失われた世界
「失われた世界 -脳損傷者の手記- (A.R.ルリヤ著, 杉下守弘・堀口健治訳, 海鳴社)」を読み終えました。ルリヤの本は、以前「偉大な記憶力の物語」を紹介したことがありましたね。
この本は、ドイツ軍との戦争で銃弾によって優位半球の頭頂葉を中心に破壊されてしまった男性及びその日記を扱っています。彼には視野障害、失語、左右失認、失算などの後遺症が残存しました。しかし彼は想像を絶する努力をして忘れたことを再学習し、直ぐに消えてしまう単語を探しながら少しずつ日記を付けました。彼が失った能力は多かったものの、おそらく前頭葉に損傷がなかったため人間らしさが失われることはありませんでした。ルリヤは次のように記しています。
負傷によって彼の脳は回復しえない損害をこうむった。彼の記憶力はことごとく抹殺された。彼の知識は無数の断片に細分されてしまった。治療によって、また時の経過によって、彼の生活を取り戻し、そして彼は無数の断片を集めて、ある記憶をとり戻す仕事を始めた。「忘れられた世界」と自分で呼んでいた彼一人の世界に彼は置かれていたが、彼は今までの生活をとり戻し、社会にとっても有益な人間にもどろうと、不変の希望をもって仕事を続けた。
しかし負傷は思いがけない結果ももっていた。それは、彼が体験してきた世界はこわされずにそのまま残されているということであり、彼の熱心さも失われず、彼の人間として市民としての個性を保持させていたことである。
彼は「忘れられた世界」 (物忘れする世界) から自分をとり戻すべく闘った。前進することはときおりきわめて困難であり、自分の無力さを感じることもあった。しかし彼には想像力が残されていた。幼年時代のときと同じように、彼は森も湖もその像を描くことができる。
これは、脳の他の機能は完全に破壊されたが、ある種の機能がそのまま残ったゆえになしえた例であった。
その結果、簡単な会話や、多くの文法構造については理解できないが、彼の歩んできた人生の驚くほど正確な記述を私達に残したのである。この日記を一ページ書くことは、彼にとっては超人的な努力を要することであるが、彼はそれを何千ページも書いたのである。彼は基本的な問題に対処することはできなかったが、自分の過去を生き生きと記述することができたのである。さらに、彼は強力な想像力、つまりきわ立った空想力や感情移入の能力を持っていた。
(略)
彼の内部にある力は完全に保持されているといえよう。この人を特色づける、道徳的な個性、生き生きとした想像力といったものは今も十分に価値があり、精彩をはなっている。それは、けがによってもなくならなかった。
この人の脳には、未だわれわれの器官では見分けることのできない、驚くべきものがある。一方の脳の部分は徹底的に破壊されながら、精神的な生活は残っている。弾の破片は他の部分を破壊せずに残し、彼が今までもっていた可能性は完全に保持させている。
この力が残っていたことが、彼に、理解できなくなってしまった世界に取り組む闘いを可能にし、精神的な強い個性を彼に与えたのであった。
ロシア語が元なので、日本語に訳した結果わかりにくくなってしまった部分はありますが、比較的読みやすい本です。訳者はあとがきを「本書は、軽度の失語症患者の音読練習の資料としても使用できるように、翻訳は平易になるように努め、また読みやすくするため行間を若干広くとった」と結んでいます。専門家にとって失語症の患者さん残した貴重な資料であることは勿論ですが、彼と同じように高次脳機能障害と戦う患者さんにも勧められる本です (少し難しいかもしれないけれど・・・)。