不死細胞ヒーラ
「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックス」の永遠なる人生 (レベッカ・スクルート著、中里京子訳、講談社)」を読み終えました。
我々、基礎医学系の研究を行う者は、しばしば培養細胞を扱います。世界初の “不死化” ヒト培養細胞株が HeLa細胞で、私も顕微鏡を介して週に何度かその顔を見ます。しかし、HeLa細胞が誰に由来する細胞か、知っている人は世の中でどのくらいいるでしょうか?
HeLa細胞は、最も扱いやすい培養細胞の一つとして、多くの実験で使われ、数え切れないくらいのことを明らかにしてきました。ヒトの染色体が 46本であることを明らかにしたのもそうですし、遺伝子マッピング、癌のメカニズムにおける研究、薬剤の効果や毒性に対する研究、ウイルスの増幅メカニズムや治療薬についての研究・・・枚挙に暇がありません。
本書の半分は細胞の持ち主であったヘンリエッタ・ラックスの生涯について扱い、もう半分は医療倫理、例えばインフォームド・コンセントについてや、患者組織や遺伝情報が誰のものか、などを問題提起しています。その過程で、ヘンリエッタの家族達が、HeLa細胞の存在をどう受け入れていくかにも、大きな光が当てられています。ヘンリエッタの生涯については良質のドキュメンタリーとしてどなたでも興味を持って読むことが出来ますし、残り半分は科学者のみならず一般の方も考えておいた方がよいことだと思います (特に後者は、あとがきで非常に深く議論されています)。
なかなかボリュームのある本でしたが、随所に覚えておきたい記述があったので、自分への備忘録として、いくつかメモを残しておきます。
・ヘンリエッタ・ラックスについて
ジョンズ・ホプキンスを受診した際のヘンリエッタ・ラックスの診療記録
学校教育は六年次あるいは七年次まで。主婦。五人の子供の母親。再発性咽喉感染症と鼻中隔彎曲症のため小児期より呼吸困難をきたす。医師が外科的修復を勧めるも、患者は辞退。五年近くにわたり一本の歯の痛みを訴えていたが、最終的に他の数本とともに抜歯。唯一の心配は、癲癇患者で言葉が不自由な長女のこと。家庭生活は円満。飲酒はほとんどしない。旅行歴はほとんどなし。栄養状態は良好で協力的。患者は、十人兄弟姉妹のひとりだが、そのうち三人は、それぞれ自動車事故、リウマチ性心疾患、食中毒で死亡している。直近の二回の妊娠中に、原因不明の膣出血と血尿をきたす。医師が鎌状赤血球形成試験を勧めるも、患者は辞退。十五歳より現在の夫と暮らす。性交は好まない。無症候性神経梅毒を有するものの、患者は、不都合な症状はないとして梅毒治療をキャンセル。今回の来院の二ヶ月前、五人目の子供の出産後に有意な血尿をきたす。検査の結果、子宮頸部に細胞活動が増加した部位の存在が示唆される。医師は確定診断を勧め、感染症または癌の疑いを排除するため専門医を紹介したが、患者は予約をキャンセル。今回の来院の一ヶ月前、淋病検査の陽性結果が出て再来院通知を送ったものの、返答なし。
1920年 8月 1日に貧しい黒人の家に生まれたヘンリエッタは 4歳のときに母を亡くし、祖父に育てられた。1951年 2月 5日、子宮頸癌と診断され、治療の甲斐なく 同年10月 4日午前 0時 15分に永眠した。しかし、ラジウム管を子宮に挿入する治療の際、彼女に無断で採取された細胞は、同じ試みが行われた他の患者の細胞とは異なり培養皿の中で生き続けた。そして、Henrietta Lacksのそれぞれ 2文字をとって、HeLaと名づけられた。
・ヘンリエッタ・ラックスから同意なく子宮癌の細胞を採取した、ジョンズ・ホプキンス病院の医師ガイは、晩年に膵臓癌を指摘された。彼は HeLa細胞のように自分の癌細胞を生かしたいと願い、手術時に腫瘍細胞の採取を依頼。しかし癌はあちこちに転移しており、執刀医は腫瘍にメスを入れることなく閉腹。このことを知ったガイは激怒した。ガイは様々な治験に志願するも、1970年11月8日に死亡した。
・ヒポクラテスの誓いは患者の同意を求めていない。アメリカで最初に人体実験を規制したのは、1947年、ナチスの人体実験を機に作られたニュルンベルク綱領という十項目の倫理規範。しかし「推奨事項のリスト」であり、更にナチスなど “ならず者” のための綱領であってアメリカ人には適応されないと勘違いしているものもいた。
・アメリカでは、19世紀末から人体実験を規制する法律を導入しようと努めていたが、いつも潰されていた。のちにナチスドイツの一部となるプロイセン王国では、 1891年という早い時点から施行されていた。アメリカで大きな転機を見せたのは、サザムによる人体実験に際してである。
・アメリカでサザムが行った人体実験について
1954年、サザムは生理食塩水に混ぜた HeLa細胞を白血病患者に注射する実験を患者の同意なく行った。患者には「免疫系の検査」と告げた。多くは自然に消失したが、十数名のうち四名は切除後も腫瘍結節が再発を繰り返した。一名はリンパ節転移した。
1956年、サザムはボランティアを募集し、受刑者に注射する実験を行った (当時は受刑者に、化学兵器の効果を確かめる実験や、睾丸に X線を当てて精子数の変化を調べる実験などが行われていた) が、健常な免疫を有した被験者達は癌を撃退し、サザムは癌ワクチンの可能性を発表した。
