モーツァルトを「造った」男 ケッヘルと同時代のウィーン
「モーツァルトを『造った』男 ケッヘルと同時代のウィーン (小宮正安著、講談社現代新書)」を読み終えました。モーツァルトを「造った」という表現がタイトルにありますが、モーツァルトが生きた時代にはモーツァルトよりハイドンの方が有名であり、モーツァルトは様々な政治的な要因があり、後世ウィーンの音楽の象徴となった訳です。もちろん音楽自体のすばらしさは言うまでもありませんが、ケッヘルがモーツァルトの楽譜を集め、散逸を防ぎ、ほとんどの作品を網羅した目録を作り上げていなければ、今日ここまでモーツァルトの楽曲は耳に出来なかったかもしれません。モーツァルトがいかにして今日の姿に造られたかは、是非本書を読んで頂ければと思います。
音楽の勉強をしていると、「時代背景を勉強しなさい」と言われますが、本書を読んでモーツァルトやケッヘルの置かれた時代の流れがとても勉強になりました。特にウィーン旅行を考えている方には、是非読んで頂きたい一冊です。
以下、備忘録。
・ハプスブルク帝国が精神的中枢として担ってきた「神聖ローマ帝国」がナポレオンの圧迫により解体されたため、神聖ローマ皇帝フランツ二世はオーストリア帝国皇帝フランツ一世として即位しなおした。フランス軍の度重なる侵攻の中、ハプスブルク帝国は宰相メッテルニヒが権力を握り、秘密警察、検閲制度などで民衆からの自由を奪った。自由を奪われた民衆は、政治的なことに関心を持つのをやめ、住まいに引きこもり、調度品を整え、家族や友人が快適に過ごせる生活様式を整えていった。これがビーダーマイアーと呼ばれる文化であり、ケッヘルが過ごした時代だった。
・ビーダーマイアーは、ビーダーマンとブンメルマイアーという架空の人物から採られた名前である。ビーダーマイアー興隆の時代、「ディレッタント」と呼ばれる人々がいた。金のためではなく、みずからの純粋な興味や愛ゆえに芸術や学問に情熱を注ぐ高貴な精神の持ち主、という意味合いである。ケッヘルもこうしたディレッタントの一人だった。
・ウィーン楽友協会の設立時のメンバーも、多くがディレッタント達だった。つまり純粋に音楽を楽しもうとする思いに支えられた組織で、本来の名称は「音楽愛好協会 (ゲゼルシャフト・デア・ムジークフロインデ)」だった。ケッヘルは、後年副総裁の地位を務めた。
・ケッヘルは鉱石や植物の収集を好んでいた。彼は鉱物学にける「モース硬度」の発案者モースの講義を聴きに行ったことがある。植物学では、ケッヘルは「ケッヘレア・ミティス」「ブプレウム・ケッヘリ」「レゼーダ・アフィニス・ケッヘル」「ヴェルバスクム・リラティフォリウム・ケッヘル」に名を残した (いずれも命名者は別人)。晩年に、ケッヘルは自身のコレクションをクレムスのギムナジウムに寄贈した。
・ケッヘルは鉱石を集めるときに用いた手法を使って、モーツァルトの楽曲を整理していった。それはカードを用いたものだった。カードに曲の情報を記載し、これらを並び替えることで、ジャンル別、年代別の整理が可能となった。また、カードは五線紙がフォーマットとされ、楽曲の一部が書き込まれた。この手法を用いたことにより、初めて充実したモーツァルトの作品目録が作られた。
・ケッヘルが家庭教師をしていたクレイル邸はサロンとなっていて、シューベルトも出入りしていた。ケッヘルはその後、カール大公家の家庭教師をしていた。
・ケッヘルは貴族に叙せられた時、自分の紋章にラデツキーの紋章を一部取り入れた。ラデツキーはナポレオンと戦闘を交えたりしたハプスブルク帝国の大軍人で、ヨハン・シュトラウス一世の「ラデツキー行進曲」に名を残している。
・1842年、ザルツブルクでモーツァルトの銅像の除幕式が行われ、モーツァルトの二人の息子、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーも列席した。クサーヴァーは音楽家となっていて、父の作品から編曲して祝典合唱曲を披露したり、父のピアノ協奏曲の独奏を行った。
・不況、民族運動、フランスでの革命などの原因によりウィーンでも革命が起こり、1848年にメッテルニヒはイギリスに亡命した。最終的に革命は収まったが、フェルディナント皇帝は退位し、甥のフランツ・ヨーゼフが即位した。フランツ・ヨーゼフは新絶対主義を掲げた。この際、帝国の誇る作曲家であるモーツァルトを公に讃えようとする姿勢が打ち出された。モーツァルトは「バロックから近代にいたる帝国の音楽的伝統のあいだをつなぎ」「オーストリアの人間」という意味で、帝国にとって理想的な人間だった。
・フランツ・ヨーゼフの時代にウィーンでは都市改造が行われ、中世以来の市壁があった場所に環状道路(リンク)が造られた。巨大なもの、豪華なものへの志向が盛んになり、ビーダーマイヤー時代にもてはやされた慎ましやかさや小さなものへの愛情は失われていった。
・フランツ・ヨーゼフが皇帝をしていた時代、ハプスブルク帝国の次期皇帝フェルディナントがサライェヴォで暗殺された。ハプスブルク帝国はセビリアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった。このさなかの 1916年にフランツ・ヨーゼフは 86歳で死去。親戚のカールが皇帝となった。この後、ハプスブルク帝国は敗戦し、帝国は崩壊した。オーストリアはオーストリア共和国として再出発した後、「音楽国家」としての地位を確立した。観光業界との関連で、ポピュラーなイメージのある「肩の凝らない」作曲家モーツァルトはもてはやされた。そして「ちょっと高級」な雰囲気を出すために、ケッヘル番号が振られた。
・ケッヘルはディレッタントであったため、いわゆる専門家の仕事ではないとして、アルベルト・アインシュタインの親戚であるアルフレート・アインシュタインがその仕事を酷評した。しかし、モーツァルトの全作品は 626曲であるとしたケッヘルの考え方は覆せない力を持ち、どの作品目録でもレクイエムは 626番であり続けている。
・増加した市民の住居の確保と公衆衛生に配慮し、1874年ウィーン郊外に中央墓地が開園した。しかし、交通の便が悪い、ユダヤ人用の墓地が造られるなど人気が低かったため、人気挽回のため園内に名誉墓所が造られた。名誉墓所にはベートーヴェンやシューベルトなどが移された。ケッヘルも中央墓地に眠っている (名誉墓所ではない)。
・ケッヘルの葬儀はウィーンのアウグスティーナ協会で行われた。追悼式ではモーツァルトの「レクイエム」が演奏された。
・ベートーヴェンの次の時代、リストやワーグナーといった新ドイツ派、ブラームスなどのアンチ新ドイツ派が対立していた。両者ともベートーヴェンを崇拝しており、アンチ新ドイツ派は差別化を図るためモーツァルトを崇める姿勢を見せた。
・ブラームスとケッヘルには交流があり、ケッヘルの死まで続いた。
・ケッヘルのモーツァルト作品目録は、ブライトコプフ社から出版された。ブライトコプフ社は、様々な作曲家の作品目録、楽譜を販売しており、ケッヘルの目録は楽譜を販売する上で大きな価値があった。