ペニシリンはクシャミが生んだ大発見
「ペニシリンはクシャミが生んだ大発見 (百島祐貴著、平凡社)」を読み終えました。百島先生は神経放射線を専門としており、私も学生時代、教科書を読んだことがあります。まさか医史学に精通された方とは知りませんでした。
本書は非常に読みやすく書かれていますが、医学の広い分野を扱っており、私が知らなかったことばかり。楽しませて頂きました。備忘録をかねて、特に面白かった部分を抜粋して紹介します。ここに記したのは極一部ですので、興味を持った方は是非本書を買って読んでみてください。
・世界で初めて温度計を発明したのはガリレオ・ガリレイだが、体温測定するという発想はなかったらしい。1609年にパドヴァ大学のサントリオ・サントリオが球状の部分を口で銜えると管内の空気が膨張して水面が下降し、変化を目盛りで読み取るという原理で世界初の体温計を開発した。サントリオは様々なものを計測した人物で、食前食後の体重や排泄物を測定し、排泄量が摂取量より少ないことを知り、この差を「不感蒸泄」と命名した。温度目盛りの基準を最初に提唱したのはファーレンハイトで、1724年にガラス管の中に液体を封入したアルコール温度計や水銀温度計を作製し、寒剤を使って得られた最も低い温度を 0度、自分の体温を 96度とした華氏目盛り (F°) を作った。1742年にスウェーデンのセルシウスが水の氷点を 0度、沸点を 100度とする摂氏目盛り (℃) を定めたが、診断に体温測定が利用されるようになったのは、さらに 1世紀後であった。 <何でも測らないと気がすまない男>
・体温を臨床に用いたのはドイツのカール・ヴンダーリッヒで、2万 5千人の患者に延べ 100万回以上の体温測定を行い、1866年に出版した「諸疾患における体温の変化」で健康人の体温はほぼ一定であること、正常値は 36.3~37.5℃であることを記載し、また 32の熱型を分類した。セガンはヴンダーリッヒの著書を英訳し、バイタルサインという言葉を提唱した。<何でも測らないと気がすまない男>
・脈拍を初めて数えたのは、紀元前 300年頃のギリシャの医学者ヘロフィロスといわれており、彼は演説の時間を計るための器具「クレプシドラ(水瓶の底に小さな穴を開け、水がなくなるまでの時間を計る)」を用いて脈拍を測定した。同時代のエラシストラトスは、病に伏したアンティオクス王子を診察し、美女ストラトニケが姿を現すと王子の脈が速くなることに気付き、恋を成就させて治療した。<秘めた恋を脈で診断>
・脈拍を初めて本格的に測定したのは前述のサントリオ・サントリオで、振り子を用いた。ちなみに、彼が教授を務めた当時のパドア大学の学生にはガリレオ・ガリレイがいた。現在のように一分間の脈拍を測定する方法は、1670年頃のイギリスの医師ジョン・フロイヤーが始めた。フロイヤーは喘息を初めて記載した人物でもある。<秘めた恋を脈で診断>
・1675年、レーヴェンフックは樽に溜まった雨水を見ていて、見たこともない微小な生物が無数にうごめいているのを見つけた。これは人類が目にした初めての微生物であり、彼は微小動物 (animacule) と名付けた。彼の本職は織物商であり、研究は趣味だったので、面白そうなものを手当たり次第観察した。人の垢、シラミの卵管、ハエの脳、ビーバーの毛などのようなものの他に、ヒトの赤血球を初めて観察し、直径をほぼ正確に記載した。また、精液の中に無数の動く「微生物」を発見した (←「微生物」・・・って間違えていないけれど、それは多分、精子ですねw)。そして、歯垢の中に無数の微生物を見いだし、歯磨きの後でも自分の口の中にはオランダの全人口より多くの微生物がいると書き、歯を磨く方が良いと提案した。<若旦那の趣味が昂じて>
