ヘルツ
電気の周波数の単位が「ヘルツ」ということは誰しもが知っていることです。しかし、ヘルツがどのような人物であったか知っている人はあまりいないのではないでしょうか?
「ヘルツの生涯 (山崎岐男著、考古堂)」を読み終えました。本の最初は、電磁気の歴史、真空放電の歴史にかなりのページを割いています。興味のある方には読むことを勧めます。内容を一部紹介します。
紀元前600年には、琥珀を摩擦すると羽毛とか紙が引きつけられることが知られており、ギリシャで琥珀を意味する「electron」という言葉が生まれたそうです。中国でも紀元前3世紀の「呂氏春秋」にも「磁石は鉄を呼び引き寄せる」と記載されているそうですから、現象としては相当古くから知られていたようです。
磁気現象と電気現象と区別したのは16世紀のルダーノですが、それを引き継ぎ、電気的引力の説明をしたのがエリザベス一世の侍医 William Gilbertだそうです。何より、大きな発見は、1729年に Grayが電気が流電することを発見し、導体と不導体を区別したことでしょう。1745年に Muschenbruckは蓄電器を発明しました。この頃から、電気によって火花を起こす興行が盛んになり、フランクリンはこのような実験をみて、雷と電気放電の類似性を考え、避雷針を発明したそうです。その後、Poisson (ポアソン) や Coulomb (クーロン) らによって磁気や電気の研究が進められました。1820年頃、Ampere (アンペール) は右ねじの法則を発見し、更に2つの導線についての研究を進めました。彼は電流計の基礎となる原理も発見し、電流の単位にアンペアと名付けられるようになりました。その他、Ohm(オーム)や、Faradayらにより、磁気と電気の関係の研究が進められました。Maxwellは磁場の研究に多大な貢献をしました。
一方、ガリレイの秘書 Torricelliは1643年に空気に重さがあることを証明し、水銀柱で重さを計算しました。また、水銀柱内に人類初の真空を作りました。Torricelliの実験を Pascalが引き継ぎ、Boyle (ボイル) は真空状態で様々な実験を行いました。1678年にPicardは真空中で水銀が光を発することに気付き、Bernoulli(ベルヌーイ)は「水銀蛍光物質」と名付けたそうです。Hauksbeeは真空内で電気励起現象を起こしました。
こうして真空放電の実験が行われるようになり、Geisslerによるガイスラー管やCrookesによるクルックス管が生まれました。Crookesはクルックス管で実験していた最中に既に放射線を発生させていたとされています。ヘルツの師である Helmholtzはレントゲンが X線を発見する以前に、その存在を理論づけたとされています。こうした中、1857年2月22日、Heinrich Hertzはハンブルクに生まれた訳です。
ヘルツは若い頃、様々な科学者の原著を読み、語学や文学、哲学を学ぶことを趣味としていたようです。
例えば、日記に「“ビィルナーの物理”の特に興味のある章をほぼ読み終えたので、シェンケンベルグ図書館から Vierordtの生理学の教科書を借り出す (1875.11.6)」「下宿では主に Tyndallの“動きの形としての熱”を読む。(1875.12.11)」「夕方カントの自然科学の論文を読む (1884.2.16)」「図書館でBrownの分子運動を熟読 (1884.5.24)」「シラーとゲーテの書簡集を読む (1884.5.26)」「tyndallの“音について”を読み耽る (1889.2.3)」
また、彼の交友関係の中で、しばしば名のしれた研究者が出てきます。
「最近ギーセン大学のレントゲン教授から私の素晴らしい論文に祝福のお便りを頂きました (1888.3.4)。」「Siemensに紹介されました。また振動と火花の実験をした人物であることを確かめようとしたEdisonとも話しました。 (1889.9.26)」「その中でVirchowが一時間も内容も目的もなく組織について喋りました。(1889.9.26)」「Boltzmann教授の後継者になるつもりはないかどうか (1890.11.8)」
著者は、「幼稚な真空放電管装置から障害を起こすようなX線が放出されていたか」という疑問を残しながら、放射線による免疫力低下など、ヘルツが人工放射線最初の犠牲者である可能性を示しています。ヘルツがガイスラー管を用いた実験を開始してから、死亡するまでの経過を、本書中より抜粋します。
まず、「朝から晩まで希薄気体中 (ガイスラー管) での光現象に熱中しています。(1882.6.29)」とあり、以後、放射線を発生しうる装置での実験に没頭していた記述が頻回に出現します。その後から、放射線障害としても説明がつきそうな病歴が日記や手紙に散見されるようになるわけです。
「気分がすぐれず、何も手につかない (1884.7.17)」「疲労気味 (1884.7.22」」「気分極めて悪し (1884.10.29)」「悪性感冒と歯痛 (1886.1.22)」「疲れを感じ、研究する意欲なし (18876.7.)」「この一年は歯痛と歯の手術で明け暮れました。今右頬が以前の左頬のように腫れていまして、一つの歯では噛めません。(1888.1.15)」「すっかり疲れてしまい気分が悪くなる。(1888.4.2)」「目の先がチラつくようになった。(1889.2.27)」「歯科医のところへ歯を抜いて貰うために行く。目の調子悪し。(1889.3.11)」「足の具合のために家に留まらねばならなかった。(1889.10.1)」「足を再度切開されて、そのため夕方激痛。(1889.10.17)」「エリザベート(注:妻)にここ数週間一人でお便りさせてきましたが、やっと自分で筆をとらねばならなくなりました。さもないと私はもう存在しないで、亡くなってしまい、それをエリザベートが懸命に隠そうとしていると思われるでしょう。(1892.5.15)」「鼻と喉の具合が再び悪化。(1892.8.24)」「炎症と嚥下困難が非常にひどく、加えるに耳痛あり。(1892.10.7)」「耳の後ろの頭に腫張。(1892.10.19)」「繰り返し勇気を喪失し、全快するという希望を失うことは尚更苦痛です。(1893.1.3)」「リュマチ様症状がかなりひどくなりまして(1893.12.3)」
1894年1月1日37歳、敗血症で死亡。
最後に本書中から、ヘルツの遺書を紹介します。科学者としての矜持を窺い知ることが出来ます。
私にどんなことが起きてもどうか悲しまないでください。むしろ短いが、生き甲斐のある充実した生涯を送った科学の戦士であったことをむしろ誇りにしてください。こんな運命になることを私は望んだわけでもありませんし、選んだわけでもありません。もっとも私に選択が任されたとしても恐らく私は自分で選んだかもしれません。
本書を読み終え、ヘルツが文学や哲学にも造詣の深い、立派な人物であったことがわかりました。日記や手紙からは誠実な人柄が滲み出ています。最後はこのような転帰をとり残念でしたが、伝記を読んで初めて知った魅力的な人物でした。