1963年、サザムはユダヤ慢性疾患病院で、癌細胞を 22名の患者に注射することで、院長のマンデルと合意。マンデルが部下に注射するよう指示したとき、3人の若いユダヤ人医師は拒否したので、マンデルは研修医に注射させた。3人のユダヤ人医師は、病院に辞表を提出し、新聞記者にも辞表を公開した。病院の理事ハイマンはサザムの研究に関する医療記録の開示を請求して病院に訴訟を起こした。
1965年、サザムは一年間の謹慎処分となったが、それが終了するやいなや、米国癌研究学会の会長に選出された。しかし国立衛生研究所 (NIH) はこの件を重く見て、「ヒトを対象とした研究に対して助成金を申請する際は、詳細なインフォームド・コンセントを得ているなど、NIHの倫理規定に準拠していることを確実にするために、倫理委員会 –さまざまな人種、階級、経歴を持つ一般の人々と専門家からなる独立機関- の承認を受ける必要がある」と定めた。
1966年、New England Journal of Medicineは、サザムの研究は数百例の似たような非倫理的研究のほんの一例にすぎないとする論文を掲載した。
・インフォームド・コンセントという用語が最初に裁判所の文書に記載されたのは、1957年、マーティン・サルゴという患者が、全身麻酔で下半身の麻痺が残ったときの裁判。判決は「医師は、提案する治療法に対して患者が知的な同意を形成するために必要な事実をすべて告げなかった場合、患者に対する義務に違反したとみなされ、その責任を問われる」。
・ジョンズ・ホプキンス病院はジョンズ・ホプキンスの遺志により設立された。ジョンズ・ホプキンスの父は、奴隷解放宣言が公布される 60年前に自分の農園の奴隷を解放していた。ホプキンスは銀行家として巨万の富を築いたが、独身で子供がいなかったため、死期が迫った 1878年、医科大学と慈善病院を建てるための費用として 700万ドルを寄附した。自ら選んだ 12名の評議員への手紙には「市内およびその周辺に居住する窮乏した病人で、外科・内科治療を必要とし、他の患者に害を及ぼすことなく当病院に受け入れることができる者、および、市内および州内の貧困者で何らかの障害を被ったあらゆる人種の者は、その性別、年齢、肌の色を問わず、当病院に無償で受け入れるものとする」と記した。治療費を課す唯一の患者は、費用が容易にまかなえる者に限定するよう明記した。
・HeLa細胞は増殖能が高く、あちこちの研究室で contaminationを引き起こし、HeLa爆弾と呼ばれた。発表された培養細胞の多くが、実は contaminateした HeLa細胞であることが明らかになったとき、世界中がパニックになった。HeLa細胞が何故無限に分裂を続けられるかの研究で、テロメラーゼによりテロメアを再生し、ヘイフリック限界 (規定された分裂回数) を超えることがわかった。
・生物由来物質が特許の対象になることが初めて認められたのは、アナンダ・モハン・チャクラバーディが遺伝子工学で作り出した石油を消化分解するバクテリアで特許を申請した件。当初「生きているバクテリアは発明とは見なさない」とされたが、チャクラバーディは「普通のバクテリアは石油を分解しないので、自然から生じたものではない。 “人間の創意工夫の才” を駆使して作り上げたものだ」と主張。最高裁判所は彼の訴えを認めた。この結果、遺伝子組換え動物や細胞株などについても特許を申請できる可能性が生じた。
・1970年代の初頭に、治療の輸血でB型肝炎ウイルスに曝され、B型肝炎ウイルス抗体が血液から高濃度で検出されるようになった血友病患者スレヴィンは、自分の B型肝炎ウイルス抗体を $10/ml, 1回につき 500 mlまで売り始めた。一方で、ノーベル賞を受賞したウイルス学者バルーク・ブランバーグ (スレヴィンの抗体を検出することになった検査法を開発) に手紙を書き、研究のために自分の血液を無制限に使用する許可を提供すると申し出た。スレヴィンの血清のおかげで、ブランバーグは B型肝炎と肝臓癌の因果関係を突き止め、世界初の B型肝炎ワクチンを作り出して、何百万人もの命を救うことになった。
・1976年、ジョン・ムーアは有毛細胞性白血病のためカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) で脾臓摘出した。UCLAはムーアの脾臓を 350万ドル以上で売却する契約をあるバイオ企業とかわしていた。ムーアは HTLVに感染していたため、彼由来の Mo細胞は、莫大な価値があった。このことを知ったムーアは、摘出した脾臓の所有権を主張して裁判で争ったが、敗訴した。
・ヘンリエッタの存在はほとんど表に出ることはなかったが、全米癌研究財団は 2001年の会議をヘンリエッタの名誉に捧げることにした。9月13日には世界の癌研究のトップがワシントン D.C.に参集して発表を行う予定、ヘンリエッタの娘デボラも招かれ、スピーチを依頼された。しかし、それは 9月11日のテロで中止となってしまった。
・ヘンリエッタの子供達の言葉
デボラ「母さんの話は人種差別がテーマじゃない。この話には二つの面がある。それを引き出したいんだよ。もしも研究者をとっちめたいって話にしてしまったら、母さんの真実の話を伝えられない。この話は、医者たちを罰したり、病院を中傷するためのものじゃないんだ。そんなことにしたくはないんだよ」
ローレンス「おふくろは世界でいちばん重要な人物なのに、おれたち家族はこんなに貧しいんだからな。もしおれたちの母親がそれほど科学に重要なことをしたんなら、なんでおれたちには健康保険がないんだ?」
(P.S.)
奇しくも、今日はガイの命日ですね。ガイとヘンリエッタは、天国でどんな会話をしているのでしょうか?