・結核が結核菌の感染であることを証明したのが細菌学の父、ロベルト・コッホである。コッホはゲッチンゲン大学医学部で学んだ。彼は毎日 500グラムのバターを自ら食べて尿の成分に及ぼす影響を調べ、体調を損なったが、これは卒業論文になった。研究者を志したものの、恋人が開業を結婚の条件にしたため、故郷で開業医となった。1871年、コッホの 28歳の誕生日に、妻のエミーが「誕生日プレゼントは顕微鏡 (当時はツァイス社の製造が始まったばかりで高価であった) が良いか、馬車 (往診が楽になる) が良いか」と尋ねたので、コッホは顕微鏡を選んだ。この選択が医学史を変えた。<細菌学の巨人の大失策>
・1890年、コッホはベルリンで開催された第 104回国際医学学会の席上で、動物実験で結核の発育を抑える物質を発見したと発表し、この物質は後に「ツベルクリン」と命名された。しかし、加熱殺菌した結核菌を粉砕してグリセリン溶液に混ぜた物質であるツベルクリンに治療効果はなく、コッホの発表は誤りであった。この事実を誰より早く喝破したのが、「シャーロック・ホームズ」の生みの親、若干 30歳の開業医コナン・ドイルであった。コッホは妻エミーとの不仲、再婚することとなるヘトヴィッヒとの恋愛問題があり、焦っていたことが勇み足の発表の理由の一つと推測されている。<細菌学の巨人の大失策>
・色覚異常を最初に科学的に報告したのは、「原子説」でお馴染みのドルトンで、彼は花を見ているときに自分の色覚が他人と違うことに気付いた。1794年に論文に「自分の色覚異常は硝子体が青く着色しているためである」との推測を記し、死後の解剖を遺言した。1955年にドルトンの眼球の DNA鑑定が行われ、典型的な二型二色覚 (いわゆる赤緑色盲) であることが証明された。<見えない色を求めた仁医>
・CT開発の父、ハウンズフィールドは空軍のレーダー部隊に居たが、第二次大戦後に上官の奨めで EMI社に入った。彼は CT装置をほぼ一人で開発したが、休暇もとらず朝から夜まで熱心に打ち込んでいた。上司が休暇命令を出しても彼は休みを取らず、守衛に命じて研究室に施錠し、やっと休みを取らせることが出来たらしい。初めて彼が CTで撮像したのは食肉工場から調達した牛の脳で、撮影に 9時間、コンピューターでの分析に 1週間かかり、しかも得られた画像は不鮮明であった。しかし彼は改良を重ねれば臨床医学にインパクトを与える装置になると確信し、研究を続けた。医療機器の開発が初めてであった EMI社が、莫大な費用を投じて CTの開発にこぎ着けられたのは、ビートルズのヒットのおかげで潤沢な資金を持っていたからだったといわれている。1971年に初めて病院で CT画像が撮像され、(病院に解析用コンピューターがなかったので)解析用の磁気テープが EMI社に運ばれたとき、そこには左前頭葉の腫瘍が見事に映っていた。<ビートルズが支えた最新技術>
・日本での江戸時代の西洋医学といえばオランダ医学であったが、シーボルト以降日本にドイツ医学が浸透した。明治以降、大学を中心とする研究に主眼を置くドイツ医学と、病院での臨床を重視するイギリス医学のどちらを導入するか選択を迫られた。戊辰戦争でのイギリス人医師ウイリスの活躍をみた福沢諭吉は「医学の範をドイツに採るがごときは人の子を毒する」としてイギリス医学を推奨したが、岩佐純、相良知安という二人の医官の進言で、明治政府はドイツ医学を導入した。<医学マメ知識:明治期以降の日本の医学>
