祖父・小金井良精の記②
2013年4月24日に「祖父・小金井良精の記(星新一著、河出文庫)」の上巻について書きましたが、引き続いて下巻を読み終えました。後半は良精が付き合った人物など、細々としたことを中心に、晩年を綴っています。名前を聞いたことのある学者達がたくさん出てきて、「この人にはこんな一面があったのか」と楽しく読みました。初めて知る話が盛りだくさんでした。
・教授の停年の規定は、良精が働いていた頃はなかった。 64歳であった大正 10年、良精が言い出し、引退の規定を定めることとなった。
・欧州大戦に敗れ、ドイツは窮乏の状態にあった。ワルダイエルの遺族は多量の医学書を金にかえる必要があった。古在総長に掛け合うと、3年の年賦で金を支出するとのことで、東大で引き取ることができた。(ワルダイエル文庫は東大の図書館の蔵書となったが、良精存命中は、誰かが読もうとすると良精がじーっと後ろで立って本を傷めないか見ていたらしい。極めて優れた歴史的な書がたくさん含まれていたが、最近になって東大図書館からどこか別の場所に移されてしまい、研究者が気軽に読むことはできなくなってしまった)。
・大正 11年、森鴎外の死去の際の良精の日記。「出がけに千駄木に寄る。林太郎氏、昨日来、少しく浮腫をきたせり。かつ看護婦きたり、まったく臥床のよし。於菟へ、森氏の模様そのほか種々を書きて、手紙を出す (7月3日)」「朝、電話にて額田晋氏に森氏の容体をたずねる。去る二九日、はじめて診察したるよし。萎縮腎は重大ならざるも、他に大患あり。ただしこれは絶対秘密云々。ついにこれをもらす。左肺結核。症をいまだかつてあかさざりしこと、これがためか。・・・七時ごろ家に帰る。額田氏きたる。面談、詳細 (7月6日)」「教室。時に家より電話あり。ただちに千駄木に至る。森氏の容体、悪化に驚く。昨夜おそく額田氏来診したりと。今朝はいまだし。電話にて呼ぶ。きみはすでに先に来りおる。賀古氏と病室に入る。年号起源調査のことにつき『ふたたびこれにかかるようになれば・・・』じつに、これ最後の言なりき。秋田へ電報を発す。夕刻には、はや精神明瞭を欠く (7月7日)」
・松沢病院の歴史について。明治12年に東京府癲狂院が東大のすぐ近くに出来た。我が国初めての精神病院で、初代院長は長谷川泰。巣鴨に移転し、巣鴨病院となった。東大精神病学の初代教授は榊俶で、院長を兼ねた。榊の死後は呉秀三教授、三宅鉱一郎助教授が後を継いだ。大正 7年、広い土地を求めて松沢に移り、松沢病院と改称された。
・良精は昭和 2年 6月 20日、70歳の時に天皇の御前で講演を行った。天皇は 27歳であった。本邦の石器時代の民族、すなわち先住民族はアイヌであるという内容であった (要旨が本書に収録されている)。良精は腎臓の持病があり、頻尿の症状があった。講義中非礼がないように、講演当日、朝食の際に水分を摂取しなかったという。
・昭和天皇は皇太子時代に半年間のヨーロッパ旅行をしたことがあり、その際は内科第一講座教授で附属病院長を兼ねていた三浦謹之助が随行した。
・学士院会員達と昭和天皇のご陪食の時の会話。昭和天皇が研究論文をイギリスの学会に送り、論文を別送した旨を伝えたが、論文が途中で紛失されたらしく、再送することになった。
・金田一京助はアイヌ語の研究をしていたため、同じくアイヌ研究者である、良精の部屋に遊びに来ることもあった。
・ニール・ゴードン・マンローは病苦と生活国あえぐアイヌの悲惨さに心を打たれ、日高二風谷のアイヌ診療所にとどまることにし、アイヌ研究の原稿で得た金で薬などを購入し、医療活動をつづけた。昭和 12年にチヨと結婚したが、第二次大戦の戦火がひろがるとともに本国イギリスからの送金が絶え、栄養失調で病床に伏し、79歳で息を引き取った。良精とはアイヌ研究を通じて親交があった。マンローは軽井沢で病院をやっていたこともあり、堀辰雄の小説「美しい村」に登場するレエノルズ博士はマンローがモデルだと言われているらしい。
