死者の護民官2
さて、いよいよホジキン病の本題に入っていきます。1832年に「内科外科学会誌」がホジキンの論文「吸収腺および脾臓の病理所見について」を出版しました。ホジキン自らが経験した 6例と、パリのルゴールが診療した 1例を加えた計 7例の病理所見を纏めたものです。この疾患は、全身のリンパ節が腫脹する、結核とは別の病態でした。
1856年になって、サミュエル・ウィルクス (Samuel Wilks, Sir, 1824~1911) は「ガイ病院報告」に「ラード脂様病とその関連疾患」36例の報告を纏め、1865年に別の 60例を纏めました。ラード脂様病は今日ではアミロイドーシスと訳されます。ウィルクスの論文中には、ホジキンの論文同様脾臓の変化に合併したリンパ腫脹が含まれており、この発見はウィルクスの功績にされかかりました。しかし、後にホジキンの論文を知ったウィルクスは、先に報告していたホジキンの優先権に注意を向ける労を惜しみませんでした。ウィルクスの要望に基づき、このリンパ節の病的病態に「ホジキン病」という名前が与えられました。我々はホジキンの名を出すときに、ウィルクスの名前も忘れてはいけないと思います。
1926年になり、ホジキンが記載した 6例の患者の病理材料の顕微鏡的検索が行われました。ホジキンが固体組織の検査に顕微鏡を用いていなかったからです。なぜなら、当時は充分に薄い切片を作ることが困難であったので、ホジキンは顕微鏡の使用を体液の検索に留めていたのです (ホジキンはこの問題を解決しようと 1838年にテオドール・シュワンをベルリンに訪れましたが、まだ部分的にしか解決されていませんでした)。ガイ病院ゴードン博物館に保存されていたホジキンの標本から切片組織を作製して後の診断基準で調べたところ、3例がホジキン病であり、1例が結核症、1例が梅毒、1例が非ホジキンリンパ腫であることがわかりました。余談ですが、ホジキン病に特徴的なリード・スタインバーグ細胞を発見したのは、1898年のウィーンのカール・ステルンベルグと、1902年のバルチモアのドロシー・リード (メンデンホール夫人) です。ホジキンの論文、ウィルクスの論文、その組織を後に調べた論文の日本語訳が本書に収録されていますので、興味のある方は是非読んでみて下さい。
1837年、ジェームス・チョルメリー医師が死亡し、後任の内科医にトーマス・アジソンが選ばれました。アジソンは副腎不全による皮膚の黒化 (アジソン病) の他、悪性貧血などを記載した歴史的な医学者です。当時ガイ病院の常任臨床医師団は 4人の内科医と 4人の外科医から成り立っていました。アジソンが内科医に昇格して空いた準内科医の穴を埋める選挙が行われることになりました。当然のようにホジキンは立候補しました。しかし当時のガイ病院で大きな権力を持っていたのはベンジャミン・ハリソンでした。ハリソンはガイ病院の事務長をしており、医師、看護師、門番など院内の人事権を持っていました。さらに、ハリソンはガイ病院に膨大な金を貸しましたが、ついにそれを請求しなかったことで知られるなど、経営面でも大きな存在でした。一方、ハリソンはハドソン湾会社の最高評議会のメンバーでもあり、ホジキンの意見によればハドソン湾会社はインディアンから搾取している会社でした。インディアンの扱いを巡りホジキンとハリソンは衝突し、ハリソンは対抗馬としてバビントンを立てました。院内での権力の違いから、勝負は明らかでした。ホジキンは失意のうちにガイ病院を去りました。
バビントンと争う形になったとはいっても、バビントンとホジキンは互いに尊敬しあい、バビントンが開発した検査器具にホジキンは「Laryniscope (喉頭鏡)」という名前を提案しています。奇しくも二人の死亡記事はランセット誌の同じ号に掲載されました。
ガイ病院を辞めてほぼ 5年後、1942年にホジキンは聖トーマス病院の病理解剖博物館の館長に就任するように要請を受けました。彼は希望に満ちた講演を行いましたが、その 10ヶ月後に解雇されました。病院の管理者とぶつかったのが原因でした。とはいっても、ホジキンの性格に問題があったという訳ではなく、彼は柔和な印象を与える人であったようです。本書に1844年10月22日付の「パンチ」誌にホジキンについての記載があるので引用します。