・1920年代、多くの細菌学者が細菌感染症の治療薬を求めて研究していた。その一人、ハワード・フロリーは大腸菌が他の細菌を抑制する抗生現象に注目していた。彼は過去の論文を読んでいるうちに、ロンドンのセントメアリー病院の細菌学者アレクサンダー・フレミングの研究に行き当たった。フレミングは細菌の培養実験中にクシャミをしてしまい、鼻汁がシャーレの培地に飛散してしまった。ところがその周囲だけ細菌が増殖していないことに気付き、鼻汁、涙、唾液などに広く存在する酵素の働きであることを突き止めた。そして、1922年にリゾチームと命名して発表したが、全く注目を集めなかった。1935年にオックスフォード大学病理学教授となったフロリーは、ナチスから逃れてきた化学者エルンスト・チェインとともに、フレミングの論文をもとに研究を続け、リゾチームを分離した。彼らはリゾチームが細胞壁を破壊することも突き止めたが、ヒトの病原菌には効能が薄かった。フロリーは更に抗生現象を調べ、またしてもフレミングの論文に出会った。1928年フレミングは細菌培養に使ったシャーレを流しに放置したまま、旅行に出掛けた。休暇から戻ると、消毒液からはみ出したシャーレにカビが生えていたが、カビの周囲だけにはブドウ球菌が生えていなかった。フレミングはこのカビがペニシウム族というありふれた青カビの一種であることをつきとめ、カビが作る未知の物質を「ペニシリン」と命名した。フロリーとチェインはペニシリンを分離、精製することに成功し、1940年 5月 25日、致死量の連鎖球菌を感染させたマウスにペニシリンを投与したところ、投与しなかったマウスは 4匹全て死亡したが、投与したマウスは 4匹中 3匹が回復した。1941年臨床実験が開始されたが、最初の数例はペニシリンの量不足で失敗した。しかし、その後 10症例の細菌感染症でペニシリンは劇的な効果を証明した。ペニシリンの開発には、このようにフレミング、フロリー、チェイン 3人の活躍が必要で、3人がノーベル生理学医学賞を受賞した。<クシャミが生んだ大発見>
・科学の立場から人間の性を初めてクローズアップしたのはフロイトであったが、性の扱いは人間の心理・行動を説明するための手だてであり、性行動そのものを分析したわけではなかった。人間の性行動を初めて科学的に研究したのはアルフレッド・キンゼイで、彼はタマバチというハチの研究の中で、ハチの生殖行動を研究し、それが発展して人間の性行動に興味を持った。彼は多くの標本を観察するという生物学の手法に基づき、1万人以上の男女に面接調査をして、統計処理をした。成人男性の 92%, 女性の 62%が自慰をしている・・・などが彼の分析の例としてあげられる。彼は 1948年及び 1953年に「人間男性の性行動」「人間女性の性行動」 (いわゆるキンゼイ・レポート) を発表した。キンゼイの報告は文字と統計で埋め尽くされた専門書であったが、「風とともに去りぬ」以来と評されるくらいのベストセラーとなった。同じ頃、ワシントン大学の産婦人科医ウィリアムズ・マスターズは、ホルモン補充による性機能障害の治療を研究する過程で、人間の性行為に関する生理学的データが欠如していることを痛感していた。彼はボランティアの男女カップルに面接すると同時に、彼らの性行動を仔細に観察した。マスターズはこの研究に女性研究者も必要であることを感じ、ヴァージニア・ジョンソンを招いたが、後に二人は夫婦となった。マスターズとジョンソンの二人はグリーン・ルームといわれる個室に 18~89歳の 312人の男性、382人の女性を招き、通算 1万回に及ぶ彼らの性行為、自慰行為を映画に記録すると同時に、心電図、膣の圧力計を使ってデータを収集した。またカメラが内蔵された透明なプラスチック製の器具を開発し、女性の性的興奮に伴う膣内の様子を記録することにも成功した。そして 1966年に「人間の性反応」として発表した。分厚い専門書であったが、キンゼイの著書を上回る売れ行きを示した。現在の性科学の知識の大部分はここに書かれたことが土台となっている。例えば性交における身体反応は興奮期-平坦期-絶頂期-消退期の 4相からなり、男性には不応期があるが、女性は複数の絶頂期を経験しうる、膣刺激と陰核刺激で女性の身体反応は本質的に同じであること・・・などの知見がある。<一万回のセックスを観察>