しました。英国における虫垂炎の報告は 1812年にパーキンソン病に名を残したパーキンソン (James Parkinson) によってなされ、1829年においても報告の価値があるほど診断は難しかったそうです。同じく 1829年に、ホジキンは大動脈弁の反転に注目し、記載しました。大動脈弁閉鎖不全の報告は 1832年にコリガン (Dominic John Corrigan, Sir) によってなされ、コリガンが発見者とされますが、ホジキンの報告はそれに先行しています。
(続く)