「ホジキン博士による『イヌについて』という演説では、この有能の博士がありとあらゆる種類のイヌの吠え声を真似てみせ、またアフリカジャッカルに関する非常に学識の富んだ若干の考察を披露した。彼はまたふつうの咽でのうなり声の初期発達史を述べ、歯をむきだしにしたうなり声を一連の楽器を使って再現したが、これはあまり成功したとは言えない。各種のイヌのいろんな面相を真似た際には、本名誉会員は大変楽しんだ。博士は、『絵入りロンドン・ニュース』の博士の論文に挿絵として載っている、イヌの 9つの表情のすべてを演じてみせたが、どうも老イングリッシュ・ハウンド犬が彼には似つかわしいようである、この犬の自然な柔和さは見事に博士に適合している」
ホジキンは、その後ロンドン大学理事会の一員として、或いは様々な学会の会員として精力的な活動を続けました。人生の最後 10年間、彼は「ユダヤ教の法皇」モーゼ・モンテフィオーレ卿の旅にあちこち同行しました。中でも、聖地エルサレムには何度も同行しました。ホジキン最後の旅は 1866年のエルサレムへの旅でした。彼は途中で病を発症して、パレスチナ海岸から先、付いて行くことが困難となりました。モンテフィオーレはホジキンのために椅子駕籠 (タクテーラワン) を置いていくほど気をかけていましたが、ホジキンは1866年4月4日、ジャッファで死亡しました。モンテフィオーレはホジキンの埋葬地の上にオリベスクを建立するように手配しました。本書は「それ以来、彼の墓は忘れ去られ雑草の生い茂るままに、今日に至っている」と結ばれています。
医学史に詳しい先代の教授とホジキンの話で盛り上がったことがあります。教授の話では、彼の死のきっかけには信じられないような事実があったようです。ホジキンとモンテフィオーレの旅先でエビか何かの魚介類が出たことがあったそうです。モンテフィオーレはユダヤ教なのでそれを食べなかったのですが、ホジキンはクエーカー教徒なので教義で禁止はされておらず、それを食べたらホジキンだけコレラになってしまったとのことです。聞いた話なので真偽は確認出来ませんでしたが、異なった宗教を信じる二人の結末としてドラマのような話です。
最後にホジキンの恋愛に触れておきます。ホジキンは10歳代いとこのサラ・ゴドリーと恋に落ちました。二人の恋は冷めたり再燃したりを繰り返しながら 35年間続きました。
ホジキンはパリ留学時代にはサラ・ボーディク夫人と親密になりました。サラ・ボーディク夫人には夫がいましたが、アフリカ旅行で死亡し、夫人は未亡人になったのでした。サラ・ボーディク夫人は知的な女性で、夫の旅行記「故トーマス・ボーディクによるマディラ島の記載-最後のアフリカ旅行の口述」を完成させる程の才女でした。ホジキンはサラ・ボーディク夫人の人柄に惚れ、父親に結婚の相談もしていますが、彼女がクエーカー教徒ではないなどの理由で結婚することはありませんでした。ひょっとするとサラ・ゴドリーのことが引っかかっていたのではないかとも云われています (男性はなかなか踏ん切りがつけられない生き物ですからね (笑))。それでも、二人は永年友人として文通を続けました。
1836年にいとこのサラ・ゴドリーの夫が死ぬと、サラ・ゴドリーとホジキンは再び親密となりました。二人は結婚について話し合いましたが、クエーカー教ではいとこ婚を禁止していました。ホジキンは、「いとこ結婚禁止の規則について」という論文まで書いて、教会に要請を行いましたが、許可は下りませんでした。ホジキンはクエーカー教を捨ててサラ・ゴドリーと結婚するという道を選びませんでした。
トーマス・ホジキンは 1848年に、2人の成人した息子のある寡婦サラ・フランシス・スケィフィと結婚しました。トーマスにとって結局生涯 3人目のサラが、彼の妻となりました。このサラはトーマスのほぼ倍の体重がある女性で、周囲の非難を押し切ってクエーカー教に改宗しました。「サラ・フランシスは知的素養にあまり恵まれた女ではなく、この面では夫の助けにならなかったが、家政に関しては立派な主婦であった」とあります。二人はロンドンのベッドフォード・スクエア 35番地に移転しましたが、この家の前の住人は、例のランセット誌の創始者、ホジキンが証言台にも立った裁判の相手、トーマス・ウェイクリーでした。