・良精は揮毫はほとんどしなかったが、長与又郎氏から請われたとき、「真理」と揮毫した。長与又郎は病理学の教授で、のちに医学部長を経て東大総長にもなった。父は緒方洪庵の弟子の長与専斎で、弟は白樺派の作家長与善郎である。
・長岡藩の山本勘右衛門は小金井家に養子に来て小金井良和を名乗っていた時期がある。そのため山本家を継いだ山本五十六と小金井良精は家柄的に非常に近いものがある。そのことを話す目的で、良精と山本五十六は昭和 11年 1月 19日に面会した。良精 79歳のとき。ちなみに五十六は養子として山本家を継いだのであり、元々は高野貞吉という長岡藩士の 六男だった。
・昭和 19年 10月 16日朝、良精は自分で指を組んで胸の上に置いて「このまま逝きたいなあ」と言っていた。家族が順番に問いかけると答えていたが、最後に孫が問いかけると返事がなく、手首を握っていた次男が「お脈が絶えました。ご臨終です」と言ったのが 6時 35分だった。
・死後の解剖の結果、良精を生涯悩ませてきた血尿の原因は、膀胱と腎臓の結核だと判明した。死因は肺結核であり、空洞の周りに繊維素肺炎がみられた。三浦謹之助は生前から血尿の原因を結核だと診断していた。しかし本人が落胆するといけないので知らせていなかったらしい。
昭和 2年 4月 28日に良精は健進会 (医学部学生への課外講演会) で「日本医学に関する追憶」という講演を行いました。「ぼくももはや老齢であって、ふたたび諸君の前で、このような話をする機会があるや否や。恐らくは、なかろうと思うからして、今夕に話したことは、ぼくの遺言として聞いて下さってよろしいのである」と結んでいます。要約が本書にあるので、最後に引用します。
しかしながら、研究の方面はどうであるかというに、この点については遺憾にたえない。ここの医学部のみならず、他の大学、医学者一般に関することである。
学者たるもの、その専攻の分野で、その進歩につくしたことを残さねばならぬ。世界の医学文献に、日本の学者の名が見えねばならぬ。しかし、その数ははなはだ少ない。海外にあって、それをなした日本人はあるが、それは事情がちがう。
学者が日本という環境のなかで、独力で具体的な業績をあげてもらいたいのである。ドイツには、学位論文は業績とはみなさぬという規則の学会がある。わが国では、学位を取れば研究終了という人が多すぎる。外国とくらべ、真の研究者が少ないと痛感する。
研究者の少ない一因は、社会的なむくわれ方が薄いからであろう。改善せねばならぬことだが、大問題なのでいまはふれない。
清貧に安んずる。現実には、口で言うほど容易なことではない。研究とは、注目されることの少ない、地味な仕事である。しかし、真理をめざし、思考と実験を反復するなかには、金銭でえられない味がある。また、業績を発表し、海外の学者から反響があると、こんなに楽しいことはない。
研究の成績は、才能ではなく、努力によるところが大きい。それだけのことは必ずある。日本の医学は、移植時代から、研究時代に入って四十年ちかくなる。世界の水準に達するのが目標である。そのために、純真な研究者が多くあらわれるのを熱望してやまない。
奇怪なことには、日本の研究者のなかには、途中で研究を中止する者がある。また、医学からはなれ、政治家や実業家になる者もある。努力不足の人といわざるをえない。その分野で社会につくしているともいえるが、学問の側からいえば、かかる人は不忠者である・・・。
研究に身を捧げた良精らしい講演ですね。